ユリイカ98年6月号

特集 ボサノヴァ

 リスペクト・ジルベルト/ジョビンとなることは承知のうえで買ってみたが、案の定全くそのとおりであった。ただ、だからといってそれがよろしくない、というつもりはない。
 思うに、ボサノヴァは非常に特異で優れた音楽である。暑苦しすぎるブラジルにおいてこうもクールな*1音楽が成立したこともそうであるが、それが「たったひとり」の手によって作られたものであるがために。しかし、日本における受容はそうではなかった。その辺の商店街で平気で「イパネマの娘」が(日本風にアレンジされて)流れていたりする*2。「ドドンパ」*3などと同じカテゴリで語られてしまう高度成長期の日本的ケンチャナヨ感覚。日本に入ってくるときに大いに誤解されてしまっているその不幸。当然、「原典」にあたっているはずもない。
  こうして、ボサノヴァは「ボサノバ」として、「誰もが聞いたことがあるが誰もが知らない」音楽となってきた。誤解されきった音楽となってきた。スタンダードナンバーとなってしまっているので仕方のないことではあるが、やはり不幸なことである。

 そこでジルベルト/ジョビンを再評価する必要がでてくる。特にジルベルトを。スタン・ゲッツなどはとんでもない。ジョアン・ジルベルトの全くの独創であるこの音楽のいちジャンルは、いくつかの点で際立った特徴をもっており、それは我々の現在おかれている状況に非常に訴えかける面をもっている。

 第一に、その繊細さと、ポップミュージックとしての両面性である。
 第二に、メロディラインの優位と、「独唱」性である。
 第三に、きわめて強い洗練と複雑化の動きがあることである。

 第一の点は、「ポップミュージックとして作られながらも全く古くならない」という特異性からみることができる。あたかもビートルズがそうであるのと同様に、ボサノヴァは永続的な衝撃と、音楽がもつプラスの効果を持ち続けている。それを支えているのが繊細さであることは言うまでもない。「繊細さ」という言葉がある種マイナスイメージを抱かれるようになってきている現在に、このことは非常に重要なこととして写らないだろうか。

 第二の点は、現在の文化の集合性、特に集団制作体制に一石を投じるものとなる。ボサノヴァは基本的に一人でヴィオラォン*4を弾き、一人でうたうものである。そのような構造に最初からなっているのだ。確かにボサノヴァも、ジョビンによるトータルプロデュースやヴィシニウスの金銭的支援などなどによって作られてきたものであった。が、そこにはジルベルトという天才があったし、それなしにはまずボサノヴァの誕生さえもなかった。天才に頼り過ぎることは、少年ジャンプの現在をみても分かるように、危険なことではある。しかし、カットアップやサンプリングだけに走るのではなく、皆で知恵をしぼりあって一つの作品を作りあげるのではなく、一人の天才の霊感に眼を向け、耳を傾けることもまた重要なのではないか。天才が成立し得なくなっている現在においては、天才のなし得た仕事は一つの有力なオールタナティブとなる。

 第三の点は、産業化の圧倒的な進展の中、着々とすすむ文化の水準化において、一つの大きなアンチテーゼとなる。実際はWebの登場によって、文化の様相は多彩さを増しており、一昔前よく言われたような単なる水準化ではなくなってきている。しかし、表現された内容はそれぞれ、様式化・クリーシェが優位を占め、複雑さの度合いも低いものが多い。それはそれで現代的であって非難されるべきではないのだが、やはり文化を漁りまわる者としてはレベルの低さを痛感せざるを得ない。その点ジルベルトの方法は強い有効性をもつ。複雑化を洗練をともに高めてゆくという。また、この方法は、現在における「生き方」にも重要な示唆を与えている。日常を乗り切ってゆくには、複雑化と洗練は非常に有効な手段である。

 リスペクト・ジルベルト!まずはジングルと化し、古漬けのたくわんのようになってしまった日本の「ボサノバ」観を一掃することから始めなくてはならないだろう。ただ、それはさほど難しくはない。聞けばいいのだ、ボサノヴァを。それもジョアン・ジルベルトを。そしてそれを単に消費するのではなく、その背後にある創造力を、創造への力を、意識しながら聞くべきだ。参考書は「ボサノヴァの歴史」(ルイ・カストロ著、国安真奈訳、JICC出版局、1992年)だ。さあ行け!

Back


*1ここでは単に「涼しい」くらいの感覚で捉えている。
*2日本風「イパネマの娘」の最高のアレンジには、突然段ボールのファーストアルバム「成り立つかな」に収録されているものが挙げられよう。
*3近年のドドンパの名曲としては昨年度までの「うたってオドロンパ」の「かっぱ天国」がある。
*4ブラジルではガットギターをこう言うんだそうで。