キャット・シット・ワン(1)
小林源文
ソフトバンク

 ベトナム戦争を題材にした戦争アクションもの…ではある。しかし表紙からそれを読み取ることはかなり難しいであろう。なぜなら表紙に描かれているのは、迷彩服を着て、M16ライフルを持った*1可愛いウサギちゃんなのであるから。
 オハナシはこうだ。アメリカ人の宇宙飛行士パッキーは、宇宙飛行中に重大な事故に遭遇する。何とか帰還するも、そこは人間の姿のない異様な世界であった。そしてそこではまだベトナム戦争が戦われているといった、パッキーの世界ではすでに終わっていることがまだ進行形の世界であった。パッキーは姿を変え、来世の記憶((c)荒巻)をもったままベトナム戦争に参加する。凄腕のスカウトチーム(斥候)のリーダーとして。

 ここで、アメリカ人はウサギ、ベトナム人は猫、フランス人は豚、ロシア人は熊、当然日本人はサルとして描かれている。このあたりに関する説明はほとんどなく、また、多少ミリタリーをかじった人なら説明はそれほど必要ではないだろう。パラレル・ワールドであるということは示されているのだが。そしてそれぞれのキャラクタは、きわめてキュートに…鬼軍曹パッキー(なんて可愛い名前なんだ!!)は特に…描かれている。
 このことはきわめて多重的な事柄を示唆する。

 第一に戦争の凄惨さが、*物凄く* 漂白されるという点である。小林の特徴は、残酷描写も辞さないハードミリタリーアクションにあり、周囲からもそう諒解されてきた。この本でも当然ナパーム攻撃といったハラショーな残酷描写があるのだが。その印象は大きく今までのものとは異なっている。なんてったってウサちゃんとネコちゃんの殺し合いなのだ。小林作品特有のリアルな人物描写がないぶん、戦争の姿がきわめて抽象化されているのだ。
 第二に、だからといって「人物」以外の描写は、リアル極まりないということである。ジャングル、銃器、ヘリコプター、町並み…すべてが今までの「小林節」である。キャラクタだけが大きく漂白された世界。ここに極めて強い違和感が生じる。
 第三に、「国民」とその姿が極めて強く結び付けられているという点である。別の国民は別の動物。それだけでもうここには対立関係にある諸国民には、対話の可能性も、融和の可能性も閉ざされていることがわかる。そして本来であれば「国民」の内部に存在するであろう様々な差異も、1種類の動物の種族という点に収斂されている。例えばアメリカの場合では、黒人という描写は意図的に削られている。すべて同じウサちゃん(あえてこの表現をする!!)なのだ。同様にベトナムの場合も、アメリカ側に立って戦う高地部族、ベトコン、北ベトナム政府軍は皆同じ描写になっている。ここにもう一つ存在するのは、「国民」を措定し、そしてそれを固定しようという目論見である。つまるところ小林のねらいは、国民国家という概念を復活させ、そしてそれを「実態のある」ものとして提示しようということにあるのだ。失われつつある「国民意識」や「愛国心」「国民の誇り」を取り戻すべく、このような描写をあえて選択しているのだ。
 同様の文脈は第四の点にも現れる。それは、一般に考えられる国民の「擬・動物化」と、ここでのそれが微妙にずれているという点である。言うまでもなくアメリカを象徴する動物はワシである。それが可愛いウサちゃん(繰り返すが、あえてだ!!)に *すりかえられて* いるのだ。無論この背後には、鳥では銃を持ったり撃ったりできないので、アクションに制約が出るという、作画上の問題を避けるためという理由がある。しかしウサちゃんという非・暴力的な、そして他者を傷つけるとはとても考えにくい属性を持った動物をアメリカに割り当て、猫という肉食動物をベトナムに割り当てることの背後には、明確な政治性が潜んでいる。アメリカこそが被害者、肉食のベトナムは領土拡張主義者という構図が見え隠れしてくるのだ。

 ただ、私の目的はサヨクの人たちのように、この背後に潜む政治性をあげつらい、それに由来する「危険性」を訴えることにはない。小林がこうした描写を取ってしまう、そして「取らざるを得なく」なってしまう背景が、そして小林がとるぎりぎりの態度が興味深いのだ。
 それはおそらく、「得体の知れないもの」に対する恐怖と、ナショナル・アイデンティティの喪失に対する不安であろう。それは今の時代を濃厚に彩っているものである。うよくはそれに対し明確に警鐘を鳴らし、サヨクはそれに対し明確な解答を示せずにいる。それが混乱を更に深める結果になっている。小林はその混乱に対し、明確な解答を欲しているのだ。多分に右の立場から。
 この「簡単に片づけようとする」傾向、「楽でいいじゃねえか」という志向に、私はオヤジ化をみる。自分の考えが固まったと信ずるオヤジが、物事を簡単に片づけようとするとどうなるか。それはきわめて頻繁に迂闊さを生む。論理は一見正しいようでいて実は破綻していたり、単なる勘違いを確信したりするが、「でも、俺はこう考える」で済ませてしまう。この「穴だらけ感覚」の微笑ましさ*2!無論、小林の場合は擬・動物化することによって一枚オブラートをかぶっており、まだ精緻さを失っていない。オヤジが簡単に到達してしまう大バロックの領域を、土俵際ぎりぎりで回避している。それは私からみると惜しくもあるが、その「ぎりぎりさ」がまた感興深いところでもある。

 一方で、小林はうすうす、国民国家という概念が、遠からず有効なものでなくなることに気づいていると思われる。経済・情報のボーダレス化はもはや避けられないものであるし、逆行させることもできない。だからこそ逆に、小林は「国」という概念を明確化させようと図っているとも考えられるのだ。あたたかい共同体としての国家。そして必然的になくなって行くそのあたたかさ*3。国家に帰属しようと考える人の、最後の(それは間違いなく最後であろう。ことに第三の開国を否応なく受け入れた日本においては)踏ん張りがここにある。あるいはそれは挽歌かもしれない。ひょっとしたら日本の国民概念は既に失われているのかもしれないのだから。その「悲しみ」も注目されるところである。

 2巻に向けてどう物語が展開してゆくか、きわめて楽しみな作品である。

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*1 ミリタリーに詳しい人なら、服のタイガーパターン、ジャングル戦用のM16ショートバージョンでベトナム戦争ものだと看破できるが。

*2 もうひとりの小林については多くを語る必要はなかろう。先に延べた荒巻先生も、この意味でかなり「行って」しまわれている。

*3 国民の共同体としての、アプリオリな性質を持った国家はなくなって行くかもしれないが、その一方で別の共同体や共同性が現れると考えられる。均質性を前提とした共同体ではなく、意見の違いとコミュニケーションを前提とした共同体が。それは意見を異にするものを含み込むので、簡単に安住できるものではない。しかしより深いレベルでの相互理解を産み出す可能性を持っており、やり方によってはいっそう安心できる共同体になる可能性を持っている。この可能性については、うよくも、サヨクも、あえて目をつぶっているように思えてならない。