○「みんな落ちるだろう」

 まず目に飛びこんできたのは、屋根と円盤と扉。
 扉を開けた瞬間、いきなり巨人になった自分が、遥か高みからログハウスだらけの町を見下ろしている、そんな錯覚にとらわれた。
 呆然とした私の右斜め後ろから、ぎぃ、という小さな音が聞こえた。
 振り向くと、緑と赤色に塗られた小さな屋根の下にある、さらに小さな扉が開くのが見えた。その内側から赤い目をした玩具の鳩が飛び出してくる。青い羽をはためかせると、かっこ、かっこ、と鳴く。
 ぱしゅっ、という音が左後ろから聞こえて、鋭い風切り音とともに何かが左視界を掠めていった。
 とん、と音がして、十時と十一時の間に何かがあらわれた。それは銀色の矢で、びぃぃんという、金属板をたわめたような音を立てて震える。
 それきり鳩は沈黙して、最後の鳴き声は届かない。
「ばらばらだからさあ、なかなかむつかしいよね」
 左後ろから声が聞こえる。
 振り返ると、何か弓のようなピストルのようなものを持った「根絶やし姫」が、黄色のソファに腰をおろして微笑んでいるのが見えた。
 上機嫌の「姫」の背後に見えるのは何十もの鳩時計。床面を除いたこの部屋の壁面、照明部以外の天井、そのすべては異なった種類の鳩時計で埋め尽くされていた。
 傍から見れば私は馬鹿に見えたかもしれない。不可思議すぎる状況に何も考えることができなかったのだ。頭がオーバーフローしていたのかもしれない。
 しばらくの間「姫」の顔を眺め、ゆっくりとあたりを見渡して、もう一度「姫」の顔を見つめた。この状況に関する納得のいく回答を導き出せないことだけがわかって、これは、何? そう、私は尋ねる。
「姫」はソファに横たわっている。人形のように整った顔立ちと、柔らかくウェーブした髪を持った「姫」は、白地に淡いライトグリーンのモノグラムが入ったシャツワンピースを清楚に着こなしている。
 まるでどこか名家のお嬢様のよう。
 ただし、黙ってさえいれば、おとなしく、普通にしてさえいれば。
 破壊衝動、傍若無人、自分勝手。
 ここにいるのはそんな言葉が人の姿を取ったもので、だから「根絶やし」で、だから「姫」。
 黒いピストル型の弓のようなものに夢中になっていじりながら、「姫」はソファの上に無造作に足を投げ出している。どうやら新しい矢を込めようとしているようだ。その姿はまるで、新しい玩具を買ってもらったばかりの子供のよう。
「姫」は、問いに答えようとはしない。そもそも、私の声が聞こえてさえいないのだろう。
 ぱた、という音が「姫」の上から響いて、天井に備え付けられた鳥の巣箱を思わせるシンプルなデザインの時計から白い鳩が飛び出してきた――その刹那、ふたたび、ひゅっ、という音がした。天井に向かって、一本の線が伸びたような気がした。
 銀色の矢に貫かれた鳩はその勢いで扉の中に押し込まれ、オレンジ色の巣箱の奥に消えた。
 とん、という音がして、鳩と時計を貫いて止まった矢が震えているのが見える。串刺しになった鳩が扉の奥で鳴く。ぽっぽ、ぽっぽ、ぽっぽ。
 向き直ると、視線はそのままに右手だけを上に挙げて引き金を引く「姫」の姿が見えた。天井を見上げ、震える銀色の矢をそこに見つけると「姫」は心から嬉しそうに笑って、こう言った。
「見ないで撃ったほうが当たる」
 そしてちょっとだけ困った顔をした。
「あ、時間合ってるやつだった…… 失敗した」
 立ち上がって、部屋の向こうにあるキッチンのほうに向かう。
「まあ、いっか、お茶にしよ」
 下半分をガスの炎に包まれた笛吹きケトルがけたたましい音をたてる。
 コンロから下ろしても煮え立つ音がぐらぐらと聞こえそうなそれを運んでくると、ティーポットに熱湯を注ぎ、しばらくの時間待って流しに捨てた。ティーポットを机の上に置くと椅子の上に立ち上がってさらに背伸びをする。ポットを持った手を限界まで上に伸ばすと、テーブルの上のポットに向けて再び熱湯を注ぎはじめた。
 熱湯はケトルの口からそろそろとこぼれ出て、あたり一面は真っ白な湯気で包まれた。
 ケトルを持つ手が安定しないのか、ときおりポットの縁にはねかえって熱湯の飛沫が「姫」のふとももあたりにかかる。あちっ、あちっ、と言いながら、ますます狙いは定まらない。
 ポットがいっぱいになるまでにその半分くらいはこぼれてしまった。
 ポットの周囲はびしょびしょに濡れて、湯気がほんのりと立ち昇っている。
「姫」の淹れる紅茶はとても美味しい。
 美味しい紅茶を淹れるためのこつを簡単に言えば、「熱いままで、短時間に」。
 熱によって変質するミネラル成分を含まない普通の水道水をこぶし大の泡が出るまで煮立たせる。あらかじめ暖めておいたティーポットとぐらぐら煮え立つ熱湯を使ってあっさり淹れる。それだけだ。
 もし何かつけ加えるとすれば、ポットに注ぐ熱湯の中にできるだけ空気を含ませることくらいだろうか。ほどよく混ざった空気の微粒子は紅茶の味をまろやかにする。
 蒸らし時間計測用の砂時計を「姫」は真剣な眼差しで凝視している。
 最後の一粒が落ちた瞬間、「できた」と「姫」は言って、目の前に座る私のために紅茶を淹れてくれた。
 チェッカー模様が浮き彫りになった白磁器のティーポットから琥珀色の液体が注がれて、鼻腔をくすぐる紅茶の良い香りが白い湯気とともにカップの周囲に立ち昇り、私は陶然とした気分になった。
 目の前の「姫」もうっとりとした表情をして、しかし、彼女の周囲はびしょびしょのままで、なぜ拭かないのだろうといつも思う。無頓着にもほどがある。
 言っても無駄だから、口に出すことはないけど。
 ティーカップはポットと同じく白無地の磁器で、流線型の溝が何本もカーブを描いてその表面に刻まれている。
 真横から見るとそれは緩やかな渦のように見えて、カップの中にある紅茶も同じように渦を巻いて少しずつどこか別の場所にこぼれてしまう光景を、私は心の中で思い描く。
 本当は甘い紅茶が好きなのだけれど、最近体重計が気になって、スプーンに軽く一杯だけ砂糖を入れた。香りを楽しみながらゆっくりとかきまぜてカップに口をつける。
 皿に山盛りのフィナンシェを手にとると「姫」はそのままソファへと移動する。フィナンシェを口にくわえて、黒い引き金のついたものをいじりはじめた。
 聞きたいことは山のようにあったのだけれど、肝心なことはすべてはぐらかされそうな気がして、まずは「姫」がいちばん喋りたいだろうことについてのみ質問を用意した。
 その、手に持っているものは何?
「やっぱり、銃使うってわけにもいかないしね。狩猟免許なんか持ってないし、そもそも狩猟許可されてる場所でもないし」
「姫」はどこからか望遠鏡のようなものを取り出すと、それをネジで固定する。
「あ、これ? ドットサイトっていうんだ。ほら、このスイッチ入れて……ここ、見てみて。スコープの内側に赤く輝く点が見えるでしょ。この点を標的に合わせて…… ばん!」
 かちゃ、という音とともに飛び出してきた鳩は横から矢に貫かれて、向こう側の壁に飛んでいって刺さった。今日三羽目の鳩の標本が出来上がる。主のいなくなった時計が、ぽっぽ、ぽっぽ、と悲しげに鳴く。
「思うんだけどさあ、鳩時計なのに、カッコーと鳴くのっておかしいよねえ。鳩だったら、ぽっぽじゃない? へんだよね、詐欺だよね」
 ふたたび矢を装填すると、みぃいいいいん、とかつぶやきながら新たな標的を探す。
 狙っているのは鳩なんだろうけど、照準の軌跡上には私がいて、とても気分が悪い。みぃいいいん、と前を横切っていく。「姫」の視界の中では赤い点も横切ったのだろう。
「あ、詐欺って、鳥のサギとかけた駄洒落じゃないからね。一応言っとく」
 みぃいいいいん。
 みぃいいいいん、ぽっぽ、ぱしゅ、たん。
 ねえ。
 みぃいいいいん、かっこ、ぱしゅ、たん。
 結局、これが何なのか、ぜんぜん教えてもらってないんだけど。

 午後の微睡みから目覚めると、クラスメイトの由香、薫子と話をしていた。
 寝ていたことが彼女たちにばれないように、二重写しになった記憶の向こうに記憶を繋げる。
 どうやら会話の内容は、今度の期末試験についてらしい。
 ずいぶんとつまらないことを私は話していたのだな。と私は思った。試験まであと一週間と時が迫っているのだからしかたないのだろう。
 期末試験初日の科目が数学と化学になったのはひどい、とかそんな話になった。
 ショートカットで小柄、学校のバレー部でセッターをしている由香が私に向かって、あなたは化学が得意だからいいけどみたいなことを言った。
 たしかに私は苦手なほうではない。化学に関してはクラスの平均点を大幅に上まっていて、むしろ得意科目といっていいだろう。
 しかしそれは、好きとか嫌いとか、そういう問題ではない。化学という科目について、私は予習も復習もしたことがなく、とくに興味があるわけでもない。
 努力しないでも背の高い人間は高いところに手が届く、それと同じように、自然とただできるだけ、それだけだ。
 まず、現実から乖離しているように感じられるのがいいと思う。たとえばテーブルの上に置いてある食塩は、化学の授業がはじまった瞬間にとげとげとした塩辛い粒子からNaClへとその名前を変えて、存在そのものの意味さえ変えてしまう。そう私には感じられる。

 金属ナトリウムであるNaを塩素ガスの中に入れると激しい反応を起こして、NaCl(塩化ナトリウム)が生成されます。このときナトリウム原子と塩素原子は電子のやりとりをして、ナトリウム原子は電子を一つ放出して陽イオンであるナトリウムイオンに、塩素原子はその電子を受け取って陰イオンである塩化物イオンになります。両者はクーロン力と呼ばれる静電気的な力で引き合い、結合します。これをイオン結合といいます。

 私にとってはまるで実感が湧かないことだ。わたしの目に見えないところで行われてる電子のやりとりも、その結果生じるクーロン力とかいう力のことにもまるで興味はない。それは将来的にも訪れることのないような国の遠い過去の歴史や、現在では失われてしまった奇妙な風習についてなどと等しく、私の頭の中で勝手なイメージに変換されて記憶されているにすぎない。  歴史の教科書で目にした、中世ヨーロッパに関する記述を私は思い出した。

 八世紀以来イスラム勢力の支配下に置かれていたイベリア半島において、イスラム教徒によって滅ぼされた西ゴート王国の貴族たちは半島北部の山岳地帯に逃げ込み、そこを拠点にしてキリスト教徒たちを中心にした反イスラム社会を形成していきました。これを「レ・コンキスタ」、再征服運動と呼びます。イベリアのイスラム教国、後ウマイヤ朝の政局の混乱による崩壊も事態に拍車をかけ、反イスラム勢力の勢いは一気に高まっていきます。「レ・コンキスタ」の諸勢力が争ってイスラム領を征服していった結果、イベリア半島は結果的に二十数ヶ国が乱立する混乱期を迎える事になりましたが、代表国であるカスティリヤ王国のイザベル王女、そしてアラゴン王国のフェルナンド王のふたりが二国併合による国力増加の構想によって婚姻関係を結び、イベリア半島は統一されます。これがスペイン王国の誕生でした。

 反応と反抗、生成と形成、ナトリウムイオンとイザベル王女、塩化物イオンとフェルナンド王、クーロン力と政治的判断、結合と婚姻、イオン結合とイベリア半島統一。
 記憶してはいるけれどその記憶自体には意味を感じないという点において、私の中ではこれら二つの情報は等価である。そもそも、私はイベリア半島の形だって頭に思い描くことができない。
 しいて違いをあげるならば、歴史は遠い過去の物語であり、化学はレゴのパーツを使ったブロック遊びである。してもしなくてもどちらでもよいが、少なくとも話の展開を憶えなくてはならない歴史よりは組み立てかたの法則性さえ知ればあとはどうにでもなる化学のほうが格段に楽だ。
 それだけの問題である。
 ナトリウムイオンは赤色と黄色、この二色が不確定に揺らぐ一片のレゴブロックとして私の頭の中で認識される。たぶんこれは教科書の中にあったナトリウムの反応の激しさ、それを火にかざした時に観察される炎色反応の色彩がそのままイメージとして記憶されているからだろう。海のイメージの塩化物イオンはオーシャンブルーの欠片。いかにも単純な発想で自分でも恥ずかしく感じる。数々の金属イオンはもとの金属そのままの色をしたパーツとして頭の中で思い描かれて、あとはそれらを組み合わせて遊ぶだけだ。
 脳内で行われるブロック遊びがちょっと上手いからといって、それが何になろうか。
 また飛んでしまったようだ。
 気がつけば話題は化学の担当教諭に関するものへと移り変わっていた。
 それは薫子が切り出したもので、比較的ミーハーなところのある彼女らしい話題だな、と私は思った。
 二宮という名前のその教師は、大学を出てニ、三年というところだからまだ二十四、五くらいだろうか。
 化学担当だというのに体育科教師の誰よりも背が高く、ひょっとしたら百九十センチ近くあるのかもしれない。しかし、スポーツが得意そうかといえばそうでもなく、教員用のスリッパを床すれすれに擦るようにしてぺたぺたと廊下を歩く。リムレスの眼鏡レンズごしにいつも眠たそうな目を覗かせながら授業をする。
 その授業はひどく淡々としたもので、お世辞にも情熱のようなものは感じられない。しかし要点部分を簡潔にまとめたプリントを毎回用意してくるところには教師という職業に対するある種の誠実さを感じさせて、しかもそれは大手予備校の有名教師が出版している受験用参考書とくらべても遜色ないほどの素晴らしい出来だった。
 薫子の話によれば、どんなに部活が長引いて帰りが遅くなった日でも、化学準備室の明かりが消えていることはないそうで、やはり準備にはそれなりに時間を割いているのだろう。
 もっとも、そのプリントさえあれば聞かなくても問題ないとばかりに、授業中における生徒たちの熟睡率が大幅に増加したのもまた事実で、うちのクラスの木下という小柄な体躯の男子なんか二宮の授業時間ほとんどを睡眠にあてている。
 たまに起きているかと思えば、ノートも取らずに寝ぼけた目をしてぼーっと前を見つめてたりして、そんな木下を二宮は注意することもなく、ほんのちょっとだけ困った表情を顔に浮かべて、ふたたび講義をはじめる。
 その、熱意があるのかどうかわからないところに私はある種の好感を抱いていた。
「化学の二宮ってさあ、……に似てない?」
 薫子が挙げたのは、朝一番のニュース番組の後、毎日放映されている主婦向け情報バラエティ番組に出演しているアナウンサーの名前だった。
「おはカフェ!」という名前のそのバラエティは、元アイドル男性と奥様の代弁者たる中堅女優のふたりをメインに据えた長寿番組で、局アナという立場にありながらウィットとユーモアに富んだ切り返しでそつなくふたりをサポートするそのアナウンサーは、たしかに身長も高く、眼鏡をかけていて、凡庸な顔立ちでもあったが、彼のような達者な弁舌を二宮の授業に求めても無駄だろう。  年齢もたぶん似たようなものだとは思うが、きびきびと番組を進行させていくアナウンサーから感じられる、仕事に対する真っ直ぐな情熱と二宮の授業に対するそれとではやはり何かがちがっている気がする。
 教員用テキストを開いて淡々と授業を進めながらも、どこか心にぽっかりと穴が開いたように、うつろな表情をしている時が二宮にはあって、私はそれを、自分の核が逃げ出していくのをぼおっと眺める抜け殻の表情のようだと思いながら見ていた。  ときおり彼が見せる空っぽな表情にクラスの大部分は気づいてないだろうけど、そんな二宮の表情を見るのが私は好きで、ふとあらわれては消えるその機会を決して逃さぬよう、彼の観察をじっと続けた。
「え、でもさあ、授業中ふと気づくと、あんた、二宮センセのこと見てんじゃん。何かあるの?」
 薫子が二宮に愛情に近い感情を寄せていることを、私は知っていた。
 私が二宮を見ている理由について薫子に話してもきっと理解はされないだろう。それはある種のシンパシーに近い感情なのだ。  薫子は肩下まで伸びた艶やかな黒髪と百七十センチくらいはあろうか、スレンダーでしなやかな体型をしていて、同性の私から見ても悪くないと思う。ただ、ヒールの履けない長身に薫子自身軽いコンプレックスを感じているのも知っていたし、個々のパーツは目立たないものの端正な作りをしているその顔立ちも、本人としてはあまり気に入っていないらしいことも、また同じように知っていた。
「ほら、二宮先生って、クック・ドゥードル氏に似てると思ってさあ。似てない? 鼻のあたりとか」
「似てる!」
 珍しい。薫子と由香のユニゾンだ。

 クック・ドゥードル氏とは、私たちが小学生だったころに教育テレビで放映されていた道徳番組に出ていたマペットキャラの名前だ。
 彼は痩せぎすのやけにひょろ長い身体をした男で、身体と同じくやけに縦長な顔のてっぺんに赤く染めた髪をつんつんに立てている。いつも眠そうにしている顔の真ん中に茄子みたいな形の大きな鼻がくっついていて、白一色のフリルでいっぱいの衣装を着ている。両手の下には衣装と同じく真っ白なフリンジをはためかせ、颯爽と画面に登場する。
「やっほー、ドゥードル氏だよー! タマゴ生めないのー!」という意味不明のフレーズを叫ぶと、両手を広げてその場でくるりと一回転する。腕のフリンジがまるで羽根のように舞って、そして腕をばたばたさせながら「コケーッ!!」と退場する。
 今思い返してみれば、なぜこんなキャラクターが教育テレビの番組に登場していたのか、全然わからない。うっかりすればその存在だけで番組に苦情が寄せられそうな強烈なインパクトである。
「あー、似てる、似てる。寝ぼけた目の下に大きな鼻があるとこなんか、そっくりかも」
 薫子がドゥードル氏のように両手をばたばたさせる。
 放課後の教室にはまだ十人くらいの生徒が残っていて、それぞれお喋りをしたり、携帯メールをチェックしたり、机につっぷして寝ていたりする。そのうちの何人かがぎょっとした表情で薫子のほうに目をやった。
 薫子は恥ずかしそうな表情を一瞬だけ浮かべると、その視線から身を隠すように身をかがめながら由香の影に隠れた。そうすれば自分の存在が見えなくなってしまうようかのように消え入るような小声で、
「でも、あれって、最後の話すごかったよね……」と、言った。
「そうそう、なんかすごかった」
 無意識のうちに薫子につられたのか、小声で由香が答える。

 番組の第一回からエピソードとエピソードのつなぎとして登場し、走って叫んで回ってまた叫んで退場していったドゥードル氏だったが、クリスマス直前に放映された一話だけ、エピソードの主役を努めたことがあった。
 それは病気の母親と幼い兄弟一家とドゥードル氏の物語で、不治の病を患った子供たちの母親は、頼れる身寄りもなく貧乏で満足な治療を受けることもできず、年を越すことがむつかしいくらいに衰弱している。
 そのことにうすうす感づいている長男は、母親と過ごす最後のクリスマスをできるだけ素晴らしいものにするため頑張るのだけれど、うまくはいかない。子供だから、小汚い格好をしているから。
 事情を知ったドゥードル氏はその子に深く同情して、自分がその子の力になることを約束する。しかし、ドゥードル氏は走って叫んでいるだけだからお金なんか持っていない。自分は大人だからなんとかなるだろうと手はじめにレストランに勤めるも、たったの十分でクビになった。
 ばたばたと店内を走り回ったり、ときおり「コケーッ!!」と叫ばずにはいられないような人間にウェイターは勤まらないからだ。
 次に回された洗い場も、ドゥードル氏の「コケーッ!!」に怒り狂ったシェフにすぐ叩き出された。
 仕事を求めてドゥードル氏はクリスマス間近の冬の街を彷徨う。
 両腕を羽根のようにばたばたさせながらでなければ移動することもできず、何分かに一度、発作のように叫ばずにはいられない人間に勤まる仕事なんかなくて、自分自身に対する無力感に苛まれながら、とぼとぼ、ばたばたとドゥードル氏は歩く。
 時はすでにクリスマス・イヴの夜。街の家々は綺麗に飾り付けされてあとはクリスマスの到来を待ち望むばかりである。
 ドゥードル氏の足は一軒の豪奢な屋敷の前で止まる。屋敷の正面玄関にある扉には電飾もまばやかなツリーが右と左に一本ずつ、合わせて二本飾りつけられていた。
 鍵のかかった門の外側から点滅する二本のツリーを眺めているドゥードル氏の頭に「これなら、なんとか一本だけ借りることができるのではないだろうか?」という考えが浮かんだ。あまりのナイスアイデアにばたばたと白いフリンジも揺れる。
 しかし、チャイムを鳴らしても獅子の首のノッカーを壊れんばかりに鳴らしてもその家の住人は出てこない。怒鳴られるのを覚悟して「コケーッ!!」と叫んでみても反応はない。誰も出ない。誰もいない。どうやら留守のようだ。
 家族そろってどこかのレストランにでも出かけて、豪勢なディナーに舌鼓でも打っているのだろうか。
 心証を悪くしないよう、我慢に我慢を重ねて門の外でじっと待つドゥードル氏だったが、やがて、
「いったい何時になったら帰ってくるのだろう?」
「この家の人間が戻るのをこのまま待っているうちに、イヴの夜は終わってしまうのではないか?」
「いや、そもそも今日中に帰ってくるのか?」
「ひょっとしたらホテルのディナーパーティーなんかに出席していて、帰るのが面倒でそのままそのホテルに宿を取ってあるのかもしれない」
「このツリーは単に世間体を保つために用意したものなんじゃないのか?」
「だってほら、既製品の飾り付けばっかり。心なんか、こもってない」
「だったら、借りても文句ないはず」
「朝早くに返しておけば誰も気づかない」
「こうしてるあいだにも、あの子の母親の様態は」
 ドゥードル氏は飾りのついた門格子を乗り越えようとしている自分自身の姿に驚いた。金属でできた門は冷え切っていて、まるで心の底まで冷たくなるようだった。
 今ならばまだイヴの夜の悪戯ですむかもしれない。酔ったふりさえすれば……。
 我に返ってそんなことを考えたドゥードル氏だったが、つい、いつものくせで両腕をばたばたさせると、その反動でバランスを崩し、足を滑らせて屋敷の中へと転落してしまう。
 庭先の芝生をごろごろと転がって、玄関扉にぶつかって止まる。目を上げればそこにはきらきらと輝くツリーの姿があった。  おずおずと手を伸ばした刹那、天をつんざくような警報音があたりに鳴り響く。
 ドゥードル氏は知るよしもなかったが、以前にも泥棒に入られたことのあるこの家の主人は業界で一番信頼がおける、ただし侵入者にとっては情け容赦ない警備会社と契約を結んでいたのだ。契約内容は通称「手加減無用」。
 慌てふためいたドゥードル氏が意味もなく庭中をばたばたと駆け回っているうちに赤色灯を回転させた警備会社の車が駆けつけてくる。
 門を飛び越えて逃げることができなかったドゥードル氏はカーポートの車と車の陰にその身を隠し、がたがたと震える。
 イヴの夜、その屋敷の警備を担当していたのはまだ経験の浅い新米二人組であったのも、ドゥードル氏にとっては不幸なことだった。普段ならベテランと新米という組合せで当たるはずが、要人も出席するクリスマスパーティー警護のほうに人員が割かれてしまったのだ。
 実務経験がほとんどない彼らにとって、懐中電灯の明かりの向こうから髪を真っ赤に染めたニワトリのような男が「コケーッ!」と叫んで突進してくるなどという事態が想像できるはずもなく、最初からそうだったドゥードル氏も、そんなドゥードル氏を見てそうなった警備担当の二人も、その場にいた全員がパニックに陥った。
 あまりの驚愕からか、警備担当のひとりは足を滑らせて花壇の煉瓦に頭を打ちつけてそのまま気絶し、もうひとりは握りしめた警棒でドゥードル氏をめちゃめちゃに殴りつけた。
 意識を失いそうになりながらも必死で抵抗を続けたドゥードル氏だったが、新米とはいえなんらかの格闘技の経験がある警備の男にかなうはずもなく、使い古されて中身の見えたサンドバッグのようにずたぼろにされる。
 意識を失いかけ、いよいよ駄目かというその時、ドゥードル氏の脳裏に男の子の姿が不意に甦った。自らを奮い立たせるため、ドゥードル氏は両手を広げると「コケーッ!」とふたたび叫んだ。
 不意を突かれ、勝利を確信していた男に、一瞬だけ隙があらわれた。
 最後の力を振り絞ってドゥードル氏は男にタックルをする。揉みあった体勢のまま、ふたりは倒れる。ごぼっ、という音がして、男は起き上がってこない。
 よろよろと起き上がって、ドゥードル氏は地面に転がった懐中電灯を拾う。男が倒れた方向を照らしたドゥードル氏は、今はもう散ってしまったベコニアの花壇の周囲を飾る柵の上に男が奇妙に捩れて倒れこんでいる姿を目にする。
 錆びて腐食した柵の弱くなった部分がぽきりと折れて、尖ったその先端がまるで矢のように男の首を刺し貫いている。喉に開いた穴からはひゅーひゅーという音が漏れている。男はもはや長くはもたないことがわかる。
 窮屈そうな体勢から男はドゥードル氏を見上げる。
 自分が死にかけている理由も、そして自分がこれから向かう先もわからない人間の当惑、そして混乱がその瞳には浮かんでいる。  どうしていいのかわからなくなったドゥードル氏は闇雲に両腕をばたばたされる。
 左腕は折れているようで、そのまま動かない。右側だけ、赤色や茶色の染みのついたフリンジがはたはたと揺れる。
 まるで、なんでも消せるモップを持っていて、それではたけば、目の前で起こったこの悲惨な出来事も拭い去られて、どこかに消えてしまうかのように。
 男から音が止むまでばたばたと立ち尽くしていたドゥードル氏は、闇の中から聞こえるもうひとりの男のうめき声を耳にする。
 人ひとり殺してしまった恐怖から混乱の極みにあったドゥードル氏の心に、そのうめき声がさらなる暴力への恐怖を呼び戻した。
 今度殴られたら自分は死んでしまう、と怯えるドゥードル氏の懐中電灯が、カーポート下に転がっていた一本のプラスドライバーを照らし出した。それはクリスマスツリーの電飾設営のため呼ばれた業者が忘れていったもので、ドゥードル氏は懐中電灯を捨てると護身用にドライバーを拾った。
 痛いことや怖いことはもうこりごりだったので、ツリーを拝借してこの場から逃げようと思っていたドゥードル氏はうめき声から逃げるように玄関横のツリーへと向かう。
 そのとき背後から足首をつかまれ、ドゥードル氏は転倒する。男の回復は予想外に早く、暗闇の中を這いずって移動していたのだ。
 男の握力はものすごく、傷ついたドゥードル氏の力では振り払うことができない。足首をつかんでいる男の腕に必死でドライバーを振り下ろすも、鋼のような筋肉にはびくともしない。まだ立ち上がることのできない男は腕力にまかせてドゥードル氏を自分のほうにひきよせようとする。ドゥードル氏は渾身の力を振り絞ってドライバーを振り下ろす。
 水の入った風船が破れるような奇妙な音がした。
 捻じ切らんとばかりに自分の足首をつかんでいた男の手から力が抜けた。男は自分の顔を両手で覆って芝生の上を転げまわる。男の指と指の間からドライバーのグリップが見えて、それはずいぶん奇妙なまでに短く感じられた。
 男の全身はやがて痙攣をはじめた。深々と刺さったドライバーは男の右眼球を突き破ってその奥にまで達していた。もはやどうしようもなかった。震える男の身体はまるで壊れた電気仕掛けの玩具のように見えたが、それもじきに止まった。
 遠くなったり近くなったり早回しになったり急にゆっくりになったり、まわりの世界全てが急に作り物になってしまったようにドゥードル氏は感じた。その世界の中を自分は漂っていて、元いた世界へ戻ることのできるドアを必死になって探している。
 誰が隠したんだい? もうたくさんだよ。ぼくを帰して。
 ドゥードル氏が我に返ったのは、右腕でよろよろとツリーを運ぶ、その道すがらだった。
 電飾はコンセントから引き抜いてきたし、人通りの少ない裏道を使って運べば、人目につくことはなさそうだ。何回も力尽きそうになって、そのたびにツリーは鉢ごと倒れる。転がるたびに星型の飾りや錫でできた天使やクマの人形たちはどこかに逃げ出してしまう。
 やっとのことで男の子の家に着くと時刻はすでに明け方近くになっていて、ドゥードル氏と同じく、ツリーもぼろぼろだった。
 色とりどりのゴミがまとわりついたもみの木を男の子の家のドア横に置いたドゥードル氏は、ほんの少しだけ考えて、道路に散らばり踏みつけられているクリスマスセールのチラシの中から裏が白くて比較的ましなものを選ぶと、右手の指で自分の顔をなすり、爪のあいだにたまった赤黒い塊を使って、
「メリー・クリスマス! 誰かがきっとあなたのことを見ています」と書いて添えた。
 そしてよろよろとどこかに歩いていった。
 男の子の母親は年の瀬を待たずに死んだ。
 正確に言うならば、イヴの夜早くに彼女は亡くなっていた。母親に添い寝していた兄弟はひんやりとした感触で明け方目を覚まし、そして泣いた。幾人もの白衣を着た人間たちがやってきて母親を運び出し、ついでに兄弟も連れて行った。ドア横にひっそりと置かれたツリーが顧みられることはなかった。
 この回以降、ドゥードル氏は番組から姿を消した。
 本当にこんな話だっただろうか。

 ふと気づけば、由香と薫子はそれぞれの部活に向かう準備をしていた。
 私はどの部にも所属していないから、このまま一人で家に帰る。「姫」の待つ部屋に途中立ち寄ってもいいのだけれど、部屋の光景を頭の中で思い描けば、足を運ぶのを躊躇してしまう。私がいないときでもきっと、あのクロスボウとかいう武器を部屋の中で乱射しているのだろう。その惨状を想像するだに恐ろしいものがあった。
 家に帰っても誰もいない。
 教室のドアから顔を覗かせて手を振っている由香と薫子に向かってにっこり微笑んで手を振り返すと、どうやって時間をやりすごすかについて考えた。考えたふりをした。行動の選択肢が自分にはほとんどなくて、しかもそんな窮屈な現状にさほど不満を抱いてるわけでもないこともまた知っていたので、いつものように図書室に行って時間を潰すことにした。
 私たちの教室がある2号棟から図書室のある特別教室A棟まではずいぶんと距離がある。一階玄関を出てから3号棟を右手に眺めながら真っ直ぐ歩き、生徒用の駐輪場と教師・来賓用の駐車場に突き当たるまで進む、そこを右に曲がり、事務局、学園長室、職員室の立ち並ぶ管理棟と6号棟の間を抜ける。管理棟を越えて目の前にゆるやかな勾配を越えた先に見えるコンクリ造りの白い建物、そこが目的の特別教室A棟である。
 下校時刻まで図書室ですごしたのち、上履きから靴に履き替えるだけのためにもう一度2号棟に戻るのはいかにも面倒くさくて、私は靴に履き替えて行くことにした。その道すがら管理棟玄関に置いてある来客用スリッパを一足失敬することにする。
 反ナチュラルメイク主義を貫く女性事務員が受付担当の時にはそんな生徒たちの無断拝借行為を見てみぬ振りしてくれるのであるが(「元の場所に返しておくのよ」と時折釘を刺されることはある)、今日はよりによって事務局長が受付に座っている。
 事務局長は苦虫を噛み潰したような顔をしていつも何か世の中に対する呪詛をぶつぶつ口の中で呟いているような小男で、こんな人間に応対されるだけでこの学園の印象は地に堕ちそうな気がしてならない。
 話によればこの男、血は繋がっていないものの学園長の遠縁にあたるらしく、とくに仕事ができるわけでもないのだが、やむにやまれずこのポジションを与えられているとのことだった。
 見つかればどんな小言が待っているかわからないのであきらめようかと思ったが、事務受付から死角にあたる場所にスリッパが一足だけ置かれていたのでそれを手にするとその場からそそくさと逃げ出した。
 A棟に向かう勾配を上りながら小脇に抱えたちょっと古びたそのスリッパに目をやると、左右ともに縫い合わせ部分がほつれていた。履いてみると靴底の部分がぶらぶらと揺れて心もとない。歩きにくいことこのうえなかったが、どうせ座って本を読むだけなのだからと我慢してそのまま図書室へと向かうことにした。
 図書室は三階にある。うっかりすると靴底部分が完全に壊れて落ちてしまいそうで、足を引き摺るようにしてそろそろと進む。
 やっとのことで三階まで辿り着いた。靴底が床を叩いて、どうしてもぺたぺたという音がしてしまうのを気にしながら図書室に向かうと、背後から、がちゃっ、という音が響いた。
 ふりかえると、あの木下というクラスの男子が化学準備室のドアから顔を覗かせているのが見えた。
 木下は私の姿を確認すると、まるで万引きを見つけられた子供のような表情を一瞬だけ浮かべて、そのまま化学準備室の中に引っ込んだ。ドアノブをロックする、がちゃっ、という音が響く。
 よほどばつが悪かったのだろうか。
 あの木下とかいう男子はたぶん化学の成績のことで二宮に呼び出されたのだろう。彼については正直どうでもよかったが、放課後の個別指導などといういかにも教師然とした真っ当な行動を、あの二宮が取るなんてことがあるのかと私はひどく意外に感じられて、面白かった。
 テストが近いというのに自習している生徒も少なく、図書室の中にはまばらにしか人の姿が見られなかった。
 出入り口近くにある軽読書コーナー近くの机を陣取って、「航空機ファン」とかなんとかいう、私が生涯手に取ることはなさそうな雑誌を食い入るような眼差しで見つめているメガネザルが制服を着たような男子生徒の横を抜けて、古典作品・全集棚近くの人気の少ないいつもの場所へと向かう。
 この学校の図書室にはネット体験コーナーというのもあって、そこにはISDNながら常時接続されたPCが全部で四台置かれている。
 もし誰も使ってなければ、洋菓子のレシピについて検索してプリントアウトしたかったのだが(お菓子作りが趣味だというのは誰にも知られたくないと思っている)、たぶんアイドルのファンサイト巡りか何かをしているのだろう、図書室内だから若干ボリュームを抑えた嬌声をきゃあきゃあとあげながらブラウザに向かう女生徒と、それとは対照的にサイト内の掲示板に黙々と書き込みを続けているらしい女生徒のふたりがコーナーを陣取っていたため、今日のところはあきらめることにした。
 足しげく図書室に通ってはいるものの、とくに読書が好きなわけでもない私は何を読めばいいのかいつも迷う。書架と書架の間をぶらぶら歩いているうちに見つけた一冊の本を何気なく手に取った。
 きらびやかな色彩を使って幻想的な光景を描き出した油彩画を表紙にあしらった「ロマン派の巨匠たち」という題名のその本は、十九世紀初頭、フランスを中心に芽吹いた「ロマン派」と呼ばれる流れについて、中心となった画家の生涯やその代表作を紹介したものであった。
 いつもの席に腰かけてなんとなくページをめくるうちに、意外なほどその本の中にのめりこんでいく自分を見つけた。
 その本の表紙を飾っていたのはドラクロワという画家の「民衆を導く自由の女神」という作品で、正直この作品にはフランス革命直後の息吹がそのまま画の題材になったのかな、ぐらいの印象しか持てなかったのだが、「サルダナパロスの死」、「キオス島の虐殺」、「ミソロンギの廃墟に立つ瀕死のギリシャ」など、次々と作品を目にしていくうちに、写実的にまた躍動的に描かれた、どこか幻想めいた光景の中に引き込まれていった。
 時が経つのを忘れて本の中に没入していた。気がつけば、日は西の空に沈みかけて、ブラインドの隙間から差し込むオレンジ色の光が私の目を刺した。
 この本を借りることにした私は、受付にいる女生徒のところに足を運んで手続きを済ませた。
 下を向いて一心不乱に携帯メールを打っていた彼女に声をかけると彼女は驚いたような声で「は、はいっ、なんでしょう」と言ったが、受付の仕事なんか貸し出しと返却以外にはないのに「なんでしょう」もないものだと気づいたのか、その場を取り繕うように真面目な顔をして私の図書カードに貸出印を押した。
 壊れかけのぺたぺたスリッパはそのまま玄関に捨てて帰った。

 闇の大口がぱかりと開いて太陽が降りそそぐ半分を丸呑みした。あっという間に世界は暗くなった。青白く輝く夜の一つ目の下を「根絶やし姫」とそぞろ歩く。
 まばらに茂った森の木立の隙間から青く透明な月光が差し込んできて煌煌と驚くほどに明るい。木々の根元を覆う羊歯の一叢も、幹に複雑に絡まる蔦も、ゆがんだ涙の形をしたその葉も、すべてが青く、すべてが白い。
 右手にクロスボウを携えた「姫」に手を取られた私が月の光の下を行く。
 木立を抜けて、月の光を遮るものがなくなったその時、くろぐろとしたシルエットが目の前に姿をあらわした。
 たちすくむ私にむかって「姫」が言う。
「カラマツだよ、カラマツ。ほとんど枯れかかってて葉は落ちてるけどさ」
 青白い夜空を背景にぼろぼろの枝を広げて立つカラマツの姿は、恐ろしくもどこか物悲しく、森に迷い込んだ子供ならばこのカラマツを怪物と勘違いして怯えるだろう、と私は思った。
 幹に手を触れようとカラマツに近づこうとする私に「姫」はあわてて、「馬鹿、行くな」と言うと、どこからか取り出した双眼鏡を私に手渡し、「あそこ」と、幹の中程を指差した。
 双眼鏡を通してみる夜の世界はどこか異質で慣れるまでに時間がかかったが、しばらくすると視界の中にカラマツの葉とはあきらかにちがう植物でできた、こんもりとした駕籠のようなものがあらわれた。その中で何かが動いている。
「調べたけど、なんて鳥かわかんないんだ、でも、あんな大きいの、なかなか見たことないだろ」
 それは巨大な鳥の巣だった。
 一羽がひょこっと頭を出したのが見えた。羽づくろいでもしているのだろうか。もぞもぞと動いているのが見える。
 なるほど、大きいかもしれない。比較対象になるものが周囲にない上に双眼鏡を通して見ているため正確な大きさはわからないが、どう少なく見積もっても一メートルは軽く越えているだろう。羽を広げれば二メートルくらいになるかもしれない。
「しかもさ、つがいだぜ、つがい」
 くちばしが蠢く先にもうひとつのくちばしが見えた。仲睦まじく、互いに羽づくろいをしているようだ。
 しばしその光景を眺めているうち、状況に変化が生じた。
 羽づくろいを繰り返す二羽の間に新たな一羽が割って入ると、巣の中でぎゃあぎゃあと暴れはじめたのだ。
「なんか、はじまった」と、巣を指差すと、「姫」は私の手から双眼鏡を奪い取る。
「ああ、ばたばた、やりあってるやりあってる。相思相愛、アツアツの二羽、このカップルの間に、新たな闖入鳥出現! ですか? あいつら脳みそ小さそうなのに、いろいろ考えてるんだねえ」
 いかにも愉快そうにそう呟くと、
「あ、落ちてきた」と言った。
 ぼろぼろにされた鳥。
 カラマツの根元に駆け寄ってみると、落ちてきたのはどうやらつがいに割って入った一羽だったようだ。間近で見るとやはりかなりの大きさで全長一メートルはくだらないのではないだろうか。
 見上げると巣の中の二羽と目が合ったような気がした。
「自分で撃った獲物じゃないから、持って帰るのは気がひけるけどね」
 虫の息で助かりそうもないその鳥の脚をつかんでひょいっと肩越しに持ち上げると、「姫」は言った。
「しらけちゃった。今日はもう帰る。」
 そして、思いついたように、
「あ、そうだ。捌いとくから、今度チキンパイでも作ってよ。美味しい紅茶淹れるから」
 よろこんで、と私は答えた。

 私は自転車を押しながら帰途につく。
 目覚めの瞬間はいつもぼんやりとして、揺らいだ世界の間に自分が存在しているような錯覚がする。「姫」と手をつないで歩いたあの森も、お化けのようなカラマツも、信じられないくらい大きな鳥も、すべては夢の中の出来事だなんてわかってはいるつもりだけど…… ほかの人のように素早く夢と現実を切り替えることができればいいのに、といつも考える。
 最近、寝不足だからだろうか、「姫」と一緒に鳥を観察してた時間、現実の私が何をしていたのか、夢の向こう側に透けて見えるはずのこちらの世界がどうにもはっきり見えない。
 こんなに遅い時間まで、私の半分はいったい何をしていたのだろう。

 薫子の姿が消えた。
 テニス部での練習を終えた後、消息を絶ったのだ。
 夜十時を過ぎても戻らない娘を心配した母親が携帯に連絡を入れても繋がるのは留守番電話サービスで、眠れぬ一夜を過ごした薫子の両親が警察に捜索願を出すべきかどうか学院長に相談しにやってきたのが今朝八時のことだった。その噂がこの教室に届くまで二十分とかかっていない。
「どうしたんだろ、あの子」
 泣きそうな顔をして由香が言う。
「そりゃミーハーっぽいし、ちょっと無茶するところあるけどさ、他人を心配させるようなことはしない子なのに」
 うつむいて唇を噛みしめる。
「どこかで事故に遭ってたりしなきゃいいけど……」
 薫子と由香と私は幼馴染で、だから由香が言ってることもわかる。
 薫子が七歳のころ、こんなことがあった。
 ひとりで留守番を頼まれた薫子は両親を驚かそうと机や本棚を足場にして天井裏へと上った。両親が帰ってきたとき、天井裏から顔を出して驚かそうと思ったのだ。
 しかし、両親の帰宅を待っているうち、天井裏への冒険で疲弊した薫子はそのまま眠りこんでしまう。  帰ってきた薫子の父親と母親は足場にするためにひっくり返された居間の机や本棚を見て、薫子を強盗がさらっていったと早合点して警察に通報した。
 五時間後、駆けつけた警察官の手によって天井裏で発見された薫子は、憔悴しきった顔をした父親と、泣き腫らした目をして、それでも優しく抱いてくれた母親の姿を目の当たりにして、「これが、本当に悪いことなんだ……」と思ったという。
 薫子が連絡もなしにいなくなるなんてことは考えられない。しかし、だからこそ、彼女の身に何か不幸が…… と、悪いほうへと悪いほうへと思考は流れていく。たまらない気分。薫子の身に何があった
                              のだろう………

「珍しいね、こんな時間にやってくるなんて」
「姫」はあいかわらず愉快そうにクロスボウをいじっていて、部屋はまるでアパッチの襲撃後のどこかの砦のようだ。
 鳩を狙うだけでは飽き足りなかったのか、文字盤から屋根から、まるでヤマアラシの背のようで、まともに動く時計なんか、すでに一台もないのではなかろうか。
 私は薫子のことを「姫」に話した。
 クロスボウのスコープに息を吹きかけるときゅっきゅと拭きながら、
「いつもと変わったところがあったわけじゃないんでしょ? 事故…… 学校の外で何かあったとしたら、一介の女子高生が足取り追うのは不可能に近いわな……」
 スコープごしに私の暗い表情を眺める。
 ばん! と、インディアンに襲撃を受けたログハウスにとどめの一発を打ち込んで、
「ほらほら、あんたがしゅんとしててもその子がどうにかなるわけじゃないでしょ。気分転換にチキンパイ作ってよ、チキンパイ」
 キッチンのほうを指差して、
「冷蔵庫のパッキンの中、こないだの鳥、捌いて入れてあるから」
 粒マスタードとカイエンペッパーはある? と私は尋ねる。
「もちろん」
「姫」が淹れた紅茶も、そして私が焼いたチキンパイも、とても美味しかった。


 薫子はやはり見つからない。クラスの雰囲気もどんよりと暗い。いたたまれない気分になって由香とも顔を合わせないように図書室に逃避した。
 借りたものの鞄の中に入れっぱなしだった「ロマン派の巨匠たち」を取り出すと、このあいだの続きを読みはじめた。
 文章にはまったく目を通す気が起きず、絵画の部分だけを眺めていたにすぎないが、それでも、ロマン派画家たちの描く幻想的かつどこか陰鬱な雰囲気をたたえた世界は沈んだ気分の心に堪えて、このまま返却してしまおうかとさえ、私は思った。
 それでも一応最後までと半ば義務感でページをたぐっていった私の目はあるページで釘付けになった。
 それはフランシスコ・デ・ゴヤというスペインの画家の手による「我が子を食らうサトゥルヌス」という作品であった。
 その画は漆黒の闇を背景に眼球が飛び出さんばかりに目を見開いた蓬髪の男が人間を鷲づかみにして貪り食っているというもので、誰が見ても気分がよくなる種類のものではない。
 そもそも、題名の通り蓬髪の男が喰らっているのは自分の子供であり、その男サトゥルヌスは自分の子が彼の支配者としての地位を脅かすという予言を聞いて、産まれる我が子を次々と食らったのだそうだ。
 この画の持つ生々しい暗黒性にどうしようもなく心惹かれた私は、この他のゴヤの作品にも次々と目を通していった。
 十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて作品を発表したゴヤは、紆余曲折を経て宮廷作家という地位を得たほんの四年後に病魔に蝕まれ聴力を消失してしまう。この事件が彼の作風に大きな変化を与えた。聴力を失って静寂の世界の中で時を過ごすにつれ、ゴヤの作品の中には血生臭い幻想と辛辣な皮肉があらわれはじめるようになる。そして一八一九年、七十三歳にしてマドリード郊外の「聾者の家」と自ら呼ぶ別宅に隠棲し、その屋敷の壁に「黒い絵」と呼ばれる十四枚の画を書いた。そのうちの一枚、屋敷の食堂に飾られていた画が「我が子を食らうサトゥルヌス」である。
 この人はなぜ、これほどまでに陰惨な情景を執拗に描きつづけたのだろうか。
 同じく「黒い絵」からの一枚、「スープを飲む二人の老人」における骸骨のような老人の姿はそのまま死を連想させるし、二階のサロンに飾られていたという首まで何かに埋められた犬の姿を描いた「犬」、膝まで土に埋められた農夫が棍棒で殴りあう「殴り合い」にあらわれた徹底したペシミズムは見る者の心を暗くする。
 夢中になってページをたぐる私の手は「カプリチョス(きまぐれ)」と題されたエッチング作品の中の一点の前で止まった。
 その版画の中で男たちは、その頭以外を鳥の姿に変えて空中を飛んでいる。地上には胸元も露な服装の三人の娼婦たちがいて、地に落ちた男たちの羽をむしり、肛門に串を突き立てて熾火で焼いて食べてしまう。残忍な微笑を口元に浮かべた女たちは男の落下を今か今かと待ち望む……
「みんな落ちるだろう」その版画についたタイトルだ。

 図書室を出た私が階段を降りようとしたその時、ノブを回す音が横からして化学準備室のドアから二宮が顔を覗かせた。
 私の顔を目にして少し驚いたような表情を浮かべると、
「君、葛西さんのクラスの子だよね。たしか……」
 葛西とは薫子の名字だ。私はうなずくと「そうですけど、何か?」
「ほら、やっぱり担当してるから心配でさ…… 君は、葛西さんと親しかった?」
「小学校からずっと一緒です」
「そうなんだ、じゃあ大変だね。……ええと、立ち話もなんだし、こっちで座らない? コーヒーでも入れるよ」
 二宮という人間にそれなりに興味があったのだろうか、普段なら乗ることのない誘いに私は乗ってしまった。
 化学準備室は狭いスペースの中に物がひしめいていた。事務棚の中には講義用のプリントを閉じたバインダーが分野ごとに整理されて並んでいたし、その横にある書架の中は参考書、図鑑、図解、専門書でいっぱいだった。
「おっと、これはシークレット、秘密だよ」
 机の上にあったメモに私の視線が移ると二宮はそう言ってメモを引出しの中に隠した。
 きっとそれは期末テストに関係あるものだったのだろう。視線を横に移動させると分子モデルのプラスティック模型があった。
「インスタントで悪いけど」
 不明な点が多すぎて、薫子に関しての話題はすぐに尽きた。
 しかし、教室における一対多の授業では意識的に人格を変えているのか、一対一で話した二宮はやけに饒舌で、意外にこのへんは物騒なのかもしれないね、君はあの夜どうしてたの? みたいな、非常に個人的な質問までもしてきたのには驚いた。
 それでも自分でも意外なほどに悪い気はしなくて、ひょっとして自分はこの二宮という男に好意を抱いてるのかもしれないと思った。
 窓の外はすっかり暗くなり、気がつけばとうに下校時刻を過ぎている。
 話すことはとうに無くなったが、妙に気分が高揚している二宮に自分も影響されたのだろうか、まるで何かに酔ったかのように、どうでもいいような内容についてぺらぺらと話している。たとえばそれはさっき図書室で読んだ本の内容で、いやあ、なんかねーすごいんですよー、人間わしづかみにしてぱくっと咥えたりしてねー、犬が沈んじゃいそうなんですよー、羽が生えたというよりも鳥の頭が男になって落ちてきた男を女が串刺しにして炙って食べるんですよー、その画の題名は、「みんな落ちるだろう」。
 二宮の顔色がさっと変わって、私の意識はここで途切れた。

 痛む頭を押さえたかったけれど、何かテープのようなもので身体に固定されていてできない。口にも同じようにテープが貼られていて、うめき声はすべて頭蓋の中で反響してうるさい。目蓋を開けてまぶしい蛍光灯の光とともにまず飛び込んできたのは私を覗き込む二人の男の顔で、ひとりは二宮、もうひとりはクラスの男子、木下だった。
 自分がなんでこんなことになっているのか私は欠片も理解できなくて、説明を求めてじたばたしてみたものの、その嘆願は却下されたようだった。
 しかし、それにしてもなぜ木下がここにいるのか? という疑問が頭の中で渦を巻いた。
 化学準備室の床に転がされてうめいている私の視線の先に、ぱたぱたサンダルが片方転がっているのが見えた。
 あのサンダルをこの棟まで持ってきたのは私で、それは薫子が失踪した日の夕方のことだった。教員用サンダルを持っている二宮がこんな壊れかけのサンダルをここまで履いてくるはずはない。このサンダルを履いてきた人間は帰りの玄関までどうしたのか。あの日、私が帰った後、この棟に入ろうとした人間は玄関に捨ててあったスリッパを見つけて私と同じように使ったのかもしれない。そしてその人間はこの部屋からまともなかたちでは出なかった。出ないままでまだ部屋の中にいるのか、それとも別の方法で。
 その人間は――薫子だ。
 極めて危険であることに変わりはないが、自分を取り巻く状況にある程度答えが用意できて、精神的に落ち着くことができた私とは対照的に、二宮は混乱の極みに達しているようだった。木下少年が二宮を必死でなだめている。あ、またひとつ何かがわかった気がする。二宮と木下少年は恋愛とか愛情とか肉欲とかとにかくそんな関係にあって、あの夜、化学準備室を訪ねた薫子は何かを目撃してしまったのかもしれない。私が図書室に行く途中の廊下で、あのぺたぺたサンダルに木下少年が反応したのは二宮の歩き方と似た音を立てていたからで、薫子の来訪を二宮のそれと勘違いした木下少年はたとえばあられもない格好でドアを開けたりしたのかもしれない。薫子の口を封じようとした二宮が……
 この先がわからない。なぜ私も同じようにしないのだろう? 生かしておく理由があるのだろうか?
 ある程度平静を保てるようになった二宮は私の口に貼られた粘着テープをはがすと泣きそうな顔をしながら言った。さっきと口調がぜんぜん変わっている。
「え、いったいぜんたい、何が目的なんだよう。わかんねえよう。見てたのお前だろ? 落ちた女どこやったんだよう。友達だったんじゃないのかよお。俺たち強請るのが目的なのかあ。そんな、そんなに悪いことしたのかよお」
 私にとってはかなり悪いことしてる気がするが、口に出しては言わない。落ちた女というのは薫子のことで、私が薫子をどこかにやったの? 狂っているのは二宮のほう? それともそれは私のほうなのかし
                                      ら?
                                       じらと、すべてがしらじらと照らし出された森の中のすべてのものの上に等しく、月は相変わらず夜の天辺で煌煌と輝いていて、私の隣には「姫」がいた。
 驚くほどに大きく見える月を背景に、痩せさらばえたその枝々を空に向かって広げながらそのカラマツは立っている。
「姫」の双眼鏡が見ているのは「つがいの鳥」たちの巣だった。
「なんかまた、ばたばたしてるね。このあいだと同じような展開だよー」
 ねえ、姫、と私は言う。
 首締められてるらしくて、ちょっと苦しくて、ひょっとするともうすぐ死んじゃうかもしれないから、できれば早くしてくれるとうれしいのだけれど。
「うん、まかせといて! スコープも光学増幅できるような強力なのつけといたから真っ暗闇でも完璧!!」
 そう言うと、「姫」はクロスボウの引き金に指をかける。その矢が狙うものは

                                  何?
                                   かが風を切り裂くような音がして、馬乗りになって私の首を締めていた二宮の首に銀色の棒が一本生えたように見えた。それはまるで虚空から出現したかのようで、いきなり自分の首に突き立ったアルミ製の矢を不思議そうに指でいじっていた二宮は、やがて、ごぼしという音とともに口から大量の血と泡を吐き出してふらふらと立ち上がると、助けを求めるように木下少年のほうに手を差し伸べた。木下少年は完全にパニックに陥っている。墓場から甦ったゾンビのように歩く二宮の眉間にもう一本銀色の矢が突き立って、二宮は化学準備室の床を通り抜けそのままどこかへ落ちていく。

「あ、落ちてきた、落ちてきた。やっぱ狩りってのはこうじゃなくちゃねー。間違いなく自分、農耕民族じゃなくて狩猟民族の血が流れてるよー。なんかこう、全身が滾るっての?」
「姫」はとても上機嫌で、巣から落ちてきた「鳥」を片手にくるくると回転しながら帰ってきた。「鳥」には銀色の矢が二本刺さっている。
「で、どうする? あと一羽、あんた殺る?」
 二宮の生暖かい血糊を浴びた化学準備室の中の私の気分がこっちにも伝わってきて、たとえ半分だけとはいってもそれはたいへん気分が悪い。世界のすべてが鬱陶しく感じられた私はさっさと終わらせて帰るため、月明かりに照らされて青白く光る巣にスコープの照準を合わせる。片割れが撃たれたことが理解できたのか、ばたばたと慌てふためく「鳥」の姿にサイト中心に見える赤い輝点を重ねて引き金を引く。


「こないだと、こないだと同じだ、落ちてった、落ちてった、二宮さんが、二宮さんが」
 自分勝手に目の前でパニックに陥ってやかましい木下少年を私は本当に疎ましく思っていたので、少年が絶命するまでに実に五本の矢を費やさねばならなかったことにべつだん良心の呵責を感じなかった。だいたい射撃が下手なのは森にいるほうの私なのだ。
 木下少年も落下していった。

「大漁、大漁っと」
 右手と左手で「鳥」の首をつかみ、それをぶんぶんと振り回しながら、踊るように「姫」は森の中を行く。
 木々とぶつかるたびにちぎれて飛んで行く「鳥」の羽毛も、満面の笑みを浮かべる「姫」の横顔も、すべては月の光で真珠の白に染められて輝く。
「どう、気分治った?」
 うーん、まだちょっと良くない、と私は答える。
 着替えなんか持ってきてないんだよ、向こうの私はどうする気なのかなあ。
「ま、最悪、ガラス割って忍び込んで誰かのジャージでも盗んで帰れば?」
 そんなの最悪だよー。
「血まみれのギトギトで帰るよりましでしょ?」
 そりゃそーだけどー。
「ま、いいや。それよりさ、この鳥使ってチキンパイ作ってよ。いや、これだけ立派な鳥だったら、中に詰め物してオーブンでこんがりってのもいいかも。ほら、クリスマスに出る七面鳥の丸焼きみたいにさあ」
 よろこんで、と私は言った。

(了)

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