コジャレカフェの隣にプロレス道場が……。

つれづれなるマンガ感想文 12月後半
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一気に下まで行きたい

2001年

12月26日(水)

12月20日に、「もう『ごきげんよう』にさんまは出ないだろう(大御所化してるから)」と書いたら、あっさり出てた。
まあ私もナンシー関じゃないんで、そのことについて考えたりしません。すぐ忘れます。

昨日の補足その1。あちことで素朴な疑問として言われてるけど、やっぱり「萌え」的消費って必ずしも90年代以降のものではないでしょう。「顕著になった」と言われればそれまでだけど。どこから「顕著になったか」って判断は分かれるだろうし。
私の感覚としては、昔っからあったもののように思う。
……っていうか、アニメマニアが不思議な目で見られる要因の大きなひとつが、「宇宙戦艦ヤマト」とかの頃からの「キャラ萌え」にあったんじゃないのかなぁ。
昨日の補足その2。アイドルマニアにも、特定のタレントにとことん入れ込むタイプと、時系列に追っていく、通史で見ていくタイプといるのではないか。で、両者の対立とか断絶がコップの中の嵐的問題点となっているのは、たぶん他のジャンルと同じ。

渋谷のツタヤでビデオ借りて、その後回転寿司屋に入ったらそのまま忘れてきてしまった。
電車の中で気づいて、冷や汗が出る。急いで取りに行ったら、補完しておいてくれた。ホッとする。

「笑っていいとも特大号」を見たかったが、裏の「フードバトルクラブ」を録画していてあまり見れなかった。

12月25日(火)

同人誌、製本終了。っていうかホントは数を揃えるために1、2部つくっておきたいけどとりあえずは。

ネットウロウロしていると、ぼつぼつ東浩紀の「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(講談社現代新書)についての書評やら感想やらが目に付く。
現在、読んでいないので私個人は何とも言えないのだが、ネットのどこかで同書についてどうにも納得しがたい論考があったのでそれについて書きたい。
ホントは直リンクとかするべきだろうし、もっと言えば先方にちゃんとしたかたちで建設的な反論を(別にケンカ売ろうとしてるわけじゃないんだし)書くべきなんだろうが、私が「動物化」という概念そのものをよく理解していない以上グダグダになる危険性があるので(っていうか読んでもいない本をからめて書いてはまずいし)、あくまで「覚え書き」にとどめるべきだろうということで以下の文章を書く。

まず「動物化」というのは、90年代以降、膨大な情報群から自分のお好み情報を選び取る「データベース型消費」というのがあるとして、「与えられた環境の中でそれなりにやっていく、って感じの消費行為」ということらしい。ううむ、やはり孫引きではよくわからんね。

で、気になったのは、「動物化……」の「書評」で(東浩紀の本そのものではなくね)「アイドル消費こそデータベース型消費、すなわちデータベース型消費は90年代以降のものではない」という論調。前置きが長くなったが、気になるのはここ。

アイドルマニアというのは、「かわいい女の子」そのものを愛でていると誤解されがちだが、実際には違うと思う。その背後にはやはり物語がある。
ものすごくコアな人たちの中には、公開オーディションに足繁く通って、デビュー前から「青田買い」する人もいるようだが、あくまでもデビュー後を問題とした場合、そのタレントに何らかの物語が付与されているのは当然のことだろう。古い話で恐縮ですが、ピンクレディーが「スター誕生」でオーバーオール来てギター持って歌ってたのがデビュー後にはぜんぜん変わってでてきたりしたし。
やはり誤解されがちなのが「モー娘。」の「アイドル性のある子を寄せ集めてきてよりどりみどりにした」という考え。私も同じことを(このHPで)何度も書いているが、「寄せ集め」感のあるのは「おニャン子」とか「乙女塾」、「桜っ子クラブ」などで、「モー娘。」の場合はメンバー内の関係性が過去の似たようなグループに比べるとずっと濃厚だ。メンバー内のしのぎあいから始まり、グループ内の個々の役割もかなり明確だと言える。

だから「データベース型」なのは「おニャン子」であっても「モー娘。」ではない。
しかしその「おニャン子」ですら、当時はある種破壊的というか、それまでのアイドル的様式美をブチ壊すものであった。どのようにか。まあ説明すると長くなるが、それまである程度有機的で物語的だった「アイドル」というコンセプトを根こそぎパロディ化していったのである。だから「データベース型」のおニャン子は、アイドル内ではむしろ本流ではないのだ。
その後、高橋由美子がいつまで経っても「最後のアイドル」と呼ばれ続けていたが、それは高橋由美子そのものが非常にコンセプチュアルだったからだということは言えると思う。

また、アイドルマニアが「『動物化』的」に見えるとすれば、それは対象が疑似恋愛物件だという特殊事情もある。
ラブコメマンガが通史的に語られにくかったり、過去のラブコメマンガが復活してブレイク、なんて現象があまりないのも同じ理由によると思う。ちょっと形容しがたい「これだこれだ感」、あるいは「これじゃない感」が、疑似恋愛モノは非常に強いのだ。
我々は多くの過去物件に注目するが、少なくとも男性は過去の女性タレントの大ファンになったりとかはあまりないものだ。吉永小百合はおそらく非常に世代限定的な「アイドル」だろうし、聖子もスキャンダルばかりが注目されて、過去のものすごいアイドル性については忘れ去られてしまった(問題にもされない)感が強い。
長嶋監督人気は現役時代の実績コミだと思うが、もしかしたら今の聖子ってぜんぜんそうじゃないのかもしれないし。

とにかくアイドルについては、通史的に語られることが日常レベルでもほぼまったくないため言いたい放題言われている、というのが個人的に感じるところだ。
まあ、私自身がものすごく詳しいってわけではないので、実に隔靴掻痒の感のある今日この頃でございます。

・ビデオにとって「モーニング娘。」テレ東のクリスマススペシャルを見る。「ハロモニ」とか、それ以外でもテレ東の持ってる映像を組み合わせていて、前半はなかなか面白かった。後半は新メンバーのオーディションだったが、興味なかったので飛ばした。
クリスマスコントにはお笑い芸人の島田珠代という人がゲストに出ていて、あのダラダラ空間がビシッとしまり、「ああ、やっぱりこういう人がまとめないといけないんだなあ」と感想を新たにした。

そしてよくお笑い芸人が恥ずかしい芸をして、それをアイドルタレントに「やってみろ」と言う昔からあるパターン。石川梨華、やりすぎ(笑)(←ホメ言葉)。80年代アイドルの復刻版的たたずまいというウリしかないヒトだと思ってたけど(どうでもいいがその「80年代的たたずまい」をヤニ下がって絶賛していたタナカヨシタケは無防備すぎる)、この時点で完全に越えたね(笑)。
「カッパーマン」の役をやってた布川を超えた。あ、カッパーマンって言っても徳弘正也のカッパーマンじゃないよ。なんかのコントで1回だけ出てきた思いつきキャラ。

ビデオで「カウボーイビバップ」2巻。やっぱり個人的にピンと来ない。オシャレさんなつくりのわりには、プロットがどうにもこうにも……。安易なSF的ガジェットを毎回お話の中心に持っていくより、むしろSF的設定は半ば無視してハードボイルド的意外性(ハードボイルド小説の結末程度の、推理小説的な意外性)を中心にした方がよかったのではないかと思うが。

12月24日(月)

クリスマスのことなんかどうでもよくって、憎んで、またどうでもよくなって、っていう繰り返しかな近年。
最近気になるのはテレビでのあまりの煽り(まあ景気悪いから仕方ないか)、女の子のサンタ姿が定着しつつあること、コンビニで売るケーキ、それと普通の家なのにイルミネーションを付けている家庭、店頭のマスコット人形にむりやりサンタ服を着せる店。
でもまあ総体的にどうでもイイけどね。

バグナードなどを買って読んでみる。ネットネタに関しては、当のネットで手厳しい批評などが載っているようだが、オタク裏情報誌ということではまあこんなもんかなあという気はする。
ちゆちゃんの「打ち切りマンガ」の記事は、基本的に嫌いではないが「ちゆ」としてのフォーマットを誌上で守らなければならない点において少し不満がある。デーモン木暮が、我が輩口調で文章を書いてるような印象。
考えてみれば「ちゆ」というキャラ自体が、雑誌になったときに「ネットのちゆ」という前提がなければ意味をなさない以上、雑誌に載ったときのいわゆる「テキスト系」のテキストのあり方も、なかなかに微妙なものがあると考えさせられる。

何より三峯徹インタビューが個人的に興味深い。ロシアのイツキちゃんが出ているのは当然として、ホントは実際に声優デビューまで面倒見ちゃうとか、そういう企画だったらいいなと思った。
何というか、最近そういう一種の「奇人」的なヒトへのアプローチが必要だと思うんですよね。

店で鬱。しかし、電車の中で夢枕獏の「キマイラシリーズ」を読んで心が遠くへ行った。「キマイラ金剛変」を途中でおっぽり出していた(しかもその理由が、以前本書を読んでいて、外で急病でブッ倒れたからだというダークぶり)のを読み返す。
登場人物の菊地がキマイラへの恐怖で自信を喪失し、女にふられ、そいつをぶん殴り、犯そうとして果たせず、自己嫌悪に陥り、自分の金を盗んだ親父をぶん殴り、そして父親を嫌悪したことを回想した部分を、2回も読んでしまうはめになった。
菊地の自己に対する歯ぎしりの描写は、いいものがある。
そして、執筆時40歳の作者が、作者なりの歯ぎしりを持っていると告白しているのが今読むとひびくね。昔は40というと手の届かない大人に見えたもんだが。

ビデオで「こみっくパーティ」1巻。同人誌即売会のアニメ。なかなかにあなどれない。何より、ドラマとして集中して楽しく見れる普通のアニメとして。
ビデオで「カウボーイビバップ」1巻。実は評判ほどピンと来ない。すべてがカッコいいが、そのわりには物語の骨子となるネタが陳腐すぎるのでは?
どうせ陳腐なら、同じスペースオペラとして「コブラ」くらい開き直った方がいい。
1巻を見た感想としては、少しナイーブにすぎるような気が。

12月23日(日)

ひげそりの歯を買ってきたら、同じ会社のモノなのにウチの本体と合わないんだよ!!

ロフトプラスワンで「シネマ秘宝館」18
ギャグ系自主映画上映イベント。一昨年つくられたらしいがその70年代東映テイストに感涙する「痛快!! エロ坊主」、やり尽くされた感のある戦隊モノパロディに新風を吹き込んだ「頭脳戦隊クビレンジャー」など、クォリティ高し。

ときどき突発的にやる小芝居的展開も、上映会なのにライブ感があっていいです。

12月22日(土)

いろいろど忘れしていたことなどがあり、うまくいきそでいかない感じであった。仕事、ノイローゼ、テンパった感じ。情熱、熱風、セレナーデ、それと斎藤由貴の方の情熱。
でも楽しい感じだったのね。1日トータルで。わーい(なんだかぜんぜん意味わかんない文章。でもおれだけわかる)。

あと忘れないうちに書いておくが、新宿および渋谷の街頭で配っているコンタクトレンズのチラシ、今まで数回ティッシュかと思って受け取っていたらただのチラシだったのでもうもらわない。
それにしても、アレはなぜああまで執拗に「ティッシュではない」のか。その方がかえって謎だ。

ビデオで「機甲猟兵メロウリンク」(1)を見る。復讐。メカ。復讐。おもしろ。

12月21日(金)

すべてにおいて消滅。何が。生きるかがやきが。
それと、デタラメで何の方向性もない毒舌って、今まで批判してきたけどけっこう求められてんのね。もうどう解釈していいかわからんよ。

よく「自分探し」系および「私を見て〜!!」的な文章がネットの内外問わず批判されて(なるべく大勢の人に見てもらいたいと思うなら、という観点から)、それは大筋では正しいと思うんだけど、でもけっきょくはその人の文才に依存しちゃうんだよね。面白いもんはどんなに勝手なことを書いても面白いし、つまらないものはどんなに客観的に突き詰めていってもつまらん。
まあネットの場合、どんなに面白くても「私を見て〜!!」系文章には訴求力に限界があるから、そもそも見てもらうこと自体がむずかしく、そこら辺を批判されるのかもしれないけど。そういうときは何か「目玉企画」的なものを持ってきておいて(たとえば「先行者」とかね)、後は好き勝手なこと書けばいいんだよ。

あと、これは前から思ってるから繰り返し書くんだけど、私が巡回しているところって管理者の年齢が似かよっているところが多い。具体的に言うと二十代前半から三十代ギリギリくらいまでかな。
だから、それは管理者の責任じゃないんだけど大枠で意見が似かよってきてしまうんだよな。かといって、三十代半ば近くなるとどんどん仕事や結婚でネットでの積極発言から離れていくからなあ。
もちろん、私のような現在三十代半ばの意見を、四十代、五十代の人が苦々しく思っている部分もあるかもしれないし(というより、それは確実だろう)。しかし近い年齢で意見交換するのも、やはり限界があるとは思う。どうしたらいいのかは、知らん。わからん。どうでもいいことなのかもしれん。

12月20日(木)

・たまにこういうの書きたいよね↓
・衝撃のヤングアダルト向けライトノベル「戦え!! スペースミサイルマン」

序章 ちびっこまん
今日は休みだったんだけど、朝、教育テレビの子供番組(幼児たちがテントウ虫などの衣装を着てダラダラ踊ったりする)を見て、用事があって出かけて、夕方4時頃テレビ付けるとまた再放送でおんなじの(幼児たちがテントウ虫などの衣装を着てダラダラ)がやってると「おれ何やってんだ」って思うよ。ちびっこまん!!
なんかさあ……物語的な文章を書こうと思っても、いつもおんなじになっちゃうんだよね。
ものすごくイヤなやつが出てきて、悪いことして、そいつが倒されるみたいな。
毎回同じじゃダメなのかね?
小説家ってよくいろんな話書けるよなー、とか思う。

第1章 キレオカマ
世の中には、ムカつくやつがたくさんいる。本当に迷惑なやつは、まあ、まがりなりにも法的に裁かれるという名目になっているわけだが、日常には法の網目を違う意味ですりぬけるやつがたくさんいる。行列に並んでいるときに一人でブツブツ言ってるやつとか。歯ぐきが3センチも出てるのに、飲み会で微妙におれを攻撃してくる女とか。
こんな微妙にムカつくやつ、さっさと成敗されろと思うわけだが、度を超した迷惑人間でも「民事不介入」(……っていうか人権保護ってやつか?)で片付けられる昨今、どうにもなりはしない。
そんな我々の歯ぎしりを聞きつけた街の発明家・河元恵太郎(50歳・独身)が開発したのが「熱血ヒーロー・スペースミサイルマン」である。
発明家・河元恵太郎については、グイン・サーガのように「スペースミサイルマン・外伝」として語られる予定なので割愛。あと、あとがきだけで1冊本も出す予定。
あ、おれは夢枕獏大好きっ子ですよ。

スペースミサイルマンの正体は、恵太郎がやとったバイトのフリーター、藤川哲夫。高校時代は陸上部。意外と腕っ節は強い。顔はなまっちろくて、小学生時代のあだ名が「オカマ」。それでキレて、オカマ、オカマ、言ってきたヤツをボッコンボッコンにぶん殴って、転校するはめになった過去がある。

転校した先でのあだ名が「キレオカマ」。これにもキレたが、前の学校でのウワサとあだ名を広めたのが赤いフレームのめがねをかけた委員長の女子(名前は多仁恵、顔は四十代、宿題などを几帳面にしてくるわりには勉強はイマイチ)で、女をボコにするわけにもいかず、陰険なクラスの仕打ちにショックを受ける。
しかし、多仁のランドセルに近所の空き地の産廃をてんこもりに詰めるという行為を5回くらい繰り返したら、少なくとも面と向かって「キレオカマ」というヤツはいなくなった。

多仁は哲夫の逆襲にショックを受け、どうもその頃から宗教やオカルトや神秘哲学に興味を持つようになったらしい。「フリーエネルギーが……」とか「超能力が……」とかつぶやくようになったが哲夫の知ったことではなかった。
哲夫は中学時代は目立たず過ごし、学校帰りに紙パックのジュースを飲むくらいしか楽しみがなかったが、高校で陸上に目ざめた。陸上部に、今で言う乙葉ばりの美少女がいたから。

第2章 乙葉似の美少女
この少女は野球部のキャプテンと付き合っていて、藤川など眼中になかったが、彼女にあこがれることによって、彼なりのロマンチシズムを満喫していたらしい。
校内マラソン大会でこのキャプテンを抜いて一位になり、「ざまあ見ろ」と思ったがその途端に陸上に対する意欲が減退。まあ状況は何も変わっていないのだから当然だ。哲夫は「青春時代のムダなこだわり」といったセンチメンタリズムから卒業しつつあった。
彼は3年生としての引退を前に、陸上部から姿を消す。

この「乙葉似の美少女」については、グイン・サーガのように「スペースミサイルマン・外伝」として語られる予定なので割愛。ストーリーは、この乙葉似の美少女が野球部のキャプテンと別れた後、さえない浪人生と同居することになるラブコメの予定。

その後、哲夫は名画座で「フック」と「A.I」の二本立てを見たり、捨ててあった自転車を乗り回してお巡りさんに職務質問されたりした。このときに知り合ったのが発明家の河元である。確か、マンガ喫茶で村生ミオの「結婚ゲーム」を取り合ってから親しくなった。しかし、この頃は「スペースミサイルマン」の話はまだ出ていない。

第3章 地元の日々
哲夫はその後、地元の工場に就職、2年ほどまじめに勤めるが、盗癖のある先輩に財布を盗まれたと勘違いして大喧嘩となり、殴り合いに発展、右の拳に大けがを負い、うやむやに退職。この頃に、河元に声をかけられる。

……ああ、固有名詞を出すまいと思うんだけど、つい出してしまう。
まあ「徳川家康」とかなら、容易に意味が変わらないと思うんだけど、「えなりかずき」なんてすぐ意味が変わりそう。「田代まさし」っていうのも意味が変わってきてるし。だいたい知名度が、どんな芸能人と言えども徳川家康よりは低いわけだしなあ。
昼間、「ごきげんよう」で過去10年のトークの再放送をしてたんだけど、わずか3年でも「ごきげんよう」に出る「旬」のタレントが変わることに気づいた。
「ごきげんよう」って、そもそも「旬かどうか」を不問にする装置だと思ってたけど、それでもあるんだよなー。数年前の放送でさんまが出てたけど、今だったらもうぜったい出ないでしょ多分。
……物語は、そんな出だしから始まります。

……っていうような小説の出だしじゃダメかね。
……っていうか、すでにだれかがやってんだろうね。19世紀のフランスの文学者とか。よく知らないけど。

第4章 「メガネ」、「小太り」登場(前編)
それで、声のカン高い、メガネかけててエラがはってて、ガリガリに痩せてて出っ歯の青年が「そんなの19世紀のフランスの文学者がやってますよぉ〜!!」とか、えらい高い声で得意げに言うわけよ。
いや、得意げに言うならまだマシだな。
おれに聞こえるように「そんなの19世紀のフランスの文学者がやってるのになぁ」とか言うんだよな。
どこで。
秋葉原の通りで、友人に。その友人は、なべおさみから毒気を抜いたような顔で。小太りで背中にリュック背負って、頭に薄汚れたキャップをかぶっている。
で、そいつも実はそんな話聞いちゃいないんだよ。
でも、「まあコイツの言うことだから聞いとかなくちゃ」みたいな感じで黙ってる。
そんな程度の友情関係なんだよ、ヤツらは。

第4章 「メガネ」、「小太り」登場(中編)
おれの理想はさあ、やっぱり綿密な取材と資料に裏打ちされたエンタテイメント作品。コレだよ。
内藤陳が誉めるような。なんだかよくわからないダジャレと、日本語に英語のルビふったりするようなノリで。

少なくとも、上記2人はリアルなキャラでしょ。「フランス文学」を知ったかぶってるのが「メガネ」、小太りな方が「小太り」。ジーパンをはいてるから「ジーパン」。ピザが好きだから「ピザまん」。肉まんが好きだから「中華」。ガムが好きだから「ゴム人間ビョンビョン」。

まあ、名前なんて単純な方がいいんだよ。
それで、メガネと小太りは、メガネの方が一方的にペラペラしゃべって、小太りはただそれを黙って聞いている。いや、聞いてすらいない。小太りは、ときどきボソッと何かをしゃべる。それが気のきいたことだったり、みんながど忘れしていることをスッと教えてくれる、なんてのならカッコいいが、小太りの言うことはたいていが悪い意味で瑣末なことだ。
たとえば、4、5人で喫茶店に入ってたぬきそばと半ライスについて話をしているとする。
すると小太りは、「関西ではてんかすはタダらしいんだよねぇ」とボソリという。ここが微妙なところで、そこから話が転がっていくかというと、別にそうはならない。
小太りは自分の知識を確認したいだけなのだ。この話題を深追いすると、「私もそば研究家じゃありませんから」などと逆ギレしてくる始末。慣れているやつは、小太りの言うことを無視する。
小太りのコメントは、自分がその場にいる存在証明以上の意味を持たないことを知っているからだ。

第5章 「メガネ」、「小太り」登場(後編)
また、小太りはきわめて「友達がいのない男」としてもおれを感心させることとなった。

たとえば「小太り」は、上記の「メガネ」がだれかともめたり、意見が対立したりといったときにも、決してメガネに加勢したりしない。もちろん、相手にも加勢しない。「おまえの意見はどうなの?」と聞いても、自分の意見は決して言わない。ただゴニョゴニョとごまかすだけ。
ただし、「だれについたらいいか」ということには常に頭を巡らせているらしい。

そう、小太りは「うまく立ち回っているつもりで実はバレバレ」な人間である。そこを「かわいげがある」と言うヤツもいるが、おれにとっては、変色しないカメレオンがじっと獲物を狙っているところを見るようなチグハグ感に、イライラするだけだった。

第6章 ついにスペースミサイルマン登場!!
哲夫は、河元のつくった変身ベルトにより「スペースミサイルマン」として生まれ変わる。全身黒ずくめ、背中にはマント、頭にはカッチョイイヘルメット、目にはゴーグル。左肩にオウムが止まっているが、これは魔法のせいでオウムに変身してしまった、乙葉似の哲夫の初恋の相手である。この魔法をかけたのは多仁だと言われているが、哲夫はあまり興味がない。
武器は「スペースミサイル」。マントを開くと、そこから発射される。他にもいろいろあるが、割愛。あとお尻からマシンガンが出る。鉄腕アトム風に。

哲夫は、河元恵太郎から得てきた「あいつムカつくらしい」という曖昧な情報をもとに、ターゲットを「小太り」に決めた。
さあ、「小太り」を攻撃だ!!

終章 ヒーローよ永遠に
路上でキメポーズをとり、相手を威嚇するスペースミサイルマン。
しかし、小太りは意外に強かった。彼は「小太り光線」を脇の下から発射し(当然、なぜそんなことができるかの説明はない)、スペースミサイルマンを苦しめる。ピンチだスペースミサイルマン!!
そのとき、スペースミサイルマンに河元恵太郎博士の顔が浮かんだ。「スペースミサイルマン、あれを使うんじゃ!!」
スペースミサイルマンは、スペースミサイル以上に威力のある彼の右拳の封印を解いた。スペースミサイルマンの右拳は、普通に殴るくらいの威力があるのだ。ということは、スペースミサイルは普通に殴る以下の威力しかないということなのだが、そんなことには哲夫も河元も気づいちゃいない。気づいていたら、大の大人が変身ベルト付けて、いきなり歩いているやつを捕まえて攻撃を加えたりはしない。
そして小太りに馬乗りになって、ボッコンボッコンにぶん殴った。
スペースミサイルマンの右拳は血だらけになり、小太りの前歯が当たってそこから雑菌が入り、後にえらいことになったのだが、それはまた別の話。

「一流の弁護士をやとってやるからな!!」
逃げていく小太りにはまだ余裕があった。しかしスペースミサイルマンは許してやった。なぜなら、心が広いから。

次の敵、「メガネ」が待っている。「小太り」との裁判も。がんばれスペースミサイルマン!!
(了)

12月19日(水)

また太ってきたんだがガマンできなくなり、夕飯にそば屋でたぬきそばと半ライスを食ってしまい、それから本を読んで寝る。

insighterで見た、筆王ガールズ - 小池栄子フィギュアをGETせよ!
私はフィギュアって集めてないんでわかんねーんですけど、こういう「リアル美女をフィギュアに再現したもの」って、みんな本当に欲しいの?
こういうの、もう酒井若菜の「フィギュア付き写真集」で終わったと思ってたのに。
個人的には、生身の美女ってフィギュア向きじゃないと思う。なんかね、あまりかわいくないんですよね客観的に見ても。実物をモデルにするなら、「なかよし」についてたゴマキフィギュアみたいに、マンガっぽくデフォルメするしかないと思う。で、あれって携帯ストラップのマスコット的デフォルメですよね。だからフィギュアとそういうマスコットの中間型みたいのが今後出るのかなあ、と門外漢ながら思った。

12月18日(火)

・映画「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」
なんか怪獣映画って、マニアの人の感想が恐くって自分の感想書くのビビっちゃうんですけど、素直に書きますよ。
基本的には面白いと思います。金子修介だし。特撮も詳しいことはわからんけど比較的よくできている。だから面白いのは大前提として。

「人の死にざま」がどっちつかずだと思う。怪獣は罪もない人々を踏みつぶしたりする。でも見ていて「こんなやつら死ねばいいのに」という悪人的なやつらも殺される。ゴジラを迎え撃つ三大怪獣も、別に人間を守りたいわけじゃなくて昔の意味での「くに」を守りたいだけだから、ゴジラ同様人々を殺しまくる。
で、そういう不条理さが描きたいのなら、ひるがえって生き残った防衛軍の偉い人(宇崎竜堂)やその娘(新山千春)の生き残った理由が薄弱。怪獣の反撃シーンも、少年マンガ的演出をしている(劣勢劣勢で最後に反撃とか)のに、どっちを応援していいのかわからなければ気持ちがシンクロしていかない。

(以下ネタバレ)実はゴジラは「第二次世界大戦で死んだ人々の残留思念(英霊も原爆で死んだ人もアメリカ人もまぜこぜになっている)」という設定で、そこにテーマを見いだす人もいる。要するに無為に死んでいく人間は、ゴジラにとっては死ぬ理由があるのだと。
まあそういうテーマがあるのかもしれないさ。でも私はそうはとらないよ。
それはあくまでも「ゴジラは火器ではやられない」という方便だと思うんだ。だってバラゴン、モスラ、キングギドラだって、むかーしの人が倒して封印した怪獣ということになっている。作品内でも触れられているが、これは「倒した者を神として祭る」という日本古来の信仰に基づいているという。だったら彼ら「護国聖獣」も、昔の日本(大和朝廷だったかその前だったか忘れたが)が滅ぼした人間の残留思念かもしれないじゃん。

要するに「第二次大戦の霊」VS「滅ぼされた古代人の霊」だと勝手に解釈させていただいた。怨念のレベルとしてはどちらも遜色ないと言えよう。つまり怨念同士がぶつかって戦って結局消えていく。「怪獣」という無意味なものを現出させて戦わせ、そして消す、すなわち「怪獣を出したいから出したんだ、結末をつけなきゃいけないから倒したんだ」という、テーマがどうとかいうのとはあまり関係ない「怪獣映画」だと「好意的に」解釈したんですけど。
こういう映画での「テーマ」ってのは、前面に出したりきっぱりと語ったりしないのが奥ゆかしいと最近思うんで。

同時上映の「ハム太郎」は、まあ普通でした。「ハムハムランド」というのがいかにも楽しそうに描かれてたんで、子供は好きなんじゃないかな。

12月17日(月)

ここにはあんまり感想を書いてないが、再放送の「パトレイバー」を毎週見ている。
リアルタイムでは見ていなかった。今見ると、当時中学高校大学生くらいで、コレを見るか見なかったかは転換点だったのじゃないかと思う。あ、本作を見てアニメに入ってったくらいの小学生は別ね。
……というのは、本作が「うる星」とか「あ〜る」とか「巨大ロボ」とか「リアルロボ」とかの「次」に来てる作品だから。この「次」に乗るかどうかでしょ。「こういうの」にハマるかどうかって。
私も「もういいや」とか思って、当時は見なかった。
で、今見てる(笑)。

今見ると、詳しい時期は調べてないが「バブル期だなぁ〜」という気はする。むろん、本作がバブリーだったという意味じゃない。今放送中の段階で、巨大企業が自分ところの新型軍用レイバーをより強力なものにするために主人公のレイバーと戦わせる、というストーリーが断続的に続いてるんだけど、そうまでして金をつぎ込んで兵器をつくる企業、っての自体が今やるとなるとリアリティなくなるでしょ。当時はあったけど。
それと、1話完結のときの「敵」のキャラの薄さというか。キレた作業員とか、過激派とか。いや、本作はものすごくキャラ立ちした敵が出てきてどうこう、という話じゃもとからないのでそれが問題とは思わない。けどまあ仮想敵を設定しにくい時代だったことは確か。この後、現実世界ではオウムが出てきたりするし、ロボットアニメでは「エヴァンゲリオン」なんか「敵」像が意識的にもっと不明瞭になる。
それと、たぶんこのヒロイン像は、フェミニズ的には注目すべきポイント。だれかが書いてるかもしれないが。セーラームーンとかの前に、まずこの子だろう。
そんな感想。

・コメットさん☆
・第38話「キモチの遭難」
メテオさんがイマシュンのところにお呼ばれ。それを当然のように自慢するメテオさんに、コメットさんがめずらしくキレてみたりする。ケースケもいないしイマシュンもとられて非常に面白くないコメットさんは、雪の積もったスピカおばさまのところへツヨシくん、ねねちゃんとともに遊びに行く。しかし吹雪が来そうな感じ。冬だし。
一方、イマシュンに歌声の独特な魅力を買われたメテオさんは、彼のつくった歌を「歌ってくれ」と言われて幸せ、恋力(こいぢから)絶頂に……。

おお、今回はいいんじゃないですかね、けっこう。コメットさん、メテオさん双方の話が「恋力」でうまくリンクしてるし。コメットさんの面白くなさ、メテオさんの幸せ加減がよく出てました。そして意外なというか、イマシュンが鈍感なゆえの(?)ヒキ……。

どうも後半に入ってからの本作は、どうにもこうにも「先のこと考えてない」感があって、「恋力(こいぢから)」ってのも苦し紛れに出てきた感じ。いや、最初は「星力(ほしぢから)」との対比ということですごく面白いことになるんじゃないかと思ったが、単に星力がないときの救済策に成り下がりつつある。
で、うまくまとめるにはどうしても「星力(ほしぢから)=みんなに協力してもらうというタイプの力」、「恋力(こいぢから)=きわめて個人的な、ある意味エゴイスティックな力」という対比と、その融合を目指さなければいけないし、それすなわち王子様を見つけることと、コメットさん&メテオさんが自分の恋を成就させること、双方を融合させるということなんだけど、いったいどうなるんでしょうか。

あ、「先のこと考えてない感じ」と書いたけど、それはそれですごく面白いんですけどね。ホントに王子様はだれなんだ……。まさかそのあたりをマジでひっぱるとは思わなかったよ。初期の頃はぜったい今頃は明らかになるか、視聴者にはバレバレの展開になると思ってたし、普通その方がシリーズ構成的にもラクだろうに(でも第34話「星の絆」に出てきたタンバリン星国のカメレオンみたいな人々、あれが伏線だろうとは思うんだけどね)。

王子様が生まれてくるスピカおばさまの子供だったら面白いかも。と今思った。

12月16日(日)

おれぐらいの年齢になると、多くの人は結婚してるから日曜日に家族サービスするとか「おれの女とデートする」とか言っているから何かと思ったら自分の愛娘だったりとか、「北斗の拳」のアインみたいなことを言って、近くの公園でボール投げしたりするわけですが、私はサイテーの休日(ホントは休日じゃない、仕事。某教団風に言うと「ワーク」)を過ごしました。またどっかに飲みに行きました。
飲み友達は仮に「オッパイ太郎」(男)とでもしときますか。でも「オッパイ太郎」って、ほんとにうのせけんいちのマンガに出てきたんだよ。

オッパイ太郎とともに池袋を歩いてたら、「マッサージいかがですか〜」と、おねーちゃんに声をかけられた。それはいつものことなんだが、断って通り過ぎようとしたら「いかがですか〜、いかがですか〜!!」って腕を掴んで引っ張ってきたので恐かった。また「与し易し」と思われた屈辱で、枕を涙で濡らした。
あ、オッパイ太郎に聞いたらホントについていくと微妙にボられるそうです。

飲み屋に入ったら、忘年会風の集団の中で女の子が悪酔いしちゃって、みんなで介抱してた。いいね。青春だね☆

何が「青春だね☆」だ。アホかおれは。

ところで、「燃える!! お兄さん」に上記の「アイン」がモデルのキャラクターが出て来るんだけど、なんでアインだったのかなあ。やるじゃない。

12月15日(土)

ずっと待っていた郵便が来たのでラッキーとか思っていると、その後いろんなもののタイミングが微妙に合わず、なんかうまくいかなかった。ショボン。
仕事関係では、お客さんとしてヤクザっぽい男の人の次に若い女が恐い。若い、比較的ギャルっぽい女の「愛想を振りまく/振りまかない」の落差ってスゴイものがある(もちろんおれは振りまかれない方)。なんかさー、モノが高いだのできるのが遅いだの言ってきて、軽い恫喝に近い(店の外で、ロン毛の彼氏風のやつが待ってたりするともっと恐い)。「高っ!!」とか言うんだけど、そんなこと言われたって安くなんねーよ!! そういう商売は江戸時代の三井だっけ? 住友? の創始者かなんかがやめたって、学研の別冊付録の歴史の本で読んだだろ!! あ、読んでないか。
コレがもっと被差別的な商売だったらもっと差別的な態度をとってくるんだろうなー、こういうことから思想、哲学、犯罪、革命、反革命、裏切り、夜中に自動販売機を拳で殴りつけるなどの行動が行われるのだろう。

近所の大病院の前にコンビニができ、夜中の12時頃行ったら客の9割が女性。「白ストッキングあります」という張り紙を見ると、どうやら看護婦さんたちらしい。病院の近くに地下鉄の駅があるから、そこから降りて自宅へ帰る人々をも引きつけているのかとも思ったが、あのお客の性別バランスからいったらやっぱり看護婦さんなんだろうね。店内に入ってビビる。

12月14日(金)

コミティア申し込み。

マンガ買いすぎた。もう限界。あまりにマンガが部屋(というか2階全体)に溢れかえって邪魔で何も作業ができない。仕方ないのでいろいろ捨てました。
だれかからもらった、左利き用に弦を張り替えたギターも捨てます(もともと欲しくないのに押しつけられた)。
何となくとっておいたグラビア雑誌も捨てます。
十何冊かとっておいた「グイン・サーガ」も捨てます(1巻だけ残す。書き換える前の(笑))。

でもぜんぜん荷物減らない。……と思っていたら、バトルウォッチャー中島梓のウェブ日記についていろいろ書かれていた。中島梓、HP持ってたのか。
いや、「思ってたら」ってのは今日グイン捨てたから、偶然だなあと思っただけだけど。

しかしこれ、作家のウェブ日記としてはかなりヒドイ方だろ。といわざるを得ない。何行も行替えしてないし、たぶん読み返してないんだろうな……。で、SF大賞がどーのとか、そんなことは私はよく知らないからどうでもいいんだけど、このヒトが何日か前に書いたことをすっかり忘れてしまうってのは前から気になってたんだよなー。
「コミニュケーション不全症候群」っていう評論本があったが、ここで冒頭「参考文献をいくつかあげようと思っている」って書いてあんだけど、巻末見ても参考文献なんか何も載ってないんだよ。じゃあ前に戻って削除すればいいのに、それをしない。そうした心の動き、変化が重要なタイプの文章かというと、ぜんぜん違う。……というわけで、このヒト、自分の原稿を読み返してないのかもしれない。

その後もいろいろ思うところはあったんでここに書いたけど、「バトルウォッチャー」を見て、他の人々のコメントを読んだらなんだか溜飲が下がってきて、「私ごときがわざわざ書かなくてもいいや」と思った。だから消す。
しかしこれだけは言いたい。

中島梓は「虚構に耽溺する人々」に対し「虚構にばかり逃げ込んでいないで現実を見つめろ」という提言(?)を10年以上前から行っていたヒトである。そこには正論も含まれているが、ニュアンスとして看過できない部分もある。
今回のウェブ日記を見るかぎり、彼女の主張は基本的には変わっていないようだ。だれか正論を言う人間がいてもいいのは当然だ。しかし、その妙なニュアンスまで持ち越しているとなれば、それはもう批判されていい時期に来ているのではないか。

くだんの日記を読んでも「最近はゲームとコミックしか読んだことない人間が書いた小説ばっかり」みたいなこと書いてんだよね。あと「戦後からこっち、文化状況がダメだ」とも書いてる。この人の「虚構に耽溺する人」批判と、「戦後以降の文化状況批判」は地続きになっている。要するに戦後の状況が「虚構に埋没する人」を生みだしたという論調なわけだから。

感覚としてそういうことはあるとは思うんだよ。でも本当はどうなのか、ってのが90年代の10年間を通して考えるべき問題だったのじゃないかと個人的に思ってる。それには二つ方向性があると思う。
ひとつは「戦後からこっちもダメじゃないんだ」という考え方。パラダイム変換が起こった、とでもいうような。「ダメだ」って言ってるやつの感覚が古いんだよ、的な。
もうひとつは「戦後からこっちは確かにダメなんだ。しかしダメで何が悪い?」という考え方だね。こちらが開き直る。
もちろん「戦後からこっちはダメで、絶望だ」という考えもある。

しかしまあ、戦後文化批判も戦後文化肯定も、両方コインの裏表のような気がするんだ。だからそれはそれでいい。しかし、それには自覚的であることが必要だ。中島梓は自分の仕事だけは別だと言いたいようだが(そういうふうにとれてしまう)、戦後に生きてしかも売れている以上、時代潮流から無縁ではないのは自明のことだ。

中島梓の日記に対する他の人の反応は「しょーがねーなー」という苦笑とかため息まじりのものが多いが、おちょくったり遠巻きにして喜ぶんではなくて、だれかちゃんとした人が真摯な批判をする時期に来てるんじゃないかという気がするが。
すでにだれかがやってるなら別だけど。

12月13日(木)

大桃美代子リスペクト!! その存在そのものが一種の「人畜無害状態」だ!!

あーもう夜中に知らないネットのテキストサイト見るの無駄。ストレスばっかりたまっちゃって。
ずーっと前、「テキストサイトにありがちな言い分」っていうのを箇条書きにしたんで繰り返しになるけど、なんかさー、ちょっと無菌室的なモノがあると全部「偽善」って断じるの、どうかなァ。
おれは思うよ、偽善にも貴賤があると。

たとえば、NHK教育でやってる介護の番組に出てるのが大桃美代子と石立鉄男なんだけど、石立鉄男が介護される側の役をやるほどトシをとってしまったとかそんなことは抜きにして、この2人以外のキャスティングがあるのか、またこういう方法以外の番組があるのか考えてみろってんだ。と思う。
無菌的というか、人畜無害というか、そういうかたちでしかできないものだってあるわけでしょ。じゃあさー、運転免許の映画に「ダンディ坂野」とか「中山きんに君」が出ていって面白いことやっていいのかって。あるいは事故った人の頭から脳漿が飛び散って手前の子供の顔にビシャッってかかるとかさー。そんなことできるわけないし、またその必要もないと思う(運転免許の映画自体の必要性はおいといて)。

あともうひとつは、差別問題で、サベツをタブー視しないで顕在化させることで、腫れ物に触るような態度はやめ、親しみを持たせるみたいな考え方がある。これはいちがいに否定しないけど、でもさあ、ぜったい出てくるよ。「自分はサベツをしないからあけっぴろげでやってるんだ」っていうポーズでサベツするやつがな。

たとえばダンゴっ鼻が異様にサベツされて、タブー視されている世界があるとするじゃん。そうすると、まずそこに、
「やまだー。やまだってダンゴっ鼻なんだよなー。まったくダンゴっ鼻はダンゴばっかり食うってのはホントだなー」
「たなかくん。そんなこと言ったら、やまだくんがかわいそうじゃないの!」
「いいんだよ、ほしのさん(あ、これを言ってるのはやまだね)。たなかは、おれがダンゴっ鼻だからって腫れ物に触るように扱われることを嫌って、ああやってくれているんだ。本当は優しいやつなのさ」
「そういうものなの」
「ったくよう。やまだのダンゴっ鼻のせいで、昨日の運動会紅組が負けちゃったんじゃねえの」
「また、たなかくん!」
「いいんだよ、ほしのさん。さっき言っただろ」
「ホントにさあ。狂牛病騒動がいつまでも終わらないのも、やまだのダンゴっ鼻のせいじゃねえかな」
「……じゃあおれが牛肉を食ってみせて安全宣言しないとな。やまだ、焼き肉おごってくれよ(←たなかの自虐ギャグ)」
「(無視して)あーあ、やまだのダンゴっ鼻見てたら、信玄もちが食いたくなってきたよ! ダンゴじゃなくて」
「……たなか」
「何?」
「もしかして、おれのダンゴっ鼻のことが何か気にくわないの?」
「(心底驚いたように)なーに言ってんだよ! おまえのダンゴっ鼻も、こばやしがデブなのも、ほしのが短足なのもさー、欠点には変わりないんだよ。おれはさあ、変にタブー視して、ふじいのニキビには触れておまえのダンゴっ鼻には触れないのがおかしいと思ってるだけだよ。(何事もなかったように)ところでさあ、今度のクラスでの合唱曲、「ダンゴっ鼻の歌」にしようと思うんだけど、どうよ?」
たなか「殺す!!」

……というような、「『親しみ』の皮をかぶった単なる失礼」ってやつが続々登場すると思うよ私は。そんときに、「サベツとは何か」を突き詰めて考えていかないと、やっぱりマズいことになると思う。

あ、上記のシミュレーションに登場したほしのさんの下の名前は、スミレです。

それにしても、たなかはどんな殺され方すんのかね。そういうこと妄想するとおれなりにワクワク(以下略)。

12月12日(水)

頭痛はなんとか治った。なんかもう、ここ2、3年冬はずっと身体の調子が悪い。気候が変わってしまったからいたしかたないことかもしれないが。

部屋の窓ガラス割れたままだし。

滑川ニュッピーのプロフィルをひさしぶりに直したら、なんかコンテンツにそれ自体がなくなってて、もったいないからここに載せる。

・「ぶっとびマンガ認定委員会」のリーダー的存在。自分に関する噂話を異常に気にすることで有名。

性格:「○○さんがさあ……」とマンガ家の名前をさんづけにして(もちろん知り合いではない)、大声で新宿紀伊国屋のコミックひろばで話す人。あと、なぜか話し方がロボットみたいなんだよな。
性別:ケント・フリックの音芸(おとげい)を異常に評価する。
血液型:「こなさん、みんばんわ〜」などと未だに言う人(実際に目撃)。
星座:「へびつかい座」ってどうなったの? とか未だに言う人。
学歴:全部ムダんなった。後は、テレビで年末に塾でハチマキしてる小学生をあざわらうだけだ。
得意科目:技術・家庭(嘘です)
苦手な科目:掃除
「掃除大臣」とか言われて喜んでんな!!
学生時代好きだったこと:ドラマ「ダラス」について考える
グルメ感覚:コイケヤとカルビー、どちらのポテトチップがうまいか論争して負ける。
好きなテレビ番組:ペット百科。
酒:オカアサンとオカアサンのはさみ焼き。
好みの異性のタイプ:003。

12月11日(火)

朝起きたら、頭の左側の耳の上が少し痛い。やがて、午前中にはキリで穴を開けられるほど痛みがひどくなってきて、苦しみ続けた。あと、なぜか下痢。風邪かと思い、仕事から帰って薬を飲んで横になる。

昨日、フラットに伊集院光のラジオを録音するのを忘れる。
待っている郵便物が来ない。あごひげにかなりの量の白髪を見つけ、ショックを受ける。

・コメットさん☆
・第36話「みんなの王子さま」
しばらく作中に出てこなかった王子様候補の歌手・イマシュンは、実は世界的ファッションデザイナー、アイコ・キミハラの息子であった。イマシュンって記憶喪失じゃなかったの……? まあとにかく、自分がアイコの息子だと思い出したイマシュンは、自分の歌が愛情を注いでくれなかった母親へのメッセージだということに気づく。
母親への個人的なメッセージをみんなに歌っていいのか……。彼は悩むのであった。

う〜ん、言いたかないけど、ここも単純に描かれすぎている。これではアイコ・キミハラは、ただの非情な仕事人間としか移らない。
メテオさん☆が、王子様ではないイマシュンに思いを寄せている描写は、ギリギリちゃんとしている。今回も「恋力」が出てくるが、果たして「星力」との差別化は今後できるんだろうか? なんかムリなような気が……。
文句ばっかり書いたが、大傑作の予感がしていた作品だけに、最近惜しいところが目立つのですよ。

・コメットさん☆
・第37話「いたずらキューピト」
ムークは、コメットさん☆とイマシュンをムリヤリくっつけてしまえば、コメットさん☆が王子様探しから脱落すると考え、キューピトを呼び寄せる。放った矢で人々をラブラブにしてしまう星人さんだ。
一方、その作戦に気が進まないメテオさん。それはまだイマシュンのことが好きだから……。

予告編でキューピトを見て、「なんてイヤな顔をしたヤツなんだ!! シリーズ最悪のイヤな顔だ」と思っていたら、キャラとしてはそんなにイヤなやつじゃなかった。やっぱり作中いちばんイヤなヤツはラバピョンで、次点はデザイナー見習いの子のお師匠かもしれない。なんかニッコリ笑って敵をツブしてきた気がしない? あの先生。
お話はハチャメチャでたいへん満足。「キューピットがだれかれかまわず矢を打って大騒動」というのはよくある話だが、コメットさん☆独特のマッタリ世界がハジケていく感じはとっても楽しい。

12月10日(月)

「しょうがない、チェキッ子の穴はモー娘。が埋めるしかないのか……。捕まった田代まさしの事務所に、元チェキッ子が二人もいることだし……」という「チェキッ子史観」でもって「HEY! HEY! HEY!」のプッチモニを見てたんだが、今回の楽曲の、往年のアイドル歌謡復活的良さに比べて、3人ともしゃべりできないなあ? それともダウンタウンと手が合わないのか?
とくにゴ●キ(←弱気なので伏せ字)の「私はきれいな空気がないと生きていけないので、オヤジの匂いに耐えられない」、「毛深い男を好きになったら脱毛させる」という発言は、やっぱりこの人もデオドラント文化の申し子なのか!! ブルータスおまえもか!!(←わざわざ使うことないフレーズ)と思ってしまったことよ。

とにかく、アイドルにはいろんなことひととおり勉強させなきゃダメだ!! どんな無意識差別発言が飛び出してしまうか、想像するだけで恐いぞ。そんな危機感を抱かせるコメントであった。

でもアイドルが「ハレとケが」とか「マレビトが」とか言ったらヤだな〜。しかもいつの時代の何の本読んでんだよ……。「不良債権が……」とか「構造改革が……」というのもやだなあ。「終わりなき日常を生きてます」とかなあ。あと何でも公式にあてはめるのね。「それはパスカルの定理によるとこうですね」とか。

病院へ行く、帰りにコミケカタログを買う。

夜、家にあったシャケと飯を食ったら微妙に気分が悪くなった。死ぬかも。

12月9日(日)

・「ホントの話」 呉智英(2001、小学館)読了。
SAPIOに連載されていた社会評論をまとめたもの。まあいつもながらのやつです。人権批判とか。
同じことを主張し続けているために、今までの著作と重なる部分もあるが、面白いことは面白い。国会議員の福島某は、「トトロの歌を国家にしろ」と提言したそうだが、気絶するほど趣味が悪いなあ。
呉智英が主張したあたりから「世間知」ということがさかんに言われるようになったけど、本書でもそうだが「常識=漠然と信じられていること」と「世間知」の差はいったいなんだろうか??? おそらく世間知に長けた人間でもその差を不明確にしたまま生きているに違いない。
たとえば「常識」が間違ってる場合もあるわけでしょ。そこら辺どうなのか。
それと、ありもしない正義ではなく、職業倫理・商業道徳を貫け、という主張も本書に書いてある。しかし、少しでも商売したことがある人ならわかるかもしれないが、倫理や道徳よりも商慣習、業界内部のしきたりに従う場合が圧倒的に多いんじゃないかと思うが。そこで逆らう人間は、青臭い正義を振りかざす人間と、現場ではあまり変わらんのだよね。
まあちょっとズレるかもしれないが、官僚の汚職が定期的に問題になるでしょ。しかもあまりに規模の大きいのが。あれなんてどう考えても職業倫理より、役所内の慣習に従ってるとしか考えられないんだよな。いや、どこもそうだと言ってるわけじゃなくて。

もっとぶちゃければ「バレなきゃ何やってもいい」と大半の人が思ってる。 何にしても面白い本ではあるが。

12月8日(土)

なんかまたヒトと飲みに行って、ものすごく頭の悪い会話をして帰った。

・「デスレース2000」
75年製作のアメリカ映画。西暦2000年、「人を殺すとボーナスポイント、ジジイやババアは高得点」なアメリカ横断カーレース。カッコいい男とオッパイのデカい女が、トゲトゲや巨大ナイフなどで武装したスーパーカーに乗り込み、爆走する話。
以前より評判だけ聞いていたが見る機会にめぐまれず、「ビデオでも出ていなかったがDVDで出た」と聞いて購入。DVD、どうしても3000円以上では手が出ず、けっこう清水の舞台から飛び降りる気持ちで買った(笑)。

内容は……とてもすばらしかった。どうすばらしかったかは、わかる人にはわかるし、わからない人には一生わからんだろう。こういうモンド的な(「秘宝的」な?)映画の話をするたびに、実に微妙な立ち位置を要求される。つまり、正統派の人からはまっとうに非難され、映画マニアからは突っ込みどころがヌルいと言われ、映画マニアでない人からは「持ち上げすぎている」と言われたりする。そのたびに寂しい気持ちになる。
とにかく、「マッハGOGOGO」とか「チキチキマシン」を実写でやり、意味なく美女がオッパイを出し、爆破シーンが連続し、売れない頃のシルベスタ・スタローンが暴れ回り、とってつけたような勧善懲悪が本当にとってつけてある、それ以上何を望もうというのか!?
また、カーレースだからエレキがギュンギュン言うようなロックがBGMかな〜と勝手に想像していたら、実に気持ち悪いシンセのサウンドが曖昧に続く。本当に狂った感じのBGMだ。やる気も感じられない。しかしそれが映画全体の悪趣味さ加減を引き立てていた。

今年は私としては比較的映画を見た方だが、劇場ではハズレばかりつかまされた。本作は家で寝っころがって見て、しかもアタリだった。ウレシイ。

・「決戦下のユートピア」 荒俣宏(1996、文芸春秋)読了。
第二次大戦の際、人々はどうしていたかをいろいろな視点から見た本。
まあ「戦況が悪化しても、いつ頃まで江戸前の寿司が食えたか」なんて話は、面白いけど当時生きてたってそんなの食えなかっただろうなあ、と思うんだが、明治神宮や靖国神社が爆撃されてたってのは戦争体験者のウチの親も知らなかった。そういう豆知識は身に付く。

12月7日(金)

床屋へ行く。

・「座頭市 あばれ火祭り」
映画。なぜビデオのパッケージに「シリーズ何作目」と書いてないんだろう。こういうことはちゃんとして欲しい。まあ調べりゃわかるんだけど。しかし調べてないから、何作目からかはわからん。
盲目の大親分が、座頭市を目障りだとして殺そうとする話。映画的には「座頭市物語」とその続編を混ぜてシャッフルした感じで、目新しさはない。また、笑っていいんだか悪いんだか……という座頭市が盲目であることをギャグにしたシーンがある。 よくわかりません。
実は劇中、大原麗子が西村晃の娘であることを、後で知った。まあ私にとってよくあることだ……。ネットでざっとヒトの感想を見たが、あんまりかんばしくない。しかしまあ、本作は本作でいいのだ。これが任侠映画ってもんだよ。と思う。

・「デッド オア アライブ2」
映画。前作に比べると、マッタリとしている。でも、このシリーズは雰囲気自体を気に入ったのでこれはこれでいい。「あばれ火祭り」が任侠映画のパターンを忠実に守っているとしたら、こちらはそこから出よう出ようとしてあがいている感じ。あ、芸術的な意味でなくてね。哀川翔が殺し屋になった理由が、まったく浮世離れしているのがいいよなあ。
田口トモロヲがどこに出ているのかわからなかった。おれ、そんなのばっかし。

今日はアニメのCD(具体的に言うとコメットさん☆)を買いに、池袋のアニメイトに行った。
最近の普通のCD屋でのアニメの切り捨てはたぶん意識的なものだと思う。詳しい理由は知らない。別個の世界を形成していて品揃えが中途半端になりやすいので、切り捨ててしまったのかもしれない。純粋に売れないのかもしれない。
それにしても、アニメのCDは本当にどこに行っても手に入りにくくなってしまったため、たいして用事のない池袋のアニメイトへ行くのだ。
CD自体は首尾よく買えたものの、ここのレジはけっこう待たせる。まあ客が怒り出すほどではないが、微妙にイライラさせられる待ち時間だ。推測するに、個々の商品(CD、DVDなど)におまけ特典が付いており、それを探して商品に同梱する作業で遅れるのではないか。コミック売場に行っても、ポスターなどのおまけを付けていた。アニメの好きな人ってそんなにおまけを欲しがるものなのか。不明。

それと、アニメ以外でもCD屋って商品の品揃えに微妙に差がある。個性があるのはいいことなのかもしれんが、それにしたって本屋の品揃えの違いとは多少意味が異なる。ないものが微塵もない。あるもんは山積みになっているという感じ。私が探しているものがマイナーだとしても、中途半端な店に行くと全部買えることはまずなく、何軒も回らなければならなくなって非常に疲れる。

さらに松屋で新商品「麻婆丼」が出ると書いてあったので入ったら、自動販売機にその表示がない。「まあわざわざ店員に聞いて食うほどのものでもないし」と思い、しかたなく牛丼を食ったが店を出たら「2階で販売中」という但し書きが。なんか疲れが出た。

帰って横になったら熟睡してしまい、焼き芋とトウモロコシ売りの声で目が覚める。
この人には悪いが、うるさい。後、ガキも非常にうるさかった。

「ちゆ12歳」でも書かれていたが、コミックバンチに毎回マンガ家のインタビューが載っている(いつぞやは原哲夫)。このインタビューはあちこち(具体的には2件)のサイトで評判が良かったが、私はあまり価値を感じていない。それは、この連載が本誌特有の「オヤジ系アッパー志向」に基づいており、サクセスストーリーとして組まれているからだ。
まあどんなサクセスも結果論、と言えばそれまでだが、それにしても果たして精神論とか熱血といったことで「北斗の拳」のヒットは割り切れるものだろうか?
孫引きだがこのインタビューによると、「北斗」の担当編集者(要するに現・堀江編集長)は、ギリギリまで描き直しを命じる厳しい人だったそうだが、これは当時の原哲夫がぺーぺーで、素直であり、なおかつやってることが非常にシンプルなエンタテイメント作品であり、大ヒットとなったから美談になったのであって、ちょっと内向的で作家性の強いマンガ家で結果的にヒットとならなかったら「作家の描いてきたものにダメを出しまくる横暴な編集者」ということになる。
400万部の80年代ジャンプは、よくも悪くも量産機械的イメージはつきまとっている。それを量産機械とわりきり、我々は楽しんでいたのだからそれはそれでいい。
しかし「職人を育てる」という面と「機械化する」という面、両面に目を向けることをしなければ、「大ヒット」という面でも物事の側面しか見られないのではないか、と思う。

それは、工場が自動化と職人の育成を、両方矛盾しつつやってきたのと同じことだ。
原哲夫が、担当編集者として「北斗」が堀江氏、「花の慶次」の途中から打ち合わせをそれほどしない人物だったと明確にするのであれば、マンガ読みがなすべきことは「北斗」と「花の慶次」のどちらが結果的に面白かったか評価することであって、それ以外は言っちゃなんだがどうでもいいことのように思う。

それにしてもバンチ、大衆に支持されているのかいないのかいまいちハッキリしない。

12月6日(木)

今日は休みだったんで、思う存分こむずかしい本でも読んで賢くなったろうと思ったが、昼間に酒飲みながらビデオにとっておいた「ヒカルの碁」を見てそのまま眠ってしまった。
ンで学校が半ドンなのか何なのか、昼から3時頃にかけて異常に近所の中学のガキがうるさい。うるさくて目が覚めそう。しかし酒を飲んでいるので頭がはっきりせず、なんだか起きられない……。夢の中で、このうるさいガキどもを「黒木香」を「くろき・かおる」と読めるか否かで選別し、読めなかった者、「かおり」と読んだ者は足尾銅山で強制労働、読めた者も足尾銅山で強制労働という妄想をつむいだ。

親がNHKで「リストラにあった五十代が苦労して仕事を探す」というテレビを見ていた。あまりに悲惨で正視できない。みんなバブルの絶頂期に家を買ったため、相対的に1000万くらい損をしているらしい。また、家のローンが残っていたり奥さんや子供がいたりするので生活レベルを下げるにも限度がある。ああ、やはり正視できない。
似たような気持ちを抱いたことがあるな、と思ったら高校時代に「ふぞろいの林檎たち」をチラッと見たときだった。名作として名高いこのドラマ、新聞のテレビ欄などで「三流大学に入った若者の青春群像」みたいに書かれていて、また断片的に見たシーンがことごとく「三流大学に入ったがゆえの悩み」だった。全編通して見てないし、これほど支持されているということは普遍性を獲得しているのだろうが、私は偏った情報から「そんなに悩むなら最初から勉強してりゃいいじゃん」と思った。
「ふぞろいの林檎たち」は、高校時代に「おまえも勉強しなかったらこんなに苦しみ続けるんだ」と言われているような一種の警告であった。

だから珍しく自分で言うが死ぬほど勉強した。勉強しすぎて病気になった。なんか小便に血が混じってたりして。その結果東大にでも入れればおもしろエピソードになったのだろうが、結局東大に入ったのは菊川玲だった。

昼間、飯を食いながら酒を飲んだせいか胃がおかしい。「どれくらい飯を食ったか?」をずっと思い出そうとしたがどうしても普通程度に食ったとしか思えない。
その後、休みの大半は「どれくらい昼飯を食ったか?」を思い出す作業に費やされた。
胃薬を飲んで少しよくなったがよくなったら、また腹が減ってくるんだよ。で、ラーメンを食べたりした。

12月5日(水)

ビデオでアニメ「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」を4から6まで見る。6で完結。
そうか……こういう結末だったのか。個人的には全体的にカッチリできすぎてるなあと思うものの(いや、パッと見、破綻がないのはイイことなんだが)、ラストにはちょっと泣けた。すごくテーマがきっちり打ち出されてるし、それがエンタテインメントの世界の範囲内におさまってるし。イイ話だと思った。最後まで見ると「ポケットの中の戦争」というタイトルは実に合ってるとわかる。
できたのが89年ということで、この頃はもうアニメとか見るのやめようと思ってた時期だから見ていない。もし当時見ていたらどんな感想を抱いたか、と考えてみたが、やはり同じ意見だっただろう。しかしもう10年前だよ。信じられん。
ちなみに、林原めぐみの声が今とぜんぜん違う。そうだと聞かないとわからん。

12月4日(火)

「新ゴー宣」について、最新号のあらすじをネットで読んじゃって思いつき書いたんだけど、やっぱりそれなりに読んでからじゃないとダメだと思って全部消した。
なんつーかなー、やっぱり足下を見つめて、自分の生活の中で本当は何が必要で何が必要でないかを見極めるということが大切だと思うんだよ。どんなにダークになっても。そういうことが言いたかったんだけど、うまく書けなかったから消した。

・コメットさん☆
・第33話「時には王女のように」
コメットさんが、ミラ、カロン(王子様の調査に来たタンバリン星国の姉弟)とともにバトンの大会に向けて練習に励むが、二人は上司みたいな人から星国に帰るように言われてしまう。おまけにもう一人メンバーが揃わず、メテオさんに頼んでも聞き入れてもらえない……。

ミラとカロンが登場したときもその必要性をけげんに思ったが、もう帰ってしまった。普通、半年とか1年とかの1話完結を基本にしたアニメは、大枠をキッチリ決めてつくっているんだと思い込んでいたが、なんだか2クール過ぎてからの本作は迷走しているように感じるなあ。実際、ミラとカロンの存在の意味は何だったのか? 星国の身分制度を見せつけるためか?(実際、スゴイ身分差がありそう)

・第34話「星の絆」
コメットさんをおっぽり出してラバピョンとの逢瀬に精を出していたラバボーは、ハモニカ星国臨時裁判所にかけられ、ヒゲノシタ裁判長から「姫さまほったらかし罪」を言いつけられる。しかし、弁護人のムークとともにこの裁判はおかしいと疑問を抱く……。

前半の、行方不明になったケースケを心配するコメットさんとラバボーの裁判とを交互に映す演出は面白かったが、終盤にかけてメテオさんとムークが仲直りするあたりはなんかグダグダになってしまったように思う。惜しいなあ。

・第35話「雪のダンス」
保育園でのお遊戯会が、やめていった今日子先生の結婚式とバッティングしてしまった。どうしても今日子先生にお遊戯を見てもらいたいツヨシくんたち。メテオさんに保育園と結婚式場に魔法で近道をつくってもらうが……。

またしてもバッティング、ダブルブッキングを魔法で解決するという話(笑)。それはいいとしても、ラストシーンにおいて、錯綜した魔法の近道に風にあおられた雪が通っていくことで結婚式場がわかるというところは破綻しすぎている。なぜ迷路のようになった近道に風だけが通るのかの説明がないと、ラストも盛り上がらないっスよ。

12月3日(月)

なんだか2、3日前からまた身体の調子が悪くなってきた。残ってた薬を飲んで、横になったりすると夜中に目が覚めて眠れなくなる。
で、何をやってるかというとインターネットをボーッと眺めてる。
しかもネットウロウロするんじゃなくて、同じHPを何度も何度もリロードしてみたりとか。

時間のムダだと思うが、なんだかやめられない。そんな人生。

12月2日(日)

身体の調子がまったりと悪く、喉も痛い。また風邪か? 恐怖にかられて、真夜中に激食い。

・「テキスト界」って何だ?
なんかもめ事があったみたいスね。何がどうモメたのかについては、めんどうなのでリンクはしません。興味のある人はすでに知ってるか、探せばわかるでしょう。私自身も細かいチェックはしていません。

10月10日の日記で、昨今のテキストサイト論について思いつくまま書いてしまったので、今回も素朴な感想を書くと、まあいつかは起こることだったんじゃないかと。
「2ちゃんねる」は固定ハンドルでないため、議論が泥沼にならないことがニフティ隆盛時代などとは最も違った面だった。ところがHPの看板背負っちゃうと、ニフティ会議室の固定ハンドル常連になるよりよっぽど当人の「個性」が確定されてしまうため、もめるときはもめるだろうなあと思うのが簡単な感想。
どんな人間集団でも、友情、馴れ合い、裏切り、恋愛、いろいろあるんでそれの1バリエーションという気はする。
サイトの批評ということで言えば、サイトでサイトを(負のコメントを入れた)批評すると、必ず泥沼になると思う。これはニフ時代(ニフの話ばかりして申し訳ないが、立派な「前例」なのだ)、ネットでネット問題を議論することがむずかしかったことと似ているかもしれない。

個人的には面白かったら直リンク、というのがいちばんいい方法ではないかと思ってます。見る人が実際に見て判断すればいいこと。たとえば5段階評価で、微妙に3とか4とか付けても、あまり意味はないし、管理者を傷つけるだけだと思う。
まああまりに大手の場合は、悪口ってのは止めようがないし、「有名税」と言わざるをえないんだが。

「一億円欲しいかと言ったらそりゃ欲しいですよ」という名言をはいたのは故・大貫さんだが、アクセス数上げたいと言ったらそりゃ上げたいですよ。それに、実際どんなコトであれ、ある種のサークルをつくることによってその集団全体が自己防衛機構になっていく、ということは実際にある。むしろ「実力主義」というかルールに基づいた勝負主義、というのが一種の幻想なんだもんな。だから馴れ合い自体は否定しませんね。

だがその反面、更新頻度やアクセス数なんかぜんぜん少なくてもその存在価値があるサイト、というのも厳然と存在する。まあよく言われる話だが、どんなマイノリティでもサイトを開設でき、距離とか費用が他と変わりなくアクセスできるってのがネットのいいところだから。
そういうところに、私はなりたいとちょっと思う。毎日更新は一種の才能なので、私にはムリだし。

そんなことより、いちやく有名になったロシアのアイドル声優志望娘、アキバイツキちゃんの日記を読もう。英語の勉強にもなるし。日本語の話し声を聞くことができたが、「ココナッツ娘。」のミカが、声優しゃべりを意識したような感じでした。それにしてもロシアのアニメ事情が気になるなあ。

・ザ・JKマン
先月の29日に書いた「上京すると言ってスケジュールを決めない人」を仮に「JKマン(ジョーキョーマンの略。なんかかっこいい)」と呼ぶ。
JKマンは、こちらが電話したりメールしたりしてひとつの要件を片付けようとすると、必ず違う問題を持ち込んでくる。人間、ちゅうぶらりんな状況というのはかなりストレスフルであるが、JKマンはそれを無制限につくり出す。まさに、ちゅうぶらりんの永久機関。

知識、金、地位、ヒマとあらゆるものを手に入れているはずの彼、私が中高生時代は憧れというかものすごい人だと思っていた(ちなみに、だいぶ年上)。だが最近はなんかちょっとおかしい。
ヒマがあるのにそれを持て余す、飯は高いものばかり食う(まあ人の勝手と言えば勝手だが)、小説も読まなければ映画も見ない。マンガも読まない。テレビも見ない。インターネットもやらない。毎日酒ばかり飲んでいる。電話してくるときは100パーセント飲んでいる。そういうのはテンパってる証拠だと思うが……。
かといって、助けてやろうと思っても、変な要件は持ち込んでくるし、知識、金、地位、ヒマ、あらゆるものを持っているのでいつ私を非難してくるかと気が気じゃない。
私自身が助けられたこともあるのに。それは結局、おれ自身が薄情だということかもしれないが……。

やっぱりキャバクラとか行かないと人間ダメなんかな〜、とか真剣に思ってしまったよ。だってそういうところに入り浸っているなら気がまぎれるんでしょ。後は、話好きのマスターがいるバーを探すとか。
あ、こういうこと書くとおれ自身をキャバクラに誘ってくれる人とかいるけど、私はイイです。
もうそういうとこで無駄話すること自体に疲れる。これ以上、追いつめないでくれ。あと最近酒が翌日に残るし。

12月1日(土)

午後からロフトプラスワンで「決定!? 日本オタク大賞」。
実はけっこう楽しみにしていた。何年か前、「国際おたく大学」っていう本があって、コレがその年のオタクトレンドを各ジャンルの専門家に書いてもらう、っていう趣向だったと記憶している。コレがけっこう面白くて、「毎年出ないかなぁ」と思っていたらそれで終わっちゃってたんで。
やっぱり、年の瀬にそういう賞とかベストテンとか考えるの、楽しいから。

しかしどのくらい混むのかまったく掴めず、早めに行ったらドア工事かなんかをしていてだれも並んでいなかった。今日、来るはずのながたさんに連絡したらながた(兄)さんとともに紀伊国屋前にいる、ということだったのでお邪魔させていただいた。
で、3人でタイ料理を食べた。

イベントはテレビの公開録画ということで少し窮屈な感じ(時間も厳密に決まってたし、普通のトークライブに比べると、ってコトだが)もあったけど、「今年もいろいろあったなぁ」という感じで楽しかった。
たとえば「このミス」だったらミステリ読んでないとどうにもならないし、かといって「今年の十大ニュース」と言っても幅が広すぎるし、感覚的すぎる。「オタク的トピック」というのは微妙で楽しい。

こういうの、毎年書き出していくとかなり面白いと思うんだけど。私はメンドクサイからやらないけど……(知らないジャンルのトピックとかわからないし)。

終わった後、ながたさん、小杉さんと大戸屋で食事。けっこうカレーがうまい。

で、今度はロフトの夜の部「超絶!プラモナイト アオシマプラモの世界」。
これは「超絶プラモ道2」の出版に合わせた著者・はぬま あん氏のイベント。私はプラモマニアでも何でもないので、どんな雰囲気なのかまったく知らない。ちょっとドキドキだ。

まず、ちょうどいい具合に満員、ってカンジでお客さん入ってた。
結論から言うと、お客さんの熱気がすごすぎて少しヒいた部分もあったが(笑)(私の席の真後ろの青年が壇上の発言についてすごく大声でレスポンスしてたり)、イベント自体はつくり込んであって面白かった。

簡単に書くと、「超絶プラモ道」裏話、アオシマコミックス作者の今道英治氏を迎えてのトーク、「レッドホーク連合艦隊」を十数ページスキャンしての紙芝居風紹介、「超絶プラモ合戦」と称したダメプラモ紹介、アオシマの地元静岡の地方局で製作された創始者紹介番組、など。
山本直樹氏(マンガ家とは別人)の、「もしもアオシマがこんなプラモをつくっていたら……」といった感じの作例紹介は、氏の不思議なトーク(年取った落語家みたいなしゃべり方)と相まって、バカウケしてた。私も面白かったと思う。

今道英治氏は、しゃべるのがあまり得意でない感じで、でも黙ってニコニコしているような、なんとなく「絵を描いているときがいちばん楽しい」タイプの人ではないかと思った。容赦ない壇上でのアオシマコミックスに対するツッコミにも、かたわらで笑顔で見守っている感じ。

個人的に「超絶プラモ」は「ぶっとびマンガ」などと、ジャンルがまったく違うが視点は同じだと考えていたので、視点は同じで扱うテーマが違うとどうなのか、を確かめたかったんだけどその目的は果たせた。

帰りに号外を配っていたので受け取ったら、W杯の組み合わせの記事で、サッカーにまったく興味のない私はなんだかガッカリ。雅子さん出産おめでとう。



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