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4 中高生も多数参加した私たちの署名活動について 4−1 マンガなどの架空の創作物の表現への規制に反対し、児童ポルノの単純所持規制に反対するために、私たちは市民有志として署名活動に協力しました。「児童保護に名を借りた創作物の規制反対に関する請願」という請願署名です。 結果、23,511筆の署名が集まりました。署名には多くの中学生高校生がマンガ規制への危機感を持って参加していました。署名に参加した、中高生を含めた若者達の男女比は、ほぼ同数でした。 4−2 国会で議論されている方々には若干想像しにくいことかもしれませんが、現在、「マンガを描く」中高生は、おそらく数万人はいます。その半数以上が女子です。 中高生に限れば女子のほうが署名参加に熱心だったという感触を私たちは持ちました。これら中高生にとって、「マンガ規制」は、まさしく「自分自身の問題」なのです。「表現者である」中高生自身の問題です。 「自分たちが描くものを、一部の大人の意見で制約されるのはいやだ」という素直かつ真摯な意見に、署名を集めていた私たちも奮い立たせられる思いがしました。 「創作」は人の邪悪な部分をも表現するところが命であり、一部の方々の道徳観に合致しない「創作」も当然ありえます。おためごかしでないことを表現できるからこそ「創作」たりえますし、そうであるからこそ創作物や創作活動が、多くの人々の心の良き友人であり得るのです。 4−3 私たちの活動を以下のように指弾する人々もいると聞きます。 「女性や子どもの人権に無頓着なエロマンガ家が自分の権益を守るために身勝手な主張をしている」と。 それは「よく知らないもの」への偏見です。署名というかたちで私たちの活動に力を貸してくれた多くの人々、署名の半数を占める女性たち、署名に賛同し自主的に署名収集活動をしてくれた多くの中高生の存在が、そんな偏見への最も効果的な反証となっていると、私たちは考えます。 また、この署名活動自体に関して「有名なマンガやアニメを列挙して“これらが規制される”と偽って若者たちを煽るという、不誠実な活動をした」などと糾弾する声も聞かれます。署名などの市民運動においては、必ずと言ってよいほど、こういったシニカルな見解がつきまといます。 しかし、自分たちが実際に読み、そして描いて楽しむことで、まさに「皮膚感覚」としてマンガやアニメをよく見知っている若者たちが、そのように軽々しい煽り言葉に簡単に翻弄されるものでしょうか。幼い頃からマンガなどの架空の創作物と親しみ、十分なリテラシー感覚を身につけたかれらの意志を尊重することなく、軽々しく切って捨てるような姿勢には、怒りすら感じます。そもそも、こういった「他者(この場合は若者たち)の意志や人間性といったものを軽視する態度」は、まさしく「自らの欲望の為に子どもの人権を侵害して憚らぬ意識」と根を同じくするものではないかと、私たちは考えます。 しかし、どのようにシニカルな見解を投げかけられようとも、「マンガの表現を規制すべき」という主張に対して、数千の中高生を含めた若者達が、マンガ規制と単純所持を口実とするWeb規制に対して、はっきりと「NO」の意志を示しているという事実は不変です。 この事実を、どうか重くお受け止めいただければ幸いです。 |
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5 私たちからの提案 5−1/プラスティックを取締れば、象は救われるのか? 「児童買春・児童ポルノを巡る法規制」については、多くの論者が様々な意見を語ってきました。 一部の過激な団体からは「マンガなどの架空創作物も規制すべきだ」との見解が、再三にわたって展開されました。 この状況を別の事象に喩えてみます。「野生の象の保護のための法規制」が議論される場で、「象牙の流通の規制」だけでなく、「象牙に似た、乳白色のプラスティック製品」の規制に話が拡大しているようなものだと言えます。 「プラスティック製品が象牙に似て見えたとしても、事実それはプラスティックであり、実際の象とは無関係である」のと同様、「マンガなどに描かれた架空のキャラクターは、実在する子どもと無関係であり、全然違うものです」と主張せざるを得ない状況に、私たちはいます。 「マンガが実在児童の人権を侵害しない、無関係な架空の創作物」である事実は、私たちのみならず世間一般にも広く常識的に受け入れられていると考えます。しかし、政治の場で何者かが「乳白色のプラスティックも象牙である(マンガなども児童ポルノである)」と論ずれば、容易に「野生の象の保護(実在児童の人権保護)」という趣旨が、何か別のものに変質してしまいかねないという悲しむべき現実が、私たちの前にありました。
5−2 そういった不幸な誤解に基づく歴史を経た今、ともすれば実在児童の人権保護活動の貴重な労力が、実在児童の人権と無関係な方面で多大に消費されてしまったり、あるいは「実在児童の人権保護」活動そのものが、現実社会において新たな対立構造を生み出したりもしています。私たちは、そのような不幸な対立に至ったいきさつを、大変残念に思っています。 「児童買春児童ポルノ」問題を巡る議論の中で、私たちは繰り返し繰り返し、「ペドファイルのマンガ家が、自らの汚れた欲望を正当化するために、アクロバティックな主張をしている」と誹謗され続けました。 「架空の創作物」の内容は、決して作者の人間性を直接的に反映するようなものではありません。「架空の創作物」は、その作者にとっても、やはり「架空の創作物」です。推理小説作家が殺人願望を持っているわけでないのと同様に。〔註4〕 「戦争や殺人事件を描く作家は殺人願望を持っている、反社会的な人間である」という乱暴な論を述べる人は、戦前にはいました。現在では、そのように短絡的な論を述べれば、単に「非常識」だと思われるはずです。 私たちは、マンガ家や、架空のビジュアル表現の制作者、あるいはそれらの享受者である以前に、「ごく当たり前の一人の人間」です。私たちは人間として、現実にある児童虐待や差別に関して、問題意識を共有しています。 真に憎まれるべきは「自らの欲望のために子どもの人権を蹂躙する」そして「人を人とも思わず搾取を続ける」行為です。それは間違いなく、私たちも十分に共感できる「憎しみ」であり、一人の人間として、それら憎むべき行為の実態への無知あるいは無関心を恥じもします。 私たちは、マンガ家やその読者を「児童虐待を推奨する者」と決めつけてやまない「最も強力な偏見」に対して、感情的な反論を慎み、あくまで理性に基づいた論理による冷静な対話を望み続けます。 不当な偏見に基づく主張に対して、冷静に論理的な反論は行っても、その主張を行う者の存在を否定したり、主張を封殺したり、あるいはその者の立場や職業などを差別することは、決してすべきではないと考えます。どのような偏見に晒されていようとも、それでも、互いの人間性を認め合う努力を惜しまぬこと。それが私たちの選ぶ道だと考えます。 理性に基づく意見と反論のやりとりがあってこそ、児童虐待などの深刻な問題に対処する意識が高められ、子どもを含む全ての人々の人権の保護と、人間の尊厳を守る意識に寄与することができるものと、私たちは固く信じます。 5−3 実在する社会や人権は、マンガやアニメのような「架空の創作物、絵空事」などでは決してありません。 児童買春や児童ポルノなどの問題は、明らかに「実在する社会、人権」の問題であって、マンガやアニメのような「絵空事」と同列に語られて良いものとは思えません。 真に「実在児童の人権を守る」活動は、決して表現の自由と対立するようなものではなく、市民的自由と対立構造となるべきものではないと考えます。 そして、児童は社会から遊離した存在ではなく、国民の市民的自由が守られなければ、その一員である児童の市民的自由も守られなくなってしまうと私たちは危惧します。 5−4 これらの問題は全て実在児童の具体的な人権侵害、つまり「虐待の有無」を軸に考えるべきです。 それが「ポルノか否か」よりも、そこに「虐待があったかどうか」という点を軸に据えた上で、個々のケースについて個別に対処する方向性で、真に「実在する児童個人の人権の保護を最優先とした、実効性のある法改正」を強く望みます。 5−5 社会人の感覚からして人の尊厳を脅かすような例が少なくない児童ポルノですが、「悪趣味で下劣極まりない物だから」という単純な主観論にのっとった理由で規制されて良いものではありません。感覚や解釈以上の問題で、児童ポルノは「実在する児童に対する、深刻な虐待の記録」であるが故に、規制されなければならないと、私たちは考えます。 「ポルノ的なのかどうか」といった論点を人権の保護の議論に持ち込むことは、実社会の明白な問題にわざわざ主観論を持ち込むことであり、かえって問題を難しくしています。 望ましい社会のあり方として子どもの尊厳を守ることを目下の課題とするならば、新たな「実在する児童虐待の記録」の製造の防止ほど、子どもの人権保護に繋がる確実な手段は無いと確信します。 子どもの安全を向上させるという名目で「実在する児童虐待の記録の防止」を「“品性”に基づいた主観論」に置きかえるのは、あまりに乱暴な行為です。それは児童買春・児童ポルノ禁止法を、不確実かつ不適当な対応策しか持ち得ない法律に留め置く可能性を多分に含んでいます。
5−6 繰り返して申しあげますが、私たちは「実在児童に対する虐待とその副産物」を決して肯定するものではありません。あくまで市民として「実在児童の人権保護」を確実に推し進める対応策への転換を、強く望むものです。 多くの市民が抱いている主観と感情論に、このような形で水を投げかけるのは忍びありませんが、私たちがより良い未来の社会構築に責任もって貢献したく強く切望する以上、的違いな正義感が織り成す逆効果や市民生活に対する危険について警鐘を鳴らすことに躊躇は致しません。 社会の公共性と個人の権利を尊重する社会人の団体として、甚だ不躾とは思いましたが、このような要望書をまとめさせていただきました。 |
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〔参考資料〕 『漫画はCSEC(子どもの性的商業的搾取)ではない』 2001年12月18日、「第二回・子どもの性的商業的搾取に反対する世界会議」(以下、横浜世界会議)において、私たちAMIは「漫画はCSEC(子どもの性的商業的搾取)ではない」というワークショップを持ちました。エクパット関西ユース主催、AMI共催という形式です。 横浜世界会議は、日本政府、ユニセフ、エクパットらの共催によるもので、子どもの性的商業的搾取を社会からなくすことを目標とした会議です。第一回会議は1996年、ストックホルムで開催されています。この会議は、各国の立法や行政に大きな影響を持つものです。 横浜世界会議は、開催国が日本ということもあり、日本の「児童ポルノ法」の見直しについて、多大な影響を与えるものと考えられています。 架空のキャラクターによる性表現を「児童ポルノ」と同一視する、あるいは検討なしに混同する空気があります。 国際エクパットのヴィティット・ムンターボーン教授(タイ・チュラロンコン大学)は、日本に向けて「法律の改正と法執行の改善のために門戸を開くこと。現行法では、漫画など実在の児童を被写体としない児童ポルノ、また、児童ポルノの個人的な所持をまだ処罰の対象にしていない」と、提言しました。(「日本の国内行動計画への提言」第12項 2000年11月) そこで、マンガによる固有の表現やマーケット、消費のされ方についての理解と、私たち自身や、私たちの表現がCSECとはむしろ無縁であり、それに断固、反対するものであるという実状を伝える必要があったわけです。それは、まさに急務であったととらえています。 【なぜ「漫画はCSECではない」といえるのか?】 まず、キャラクターを用いた表現であるマンガが、直接に子どもの身体や人格を損なうことはあり得ないという、きわめて当たり前のことがあります。 大前提として「被写体を持たないものを”子どもポルノ”に含め、排除すること」の是非があります。これはたいへん大きな問題であり、ともすれば「子どもの人権」というレトリックを用いて、「表現の自由」や「内面の自由」を侵しかねないものだからです。当然、真剣な議論が必要になります。 また、エクパットなどのNGOや市民が、真に対処しなければならない緊急の問題は、(マンガ規制よりも)他にもっとある筈です。 さらに、性表現を含むマンガと、実際の性犯罪との間の相関関係は立証されておらず、CSECを排除するという目的のもと、マンガがクローズアップされることには、論理的な整合性はありません。 一見、マンガのキャラクターが子どものように見えたとしても、それが実在の「子ども」を指し示している保証はありません。「目の大きい、頭の大きい」、非写実的なマンガのキャラクターは、年齢も性別も厳密には描き得るものではありません。ひじょうにアクロバティックな詭弁と取る方もいるのではないかと思いますが、しかし、私たちの「読み」や消費の動向に照らしてみると、ひじょうによく実状を指し示しています。 こうした特性は、キャラクターが文字でも絵画でもない、独特の視覚表現であることから来ています。マンガを楽しむ人々はそれに対して独特の「読み」を行っています。その「読み」に対する分析や、原理についての研究は、まだはっきりと言語化されていませんが、この特性についての議論を抜きにマンガと性表現の問題について語ることはできません。この意味においても「漫画はCSECではない」のです。 【パネラー選択の根拠】 マンガなどに関心のある学識経験者と、マンガなどの実作に関わる方々を中心にパネラーをお願いしました。私たちマンガの側の人間が、主体的に社会との関わりを考え、よりよい方法を模索しようという立場からの主張を行いました。 ここにいたった背景には、私たちマンガの側も、社会に対し、議論に必要なじゅうぶんな材料も、言葉も用意せずにきたという「負の蓄積」があるとも考えています。このワークショップは、「マンガ」という表現が異なる文化や社会と出会ったときに生じる軋轢や衝突に対し、どうすれば、よりよい対応ができるのかという、大きな文化的課題にもつながるものです。 またそのことは、世界の文化的多様性を尊重し、お互いが互いを排除することなく共生しようという世界のあり方を模索するという意味において、私たちマンガの側だけの問題ではなく、あらゆる世界の文化的な営みに共通する課題であると考えています。 私たちは、お互いの不寛容を望みません。対話と理解こそが、このワークショップの主旨なのです。 (→全文) 【ワークショップの成果】 ・英文のステートメントの提出によるアピール ・青少年アピールに「文化的多様性に配慮する」の一文が入ったこと 記:伊藤 剛(ワークショップ・コーディネーター、マンガ評論家・編集者) 【ワークショップ抜粋】 各パネリストは、それぞれの専門分野に依拠した学術的な視点からマンガ・アニメ・ゲームがCSECを直接的に示唆するものではないという論拠を報告すると共に、現実の児童に対する性的商業的搾取の根絶を訴えた。 ■斉藤環(臨床精神科医) 「日本では漫画やアニメの大衆的人気は極めて高く、その表現には性的要素がふんだんに取り入れられている。一方アメリカでは、1957年にマンガに対する自主規制が制定され、マンガの性的表現は完全に封じられた。しかし、2000年度中に日本で被害者が少年の刑法犯罪のうち、性犯罪、強姦、強制わいせつの被害は5608件であるのに対し、アメリカでは毎年32万5000人の児童が性的虐待の被害を受けているという。つまり、性的な表現を多く含むマンガ、アニメ文化を大量消費している日本の方が性表現に厳しい規制を持つアメリカに比べて圧倒的に児童の性的虐待が少ないのである。 また、浮世絵などの伝統的な文化においても、アニメやマンガなどの現代文化においても、日本の表現空間では、「リアルな虚構」の存在が可能であり、それは現実を担保にする必要がない。このような表現は純粋なフィクションとして消費され、日常の性生活に影響を及ぼすことがほとんどない。その典型的な事例が「やおい」と呼ばれる、その大半を女性によって構成されるファンの集団である。彼女たちが愛好するのは女性が登場しない男性同士のホモセクシャルな性愛関係の物語であるが、日常では男性の夫や恋人がいてヘテロセクシュアルな関係を持っている。 以上のことから、日本におけるマンガ、アニメ表現が現実に影響することは極めて少ないといえよう」 ■宮台真司(東京都立大学助教授、社会学者) 「99年の児童買春・児童ポルノ禁止法の成立にあたって次の4点の修正を呼びかけるロビー活動をした。 第一に、法案から健全育成の文言を削除すること。立法目的が秩序の利益ではなく個人の利益、つまり人権保護を目的であることを明示するためである。 第二に、単純所持を規制対象から外すこと。別件逮捕など恣意的運用の可能性があるためである。例えば、インターネットの普及と発展によって単純所持の意味は極めて曖昧になっている。 第三に、被写体の特定できない絵や漫画を規制対象から外すこと。絵やマンガが間接的にしろ人権を侵害したり、犯罪を誘発するという説は、学術的にも立証されていない。見た人が不愉快になというのならばゾーニングをすればよい。また、日本のマンガ文化は独自のコンテクストを持っており、見た目が子どもに見えるキャラクターでも実は大人であるということがありうる。 第四に、規制対象の重なる地方条例を失効させること。それは自治体の条例は地域住民による道徳的秩序が保護法益となっているが、それは人権保護を保護法益とする国家レベルの法律で上書きすることである。 今回の児童買春・児童ポルノ禁止法の改正案は、青少年有害社会環境対策基本法案や住民台帳法改正案などと同じく、運用次第では自由で多様な尊厳の樹立を脅かすものである」 ■東浩紀(慶應義塾大学非常勤講師、哲学者、批評家) 「エロマンガは、この国のある世代のサブカルチャーの中核に位置するものである。したがってそこへの規制は、日本においては、性産業の問題というより、むしろ文化の問題、表現の自由の問題になってしまう。 日本のマンガ・アニメ・ゲームが作る幻想の世界において、セクシュアリティは現実に結びついたものと、記号あるいはキャラクターに結びついたものの二つに大きく乖離している。その中で作られる登場人物が現実の少年や少女を写実したものではなく、いくつかの記号的な要素を組み合わせて作られた虚構の存在だということは、作り手も消費者も充分に承知しており、その上で記号的な組み合わせを楽しんでいる。 したがって、そこで「子どもに見える」絵をいくら規制したところで、現実の子どもの性的搾取を抑制する効果があるようには思えない。 私は、現実の子どもの権利を脅かし、それを性的・商的に搾取する児童ポルノの制作、売買に対しては、断固これを規制するべきだと思うが、エロマンガの流通がそのような性的・商業的搾取の現実と深く関係しているという主張の正当性は、専門家の目から見てはなはだ疑わしい」 ■藤本由香里(編集者、マンガ研究者、日本マンガ学会理事) 「絵やマンガが規制の対象になれば、際限のない拡大解釈によって、マンガ家の山岸涼子さんが現在連載執筆している『舞姫(テレプシコーラ)』という作品もその対象になるだろう。このマンガは貧しい両親によって児童ポルノに出演させられている主人公が描かれているが、本作品における作者の意図がCSECの告発にあることは明らかである。しかし単純にそうした場面が描かれているからダメだと判断することは、幼い頃に受けた性的虐待(=チャイルド・アビューズ)の傷から立ち直ろうとする女性を描くことや、そうした問題を深く掘り下げていくような作品を描くことすら困難にしてしまう。 日本では問題を徹底して議論するよりも隠蔽する傾向があり、とりわけ性の問題に関しては顕著である。性はいつもきれいごとで済むものではなく、時には人の心の闇に踏み込んだ表現がなされることも必要である。」 ■関根玲(小平市市議・元漫画編集者) 「日本は性をタブー視し過ぎるあまり、性暴力に対する自衛法をも含めた性教育のための社会制度の形成が遅れ、 かえって不安や被害を増やす結果になっている。この状況を変えなければならない。 自分はかつて性表現を含む青年向け漫画誌の編集をやっていたが、その仕事を通じて女性編集者の活躍や作家たちの誠実な創作姿勢を知る一方、選挙時には対立陣営にはその経歴を執拗に誹謗中傷されるという性差別的なまでの職業差別を受けた。 こうした差別といった間違った行為もまた、私たちの社会が性を直視してこなかったがためのものだろう。 子どもの、そして女性の人権を守るためにも、性教育やメディア教育を確かに推進すべきだ。そのためこそ、マンガだけでなく、性についての表現活動を規制すべきではない。」 ワークショップではその他、下記のパネラーによって発表が行われた。 ■ジャクリーヌ・ベルント(横浜国立大学助教授、日本マンガ学会理事) ■米沢嘉博(漫画評論家・日本マンガ学会理事) ■蓼野絵理子(漫画家) ■藤間紫苑(作家) ■砂(漫画家) ■山本夜羽(漫画家) (ワークショップ第1部全文) (ワークショップ第2部全文) |