人という種は母親の胎内から誕生してすぐ生活できるようにはできていない。両親からの、そして家族からの愛情を吸収することで、これから彼/彼女が生活していく世界への道標を与えられ、現実へと順応していく生物だ。
1人の少女がいる。彼女が家族から与えられた世界、その世界があらかじめ壊れたものだったらその少女はどうなってしまうのだろうか?ガラスの破片、散らばったガラクタの数々、そこにいるだけで自分の体を傷つけてしまうような世界の中で過ごさなければならなかった長い長い日々は少女をどのように変えてしまうのだろうか。
もう1人の少女がいる。彼女には愛情に溢れる両親、そして家族がいる。ただ彼女は両親から投げかけられる愛情をうまく受け止めることが出来ない。愛情が世界とうまくやっていけるように成長するための栄養だとする。吸収できないまま無尽蔵に与えられつづける栄養は彼女の心をどこか奥の暗く寂しいほうへと押し込んでいってしまわないだろうか?両親の優しい心も理解できない自分に対する計りしれないほど巨大な罪悪感とともに。
これはそんな2人の少女が世界へと上手く着陸するための方法を一緒に見つけていこうとするリハビリテーションの物語である。
理央は幼い頃の妹の死、そして母親の家出によって深く心に傷を負った。母親の家出は実は父親の浮気が原因なのだがそれを誤魔化そうとする父親は理央に「非情な母親」を憎むように仕向ける。まだ幼く、心のバックボーンの大部分を母親に求めていた彼女は混乱し、心の中に隠し持っていた刃を自らに向けたままに長い期間をただただ過ごしていく。
もう1人の少女、佐保子と出逢った時の理央は愛情が他者から与えられるものだということもわからない。他人には全く関心を払わないし、同級生からもらったラブレターも即座に捨てる。彼女の台詞
悪魔だもの / 悪魔は嫌い?
というのは事実そう。彼女は随分と長い間被害者でありつづけてきたが、同様に加害者でもあったのだ。仮に遊び半分だったとはいえ、彼女に恋心を抱いていた明石さんの気持ちを踏みにじったのは確か。被害者が加害者になるという不幸の連鎖がここに見られる。
そしていつしか惹かれあっていった2人は長い時間を一緒に過ごすようになる。2人の関係はまるで佐保子が理央の母親のよう。そう、両親からの愛情をうまく受け止められなかった佐保子は理央の擬似的な母親という役割を与えられることで愛情を与える側にまわり、そして現実世界への着陸方法を習得していく。理央の方はといえば、佐保子に愛情を与えられることで今まで閉ざしていた心の扉を少しずつ開いていく。偶然という名前の奇跡が産んだ理想的な関係。
しかし、そんな2人の関係も長くは続かない。恐る恐る開けた理央の心の隙間から浸入する継母の悪意に満ちた言葉の数々。
ピエタ(pieta)とはイタリア語で原義は敬虔、信仰、敬愛。キリスト教美術。死んで十字架から降ろされたキリストを、聖母が膝に抱いて哀悼する絵画、彫刻の主題である。文字通り聖母マリアとなった佐保子は重力に解き放たれ、高いところから地上へと降ろされたキリスト、理央の復活を願う。そして、理央は復活するのだ。
まるで飴で出来た細工もののように繊細で緻密で危なっかしい物語。榛野なな恵の作品のキャラクターの持つ、人生あるいは他者に対するある種の諦観を携えたような表情はこの作品の持つ痛々しいまでの主題にピッタリ。理央、そして佐保子の憂いに満ちた表情がまるで宗教楽のように作品全体のトーンを引き締めている。榛野なな恵が長年追求してきた「気高く自分自身の主張をしながらも世界とバランスよく付き合っていく」というテーマを極限まで純化して昇華させた作品ではないだろうか。
最後にひとつだけ。ストーリーの流れをこういう風に持っていくのが榛野なな恵の作風なので仕方ないとは思うのだが、ちょっと登場人物に対して極端な善悪の2元論を適用させすぎな気もする。なぜ継母がそこまで理央を憎むのかがちょっと説得力に欠ける気がした。父親の人間失格ぶりも個人的にはちょっとわからなかった。悪役をただその役割として存在させるだけではなく、なぜそうならざるを得なかったのかも描けるようになるとさらに作品に深みが増すような気がするのだが。あ、でもそうすると作品としてのインパクトは薄れてしまうかもしれない。難しいところか。(00/05/25)