つれづれなるマンガ感想文9月後半

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一気に下まで行きたい



・【映画】「ゴルゴ13(高倉健バージョン)」 (監督:佐藤純弥、1973、東映)
・【書籍】「トンデモ本の世界R」 と学会(2001、太田出版)
・「プロペラ天国」 富沢ひとし(2001、集英社)
・「イブニング」  10月号(2001、講談社)
・「少年サンデー」39号(2001、小学館)
・【書籍】「空前絶後のオタク座談会1 ヨイコ」 岡田斗司夫・山本弘(2001、音楽専科社)
・「フェミニズムセックシマシーン」 砂(2000、太田出版)
・「まりのゲリラ」 果愁麻沙美(2001、三和出版)
・「宇多田ヒカル THE PURE SOUL」 尾花有理(2001、蒼馬社)
・「ぱにぽに」(1) 氷川へきる(2001、エニックス)





・【映画】「ゴルゴ13(高倉健バージョン)」 (監督:佐藤純弥、1973、東映)

日記に書いてもどっちでもいいんだけど、【映画】人気コミック→実写版(於:新文芸座)において「ゴルゴ13 九竜の首」(主演:千葉真一)について書いたから、本作もこの「つれづれマンガ」に書きます。

イランの政府諜報機関が、中近東の犯罪組織の大物・ボアを暗殺するよう、ゴルゴ13に依頼する。

ネットで少し調べたら、「ゴルゴ13」というキャラクター自体が高倉健をモデルに描かれたそうだ。しかしどうにも高倉ゴルゴは「渡世人」のイメージを払拭できていない。
あと出てくるおねーちゃん(外人)がみんな同じ顔&色っぽくない、外人が全員声優の吹き替えでマヌケ感が漂う……とかなんとか文句の付けようはいくらでもあるが、浅薄な私の映画知識を持ってしても「仕方がない」としか言いようがない。そんなこと言っても仕方ないじゃん、みたいに思う。なんか。

顔もわからない大物・ボアを追いつめていくストーリー。「千葉ゴルゴ」がカンフー&崖から宙吊りになって狙撃、という肉弾戦だったのに対し、本作では戦闘シーンにほんの少し「とんち」的工夫はある。
ただし、終盤にさしかかってのヘリがゴルゴを追いかけるシーンはタルく、映画全体が長く感じる。とくに健さんファンやゴルゴファン以外は、見る必要はないと思う。

蛇足だがネットで検索してたら、ロクに映画見てないクセに健さんを「嫌い」と書いてあるHP見つけてムカついてしまった。思えばそれは「無口で不器用」というイメージのみになってしまったからだと思う。「無口で不器用」的部分に、みんなが託すものが大きすぎるのだ。おそらくそれに対する言いようのない嫌悪感だろう。
私は熱心な健さんファンというわけではないが、無口演技より「網走番外地」シリーズのチンピラ演技において、イカすと思っている。……っていうか私にとっては健さんってチンピラの演技がステキな人なんだけどね。現在は「いかつい男が見せるほんの少しのおチャメ」という演技でしかその片鱗は見られない(と思う)。
(01.0930、滑川)



・【書籍】「トンデモ本の世界R」 と学会(2001、太田出版)

「著者が意図したものとは異なる視点から楽しめるもの」を「トンデモ本」と命名し、書評するシリーズの最新刊。

小林よしのり「戦争論」が入っているので、当「マンガつれづれ」ページに入れてもいいかなと思って。
ここでは、従来の「戦争論」批判がイデオロギー批判に重点が置かれ、歴史的間違いを中心に論じているものが少ない点が指摘され、具体的な間違いをあげて論じている。コレはけっこうガチンコな批判だと思う。ちょっと言い逃れしにくい部分だからね。本書のあとがきにもあるが、「戦争論」に限らず特定の書籍がブームになる場合、「読者が原典に当たらない」点にその理由のひとつあって、これけっこう深刻な問題だと思うが長くなるので省く。
他にも「買ってはいけない」「英語屋さん」などのベストセラーや、「カルト資本主義」というオカルト批判本なども取り上げられていて、時代の流れにそった展開になっている。むろん、ぜんぜん知られていない本や時代と無関係な本、自費出版、同人誌まで「トンデモ本」として楽しめる本を紹介しているのは今でのシリーズと変わらない。

当初は「トンデモ本」という定義そのものに驚いていたが、本書くらいまで刊行を重ねていくと、読者側としては書評するメンバーのネタセレクトや芸風を確認して楽しみたい。「トンデモ本」とひと口に言っても、評価する側によってまた違うと思うので。
また「オカルト批判」のイメージが依然として強い(現在でも、まあ無垢なビリーバーという意味で親オカルトではないだろう)と学会だが、「笑える点」をストレートに指摘して笑えるものの他に「微妙な感じ、モヤ〜とした感じ」を文章化したモノが面白い。
スパルタ教育の必要性を説いていたくせに、実際子供たちを殴ったこともなかったらしい石原慎太郎の著作について書いたコラム「シンタローのリスト」や愛犬の霊とともに生きていた人の手記「霊犬ジローの日記」、三島由紀夫の書いたSF小説「美しい星」など。

また大藪春彦のトンデモ小説「餓狼の弾痕」が、以前は名前のみの紹介にとどまっていたのがその全貌が明らかになったのはめでたい(いや〜これ読んだけどホントにスゴイんだよ。カドカワノベルズから出てる)。
(01.0930、滑川)



・「プロペラ天国」 富沢ひとし(2001、集英社)

プロペラ天国

ウルトラジャンプ連載。しっかりものの桜田小鐘(妹)、ちょっとボケてる桜田小糸(姉)の姉妹は、中学のクラブ活動でみんなのお悩み解決サークル「恋愛探偵組」を設立。でもなんだかしょっぱなから、「合成人間」の正体を探るのが目的みたいになってる。人間には「普通人間」と「合成人間」がいるのだ。ちなみに姉の小糸も合成人間。どうも小糸以外の合成人間は、普通人間の敵に回っているらしい……。

「個人が何か巨大なものに操られている」という予感と不安を描いたエンタテインメント作品は多い。それには政治と個人、社会と個人、あるいは「運命」と個人、さまざまな「たとえ」の位相がある。ここら辺のさじかげんをどうするか、またそれをどう評価するかはなかなかむずかしい問題ではある。
たとえば、聞くところによれば70年代半ばの学生運動の失速によって、政治と個人、社会と個人の関係はいちじるしく乖離したという。「という」ったって、社会や政治へのコミットメントの虚しさを感じる人は現在でも少なくないだろう。

人々の「気分」をすくい上げなければならない娯楽作品では、そのあたりをどう汲み取るかが読者に受け入れられるカギのひとつとなる。しかし、そのカギは何も最先端のデリケートなところを突く必要は必ずしもない。とにかく読者が納得できればよい。

なぜそんなことを書くかというと、「世界と個人の関係性」をテーマのひとつとした作品群が、あまりに神経症的にその断絶を描いて、そのまま袋小路に陥る場合が少なくないからだ。
確かに「社会に積極的に働きかけることによって、変革していく」という物語が描きにくいのはわかる。だがあまりにバカ正直すぎてもダメだ。現にエヴァンゲリオンはそのタグイのアニメだった(今更、と思うが、見た人が多いと思ってあえて例に出す)。主人公の少年の内面的悩みは、SF的な世界観とまったく相容れない。というか、最初は合っていそうだが回を負うごとに離れていく。
アニメ「少女革命ウテナ」も、「愛人【AI−REN】」「最終兵器彼女」も、このあたり苦闘していると思う(注:「つまらない」という意味ではない)。小林よしのりの昨今のスタンスも、表現方法は全然違うが似た危機意識からきているのではないか。
……っていうか、昨今起きたアメリカ同時多発テロ事件で、ほとんどの人が「世界は自分とは関係ないところで動き、しかし、それでいてまた自分に影響を与える」という恐怖と不安を感じたのではないかと思う。

しかし、当HPでは「どこまで『世界と個人の関係性』をうまくえぐり出すか」ということは作品評価の基準にはしない。それは作品の面白さを決定する重要な要素ではあるが、絶対ではないからだ。

本作「プロペラ天国」は、富沢ひとしの出世作「エイリアン9」に比べると世界構造は単純だ。対立も「普通人間」と「合成人間」との間でしかないし、人間の「世界」に対する抵抗のチャンスが与えられている。だが世界設定がわかりやすいからといって、本作が劣るとは言えない。

わかりやすいだけに、桜田姉妹の戦いは世界のありようと直結している。主人公が中学生(子供)であるという点もそれを助けている。子供にとっての世界イメージは大人とはまた違った総体をなしているから、「社会VS個人」という硬直しがちな二項対立を別の角度から見ることができる。

ああまあいいんだ、そこらへんのことはとりあえず。何より本作の場合、読者が桜田姉妹に感情移入ができ、なおかつシンプルにヒーロー的要素が与えられている点がいいのだ。彼女たちの行動原理も単純で好ましい。確かにとりまく状況は最悪だ。しかし世界のありようは見えているし、抵抗の方法も何かしら見つかりそうだ(見つかったからといって成功するとはかぎらないが)。
ラスト、これは泣ける。この出口があるようなないようなラストは、まったくシンプルにこの世界の「感じ」を表しているし、主人公姉妹の意志力を感じさせる力強さもある。

本作のレビューに困るのは、こうした世界観構築が妥当であるかどうか→妥当ではあるが従来の同系統の作品と同じ程度のもの→良質なエンタテインメント作品、愛すべき小品……という流れに行き着きやすいところだ(っていうか、私がそう書こうかなと思った)。
だがたとえば「良質のSF短編」と言っていい「こじんまり感」を感じて済む作品かというと、そうも言い難い。その理由のひとつは出てくるアイテムの斬新さ、もうひとつは物語構造の特異さだろう。
物語の構造、構成への言及はニガテなので置いておくとして、合成人間の造形や彼らがプロペラを使う戦闘シーンなどの目新しさにはやはり目を奪われるし、SF的造形物ではない、日常的なアイテムの心配りにも感心させられる。
どう見ても本当の中学生が描いたとしか見えない「恋愛探偵組」のポスターや、絶対中学校内部を取材したであろう廊下の「エコロジーだより」という壁新聞のようなもの、そしてヤングアダルト文庫を意識したと思われる「恋愛探偵組白書」という本のデザイン。さらには第1ページ目の言葉、よりも字体(これも本当の中学生のような字体なのだ)。正直言って、ラストはこの字体に泣けた。

そういう意味では必ずしも「愛すべき小品」というだけではおさまりきれない部分があるのも事実。1作ごとに変える作風にも驚かされるが、富沢ひとしをすぐ知りたいならコンパクトであるという点で本作をオススメする。
(01.0927、滑川)



・「イブニング」  10月号(2001、講談社)

創刊第2号。実は、先月号の番号で5000円が当たる「ナンバリングプレゼント」が気になってたというのが買った大きな動機。もちろんハズレ。
付録に「ジパング外伝」のマウスパッドが付いてる。はっきり言って、こういうキャラ者のオマケっていらない。いらないけど、実はマウスパッド持ってなかったので結構重宝した。でもまあそれはこの付録本来のありがたがられ方じゃないスからね。

「サトラレ」佐藤マコトは、なんつーかサトラレの「敵」が登場。これがまたうまいんだ。まあ本誌を毎号買う理由としたらコレしかないんじゃないか。通常のエスパーもの(「エスパーが圧倒的に少数で、互いにひかれあい、自分たちの秘密を厳守しながらコッソリと生きていく)をまったく逆転させたというのは非常に現代的だと思う。

「極悪がんぼ」田島隆+画:東風孝広は、実は内容がむずかしくて半分くらいしかわからない(笑)。
「ガンダルヴァ」正木秀尚は、おれ的第二の注目。「匂い」を突き詰めるマンガ。香水ではなくて、体臭とか、はいた息とか、そんなもの。これは絶対ネタになりうると前から思ってたし、この作者の筆致も独特なものがあるので、期待している。
「恋風」吉田基已は、十数年分かれて暮らしていた妹に、妹と知らずにダメんなって涙を流してしまった兄(ゴツい男)。後から照れくさいというかなんというかどうしようもない気持ちになるが、妹の方はソレを追求する気もないらしい、というギクシャクした兄妹関係。このマンガ、いろんな意味ですげえなあ。「また『妹』マンガかよ!」と微妙に三村風ツッコミをしながらも、この妹・七夏ってすっげいかわいい。ちょっとかわいすぎ。いったい何を描きたいのか。考えさせられる。
(01.0923、滑川)



・「少年サンデー」39号(2001、小学館)

「巻頭にOHAガールの特集が載ってた」っつーことで衝動買いして、読まずにもう4週間くらい経ってしまった。やはり週刊マンガを読むのはたいへんだよ……。

で、シリーズ連載というか不定期掲載らしい「まっ赤に流れる」高橋ヒロシがマジかっこいいです(うっとり)。中学の不良たちが、極悪で有名な高校生から上納金を取られている。そこで番長格の少年が、強くて有名な主人公のところにコトを納めてくれるよう頼みに来る……というだけの話なんだけど、ひたすらに主人公のカッコよさを描くことに紙数を費やしている。
いいね。また冬頃やるらしい。
(01.0923、滑川)



・【書籍】「空前絶後のオタク座談会1 ヨイコ」 岡田斗司夫・山本弘(2001、音楽専科社)

どうも、カッコよくピシッと出たときすぐに読んで感想書けない……面白い本だったら早ければ早いほどいんだろうけど。しかしいいんだよ〜! 本HPは私のメモ書き的役割もあるんだから〜! とか、何度もコピペで書いてみる。

声優雑誌「hm3」連載の座談会。ゲストは元「アニメック」編集長の小牧雅伸、「筋肉少女帯」の大槻ケンヂ、メカデザイナーの柿沼秀樹、アニメ監督の大地丙太郎。

こういう座談会とか対談本の感想を書く場合、どうしても自分が読んでて連想したこととか思い出したこととか「おれ語り」になっちゃうんですが(私の場合)、本書で柿沼秀樹のときにもうえんっえんとガッチャマンのメカについて語ってるんだけど、それで子供の頃のことを思い出しました(やっぱりおれ語り)。

いやホント、「タツノコのメカ」に関するくだりは異常に熱い。なんかもう読んでるだけでカッコよくて……。まあ私は「普通の子供並みに」メカが好きな子供だったんですけど、「ああ、あそこのあのシーンはこういう意味があったのか」とかね、「『科学忍法火の鳥』を使うために、G1号が欠けたゴッド・フェニックス内でジェネレーターを接続するためにジュンがワイヤーをつなぐ」シーン、「覚えてるよ! 確かに『合体してないのに必殺技を出す』ってのがカッコよかった」とか、そういうの再認識させられて面白い。
そうした「メカのカッコよさ」を子供である自分も(わからないながらも)享受していたんだけど、そうするとなんでヤマトとガンダムが「メカがリアル」っつーことで人気爆発したのかなあとか(本書でも少しだけ触れてる)、「メカ史」、さらに「アニメ史」ってとこでも考えさせられる部分は多い。
一般的には、単純に「73年以降、オタク的なモノが始まった」というくくられ方をして、また私もしてるけど、ガッチャマン、マジンガー、ヤマト、ガンダムってアニメのメカだけとっても進化の仕方も違うしコンセプトも違うし。細かく入っていくとあんまり大ざっぱなことも言ってられなくなるなあと考えたりした。

大地丙太郎監督のところで驚いたのは、ギャグアニメで「吹っ飛ばされて、空まで飛んでいってキラーンと光る」(よく「ロケット団」がそういうカタチで吹っ飛ばされてますな)っていうのがイヤだ、ってなってて。「キラーンと光るまでいらない。テンポが遅くなるから」(大意)って。ああそうか、あの「キラーンと光る」ってマンガにはない手法だと思って感心してたんだけど。面白いなあと思った。

対談全編通して感じるのは、手仕事への愛情というか、ここで「技術」って言うともっとヨソヨソしい感じになるけど、「手仕事」への視線というのを感じる。やっぱり手仕事についての考えを忘れちゃいけないね。印象批評ばっかりしてちゃダメだね。……とか、いつもこうした本を読むときに感心すると同時に反省したり、ホロニガな気分になったりします(私は手先が不器用なモンで。……っていうかドラゴンボール7つ集めたら、手先が起用になれるようお願いするよ)。
「プロジェクトX」を見るときも同じように思うしね。そういえば最近ビデオ録ったままためちゃってるなあ……。

あ、本書はマンガと直接関係ないけど、タツノコプロの社長って確か元マンガ家だから。
(01.0919、滑川)



・「フェミニズムセックシマシーン」 砂(2000、太田出版)

「なんで今頃……」と言われるかもしれない。去年の作品だし、知っている人は知っているだろうし。しかしいいんだよ〜! 本HPは私のメモ書き的役割もあるんだから〜! だいたいいいじゃん。いつ出たマンガだって。と、開き直ってみる。と、以前書いた前置きをコピペしてみる。

成年コミック。主に「ホットミルク」や「マンガ・エロティクス」に掲載された作品を収録した短編集。

「セックス」について語ることは、一般にタブー視されているが(真っ昼間からはできないという意味で)、「セックスとは何か?」について語ることは、もっとタブーなのではないか。「セックス」だけならまだいい。「あなたもお好きですな〜」、「いやいやあなたもいやいや」という具合に行く。ところが「セックスとは何か?」ということになると、とたんに多くの人がいぶかしむ。「そんなことを考えていったい何になるのか?」と。

マンガについても同様のことが言える。マンガにとってたいていの場合「セックス」というのはオチ、結末であって出発点ではない。「実はスケベでした」、「実は淫乱でした」というオチは、Hマンガにかぎらず少なくない。よく言えば、そうオチを付けておきさえすれば収まりがいいということだし、悪く言えばその段階で思考が停止されるということだ(私個人は、そうしたオチの付け方は嫌いではない。岩谷テンホーとか)。

本作品集の共通キャラクターは「涼子」という女性。同一人物かは定かではないが、すべて短髪に巨乳、巨尻で肉感的な肢体という共通点があり、アナルセックスを好む。コスチュームはヘソ出しキャンギャル風でホットパンツが多い。
彼女は「セックスとは何か?」を考え続けている。女のセックスは、男に搾取されていると思い、売春をシステムに組み込まれた制度だと考え、そこから抜け出ようとする。単純にいって、売春婦ではなく色情狂たろうとする。
成年コミックに色情狂の女性はたくさん登場するが、「色情狂になろうとする」女性というのは非常に珍しい。そういう意味ではメタな視点に立っていると言え、涼子の考えにシンクロできるかどうかで、作品にノレるか否かが変わってくるだろう。

本作品集の特徴をいちばん表している作品といえば「セクスパレイト」だろう。壁に尻だけ出す穴を開け、売春婦はそこに尻を入れた状態で、後は「客に挿入される」という機能だけ果たし、壁の向こう側ではまったく別のことをやっている。何というか男と女が壁で分離されることで、双方の欲望がスレ違っていることを表す装置になっているわけだ。

作品内で開陳されるフェミニズム論は、それが正しいかどうかは私の知識不足でわからない。だが単なる「論」であるなら論文であればいいわけで、そこに収まりきれないところがマンガとなる。そういう点では個人的に気に入ったのは「ハーモニープレイ」。ちょっと短すぎて、ストーリーを紹介するとすべてネタバレになってしまうのだが、ここには「道義」という言葉すら思い出させる何かがある。すごくカッコいい。
さらに、涼子のセックス遍歴は女としての戦いであって共感しにくいという人がいるかもしれない。それならば「BOXES」が良い。主人公は男性だ。あらゆる場面で徹底的になされるセックスの誘惑から逃げ続ける男。「常にやりたいやりたい」と考えている、という成年コミックの主人公としては非常に珍しい存在だ。だが同時に、リアルでもある。当然ながら、24時間「やりたい」と考えている人などいないのだから。
また、この主人公の苛立ちはいつもいつも同じことを繰り返している人間たちに対する苛立ちでもあるはずだ。もっともストレートなたとえを持ってくるとすれば、筋肉少女帯の曲「パブロフの犬」に出てくる男と心境としては近いだろう。ベルの音を聞いただけで涎を垂らす人々に我慢がならないのだ。しかし楽曲「パブロフの犬」同様、そういうものに対する嫌悪感は実に孤独だ。本作ではハッピーエンド的な結末がいちおう付いているが、「パブロフの犬」的なものからの逃走は容易には終わらないだろう。

本作品集に対する批判があるとすれば、それは容易に想像がつくのだが(観念的すぎるとか、涼子の追い求めるものに実効性はあるのかとか)、たぶん、簡単なところに着地点がないのは作者自身に自覚されていると思う。ある種の思想の結論を、そのまま物語の結末と重ね合わせる安易さからも逃れている。それが奥ゆかしさになっていると思うんだけど。
(01.0913、0919、滑川)



・「まりのゲリラ」 果愁麻沙美(2001、三和出版)

成年コミック。アイラ連載。昭和三十年代らしい下町、「トルエン団地」と呼ばれる産業廃棄物の沼地がある最果てのような土地で、万里野まりのはバレリーナとなるべく練習に励んでいる。オヤジは飲んだくれ、家は貧乏、周囲にいる人間はヘンなヤツばかりだが、それでもしぶとく、「いつかこの町から出ていく」と思っている。
そんなまりのの住むトルエン団地に、旧日本軍の宝が眠っているらしい。お宝をめぐってさらなる「ヘンなやつら」が暗躍し、まりのを巻き込んでいく。

……いちおう、プロットとしては「下町で元気に生きる少女が、冒険に巻き込まれる」というような話だ。だがイメージが錯綜してて、すごくヘンなテイストを醸し出している。
まあ、成年コミック誌に載っていたから、「修行のため」だとバレエ教室に通う女の子たちがふだんからレオタード姿でランドセル背負って学校行ってたり、何かとオヤジさんがまりのが便所に入っているところを覗きたがったり、というのはわかるんだよ(カラミとかはまったくないけど)。
だけど、みく姉(金髪の少女。どうも父親はGIらしい)の巨乳の揺れに合わせてヘドロがうごめいたり、まりのが男に見られるだけでくすぐったく感じるという性質だったり、気の弱い男の子がなんか顔が鬼みたいだったりというのは、……理由がよくわからん。全部が冗談のような気もするけど、実は何かすごく深刻なテーマがあるのでは……とも思うし。とくに、ラストは「なんでこうなっちゃうんだろう?」とか思った。単純なハッピーエンドではない。

昭和三十年代、戦前戦中の名残りがまだ色濃く残っている時代の、一種独特の不気味さが非常に妙なカタチで出ている。それが単純な「郷愁」だったり、東陽片岡みたいな絵柄や作風とかだったりすればまだ理解しやすいが、本作の絵柄はむしろ図案的というか、キレイだしいい意味での軽みもある。しかもトルエン団地の病院「襤褸病院」が、おそらく化学プラントをトレースしたものに赤十字を書き加えただけだったりして、そういう独特の「図案的なんだけどブキミ」な感じが横溢している印象。
なんかね、廃工場とか、居住区ではない廃屋に忍び込んだような、オトナになったら味わうことのできない感覚を呼び覚まされる。

あとがきも、わかったようなわからないような。この作者のネームって独特で、やっぱり意味があるようなないような感じなんだけど。

もしかして、すごい傑作になりかけた作品なのかもしれない……? とか思ってる。
(01.0918、滑川)



・「宇多田ヒカル THE PURE SOUL」 尾花有理(2001、蒼馬社)

芸能人の半生をマンガ化する、「ヤングサクセスシリーズ」の1冊。

こんにちは。DJアッパーカットです。嘘です。
えーと、内容的にはだいたい私も知っているような宇多田ヒカルの半生でした。「着ぐるみを来てバラエティに出た」とか「ドラマでウェイトレス役をやった」とか、「紅白辞退」とか、スポーツ新聞に出ているようなことはだいたい網羅されている。倉木麻衣との「もめ事」も。
最初は両親も含めた3人で洋楽歌ってたってのは、ちょっと知らなかったけど。どの程度本気のモノだったのかはわからん。

このシリーズ、昔ながらの「芸能人伝記モノ」のドン臭さはないかわりに、どうもサラリとしすぎているような気もする。まあ苦労話が売りになるような人々じゃないから、しょうがないのかもしれないが。
(01.0918、滑川)



・「ぱにぽに」(1) 氷川へきる(2001、エニックス)

月刊Gファンタジーに連載。高校に、天才美少女小学生・レベッカ宮本が教師として赴任してくる。後はレベッカ(ベッキー)をお話の中心にすえるでもなく、クラスの女の子たちがワイワイしたりするのを描いたギャグマンガ。1ページごとに完結する形式。

「あずまんが大王の劣化コピー」というウワサを聞いて購入(どういう購入動機だ……)。実際、「あずまんが大王」が4コマである点を除けば、設定やギャグのくすぐり、そこはかとない雰囲気は酷似している。単行本のオビにあずまきよひこの推薦文を載せているとか、「どこで笑っていいのかよく分からない、予想外れの学園コメディ!!」と書かれていたりとか、なんかタチが悪いんだけど(笑)、おれ個人としては激しいパクリ感、「パクったあさましい感じ」はあんまりしない。

そもそも「あずまんが大王」が、なんでオタクの人に大人気、みたいになってるのか実はよくわからん(いや、あれば読むし、面白いとは思うんだけどさ)。たとえば「わかる人にしかわからないオタク知識ギャグ」がそれほど激しく積み上げてあるわけでもないし。ギャグ的にも過激なものではないしね。
まあ推測すると「共学なのに女の子しかいないかのような状況」が、主人公の少年がいるラブコメと違い読者に参加意識を持たせているのかもしれないとか、「おれはこの子がいい」「おれはこの子」とか盛り上がれるってのはあると思う。そういう場合、ギャグは過激だったりシュールだったりしない方がよくて、クスッと笑えるくらいのものでいいと思うし。
で、「一般人にどれだけウケてるのか」がちょっとわからない。もし、読者を明確に分ける作品だとすれば、それは「なんで女の子ばっかり出てくるのか」とか、独特のノリであるとか。そういうものにオタクの人はすんなり入っていけるけど一般人はそうでないような、「オタク一般は取り込むけど一般人は取り込まない」作品なのかもしれないけど、それは今のところわからん。

……で本作なんだけど、「あずまんが大王」が売れた要素をほぼ同じようになぞっていることは間違いない。
だけれどまったくの劣化コピーかというと、そうも思わないのだな。「ぱにぽに」というタイトルが表すように、独特のノホホンした感じはこの作者のモノだろうし。潜在的に似たようなテイストを持ったヒトであるということは言えるのじゃないか。

それにしても「あずまんが大王」は謎だな。そもそもどういう企画書が書かれたのか(あるとすれば)。想像できないんだよなあ。
(01.0917、滑川)

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