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師弟対決!バキvs.ミルクロ


 

【単行本・漫画】 富沢ひとし「ミルククローゼット」 1巻 講談社アフタヌーンKC

 富沢ひとし「ミルククローゼット」

 コドモのころ、世界はどんなふうに見えましたか?
 
 むかしむかし、はるかむかし、世の中のほとんどが何から出来てるのかわからなかったころ、私たちにとって世界は点でした。家、学校、友達の家、お母さんと行くデパートなどなど。行ってもいいところ、行かなくてはいけないところ、いなくてはいけないところ。それらの点を線で結んだ奇妙な図形、それが幼い頃の私たちにとっての世界そのものでした。その図形をはみ出した子供たちはステータス:迷子とかになって、交番でお巡りさんにいろいろ聞かれたり異人さんに連れてかれて売られてしまったりするんです。

 そんな迷子たちの物語、それが「ミルククローゼット」です。

 ―――西暦2005年 消える子供 流行、という不思議なフレーズから始まるこのお話は、子供たちが一時的に平行宇宙へと文字通りジャンプしてしまう、リーズル症候群という怪現象が続発する世界を舞台にしたものです。主人公であるやまぐち葉菜は8歳、小学3年生くらいな女の子。彼女は600回もの異世界へのジャンプを経験していますが、その跳躍は彼女にとってこわくてこわくてイヤなこと、恐怖の対象でしかありません。むかしむかし、いつもの通学路以外を通って家に帰ろうとしたあの日、何だか知らない場所に出てしまってもう家には2度と帰れないんじゃないか、と泣きそうになってしまった時の気持ち、彼女は私たちがその時味わった怖さの100倍くらいを毎回のジャンプで味わっているのでしょう。どんな所に住んでいようが、通学路の横の道に紫色のクジラがいたり、タコ星人に腕を引かれてどこかに連れて行かれそうになることはきっとないんで。

 その意味において、いわゆるスプラッタ的描写がでてくるようになる後半の回よりも第1話「赤いリボン」がいちばん残酷なお話なのかもしれません。異世界へジャンプし続ける葉菜。ジャンプ先にいる異形の者に毎回彼女はどこかに連れて行かれそうになります。何回も何回も繰り返される強制的な迷子。ヒョットシタラカエレナイカモシレナイ。謎のお姉ちゃん(リーズル吉田)にもらったリボンをつけた彼女は初めてイヤなところにジャンプしないままに自分のお家へと帰ります。「やった、病気治ったんだ!」と喜ぶ葉菜ちゃんでしたが、そこは「病気の治った葉菜ちゃんがいる世界」で、「病気な葉菜ちゃん」の居場所はぜんぜんないんでありました。絶望のあまり泣きながら異世界へのジャンプを次々繰り返す葉菜の「どこ、どこ行けばいいの?」という台詞と表情。そしてその後の容赦ない展開。この極限ギリギリまでの追いつめかた、ホント、富沢ひとしやってくれるなあと思います。

 この本1冊通して、子供たちの驚愕の表情がほとんど描かれていない、というのは特筆に価すると思います。少年少女たちの顔に浮かぶ表情は怯えとか苦悶とかそんなのばっかし。

 たとえば主人公の1人、たろうが水棲ケンタウロスみたいな異世界の住人に銛で狩られる時のカット。普通ならばたろうの驚愕の表情を1コマくらい挿入しそうな部分ですが、富沢ひとしはこのカットを逆光のほとんど影となったコマ1つ、しかも「サクッ」という擬音だけでたろうの叫び声などを使わずに処理しています。

 つまり、主人公の少年少女たちに対しての感情移入を富沢ひとしは読者に望んでいないのでしょう。過酷な状況にぽおんと放り込んだ登場人物たちの苦悶、絶望の表情をちょっと離れたところからそっと覗き込んでみるという物語の傍観者、観察者的スタンスを読者に設定してるのかもしれません。そしてそれはどこか夏休みの自由研究で虫かごの中の昆虫たちに意地悪してその反応を記録する感覚に似てるような気がします。蟻の巣に水注ぎ込んでみたり、カブトムシとクワガタ一緒のカゴに入れてみたり。うっうっ、性格悪いなあ。

 ところで、前作「エイリアン9」との世界観の共通性を指摘する人も多いと思われますが、ここ注目。

 「エイリアン9」において描かれた、ボウグとの共生関係に対するゆりの嫌悪感、再生処置によって身体がボウグ化し、人間でなくなったくみの困惑、イエローナイフの浸入によって精神の内側から変わっていくかすみの感情などの描写は「ミルククローゼット」において一切行われていません。

 葉菜、たろうをはじめとするミルク隊の全員はしっぽ状の生物によって身体を再構成され、すでに人間とは呼べない存在へと変容しています。しかし、異形のものへと化してしまった自分の身体への絶望、不安みたいな描写はまったくありません。たろう、葉菜が新たな存在へと再生するコマのバックにはあまつさえ妖精、天使のような存在までが舞っています。葉菜はこんな身体になった自分のことよりもまず、「お家に帰れたこと」を喜んだり「怖いことにならないかな」と心配したり「ミルク隊でやっていけるかな」と不安になったりするんです。

 そして、「なぜ描かれないのか?」ということについては多分主人公たちの年齢が関係してきてるんでしょう。「エイリアン9」のゆりたちは小学6年生、そして葉菜はじめ、「ミルククローゼット」のミルク隊、隊員たちは全員小学3年生です。この3年の差は本当に大きいんです。

 ところで単行本になって新しくついたポエムにいさん作(たぶん)の詩も効果的。可愛らしく、時には残酷に今後の物語の展開を予見するような内容のそれはマザーグースだの「○○の国のアリス」の中で使われてるそれを彷彿とさせます。タイプ的にはアリスのそれかな?ロリっぽいとことかも…ドジスン先生!

 そういえばちょっと前にSF小説の中で近い感じのものの例でロリ版「ヴァート」って書いたけど、ウイリアム・B・スペンサー(訳:浅倉久志)「ゾッド・ワロップ あるはずのない物語」角川書店ハードカバーの方が近い感じかも。謎のドラッグの実験台にされたことで童話世界に飲み込まれてしまった精神病院患者たちが聖地をめざして旅していく…というドラッグ・ファンタジイっす。こっちもよい。オススメです。

【単行本・漫画】 板垣恵介「バキ」3巻 秋田書店 少年チャンピオン・コミックス

板垣恵介「バキ」3巻。すさまじい表紙だ〜。  次はバキ。「なんで?」って不思議に思う人だとか、「あっ師弟対決でしょ?」(富沢ひとしは板垣組出身)とか思う人だとか、あまつさえ「なるほど、師弟関係にある2人でもこれくらい作風が違うってことネタにしたいんだ」とか、したり顔で言ったりする人いたりして、ぶるぶる。いや、ちょっと違うっす。

 この2つの作品、ある意味似てるですよ。

 両者に共通してるのは「客観的に考えたらこれは無理だろう」という展開も力技で強引になんとかしてしまうというそのパワー。読者が「何だこりゃ」って呆れ果ててしまうようなストーリーを作品世界自体ごと歪めることで無理矢理納得させてしまうあたりです。
 そもそも今回の「バキ」のストーリー、スゴすぎなんでどう説明していいんだか正直わからないんですが、それでも説明。

 ―――まるで「何か」に引き寄せられるように刑務所を脱獄、東京を目指す5人の死刑囚たち。彼らは誰もが教えてくれなかった「敗北」を知るために格闘の聖地である東京ドーム地下闘技場を目指す!

 あら?簡単に終わった。それはそれとして、その「何か」というのを説明するのに板垣恵介が使ったフレーズが「シンクロニシティ」。簡単に言うと科学では説明できないレベルで起こる遠隔的精神反応の1つで、たしかユングによって提唱された超常現象的概念の1つだったと思うんですが、まさかユングも、ベストセラー「シンクロニシティ」の著者であるF・デーヴィット・ピートもこんなふうに使われるとは思っても見なかったに違いないです。そもそも、徳川の御老公が死刑囚5人の事をバキに説明するためにやってきたときにはまだ誰も日本上陸は果たしてない、どころかひょっとすると行動にも出てないはず、なんですが、いったいどうやって徳川の御老公はそのことを知ったのでしょうか?彼もシンクロニシティとかに巻き込まれた1人?なら肝心の戦う当人たちであるバキ、烈海王、独歩、渋沢、花山らはそこらへんとこを何故知らんのか?考えれば考えるほど不思議ですが、板垣恵介は読者たちの「?」を打ち消すべく、徳川の御老公にニトログリセリンを持たせるのです。曰く、「20世紀初頭、ニトログリセリンを運んでいた船が(?マーク点滅)嵐に遭遇、すわ大爆発か!と思いきや奇跡的になんとか乗り切った。目的地についてグリセリンの樽を開けた乗組員が見たものは今まで一度も固形化したことのないニトログリセリンが綺麗に結晶化した姿だった…この日を境に世界中のニトログリセリンが結晶化するようになった。」そうで、「コレ説明するためにわざわざニトロ学校に持ってきたの?」とか「シンクロニシティって精神感応のことで、生物間において同時多発的に起こる現象をさすんじゃ?ニトロは物理的現象でしょう?」だの「ニトログリセリンってニトロセルロースと混ぜてゼリー状にして扱ってるんじゃ?」など読者の頭の中を?マークが乱舞する(はず)なんですが、それについて全く何とかしようとしないままに板垣恵介は新たな無茶ギミックを用意して読者にそれをぶつけてくるんです。それは死刑囚たちの全長100mにおよぶ核ミサイル発射口からの脱出だの、水深200mの潜水艦を使った刑務所からの脱出だの、とかなんとか。おい!

 簡単に言うと、板垣恵介は読者の頭に「?」マークが浮かびそうになったら石をぶつけて正気を失わせ、読者が混乱状態から回復しそうになったらさらに大きな石をぶつけて…とこういったループをえんえん繰り返し続けているんであります。ツッコまれそうになったらさらに大きなツッコミポイントを用意して…みたいな感じで。

 しかも、肝心なことには板垣恵介はこれらをきっと「無茶だな〜」と思いながらは描いてないのであります。思っていたらきっとこんな風にはいかない。つまり、相当に無茶な展開でも作者が普通の人の10倍くらい信じていればそれが読者に伝わってそれが真実となるということなのでしょう。それが作家性というものです。板垣恵介の頭の中ではシンクロニシティはそういうものだし、頑張れば人間1人の力で自由の女神が崩せるのです。そして、その思いを最優先させることで作品自体のバランスがひどく歪んだものになろうとも、それはぜんぜんOKなのです。板垣コスモのなかで成立してれば万事OK!問題なし!

 富沢ひとしもそれと同じ。彼は他の作家より小さい娘を10倍くらい苛めたい(憶測)んで作品内においてそれを全てにおいて優先させているのです。物語がいびつになろうがかまうもんか!知ったことか!自らの快楽最優先という同じようなアプローチを作品に対して行っている2人ですが、しいていえば富沢ひとしには戦略が感じられて板垣恵介には天然が感じられるというスタンスの違いがあるような気がします。その分板垣恵介のほうが作品パワー的には強い感じ。

 ところで「バキ」において、板垣恵介の暴走していく先が想像つかないのは僕だけでしょうか?少なくとも前作における【最大トーナメント編】では「武器の使用は不可」という不文律があったんですが、今回の死刑囚5人は特殊繊維、剃刀などの暗器だの、アルコール口に含んでの火炎放射だの、果ては拳銃までも使い放題ですし。行き先のわからない暴走列車にのってる感じ。どうやって終わらす気なんでしょうか?もちろん、読んでてそこがイチバン楽しい部分ではあるのですが。

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