flow / overflow
そっと、手で掬うと、掌でできた器の中には、緑色の液体がほのかな湯気を立てていて、カモミールの香りが立ち昇るそのお湯には、たしかに心を優しく包み込んでくれるような居心地のよさを感じるのだけれど、やはり違う、と浮葉(うきは)は感じた。
これでは緑がかちすぎて、ひょっとしたら私たちは口が聞けなくなってしまうのかもしれない。
昔何かの本で読んだことがある、水をくぐり、睡蓮の花を肺に咲かせた異国の姫君の話、「水の華」が咲いてから生き物は何も棲むことが出来なくなった近所の池の事。そこにある沈黙のイメージ、自分が、草花の中の緑色の粒の中に囚われてしまうような予感がして、それはきっとお喋りが何より好きな自分にとってはきっと辛い事だろう、だから、たとえ身体を委ねるとしても、これで無いことは確かだと浮葉は思った。
掌の湯を優しく湯船の中に戻すと、のびをするように手足を浴槽の中で伸ばしてみるが、あんのじょうホーローで出来たラベンダー色の浴槽から浮葉の手足ははみだして、浮葉はいつもがっかりする。しかしそれは、浮葉のスレンダーな身体、小学5年生とは思えない、151cm
近い身長、すらりと細い手足にはあんまり罪はなくって、きっと浮葉はバスルームのサイズが今の10倍あったって、最近駅前に出来た会員制スポーツクラブの屋内温水プールの大きさだったとしても満足しないに違いない。
浮葉は泳ぎたいのではない。
浮葉は浮かびたいのではない。
浮葉は漂いたいのではない。
浮葉は溶けたいのだ。
海の水はもう別れたあとのものだから、別のものではないと、その中で一つになる事はきっとできない。
むせてしまうくらいに辛いものの中に溶けるなんて、喉が渇いたときのことを考えるとぞっとする。だから海で溶けようだなんて、最初から考えなかった。
香草の匂いのするお湯に出来るだけ身体を沈めるようにして、でも息苦しくないように顔の全面だけは水上に浮かべ、浮葉は全身をゆっくりと弛緩させた。カタチをできるだけなくそうとするように。浴槽を対流するほんのかすかな波の動きをただゆっくりと感じて、それをそのまま伝えようとする。そっと息を殺し、静かにゆるやかにたゆたうそのお湯と一体になったと感じた浮葉は、そこに一滴の思いの雫を落とす。浮葉を中心に幾重にも重なった円状の波が広がってゆく。
これはいったいなんだろう。アキトくんのことを考える。胸の奥にある何かがしめつけられるようで、浮葉を中心に広がる波は、いっそう高く激しくなるような気がする。
アキトくんはクラスの男の子で、おとなしくて、どこのグループにも所属してはいない。しかし友人が少ないわけではなく、無闇にはしゃいだりすることをけっしてしない、どこか年齢以上に老成して見えるその外見が、どんな話題でも馬鹿騒ぎするのが大好きなクラスの男子たちと一線を引いていたのではないかと浮葉は思う。母親からいつか聞いた事がある、保険の外交員をしているという母親との2人暮らしという環境が彼をそうさせているのかもしれない。その、どこか静かで、でも凛とした強いものを芯に秘めてそうな彼の雰囲気も浮葉はいいなと思っていたし、なにより、身長のことで浮葉をからかうような事を彼はけっしてしなかった。
休み時間の間、アキトくんを無意識に目で追ってしまっている。授業中、アキトくんが当てられた問題を正解するとそれが自分のことのように、いや、もっともっと嬉しい。次から次へと自分の中から感情があふれ出てくるのを感じて浮葉は混乱する。伸びすぎた身長以上に目立たないよう、できるだけおとなしく、教室の中で息を殺してきた浮葉は、自分の内側に生じた荒々しい感情に戸惑って、どうすればいいのかわからないままにある。アキトくんとお喋りできたらうれしい、一緒に学校から帰れたらもっとうれしい、もしも手を繋げたら……。いままで彼女が知っていた、嬉しいこと、楽しいことは、両親が毎日用意してくれるオヤツの甘さくらいのレベルのことだったのを、浮葉ははじめて知った。
これはいったいなんだろう。カナちゃんのことを考える。胸の奥にある何かがしめつけられるようで、浮葉を中心に広がる波は、いっそう高く激しくなるような気がする。
カナちゃんはずっと仲良しだった。
浮葉はとってもお喋りが好きな女の子だったけど、なぜかクラスの女の子と喋っていてもテンポが合わなくて、とってもいい事を考えたと思っても、その話題はとっくの昔に終わっていたりして、結果、にこにこ微笑んでるしかなくなる。だからみんなは浮葉のことを静かな大人しい子だと誤解する。ほんとはもっと喋りたいのに。
カナちゃんはそんな浮葉にできた、唯一人の友人だった。
浮葉の喋る内容はいつだってわかりづらい。
けして支離滅裂だからではない。浮葉は言葉を一種の贈りもの、みたいな感じに捉えていたので、頭の中で浮かんだものの中で、一番素晴らしいイメージのみを話そうとするからだ。
そんな言葉を、微笑みながらただ聞いてくれたカナちゃん。
しかも、ただ聞いてるだけじゃなく、どうしても理解できないところ、要所要所だけは浮葉に質問したりして、ちゃんとわかろうとしてくれていた。じっさいに交わされる会話の数は少なかったけれど、千の言葉を使うより、ずっとずっと深いところで2人が通じ合っている気がして、浮葉は本当に嬉しかった。
ずっとアキトくんの事を考えるようになってから、浮葉は、カナちゃんにアキトくんのことを話したくてしかたなかった。彼女が見つけた彼のいいところ、見た目に合わない、意外にドジなところ、ほかにも、ほかにも。ある日思い切ってアキトくんのことを話題に出してみた。カナちゃんは黙って聞いていた。話し始めたらとまらなかった。ひとしきりはなして、ふと間があいた。カナちゃんはちょっと沈んだ表情で浮葉に尋ねた。
「ウキちゃんはアキトくんのことすきなんか?」
恥ずかしくて返事はうやむやにしてしまったけど、カナちゃんの妙に暗い表情が浮葉はちょっと気になった。
陸上部の練習で浮葉が遅くなったある日の帰り道、200mくらい先にカナちゃんの姿を見つけた浮葉は、吃驚させようと思いついて、声をかけずそっと近づいた。よく見るとカナちゃんの横にもう1人男の子の姿があって、それはずっと見ていた浮葉だったらすぐわかる姿だった。そういえばカナちゃんとアキトくんは美化委員でいっしょの居残りをしていたんだっけ、いいなあカナちゃんかわってくれないかな……と思う浮葉の目の前で、2人の手がそっと、つながれた。
次の日、浮葉はカナちゃんをそっと呼び出して、尋ねた。カナちゃんは浮葉に、アキトくんと自分がじつはつき合ってる事を言い出せないままいたことを謝った。浮葉はとっても悲しかったがほかならぬカナちゃんだったらしかたないかなとちょっと思っていた。しかしカナちゃんの最後の一言が浮葉を凍りつかせた。
「アキトくん、大きな女の子嫌いだって言ってたから、ウキちゃんじゃどうせ無理だったと思うよ。」
ソンナコトイワナイデモイイノニソンナコトイワナイデモイイノニ………うわ言のように頭の中で繰り返す言葉を洗い流そうとするようにバスルームでシャワーを浴びながら、浮葉は泣いた。これ以上無いくらいに泣きじゃくった。なんでアキトくんを手に入れたカナちゃん、唯一の友達だと思ってたカナちゃんからそんなひどい言葉を自分が投げつけられなければならないのか。ひとしきり泣いたあと、ちょっとは気持ちが落ちついたので気持ちを落ち着かせてくれる効果のあるという紅茶ベースの入浴剤を入れた湯船の中に身を沈めた。落ちつくと自分の好きなアキトくんを自分から取り上げたカナちゃんのことが憎たらしくて仕方なくなった浮葉はそっとカナちゃんのことを想像する。するとミニサイズのカナちゃんが浴槽の湯面にあらわれて、泳ぎがあんまり得意でないカナちゃんは手足を一生懸命にバタつかせて黄色い湯面でもがく。なんとか浴槽のふちにたどり着いたカナちゃんを浮葉がたてた大波が襲い、再び彼女は浴槽の中央へと引き戻される。突如湯船の中央に出現した渦潮の中心で半ば意識を失ったカナちゃんがくるくる廻る。やがて動かなくなったカナちゃんはしだいに溶けて、淡いピンク色のような液体になって黄色の湯の表面に浮かんだ。幻の存在だとばかり思っていたカナちゃんがそうではなかったので、急に気味が悪くなった浮葉は風呂の栓を抜いてそのお湯を全部流した。
次の日からカナちゃんは学校へ来なくなった。
カナちゃんのお母さんが学校にやってきて、何か変わった様子は無かったかと聞いた。いつも上品なカナちゃんのお母さんが傍目にもわかるほど憔悴しきって見えた。浮葉はカナちゃんのお母さんの目を見ることができなかった。
やはりカナちゃんを溶かしてしまったのは自分なのだろうか。
カナちゃんが溶けたお湯は流してしまった。
そのお湯が流れて行く先はわからないけれど、そこはきっとあんまりきれいな場所じゃないから、カナちゃんごめんねごめんねと心の中で浮葉は詫びた。本当にすまないという気持ちで心をいっぱいにしているのだけれど、カナちゃんの本当の名前も、顔も思い出せなくなってきている自分自身に浮葉は驚いて、いや、でもアキトくんのことはまだ思い出せる、カナちゃんが溶けて流れていったお湯といっしょにカナちゃんの思いでも流れていってしまったのだろうかと悲しくなってしくしく泣いた。2つの目が溶けてしまうのではないかと思うくらいに涙は出てごめんねカナちゃんごめんねとくりかえし口にしつつ浮葉は泣いた。悲しくて悲しくてしかたがないのに誰のために自分が泣いているのかだんだんわからなくなってきているのがとっても恐ろしくてごめんねカナちゃんごめんねカナちゃんと浮葉は繰り返す。それは忘れてはだめなんだそれを忘れたら。きっと涙が流れ出るのといっしょに大切な何かも流れ出てしまうのだろうと思うけど、涙は決してとまらなくて、ついに浮葉は友達だったカナちゃんの名前すらも思い出せない。それが無性に悲しくてやるせなくてまた泣いた。浴槽からいつしか浮葉の涙はとうとうとこぼれはじめ、緑色だったお湯もすべて流れ出てしまった。浮葉の零した涙だけがそんな浮葉の身体を浸して、こんなに悲しい思いをしているのに、この涙にも自分は溶けてしまうことはできない、悲しい浮葉は自分の足と足の間に赤い何かを見つける。これはいったいなんだろう。悲しくてもう何も考えることはできない。胸の奥にある何かがしめつけられるようで、浮葉を中心に広がる波は、いっそう高く激しくなるような気がする。そっと、手で掬うと、掌で出来た器の中に涙といっしょに広がるそれは血で、きっと自分は何か悪い病気だったからこんなにも悲しい、でもこの淡い赤色をしたものにならば自分は溶ける事ができるかもしれないと浮葉は思った。そして浮葉の身体はゆっくりと溶け始め、バスルームは淡い赤色の液体で満たされはじめる。名前も忘れてしまった友達の女の子と同じように淡い赤色の液体の表面に漂う存在となった浮葉は、バスルームからとうに溢れ出し、それでもゆっくりと水位を上げつつある液体に世界は包まれて、全ての生き物は自分のようになるのだ、と予感のようなものを感じる。それはちょっと寂しいけれども仕方なくて、それでもやはりアキトくんやあの女の子がそばにいてくれれば嬉しいなと浮葉は思う。あの名前を思い出せない女の子に今度はきっと謝ろうそして許してもらえるならもう1回お喋りしよう、ゆっくりと波打つアキトくんの身体とっても綺麗でどきどきするよねって。いろいろなものが流れ出してしまったので、今では2人とも顔もはっきりとは思い出せないけど会えばきっとわかる。淡い赤色の液体の表面をどこに向かうともなくゆっくりと漂いながら浮葉だったものはぼんやりとそう考える。
(2000/12/31)