マイムマイム
翳っていた月が、ふと顔を覗かせたのだろう。目の前を影が斜めに走った。振り返ると夜の天辺、黄色の一つ目が雲の隙間からそろり顔を覗かせている。満月の晩だ。
蒼白い月光を受けて影が浮かび上がり、幽かに揺れる。その影が向かう先に、校庭を行く。
ほんの気まぐれにしては戯れが過ぎるのかもしれない。立派な不法侵入罪である。しかし、今では宿直の教師もいないだろう。この学校は去年廃校になった。
ここを卒業して、もう十年以上になる。
時間とともに風化し、どこかに消えてしまったとばかり思い込んでいた中学時代の記憶がよみがえってくる。そのビジョンは自分が想像していたものよりも遥かに鮮烈で、ひょっとするとあの頃の一日の密度は今とは比べ物にならないくらい濃いものではなかったのだろうかなどと考える。
しかし、そんな記憶の中の風景も、今では単なる廃墟にすぎない。
構内に入り、中庭の花壇を横目でにらみながら、校舎へと足を進める。さすがに校舎の中にまで入る気にはならない。窓ガラスごしに中を覗き込む。月明かりに照らされて、闇に包まれた教室の中、机と椅子、黒板のシルエットだけが蒼白く、ほのかに浮かび上がる。他には何もない。
ここにあるのは学校の残骸だ。寂しいという感情が自分の中に浮かび上がってきたことに気づき、そのことにまず驚く。本当に驚く。また月が翳った。一面の闇。
仕方なく家に帰ろうと踵を返す暗闇の中、幽かな物音がするのを感じる。音楽と足音。それも一人のものではない。残響音をともなって響く。好奇心を覚え、音のする方向へと回廊を廻る。体育館の方向だ。
そっと近づいて、窓から覗く。キュッキュッと鳴る体育館シューズの音、幽かなざわめき、そしてどこか間抜けで郷愁を誘うメロディが聞こえる。
雲が流れ、体育館の2階の窓から月光が中に降り注ぐ。気のせいか、さっきよりひときわ光は濃くなったように感じられて、淡い月明かりの中、いくつもの白い物体が音楽に合わせて揺れ動いている。聞こえるメロディと歌声、それらが何であるのかは眼が慣れるまでわからなかった。
マイムマイムだ。
体育館の中、月光を浴びながら、体操服、そしてブルマ姿の女の子たちが、マイムマイムを踊っている。つながれた手と手、それは白く、その輪郭をかすかにきわだたせて、一人一人が輪の一部となって、くるくるとまわる。踊る。冷え冷えとした体育館の空気の中、漂うメロディ、彼女たちの歌声。しかし、ここは廃校になったはずだ。彼女たちは誰で、いったいなぜこんなことをしているのだろう。自分の中で多少の好奇心といいようのない不気味さが葛藤し、そして好奇心が勝った。たぶん彼女たちは中学生だろうし、何も身に危険が及ぶような事はないのだろうとたかをくくっていたのかもしれない。
それに彼女たちのダンスにはどこかこの世のものならぬ美しさがあった。
歌声が聞こえる。
永遠に続きし イザヤの神代
救いの井戸より 聖なる水を
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
ふと、学生時代に読んだ宗教史の教科書のなかの一節を思い出す。たしかこれはイスラエルに古くから伝わる歌であったと記憶している。そもそもこの歌詞は旧訳聖書「イザヤ書」の中から取られたものであるはずで、彼女らの歌っている日本語詞のように、これは神へ祈りを歌った歌なのだ。そもそも「マイム」とは「聖なる水よ」という意味だったはずだ。日本ではフォークダンスの曲として有名なこのマイムマイム、じつは宗教的な意味合いの強い、儀式的な側面をもった曲なのだ。そう考えると、何かこのフォークダンスが黒ミサの集会のように思え、ますます不気味に感じられた。
しかし、それでもその場を後にしなかったのは彼女たちの踊りに魅了されていたのだろうか。
歌詞はしだいに恐ろしげなものに変わっていく。
いたずら仔猫は 手足をもいで
小鉢に植えたら 窓辺に飾ろう
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
覗き屋小人は 目玉をえぐり
悪さができぬよ お空に捨てよ
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
マイム マイム マイム マイム マイム ベッサンソン
彼女たちは笑っている。
まわるまわる。繰り返し揺れる手と手。
歌声がぐるぐると周囲をまわる。
じっと彼女たちの姿を見つめる俺の目の前から、窓枠だけを残して体育館が消失した。
空間に窓枠だけが浮かび、そしてその四角形の中、彼女たちは踊る。くるくるとまわる。
そして雲が消え、地面が消え、空が消えた。
頭上に広がる闇はすでに宇宙のそれではない。その先に進むも永遠に何もない、無限に広がる虚空の闇だ。
逃げようと思った。しかしどこへ?彼女たちが微笑む。
窓枠の前、すでに手足も動かなくなっている。
いたずら仔猫は 手足をもいで
小鉢に植えたら 窓辺に飾ろう
ふいに光景が変わった。高い、高い、視点。
眼下に見えるあの男は俺で、では、俺はいったい。
覗き屋小人は 目玉をえぐり
悪さができぬよ お空に捨てよ
振り向くと眼窩を紅く染めた、目のない俺が、こちらを向くのが見えた。
今はもうない月の代わり、果てしない無限の闇の中から、覗き屋の俺を見ている俺の、眼球。
(2001/02/08)