SFおしかけ女房その9

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「SFおしかけ女房その8」
一気に下まで行きたい

・「乱飛乱外」(1)〜(3) 田中ほさな(2006〜2007、講談社)
・「チキンガン」 鈴木信也(2007、週刊少年ジャンプ6+7号)
・「がぁーでぃあんHearts」全8巻 天津冴(2001〜2005、角川書店)
【特撮】・「魔法少女ちゅうかないぱねま!」 第5話「砂嵐の少女」 監督:坂本太郎、脚本:山永明子(1989、東映)
・「キューティーハニーSEED」(1) 永井豪、星野小麦(2005、秋田書店)
【アニメ】・「ローゼンメイデン」 監督:松尾 衡(2004、TBS)



・「乱飛乱外」(1)〜(3) 田中ほさな(2006〜2007、講談社) [amazon]

月刊少年シリウス連載。時は戦国時代。額に角があるため差別され続けてきた少年・雷蔵。彼は、実は滅亡した刀家のおとしだねであり、お家再興の宿命があった。
彼の前に、三人の美しき女忍者が表れた……。彼女たちとともに、力のある武将の姫君の婿になろうとする雷蔵だったが……?

「SFおしかけ女房」について、悩みに悩み抜いてはや3年くらいの月日が経ってしまった。
そして思ったのは、現在「ハーレムもの」と言われてはいるが、基本ラインはここ25年くらい、変わっていないということだった。

本作を読んで思ったのは、「SFおしかけもの」でも「ハーレムもの」でもいいが、

・何らかの抑圧が登場人物たちにあり、
・それから解放してくれるのは恋愛かもしれないということ

……まあこの「抑圧」と「恋愛による解放の可能性」の繰り返しが示唆されて、お話が転がっていくということである。
「抑圧」というのは、
・旧社会の因習
・家族間(親子、兄弟間)の葛藤

という二種類が、たいていの場合ないまぜになっている。

たとえば、本作のことではないが「最初に自分の裸を見られた男性と結婚しなければならない」という因習を持った村娘(たいてい、ある種の超能力を持っている)という設定があったらそれは「旧社会の因習」であり、
その娘の裸を最初に見てしまった男の子が、家族間でいちばんダメ人間で親からも兄弟からも疎まれている、ということにしたら、もうそれだけで基本設定はできてしまう。
ただし、「お話を転がしているいちばん基本的な設定」は、旧社会の因習(裸を見られたら結婚する)から来ているから、お話を着地させるためには、その設定を最終的に何とかしなければいけない。
それは村娘が、村の掟を何か最終的に破ってしまう、ということでもいいし、
男の子の方がやぶってしまうのでもいい。

それで最終的に、人間対人間として男女が向き合ってこそ、そこではじめて「普通の恋愛もの」になるわけなのだ。

逆に言えば、上記の設定の条件が満たされていないと、本当にただの願望充足ドラマで終わってしまう。それが悪いともいちがいには言えないんだが……。

「因習」をもうちょっと広げると「運命」ということになるんだけど。たとえば要人暗殺をプログラミングされた美少女アンドロイドが、何かのきっかけにメイドロボとして男の子に仕えることになる、という話にしたら、旧来の因習というのはないけど何か社会的な抑圧がある、ということになるので。

で、それはどういうことかというと「個人主義の萌芽」を描いているということで、おそらくエッジなマンガシーンからすればそれはもはや21世紀には古くさいテーマということになるだろう。

たとえば最先端を行っているマンガ家や作家は、個人と社会の関係性をそうも単純に考えてはいないだろう。

しかし、である。
だからこそ、自分にとっては愛でる価値がある。それが「SFおしかけ女房もの」である。
これに関しては語れば長くなるが……。まあまたの機会に。

で、やっと本題。短いけど、本作について。
本作は、絵もけっこう上手いし女の子は基本的にロリ傾向ではないので、自分の好みである。お話の展開も、このテの話のキモである「少年の、ちょっとずつの成長物語」をなぞっているし。
三人の女忍者の他に、各エピソードで姫君が出てくるらしく、その子と主人公との関係性を描くこともドラマになっている。
(07.0703)



・「チキンガン」 鈴木信也(2007、週刊少年ジャンプ6+7号)

55ページの読みきり作品。丹鳥知近(たんどり・ともちか)はごく普通の高校生。彼の憧れはめがねっ娘のなぎ子ちゃん。幼なじみはツンデレ風味のお嬢様・姫霧ナテラ。
知近は、とつぜん空から降ってきた「魔女子高生」のキャムと契約を交わす。魔女は人間の欲望が魔力の源だから、それを知近から得ようという魂胆である。
キャムの持ってきたのは「チキン銃(ガン)」。願い事を口にしてから脳天にトリガーを引くと、願いが叶うという。

そこに、宇宙女海賊リボル・スターマイン、近衛精霊「永久(とわ)」といった美女が現れてグチャグチャになるという美少女コメディ。

まず私は「落ちモノ」という言葉が嫌いだ。ジャンルに対する愛情がまったく感じられない。しかも、嫌いな人間が言うならまだいいが、そういうジャンルが好きな人間もこの言葉を使っている。昔、テレビを小馬鹿にして「電気紙芝居」と言い、テレビタレントを小馬鹿にして「電波芸者」と言ったが、テレビの好きな人間がそういう言葉を積極的に使うか? 否。
だから「SFおしかけ女房」という言葉を考えたが、だれも使ってくれない。しかも「おしかけ厨」の方が意味はぜんっぜん違うが浸透してしまった。

そもそもが、嫌なら読まなきゃいいしつくらなきゃいい。つくっておいて文句を言うのは、そりゃあんた贅沢というもんですよ。

まあそんな愚痴はともかく、人の家の新年会でこの作品をパラパラと見て、あまりの既視感ぶりに「もうこの世はおしまいだ、おしまいだ」と叫んでしまったのである。
だって新年早々出る号の、新連載への布石となるプレゼン的な読みきりでこの設定でしょ? 20年前と何も変わってないですよ!!
私は本作を読んで、大枠での「萌え」文脈というのは、90年代半ば頃を境にした「今」と「昔」では、実はまったく変わっていないのではないか、という確信を新たにしましたよ(もちろん、細かいところでは変わっているとは思うが)。

たとえばキャムやリボルのコスチュームはいわゆる「ビキニ鎧」的なものだし、人物配置はほとんど「うる星やつら」と対応してしまう。
いやもちろん、「少年ジャンプ」は、少なくとも90年代に入ってからメジャー誌とは言え「萌え」系統の作品でシーンを牽引してきたとはとても言いがたいことは私もわかってます(むしろサンデーや、赤松健が一人いる、ということでメジャー少年誌ではマガジンの方が牽引車にはなっている)。
しかし、やっぱり深いところでは何も変わってないんだと思いましたよ。

とくに、本作では主人公の知近が「臆病=チキン」であることが物語のネックになっている(臆病である自分を変えることがテーマ)という、昔ながらのジャンプ的、少年マンガ的な要素が入っているために、よけいベタに、古くさく読めてしまうんですよね。

でも、です。

でも、この読みきり、けっこう面白いんです。
まあ、それはひとえに鈴木信也のギャグセンスによるところが大きいと思うんだけど。

それと、何となくもったりした感じの美少女の絵が私は好きでね。あんまりシャープすぎるのはどうもね。
同じことはカトキハジメのガンダムにも言えることなんだけど(ぜんぜん関係ない)。
(07.0109)



・「がぁーでぃあんHearts」全8巻 天津冴(2001〜2005、角川書店) [amazon]

たぶん少年エース連載。 平凡な少年・和也のもとに、宇宙の平和を守るガーディアンハーツ(ひな)を筆頭に、さまざまな宇宙人美少女がやってきて同居することになるというファンタジータッチのドタバタラブコメ。

私もいいおっさんなので、まず「登場する美少女キャラが全員変身する」という設定にとまどった。たとえば5人出てくるとキャラが倍になるということである。区別がつかなくて目がチカチカした。
ラブコメとしては、女の子たちが全員コンプレックスを持っていて、それをすべて受け入れてくれるゆえに和也は愛される、というふうに主人公がなぜモテモテなのかはいちおう説明されている。
後の展開もまあ想像どおりだったが、ひなと真夜にラブコメ役をふってバランスが悪くなったことが、かえって個人作業のマンガの印象があって好感を持ってしまったりした。これで女の子全員に和也とのラブラブパートを入れたりしたら、ギャルゲーを描いただけになってしまうからね。

デイジィという、目が四角いすごく気持ち悪い宇宙から来たネコがマスコット。とにかくぜんぜんかわいくないのだが、連載を通して考えればいいスパイスにはなっていたかなと。
事件が解決した後に、女の子キャラ全員が風呂に入るというシーンが繰り返し出てくるのだが、最終的に「風呂打ち上げ」という言葉になっていたのは笑った。
(06.0707)



【特撮】・「魔法少女ちゅうかないぱねま!」 第5話「砂嵐の少女」 監督:坂本太郎、脚本:山永明子(1989、東映) [amazon]

・長い前置き
うーむ。「SFおしかけ」としてはどのくらいぶりの更新になるのかな?
とにかくまあ、時代は変わった。今や「萌え」戦国時代。「アド街ック天国」でまで「萌え特集」とかをやる時代である。
もともとがですね、アニメやマンガに限らず、映画や芝居の女優をかわいいとかきれいだとか、その役柄がイイだのというのは根本的に非常にアホらしい行為だと思うのですよ。

もちろん「アホらしいことをわざわざやる」という楽しさがあるのもわかるけど、これだけ妙な追い風が吹いている昨今、「SFおしかけ女房」なんてコンテンツ、正直バカバカしくて更新してられませんよ、というのが本音ではあります。

昨今の「萌え論」というのは「萌え正当化論」だと思うんですよね。
自分は「萌え」が正統だとも何かにとって代わるべきだとも思っていないし、必要悪ですら無いと思う。
だから、酒でも飲んでふんわり萌え談義でもするならともかく、「論」にしちゃうのはどうかな、とずーっと思っています。

それともうひとつは「動物化」というタームが広がりすぎて、美少女ものの個々のシチュエーションや属性に、たとえヨタであれ、有機的な解釈が試みられなくなっているのではないか、というのもやる気をなくさせる一因でした。

もともとオタク論全体では、たとえば「ゴジラ」に代表されるように、エンターテインメント作品に過剰な社会性を求めることなかれ、という論調がむしろ一般化したため(それはそれで正しいとは思いますが)、「動物化がどうしたこうした」とあいまって、物語における深読みの面白さが喪失してしまったと思う。

いわゆる「ツンデレ」に関して言えば、私は、読者・ユーザーが異性をできるだけコントロールしたいものの、相手の自己主張が強すぎるので妄想の中でも譲歩した形態であると考えている。
が、なんか別にそういうこと論じたいわけでもないみたいだし、まあそこのところを深く考えすぎてもアレだし。
というような、いろいろめんどくさいことに(私の中では)なっているわけです。

だから、現時点で私に課題があるとすれば、そういう風潮の中でどのように「SFおしかけ的なものとは何か?」ということを位置づけるか、ということなんだけれども、いまだにその方法は探せずにいます。

・原点回帰
さて、そういうわけで、今回は純正「SFおしかけ」ではないものを取り上げて、原点回帰をはかりたいと思う。

「魔法少女ちゅうかないぱねま!」は、1989年、「ちゅうかなぱいぱい!」の後番組として始まった特撮ドラマである。
内容はものすごく単純に言って「中華風コメットさん」。魔法少女のいぱねまが、魔法を使ってどうたらこうたらというのが基本プロットであり、浦沢義雄と大原清秀というシュールコンビの脚本が印象に残るところだ。

また、とくに浦沢義雄に関しては「美少女を描く」ということに関してもなかなかどうしてわかってる人なのだが今回は置いておいて、 本作も含む「東映不思議コメディ」としてはむしろ傍流と思われる脚本家・山永明子の作品を取り上げてみたい。

山永明子は、ググってみたところ私が知らなかっただけでかなり売れっ子の脚本家らしい。「ちゅうかなぱいぱい!」の1エピソード「忘れられたかくれんぼ」は、同じく山永脚本。
30年前に行われたかくれんぼで忘れ去られた少年が、現在になってぱいぱいたちに発見され、オトナになるためにもう一度大人になった同じメンバーでかくれんぼをしなければならない、という楽しいながらも何ともいえないペーソスに満ちた作品だ。

「いぱねま」第5話である「砂嵐の少女」も、不思議コメディ全体を通してみるとやや異色作に位置する悲恋ものである。

「子供部屋にもテレビが欲しい」と思っていたトオル(いぱねまが住み込んでいる家の子供。三兄弟の次男)は、ごみ捨て場に捨ててあったテレビを拾ってくる。さっそく見てみるが、どのチャンネルも砂嵐状態で教育テレビしか映らない。落胆するトオルだったが、真夜中に画面に美少女が映っていることに気づく。
昼間、公園でバッタリその少女と出会ったトオルは、彼女をアイドルだと思いこみ、だんだん惹かれていく。

しかし、魔女であるいぱねまはその少女・ケイにただならぬものを感じ、トオルの兄弟二人には、ケイの映ったテレビの画面には砂嵐しか見えない。
テレビの中のケイに夢中になったトオルは日に日に衰弱していく。いぱねまはケイの正体を知り、トオルから引き離そうとするが……。

というような話である。
簡単に言うと、「牡丹灯籠」と「大岡越前」の1エピソードを足してアレンジした感じの作品なのだが、
ちょうど小学校高学年にさしかかったくらいの少年が、ほんの少し年上の、アイドルのようにかわいい女の子に惹かれていく過程がなかなかよく描けている。
とくに、トオルがケイに指輪をプレゼントするところ、彫刻の森美術館でロケしたデートのシーン、二人が夕日を見つめるシーンなどはなかなかグッとくるものがある。

終盤、ケイによってテレビの世界に引っ張り込まれそうになるトオルを、いぱねまや他の兄弟、父親(斉木しげる)が引っ張って防ごうとする。ケイはトオルの手を引っ張り続けるが、あまりに強く手を握りしめたため、自分のはめた指輪でトオルの手が傷つき、血を流す。はっとするケイ。
今まで「獲物」としか考えていなかったトオルを、このとき初めて人間として見るようになるのだ。

このあたりの一連のシーンは、テレビに実際にケイを映し、その状態をもう一度カメラで撮っているカットがいくつかある。このため、「テレビの中の人間と、外の人間が会話する」というシーンがなかなか劇的に映る。
もちろん、テレビの中と外、というのはケイとトオルの、関係の隔たりを表している。ちなみにおそらくイメージの元となっている映画「ビデオドローム」が、1983年の作品だそうである。

要するに、私が「SFおしかけ」ものでときおりハッとさせられるのは、ときにわざとらしいまでに少年少女の隔たりが高い象徴性で描かれているということにあるのかもしれない。ぜったいに成就しない間柄で恋愛している少年少女に感動しているのかも。
本作は「SFおしかけ女房」と言うには基本フォーマットから離れすぎているが、そこのところを再認識させてくれる作品だった。

ラスト、トオルといぱねまはケイの住むテレビを再びごみ捨て場に捨てに行く。テレビは「ありがとう」と言いながら、白い画面が小さくなって、最後には消えてしまう。そこで物語はプッツリと終わる。
現在のテレビだとスイッチを切ると、あまりにも瞬間的に消えてしまう。昔ながらの、スイッチを切ってもまだボーッと光が映っているようなテレビ、あるいはそれ風の演出をしたからこそ余韻が感じられるのである。

しかしいろいろ考えると、やはり「動物化」という概念は、思考実験以上の意味を持たないのではないかと思えてしまう。
たとえば今回取り上げたエピソードも「テレビの中に住む少女」と、「そこに引き込まれそうになる少年」という物語がないと、まったく意味がないと思うからだ。
ま、私が古いというならそれはそれでいいや。
(06.0615)



・「キューティーハニーSEED」(1) 永井豪、星野小麦(2005、秋田書店) [amazon]

ヤングチャンピオン連載。高校生の後醍醐裕太は、いろいろあって一人暮らし。ある日、自転車に乗っていたら火の玉が落下、それと関係あるのかどうか、目の前にはかわいい女の子が気を失って倒れていた。
家に連れ帰ってみると、この子は記憶喪失で自分の名前も覚えていない。裕太はその子を家に置いてやることにし、好きな特撮ヒロイン・如月ハニーの名前を付けて同居を始めるのだが……。

隣に住んでる碧薫子、色っぽい風間フローレンス真白先生、そして特撮ドラマのキューティーハニー役の女の子・赤城澪、さらに兄妹愛以上のせまり方をしてくる妹・浅黄などが登場。美少女に囲まれてあーだこーだの物語。

オビにあるように、キューティーハニーを「萌リメイク」した作品。オールドファンの反応は知らないが、萌えマンガとしてはほのぼのとしていて読んでいてなごむ。
絵の感じが全体的にイモっぽいんだけど、これは決してけなしているわけではないんですよ。読んでいてとげとげしない気分になれるということだから。

連載第1回目の冒頭に「これは一人の少女の戦いと死の物語である」と書いてあるのが気になるところ。
(05.0307)



【アニメ】・「ローゼンメイデン」 監督:松尾 衡(2004、TBS) [amazon]

公式ページ

桜田ジュンは、ひきこもり気味の少年。ネット通販でモノを買っては、クーリングオフするという暗いシュミを持っている。
ある日、いつものように戯れに買った人形。だが、それは意志を持ち、人間のように動く少女人形・真紅であった。真紅だけではなく、次々とジュンの前に現れる意志を持った人形たち、ローゼンメイデン。

「アリス・ゲーム」という人形たちの戦いに巻き込まれたジュンは、次第に周囲にも目を向ける端緒を掴んでいく。

コレはストーリーが王道中の王道を行ってて、良かったですね。「戦い」を、「戦争」と混同して肯定的に描くことが何となく忌避される昨今、「生きることは戦いだ」というメッセージをラストにきちんと提示して見せたのはすがすがしくていいと思う。
真紅の宿敵である水銀灯がなぜあんなにひねくれた性格になったかなども、短いシーンで的確に描いている。

エキセントリックな人物が主人公のもとに突然闖入してきて波乱を巻き起こす。二人は育ってきた環境も目的も違うが、クライマックスには二人の悩み・苦しみは同じ地平に到達する。そして助け合うことができることを知る……というのは、パターンだとわかっていても泣けてしまう。

全体的な流れとしても、1話1話が作品の世界観を説明する役目を果たしていて(ローゼンメイデンは夢の中に入ることができる、など)、楽しんで見ることができた。

公式ページの「STORY」のところの、「監督のみどころ」のコメントは説教臭くてビックリするが、そこまででないと、この手の作品はグダグダになってしまうというところはあると思う。

本作は、主人公がひきこもり気味の少年で、闖入者が少女趣味丸出しの人形であるという、これ以上ないくらいに、悪い意味で言えば退行的なお膳立てだ。しかし、そこから逆に人間の成長を描いているところが面白い。
また、トラブルの元凶である「アリス・ゲーム」を仕掛けた人物が最後まで姿を現さない、どこにいるかもわからない、しかも人形たちが愛している人間である、というところがイマ風。「ウテナ」で、かつての「王子様」がなかなか姿を現さないのと同じですねここら辺は。

こういう作品がひんぱんに出てくるベースがあって、初めてプロット的な面白さに言及する余地が出てくると思うのだが、実は視聴者はあまりそういうのを望んでいないんじゃないかとも思う。その辺がジレンマとえばジレンマ。
(04.1224)

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