ブラッド・スノー

長田ノオト

ぶんか社

 耽美&猟奇の鬼才、ノオト先生*1の新作。基本線は今までのノオト先生の作品と変わりなく、耽美な青年とかわいい/美しい「少年」の「濃密な」関係と、昔懐かしい探偵もののエッセンスのミクスチュア。まさに乱歩先生的世界。探偵助手の半ズボン、発信機、ジャイロコプター、マッドサイエンティスト実験王(この「王」ってのが!)の猟奇的実験、実験王の操る怪タンク(戦車ではなくロボット)*2など、なんとも懐かしく、あまく、狂おしいような世界が展開される。思い起こすは少年の頃のあの日。

 が、言うまでもなく内容的には昔の探偵ものとは異なっている。メデタシメデタシの御都合主義的ハッピーエンドはなく、終わり方はかなり陰惨なものとなっている。さらわれた博士は拷問の末アタマのフタを開けられ、脳をぐちゃぐちゃにされて殺されるし、その娘(珍しく美少女)も兎に改造(!)されて死んじゃったりする。あらまほしきエンディングを迎えない、という点で、非常に作劇上面白いものとなっているのだ。それはノオト先生の描写の中心がつねに探偵助手のカノン君にあり、その他の要素は付け足しみたいなものなので、当然といえば当然なのであるが、それでも既存のオハナシの構造を軽やかにぶった切っている点で非常に面白いことには変わりがない。

 加えて、乱歩先生の少年探偵ものでは正面に現れることのなかったエロティシズムが、実に濃密に描かれている点も異なっている。もちろん本家の少年探偵にも、隠れた/そうであるゆえに魅力的なエロティシズムがあるのであるが、ノオト先生は、それを意図的に、そして実に実に楽しそうに、誇張して描いている。実験王と助手月彦の関係、そして実験王がカノン君に寄せる思いは、どれも俗に言うプラトニックなものではなく、かなりセクシュアルな欲望を含んだものとなっている。この誇張はすでに誇張を通り越して、過剰なものとなっている。ここにもノオト先生の面白さがある。新作ガロに載った、一見実も蓋もないホモ漫画が、ギャグ漫画としてきちんと成立し、他の漫画に比べても格段に面白かった理由もまさにここにある。

 さらに付け加えていうと、「少女」の扱いが極めてぞんざいであるというところも醍醐味のひとつである。前述した通り、少女は残酷に舞台から消し去られる。それは何よりも、探偵と助手・カノン君の関係を破綻させるからである。少女は、ノオト先生においては、少年とそれを導くものの、打算なき「清い」関係を阻害する邪魔者なのだ*3。この少女の扱い方は、一貫しているだけに実に清々しい。
 では、実は少女であるカノン君はどうなるのか。一見矛盾するようだが、実はここには矛盾は生じない。なぜならカノン君の描き方は「純粋少年」だからだ。カノン君は設定上では女の子かもしれないが、性を持たない永遠の少年として描かれているのだ*4
 ノオト先生はこの「少年性」に徹底的にこだわる。そしてそれは非常に自覚的/確信犯的である。エンターテイメントであることを忘れずに、それでいてみずからの理想の少年像を追い求める。この試みは微動だにしない。ノオト先生は、当代随一の「少年性」の求道者なのだ。

 このように、おいしい部分のたっぷり詰まったこの本、絶対に買いである。この面白さに触れることのない人、またはこれを拒否する人は非常に不幸である。悪いことは言わないから手にとって見ることを薦める。

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*1 世の中に「先生」と呼ばれる職業はいくつかあるが、政治家と漫画家を先生と呼ぶことに、私は違和感を感じてならない。しかし表現しているものが本当に頭の下がるものであるような、または全く独自の世界であるような人の場合は話は別である。そういう人を私は、人生においてものを教わるという意味で、進んで「先生」の称号をつけて呼びたいと思う。具体的には水木しげる、永野のりこ、唐沢なをき、長田ノオト、島本和彦、しのざき嶺、竹本泉などといった人が挙げられる。

*2 ロボットの怪タンクって、「脳天気教養図鑑」に出てたじゃん、と思った人、あなたは鋭い。このネタは唐沢から頂いたものであることは間違いない。他にも「大猟奇−−フォーラム脳天気」から頂いたと思しきネタもある。先生はかなり唐沢(特に俊一)をチェックなさっているようだ。

*3 このことは、ノオト先生がそのように真剣に考えているのではなく、ノオト先生が描くファンタジイの産物がそのような論理に基づいているということをさす。

*4 映画「1999年の夏休み」(岸田理生)で、純粋少年たちの肉体を演じたのは、第二次性徴を迎える前の少女たちであったことがこの傍証になろうか。少年を純粋少年にするより、少女を純粋少年に仕立て上げる方が容易い。少女は純粋少女でなくても、日常性と一定の距離を置いているものだし(紺野キタ「ひみつの階段」参照)、なんといっても美しさをもっている。だからこそ尚のこと、本当の「少年」を保護しなくてはならないのだが…。少女に「少年」を演じさせることは簡単な解決であり、いわば逃げである。