08 「カッコ悪い」という立ち姿〜体験コミック「わが子が[いじめ]にあったとき」

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一気に下まで行きたい

・08 「カッコ悪い」という立ち姿〜体験コミック「わが子が[いじめ]にあったとき」

・「わが子が[いじめ]にあったとき」 小早川朋子:作・画、プロデュース:大ぞの千恵子(1996、イースト・プレス)

真偽のほどはわからないが、一般的に「いじめ」は80年代に全国の中学校・高校に広まった「校内暴力」が沈静化した後、子供たちの暴力性が陰湿化して多くなったと言われる。もっとも、昔の小説だのエッセイだのを読むと「いじめ」の話というのはほぼ普遍的に見出すことができ、それ以前とは別の問題として「80年代」で区切ること自体に「区切った人」の意図が見え隠れするが、それはまた別の話だ。

学校内での「いじめ」を扱って話題になった本も少なくなく、劇画原作者の牛次郎の、子供のいじめられ体験記があったと記憶するし、週刊少年ジャンプでやっていた「元気やでっ」というマンガ、あるいはももち麗子のセミドキュメンタリータッチの一連の作品群を思い出すこともできる。

牛次郎はともかく、マンガで実録いじめ体験を描かれることは、なかなか辛い。むずかしいと思う。いじめの陰惨さを訴えたいあまり、物語の大半が「主人公がいかにひどくいじめられているか」の描写に費やされ、その後何らかの救済があったとしてもちっとも記憶に残らなかったりする。

本作購入の動機も、言ってはナンだが「作者(同人活動もしているらしいマンガ家)自身の体験に基づいたいじめ対策コミック」という惹句にひかれてのもので、作品的なクォリティには何ら期待していなかったのが正直な気持ちであった。
が、本作はなかなかよくできている。

・あらすじ
ストーリーは、ちょっとドンくさい中学生の女の子・(もえ)が、同級生の今日子千里からいじめられるところから始まる。上履きを隠されたりとか。しかし気弱な萌は抗議もできず、親に相談することもできない。弟のが、どうやら姉がいじめられているらしいと知り、両親の耳にも入る。
心配した母親は、担任の教師に相談するが、「教師から注意しても『チクった』と言われ、なおさらいじめられることになりかねない」と、よい解決策が見つからない。父親も、一見冷たそうな態度をとる。
母親はどうしていいかわからず、悩んでつい萌をどなってしまったりする。
萌と母親の心は一瞬離れそうになるが、母の必死さを萌が感じ取り、いっそう絆が深まる。だがその矢先、母親は胆石で入院してしまう。

医者である父親の勧めで、萌は学校をしばらく休んで母親のかわりに家事をすることになる。その間、病院の栄養士さんと友達になったりしているうちに、だんだん自立心が出てくる。
「今まで萌の自立心を疑っていた」と反省する母親。

萌は学校へ行くことを決心し、以前にもらった「学校で同じ空気を吸いたくない」という今日子・千里からの小馬鹿にした手紙の返事を持っていく。

その手紙には、マンガを描くことが好きな萌のオリジナル・キャラクターであるファンタジー世界の女戦士が描かれていた。「あたしはあんたなんかに負けない!」というセリフ付きで。

・「カッコ悪さ」の果て
正直、本屋でパラパラめくったとき、こりゃないだろうと思った。客観的に見て、ちょっと恥ずかしい行為である。いちおう解説しておくと、もともと萌は言葉での自己主張はヘタだがマンガを描くのが好きで、出てくる「ファンタジーの女戦士」でもわかるとおり、マンガについては同人ライクなメンタリティの持ち主のような印象である(本作の絵柄そのものも、なんとなく同人ぽいのです)。
で、こんなイラスト入り手紙を受け取った方はいじめるいじめない以前に「はあ?」となるだろうと思うのだが、最初から通して読むとここまでの流れはきちんとつながっている(後述)。

そして、手紙を渡した直後、入ってきた教室の黒板に「死んでくれてありがとー」などと大書され、自分の机の上に「死ね」と言わんばかりに花が飾ってあるのを見た萌の怒りが爆発、初めて(たぶん生まれて初めて)大声で自己主張をするところで「いじめ」が顕在化し、教師が介入してきていちおうの決着を見る。

つまり、本作は「いじめ対策」というよりは、ドンくさくて自分では何もできなかったり自己主張がヘタだったりした女の子が成長していく話である。だから、すぐにこれを読んだから実際のいじめに対応できるということはないだろうが、作品としては非常にまとまったものになっている。
「ファンタジーの女戦士」は、萌の内在化した自分自身ということになっていて、それが萌自身と一瞬合致するのがクライマックスの教室、ということになる。

「いじめ、カッコ悪い」とは言うが、何が問題かというと「いじめられるのがカッコ悪い」ことではないかと思う。萌が両親に「いじめられている」と言い出せないのは、両親が心配するから、という理由もあるだろうがやはりカッコ悪いからではないか。お金がないとか、ケガや病気だとかいうことであれば相談したのではないか。
作中でいちばんの当事者である萌とその母親は、決してカッコいいとは言えないだろう(ちょっとものわかりのいいお父さんはカッコよすぎる気がするが)。

だが、カッコ悪いなりの生きざまがすごく伝わってくる。とくに、萌がいじめにあってからの母親は「直接注意はできない」という教師や一見放任主義の夫にいらだちを感じ、苦しみ、あげくに萌まで罵倒してしまう。
が、苦しみが苦しみとして伝わってくるんだよね。主人公の萌もそう。自分を、自作の「ファンタジー世界の女戦士」に重ね合わせるのはカッコ悪いことかもしれないけど、そこから出てくる勇気、彼女に内在している気持ちというのがよく現れている。
そういうところからしか出てこない気力、みたいなものもあると思うんだよね。

梶原一騎は「カッコ悪さの果てのカッコよさを描きたい」と、何かのインタビューで言ったというが、本作の萌とその母親には確実にそうしたたぐいのカッコよさ、矜持のようなものがかいま見えた。
こんなことを書いても何の問題解決にもならないが、人生全般において物事の「カッコ悪さ」を自覚することは、あんがい大事なことなんじゃないかという気はした。

マンガ創作論としては、萌のマンガがうまいヘタは関係なく、自己主張の発露になっているところに注目したい。音楽モノなんかではよくあるけど、小説とかマンガとかではいまひとつそういう描かれ方はしないし、あっても「才能のある人間」という設定が付いているのが常だから。
作中では萌は同人誌活動をしていないけれど、作者は同人誌活動をしているという。萌の自己主張の発露としてのマンガは、現在の同人誌状況に軽く関わっていることにも気を留めておきたい。

・余談
本作でも「これが完全な解決策ではない」と但し書きがしてある。私もそう思う。
本作ではもともと、主人公の心にいじめに対抗できる力が内在していたからうまくいったわけで。物語のラストで「いじめに加担していたクラスの女子4分の3の中で、今日子だけは最後まであやまらなかった。そして千里が今はいじめられている(2人がもともとのいじめの中心人物)」というセリフがあるが、実にリアルだ。今日子と千里が抱えている問題は何なのかわからないし、萌も、当然萌の母親も何の手助けもできないのである。
まあ、ここまで行くと「いじめ」問題というよりは人間の業のようなものに思いをはせざるを得ないのだが。

現場ではいろいろあって、いちがいには言えないのだろうが、ずーっと前、評論家の呉智英が「いじめで自殺した中学生、なんで日本刀持ってきてそいつらを斬り殺さなかったんだろう」というようなことを言っていたのが印象的だ。
そういう意味では、本作の中で「表だっては何も手出しができない」と言う教師に憤る母親にいちばん人間味を感じる。本能的に「いじめは生存領域の侵犯だ」ということを知っているのはこの母親と、最後まであやまらなかった今日子という女の子だろうから。
その考えは、どこかでかたちを変えて必ず激突するだろう。よくも悪くも。

そして、私は「いじめで自殺した中学生が、日本刀持ってきてそいつらを斬り殺してまわる」ような作品を求めて彷徨する。よくも悪くも(どっちかというと悪いか)。
(02.1121)



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