つれづれなるマンガ感想文7月前半

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一気に下まで行きたい



・「電脳少女★Mink」(1) 立川恵(2000、講談社)
・「銀牙伝説 ウィード」(3)〜(4) 高橋よしひろ(2000、日本文芸社)
・「ネコじゃないモン!」(2) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)
・「異能の画家 小松崎茂」 根本圭助(1993、光人社)
・「ディスコミニュケーション 精霊編」(2) 植芝理一(2000、講談社)
・「調教中毒」 SOLIDLUM(2000、東京三世社)
・「夜の紳士」 柳沢きみお(2000、双葉社)






・「電脳少女★Mink」(1) 立川恵(2000、講談社)

電脳少女

「なかよし」連載。白石みんくは人気バンド「JAGUNNA」のボーカリスト、イリヤ(男)の大ファン。そしていつもパソコンに詳しい森山叶花、芸能情報に詳しい鳥海真帆子とつるんでいる。
ある日、みんくはCDショップで鳥海モトハルにひとめぼれ。そして偶然2099年のCD−ROMを手に入れ、電脳少女(サイバーアイドル)★Minkに変身できるようになる。
変身したMinkは、芸能プロダクション経営者の息子であるモトハルのマネージメントとイリヤのプロデュースによりCDデビューすることになるが、その正体がみんくであることは叶花と真帆子しか知らない……という変身アイドルもの。

作者は「怪盗セイント・テール」のヒト。少女マンガ自体を読むのが数年ぶりなんで間抜けな感想を書くと、まず「2099年に現在と同じ規格のCD−ROMが存在しているのか!?」というツッコミはNG!
バイクが転倒するシーンや、テレビ局のシーンでの遠近感というか立体感が危ういのでヒヤッとした。しかし、Minkの激情がバクハツする描写(おっさんくさい表現だがそうとしか言えん)、少女マンガ特有のコマ→コマの視線の移動ではなくて1ページとか見開きでひとつの「絵」として見せる方法はさすが、って感じ。こういうのは少年・青年マンガにはないものですね。

やっぱり大仰なドラマがないと、個人的には少女マンガを読んだ気がしないし……イリヤとモトハル、両方好きなMinkのぜいたくな悩みもグー。やっぱりイイっスねこういうの。難を言えば変身前と後にほとんど違いが見られないことだが、まぁ対象読者の女の子たちにはどうでもいいことなのかもしれん。
(00.0711、滑川)



・「銀牙伝説 ウィード」(3)〜(4) 高橋よしひろ(2000、日本文芸社)

漫画ゴラク連載。巨熊・赤カブトと戦い、奥羽に野犬の楽園を築き上げた総大将・の息子ウィードと、銀とともに戦った戦士および戦士の息子たちが、奥羽の楽園を乱す謎の野犬と戦う物語。

時間を経ての続編が近年よく出ているが、むずかしいのは「かつてのキャラクター」と新キャラのからみや、旧読者と新読者の両方を満足させなければならないストーリー展開など、物語が多層的にならざるをえないところにあると思う。

本作でも、そのあたり読むとこんがらがってきて、「旧戦士」、「新戦士」、「ウィードが旅の途上で出会った仲間」、「犬の味方の人間」、「犬の敵の人間」、「謎の野犬関係の犬たち」といった具合に犬関係、人間関係が錯綜してちょっとわかりにくい……。
前作の「銀牙」では、「仲間を集めて旅をする」と一言で片づけられたのだが、そうした単純な展開を拒否しているフシもある。イキナリ大ボスである野犬との直接対決をしているあたりは面白いんだが、それだけに先の予想がつかない。どうなるんだ。

・「銀牙伝説 ウィード」(1)〜(2)

・「銀牙−流れ星銀−」(4)〜(10)(文庫版、完結)

(00.0711、滑川)



・「ネコじゃないモン!」(2) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)

おすすめコーナー「矢野健太郎」ここを参照のこと。

(00.0709、滑川、02.0823)



・「異能の画家 小松崎茂」 根本圭助(1993、2000、光人社)

マンガではない。軍艦、戦車の絵、プラモデルの箱絵、「未来っぽい乗り物の絵」などで有名な小松崎茂の一代記。
マンガとは直接の関係はないが、従兄弟みたいな関係にあたる「絵物語」の代表的な作家であり、60年代前半までの未来イメージを一手に担ってきた感のある小松崎茂なので、ここに取り上げる。

小松崎茂は、近年の「薔薇色の未来イメージ」再評価や絶版プラモデルのブームなどと合わせてまたよく絵を目にするようになった画家であり、私事だが世代的には私と彼の最盛期とはまったく重なり合っていないにも関わらず、「どこかで見たことがある、懐かしい感じ」の絵を描くヒトである。
マンガは私の場合どうしても自分の小さい頃と重ね合わせる要素が強く、また「トキワ荘以後」の本は手に入りやすいこともあって、それ以前の作品はよくわからないところがある。
小松崎茂の仕事を超大雑把に書くと、以下のようになる。

1948年「絵物語 地球SOS」、1950年「絵物語 大平原児」、1955年〜60年頃「絵物語」人気凋落、「戦記ものブーム」到来、1960年〜65年頃「プラモデルのボックスアート」、1965年頃〜「サンダーバードのボックスアート」。

マンガ・テレビまんがブームが来るのはその後のことだと思うので、少年マンガブームと入れ替わり、ということになるのかもしれない。
だがざっと概観するだけでも、現在のマンガ・アニメシーンに深いところでつながっていることがすぐわかる。
とくに、ファミコン出現直前までに少年時代を送った人間を「完全なるマンガ世代」の最後の尻尾だと考えると、彼らが無意識的にイメージしがちな「少年マンガのみが子供の読み物」、「マンガ=トキワ荘以後」という感覚に否を突きつけてくれる人だと思うのだ。

たとえば「絵物語」というものに、私はほとんどなじみがない。厳密には人気が凋落してからも、存在自体はあったと思うのだが「マンガを読む」ようなシンクロ感覚を得た者は現在のマンガ読みにはほとんどいないだろう。しかし絵物語が大人気な時代というのは確実にあったし、それとマンガとの関係も充分論じられたとは言えない。

「戦記ものブーム」も重要だ。「新ゴーマニズム宣言」で言われたように、本当に戦後一貫して華々しい戦争の物語は隠蔽され続けてきたのか? 答えはそう簡単ではないことは、少年マガジンなどのカラーページで戦記ものの特集がよく組まれていた(らしい)ことからもわかる。その後の怪獣ブームによる「怪獣の断面図」グラビアも、「軍艦や戦車のカットモデルが元」という説もあることだし。

ひとつ残念なのは本書は「挿し絵の弟子」である根本氏がまとめたせいか、「画家」、もしくは「挿し絵画家」としての小松崎茂がクローズアップされていて、SFマインド(「SF」と言って悪ければ「珍奇マインド」)みたいなものについてはほとんど触れられていないことだ。だが少年たちの「SFマインド」の変遷を見るにあたっても、小松崎茂の仕事は見過ごしにできない要素を持っている。
逆にいえばあまりにもインパクトの強い「小松崎茂的未来」が拒否されていく過程をみることが、今度は70年代中期以降のSFブームの意味を探ることにもなると思うし、それは少年SFマンガとも深く連関するものだ。

今ふたたび、往年の未来イメージは復活しつつあるようにも感じる。また「少年マンガ」を多面的に、「少年雑誌に掲載された娯楽」と考えるときに素通りできない画家、それが小松崎茂だと言える。

(余談だが近年ではテクノDJのCD「MIX Up」のシリーズの未来的なイラストや、SFチックドラマ「BLACK OUT」の最終回での「未来イメージの象徴」としての絵は小松崎茂の手になるものである。)

なお根本氏の文章は平易で情感溢れている。また、小松崎茂の挿し絵画家のコンプレックスとプライドが錯綜していることが読みとれて興味深い。
(00.0708、滑川)



・「ディスコミニュケーション 精霊編」(2) 植芝理一(2000、講談社)

アフタヌーン連載。奇妙な力を持つ松笛とその彼女? 戸川安里香が摩訶不思議な事件に巻き込まれるシリーズ「精霊編」の第2巻。

大酒飲みの女子高生で左目で「視る」ことによって精霊を使う三島塔子、ロリコン美少女で火を「カレ(彼)」と呼ぶ、火の精霊を操る三島燐子の2人は「夢使い」という古来より続く呪術集団の末裔。
夢遊状態にあり巫女神を名乗る吉本麗珠(よしもと・つぐみ)を治すため、調査を開始、どうやら事件には松笛が関わっているらしい……。

本作を「嫌い」とか「合わない」と感じるノリも容易に想像できるので、その理由から考えてみた。

ゴチャゴチャとした背景、そこに書き込まれているYMOなどの80年代的アイテム、美少女サービスカットなどのあざとさ、民俗学や現代思想などの引用から来るある意味「インテリっぽさ」、「帝都物語」や「京極堂」の影響、なんとなくアニメっぽい感じ(それもカンペキにオタク仕様というよりはどこかつまみ食い的な感触)……などが嫌っている人の大きな理由ではないか。

それらは実は私も感じるところなのだが、本作のすごさはやはりそうした「イタい方向にたやすく行きそうな」要素を合わせ持ちながら、そこからすり抜けていく「太さ」にあるのだと思う。

たとえば現在の「精霊編」では、今までのシリーズよりはずっと多くの数の民俗学用語が散りばめられ、「アカデミック」な部分に依るところが大きくなっているように見える。本作の今までの魅力はそうしたジャーゴンに頼らない自由さにあったと思うのだが、今回はかなりシステマティックである。
こうしたことに振り回されると、呪術的なものをテーマにした場合、技巧に使われてしまうというか新しいことができそうで、かえって陳腐な方向に墜落していく危険がある。ドラキュラテーマの場合、愚直なまでに十字架やニンニクに振り回されるとお話がつまらなくなってくるように。
言い換えれば、宗教や神秘主義の世界観はマンガにすると案外アタリマエのものになる。本来本当の「世界」を説明する原理なのだから。

ところがそうした私の心配をヨソに、あくまでも本作での民俗学的説明は表現を飛躍させる起爆剤たりえているし、1巻で単なる不可思議表現だと思っていたコトが2巻では伏線として活かされているなど、ニクい部分もある。「神でなくオモチャと一体化する」ことによって「合体変形する」(文字どおり合体変形するのだ)三島塔子は、「帝都物語」で展開され現在すっかり陳腐化してしまった呪術表現へのアンサーという感じで実に心憎い。
というか、こうした部分を受け入れられるかそうでないかで本作の評価は大きく違ってくるのだろう。

真の才能は「イタい」ことを恐れない、あるいは「イタい」ことをやりきって読者を黙らせることにあるのだと痛感する1冊。

「ディスコミニュケーション 精霊編」(1)
(00.0707、滑川)



・「調教中毒」 SOLIDLUM(2000、東京三世社)

調教中毒

主にピアスクラブなどに掲載された短編を集めたもの。成年コミック。漫画に関するWebページ「OHP」で、「ヘンなマンガ」として紹介されていたので購読。

内容はもちろん表紙のようなCGなどではなく、普通のマンガなのだが、口幅ったい言い方で恐縮だが絵柄がいちじるしく安定していない。女の子の体のデッサンが狂っているかと思えば、しゃがみポーズや開脚などが妙にちゃんとしていたり、男が無意味にロックにいちゃんだったりするのだが男性キャラクターの方がちゃんと描けている(だが描けていないときもある……)。

お話も、ちゃんとしているようでしておらず、破綻しているようでしていな……いのかな、とにかくもういっぺん読み直してみないとわからん。基本的にはSM風味だがドラッグ系というかよくわからない展開が多い。

ネームもヘン。
「夜勤は退屈かね? そうだろう 退屈だろう ところで なぜ退屈か 考えた事が あるかね?
ゆるやかに 流れる時間 何の刺激も ない平穏が 退屈を生み はぐくむ! そう思わないかね?」(VICTIM)
「柔順!!! 奉仕!!! 柔順!!! 奉仕!!!」
「ごほうび!!! 絶頂!!! ごほうび!!! 絶頂!!!」
「絶頂!!!! 絶頂ごほうび!!!! 絶頂!!!! 絶頂!!!!  絶頂!!!! 絶頂!!!!」
「絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂絶頂!」(ブレイカー)

こ、恐い。たぶん作者はロックファンで、そのノリ(どういうノリかはわからんが)を誌面に反映させようとしているのだろうと思うし、狙ったギャグ? 描写もみとめられるが、全体的にそこはかとないぶっとびグルーヴを感じる。

今後調査が必要だ。
(00.0702、滑川)



・「夜の紳士」 柳沢きみお(2000、双葉社)

夜の紳士

週刊漫画アクション連載。会計事務所の所長・中条は、社会的地位も金もそこそこあり、妻と2人の子供を持つ男。しかし彼は50代を迎えるにあたり、すさまじい空しさを抱えていた。
「妻以外の女とほとんどヤってこなかった」という焦りから、彼は残りの人生をナンパにかけようと決心。秘密の隠れ家としてマンションを借り、ヒマがあればイイ女を見つけてナンパをする毎日を送るのであった。

柳沢きみおのマンガってそれほどたくさん読んだわけではないんだけど、本作は描き方がすさまじくストレートだ。主人公・中条も、根っこのところでは実存的というかおのれの存在とは何か? ということで悩んでいるのだろうが、それが表面的には「立たなくなる前にいろんな女とヤりたい」という考えとそれに伴うナンパ行為(のみ)となって現れる。
他の友人も、ガンになり「俺達は女とやる為に生まれてきたんだ!」と言いつつ死んでいくヤツとか、浮気相手とケンカして死んじゃったヤツとか、若い嫁さんをもらったはいいが精力が減退して満足させられないヤツとか、そんなのばっか。
で、中条も焦る。

彼の独白もストレート。
「何て見事なヒップラインの人なんだ!!」「ハイヒールの靴もはいてないのに なんて素敵な体型の人だ」「あ 顔もほどよく整ってていいじゃないか」「何よりも色白で しかも黒髪だ」「そして化粧が薄い!!」「私の好みの女性は 自然で 普通で可愛い人で 色白で髪は染めてなく 化粧は薄いほど良い」「体型も 大柄グラマーはダメで(若いときはコレだったが) 中肉中背以下で ヒップが美しいこと」「要するに イケイケの ハデ女は ゴメンだ」(中略)「撫でて さわれたら どんなに幸せか」

……そりゃ幸せですよ。
基本的には中条の中年ナンパ生活を1話完結形式で追っていくが、1話に一人ずつ女性が登場するとか、全編を通して伏線があるとか、そういうことはない。
中条の妻は彼の浮気生活を勘ぐりつつけっきょくはバレないし、中条が「ヤりたいヤりたい」と思い続ける部下のフィアンセはヤれそうでヤれない。彼が結婚してから真剣に付き合った女性からひさしぶりに電話がかかってくるが、「過去の女」だとしてすでに興味がもてなくなっている。

ナンパした女も、「スバラシイ」と思っていると逃げられ、「どうでもいい」と思っている女に別れを切り出しては泣かれ、だからといって修羅場が展開するわけでもなく、物語は淡々と進む。
もちろん結末らしい結末もない。いろんな女とヤってあるときはすさまじい充足感を感じ、あるときは昼も夜も現実感を喪失するくらいムナシクなるが、主人公・中条はストレートな独白を続けながらナンパライフをやめられずにいる。

主人公の独白でつなぐストーリー展開やご都合主義はひどく不器用に感じられるし、表現の無骨さはたとえば「ミルククローゼット」なんかの対極に位置するんじゃないかとも思う。しかし、そういうゴワゴワしたというかゴツゴツした感じがものすごく中条の空しさや焦りを伝わらせるし、冷静に考えると都合良すぎる話も、どこかリアルに感じるのだった。これも、マンガという表現の面白さのひとつだと思うんスよね。

ラスト、部下のフィアンセとヤれないとわかった中条の独白。

「なんだ やっぱり 彼女とは ムリなのか」
「ひどく ガッカリだ」
(00.0702、滑川)

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