「入神」表紙 竹本健治
Kenji Takemoto

「入神」

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 今まで読んだミステリ小説の中でベストは何かと聞かれたら、迷わず竹本健治「匣の中の失楽」を挙げる。小栗虫太郎「黒死館殺人事件」、夢野久作「ドグラ・マグラ」、中井英夫「虚無への供物」。日本三大ミステリと呼ばれるこれらの作品にも比肩しうる、いや負けずとも劣らない大傑作である。衒学的な要素が山ほど詰め込まれ、重層的に編み上げられた物語は読者を惹きつけてやまない。長らく絶版状態が続き、カルト的な人気を集めていた作品だ。「匣の中の失楽」は1978年に幻影城より刊行され、1991年に講談社ノベルスで復活を遂げている。
 そしてこの「入神」である。竹本健治は小説家としてデビューする以前から漫画家になりたかったそうである。しかし、すでに小説家として名をなしている彼がいきなり漫画の単行本を出すというのには驚きを禁じ得なかった。小説のファンだから、という理由でこの本を買ってみたが意外なことにかなり面白いのである。絵柄はまったく今風ではない。20年前から時が止まっているかのような、学習漫画にでもありそうなアナクロさ加減である。しかし、読ませる。物語を語るという点において、やはり並外れて力強い。
 内容を一言でいうとすれば「本格囲碁漫画」である。実際、竹本健治は相当に囲碁が好きな人で、過去の小説作品にも囲碁は頻繁に登場する。今回の作品での棋譜など何百時間もかけて作り出した力作であるらしい。最近では少年ジャンプ連載の「ヒカルの碁」(作:ほったゆみ+画:小畑健)が注目を集めているが、マニアックさという面において「入神」は圧倒的である。囲碁用語もバシバシ登場し、実際の対局の流れも現実の碁に即したものだ。とはいえ、囲碁をやったことがない人でも面白く読める。細かい用語といったレベルを超越させるほどに、描写力が優れているからだ。

 物語の主人公は、竹本健治の小説「ゲーム殺人事件」などに登場する、天才囲碁少年・牧場智久。史上最年少で本因坊の座に輝いた彼と、宿命のライバル・桃井の対決を描く。牧場智久は常に盤上で最善手を追求し続ける優等生タイプの囲碁であるのに対し、桃井は将棋の神に見初められているかのような天才的な碁を打つ。容貌も対極的。智久は、いかにも天才といった感じの美少年である。これに対し、桃井は非常に不潔でアニメオタク、態度も不遜である。性格は陰湿で陰険。ところが碁に関してはものすごい才能を持つ。桃井は、漫画ではどことなくかわいらしさがあるが、小説で読むと不潔の極致でちょっとお近づきになりたくないタイプである。

 この天才同士の激しいぶつかり合いを描くのであるが、その描写が非常に真に迫っている。碁の棋士たちでも名人クラスになると、微細な血管が切れて鼻血を噴き出すほどに集中するらしいが、そのギリギリの境地を突き詰めて描写する。鼻血を出すというほど頭に血が上ることについての医学的な裏づけも描写し、物語に厚みを持たせている。ところどころに差し挟まれる、囲碁の歴史などのウンチクもマニアならでは。頭脳を限界までフル回転させ、常人では届き得ない禁断の領域まで踏み込む。その領域はおそらく実際に体験した者でなければ分からないのであろう。だが、竹本健治の筆は読者をしてその境地を疑似体験させる(もちろんそれは「したつもり」にしか過ぎないのだが)。「神の領域」とでもいえるようなその境地の描写はこれまた古臭いのであるが、それだけに力強くもある。

 なお、この作品では周囲の人にいろいろと手伝わせて、なんとアシスタント130人という恐ろしい状況になっている。その中には島田荘司、綾辻行人、京極夏彦などなど、著名人も多数入り混じっている。そこらへんの詳しい事情についてはhttp://www.asahi-net.or.jp/~rj4m-kwc/takemotocomic.html に詳しいので、興味のある方は参照されたい。
「匣の中の失楽」表紙 「匣の中の失楽」