10 態度のデカいラーメン屋考

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一気に下まで行きたい




このコラムも、もうタネぎれになりつつあり、まとまらず、書いては消し、書いては消ししてきた。
そんな折り、深夜にテレビを付けたら、頑固で有名なラーメン屋が、また出てた。 その頑固ぶりの数々のエピソードを、面白おかしく紹介していた。

「もう許せん……」

自分はそう思わざるを得なかった。
すでにガマンの限界だったからである。

・「頑固な職人」と「頑固な商人」
「頑固な職人」。そこには黙々と腕を磨き、自分の気に入らないデキのものがあれば意地でも売りに出さない、求道者のようなイメージがある。
実は、本当に「頑固な職人」なるものがいるか、いたかはよく知らない。
ただ、テレビや雑誌によく出てくることは確かだ。
おおかたの場合、「プロジェクトX」に登場してくるのも頑固かどうかはともかく「職人的な技術を持った人々」である。

では「頑固な商人」のイメージはどうか。ところが、これが食べ物屋しか思い浮かばない。料理や店の内装にこだわりを持ち、材料がなくなったら昼間でも店を閉めてしまう。そんな印象だ。
だが、果たして「頑固な商人」なるものが、かつてそんなに存在したのだろうか?

私は、これは見込みでしかないが、ほとんどがメディアがつくり上げた幻想だと思っている。要するに、「職人」と「商人」を混同してつくり出したフィクションなのではないかと。
たとえばものすごく腕のいい職人がいたとする。さして営業活動をしなくても、仕事は入ってくるだろう。わがままもきくかもしれない。自然、頑固になる。これはわかる。
が、商人の場合、こんなことはありえない。ラーメン屋などの場合、主人が職人と商人を兼ねている場合が多いが、愛想が悪くてはやっていけないというのが普通の考えである。

「頑固ラーメン屋」が近頃もてはやされる理由には、2つの要素があると考える。

・「職人」に対する一般人の過大な幻想。腕一本で、他人に愛嬌を振りまかなくてもいいストイックな職人に対する憧れ。
・「商人の職人化」を可能にした、ネットも含んだネットワーク化(新しい宣伝効果)。

前者は、確か大月隆寛かだれかが言っていた「左甚五郎幻想」とでも言うべきものだ。しかし、職人が「腕一本で、全国渡り歩いても生きていける」かというと、それはそれこそその「職」に寄るだろう。
以前、神社仏閣の彫刻専門の職人さんの話を聞いたことがあるが、彫刻の技術はすごいがこういうものはとにかく神社が建立されなければ腕のふるいようがない。いくら職人といっても、多少は分業がなされていたのが普通ではなかったのか。
マンガ家だって、都心を離れるのは決心がいるだろう。仕事を頼んだり頼まれたりのしがらみだってある。というわけで、最近前者にみんな憧れすぎるような気はする。

後者だが、これは確かに新時代と言えるかもしれない。確かに、グルメ本などでかなり「おいしい店を、ふだんの行動範囲から離れて探す」という行為が一般化しているとは言え、かつてこれほど客がラーメンにどん欲になっている時代も珍しい。
大きめの中華料理屋ならいざ知らず、ラーメン屋っていうのはいつも通る道にあるのにひょいと入ったりして、ある日ふと、1本違う道に入ったらまったく別の店があって驚く、という程度の人が多かったはずだ。つまり、地域に密着していたということだ。
地域に密着しているということは、職人性だけでなく、商人性も発揮できなければやっていけない。サラリーマンが昼飯どきに集まる店で、やれスープを最初から飲めだのチャーシューは後から食えだのと言った店が流行るとは思えない(流行っているところがあったら、ゴメン)。

しかし、グルメ本やネットなどで、ラーメン屋がきれいに序列化されてしまえば、味本位ということにもなり、「あそこは愛想は悪いが味はいい」というような話も口コミで広まるようになるだろう。または「愛想の悪さそのものが話のタネになる」という現象になってゆく。

何でも儲かればけっこうだが、私自身はそうした傾向があたかも「伝統的」であったり「革新的」であったりするかのように喧伝されることにガマンができないのである。

・「商人」の倫理観
戦国時代を舞台にした小説などを読むと、昔の武士は簡単に主君を裏切る。
家康が天下をとって、ようやく「主君に仕えることの大切さ」みたいなものがとかれるようになったらしい。
秩序維持のため、武士の倫理観が形成されていった。

商人に倫理観はあるのか。というと、江戸時代は知らないが、現在はあることはある。たとえば「古い商品、不良品、故障品は売らない」などは、だれもが素朴に信じている「倫理観」だろう。誤魔化したとしても、それは「いけないこと」だということが大前提になっている。
ところが、某鑑定団に出ている骨董店の主人の本を読んだら「もしニセモノでも、バレなければ売る。買った方が悪い、という風潮がかつてあった」ということが書いてあった。
むろん、その後で、その著者は「ニセモノを扱っているといい品物が入ってこなくなる」ということや、自分自身が業界でその風潮を変えていったことなどを語っているのだが、あれだけテレビで真贋を云々しているのに、「バレなければニセモノも売る」というようなことが書いてあったのには驚かされた。

あくまで、この本に書いてあったことだ、と言い訳しておくが、要するにこの著者の主張では「骨董屋(客ではない)が形成する骨董コミュニティが骨董の価値を決める」ということになる。「骨董コミュニティは、おおかたは本物を取り扱っているが、骨董コミュニティがおびやかされない場合、あるいはおびやかされるほどの危険が生じた場合、偽物を扱わないという倫理観を超えて行動する」とでもいうようなことだったと思う。

これは、たとえばメーカーやデパートなどではありえない商習慣だと思う。

つまり、実は商人の倫理観というのはひととおりではないのだ。もっと広いサービス業でも同じ。人数が増えてきたり、マニュアル化するにあたって「倫理観」が整備されてきただけなのだ。
個人商店が元気だった頃は、変わり者の主人はたくさんいた。サラリーマンが100人、個人商店主が100人集まってみても、ツラがぜんぜん違う。独立独歩でやってきたせいもあるだろうが、あくまでも「商売として成り立つ範囲」でエキセントリックであることに注意したい。

その中でも、「店は愛想が悪くてもよい」というのは、倫理観としてもかなり新参者のような気がする。前にも書いたように、これは「職人像」との混乱から生じているからだ。
そんなわけで、「商人の倫理観」がかなりフィクションだとしても、まだ「愛想の悪い商人」というカタチには疑問が残るのである。

・結論
なんだか眠くなってきたので早々と結論にしたいが、「頑固なラーメン屋」がもてはやされる背景には、もてはやす側の「職人性」に対する憧れ、信仰めいたものと、店を繁盛させるにあたっての経営の舵取り、広義の政治的な駆け引きをできれば拒否したいという安易さがかいま見えてならない。
「うまいラーメンさえ出せば、お客は入り繁盛する」ということ自体、私は幻想だと思う。そりゃ品質は大事だが、他にもやることがあるはずだ。幻想でないとしても、かなり特殊な感性だと思う。
それが、「ラーメン」という昔からある食べ物を扱うことによって、何か伝統的なことでもあるかのように扱われる。そこがイヤだ。

頑固なラーメン屋は、「伝統」という衣をまとって、バブル期にあったグルメブームを下地にしながら、グルメ本やネットなどによる「ラーメン屋の序列化」、ネットワーク化によって、新たな客を「教育」しているのだ。罵声を浴びせられても、わざわざ電車に乗って足を運び、私語ひとつしないでモサモサとラーメンを食べてくれる客を。
何という屈辱。我々はラーメン屋に操られているのだ! 嗚呼、陰謀論。

以前、週刊誌で「各界の人にホンネを語ってもらう」というような記事で、「日本そばのグルメは貧乏でもっといい飯のグルメになれないヤツが多い」となんだか恨み骨髄で書いてあって笑ったが、ラーメンだってなあ。食えばうまいけど、並んで食うほどのものかな。まずそこから考えてみるべきだと思う。我々は。

そして、「ラーメン茶づけ」を食べるべきだと思う。しかも市販でないものを。
(03.0423)



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