カリクラ(2)カリクラ(2)

華倫変

講談社

 あたかもホワイト・アウトしたかのような独特の筆致で、現実の空虚感を描く作者が帰ってきた。しかも一段上手になって。

 構成は、新作の「カリクラ」4本と、少々昔の電話を題材とした連作5本。内容は、これがまったくうならされることしきり。特に、「カリクラ」のほうは名作ぞろいである。どれも共通するのは現実に対するシニカルな視点であり、現実から遊離した感覚である。気の弱い先生が生徒に輪姦され続ける、というオハナシの「大林寺先生」にそれは特によくあらわれる。先生は輪姦されたあと、変な自称・拳法使いに出会い、技を伝授されるのであるが、結局何も状況は好転しない。そこに古典的な意味でのドラマトゥルギーは存在せず、その意味では破綻しきったオハナシとなっている。が、だからといってつまらない作品ではない。滑稽な自称・拳法使いの造形が面白いからではない。無限に近く続く(であろう)日常そのものがもつ可笑しさが、シニカルな視点から暴き出されているから面白いのだ。

 通常は「無限に続く」日常は、楽しみとはとらえられず、一種の苦行として認識される。「たりぃ」という言葉からもそれは明らかだ。華倫変の場合も、たしかに「かったるい」日常をある面で呪詛し、憎みきっているところがある。ただかれの場合はそこに介在する悪意と、かれ特有の諧謔精神によって、表現されたものがエンターテイメントになっている。どれだけ意図されたものかは分からないが。この、意図の介在しない、「無作為なアマルガム」とでもいったものが、彼の漫画の面白いところなのだ。普通はこれだけで十分である。ところが面白いことに、彼はそれだけにとどまらず、現実肯定の方向へと向かう。

 この方向は二つの作品から見ることが出来る。まずは、男に生まれたことを間違っていると思っている少年と、筋金入りのホモのアメリカ人留学生の交流を描く「バナナとアヒル」において。この作品は構造としては完全にギャグである。「ソレはアナルマジックね」といった阿呆な台詞回しや、バリバリに入った偏見といったレベルで、まずはとことん笑える。また、主人公は同性愛に目覚めるものの、見ず知らずの男に脅され、強姦されてしまう。一見悲劇なのだがここには悲惨さはなく、「そういうものだ」といった感じで淡々とオハナシは進む。なんとも人を喰ったような展開。こうした冷めた笑いの背後にあるのは、一言でいえば諦観だ。圧倒的な無力感、手のつけようのない巨大な退屈。しかしその中でも少年はホモの留学生に恋をする。それは巨大な流れに竿をさすような*1努力ではない。かといって、日常よくある「ちょっといい話」とも少々異なっている。それは現実に納得はしないまでも、また「なんとなく」ではあるものの、世界=現実のなかに自分を位置づけようとする試みなのだ。その背後には、当然、「現実」を受け止めるという姿勢がある。

 そしてもう一つは、近世を舞台にし、花柳病を移されて死に瀕する遊女が主人公の「桶の女」に見ることができる。家もなく家族もない遊女は、どこからか拾ってきた大きな桶の中で日に日に衰弱してゆく。もはや助かる術はない。彼女に病気を移した僧はぴんぴんしているというのに。すまなく思ったのかその僧は、病床の彼女の目の前に、へたくそな花の絵を貼ってゆく。彼女は僧を、世の中を呪詛するが、やがて衰弱のあまりそれすらしなくなる。最後に思うのは「まあいいか、ここには花があるし」。
 確かにこれも諦めである。だが、現状を憎むだけでは何も解決しないのもまた事実だ。人間一人の力ではなかなか現実に対抗するだけの世界を構築しきるのは難しい*2。だったら、今自分がここにいる「現実」から「花」を探すのが賢明なのではないか。華倫変がしめす現実肯定はそこまで断定的なものではないが、現実をまずは受け止める、というところから始まっていることには変わりはない。

 すべて諦めよ、と言うつもりはない。納得せよ、そうすれば楽になる、というつもりもない。だが、辛い現実を拒絶するあまり現実の中にあるいいもの、楽しいもの、美しいものを「見ないようにする」のはあまりにも切ない話ではないか。まずは現実を受け止めることが大切なのだ。華倫変がそれを意識しているかどうかは分からない。しかし、少なくとも、そうした方向性を提示している(してしまっている)ことには変わりがない。その点で、この作品集は非常に読み応えのあるものになっているのだ。

 ヘンな作品に見えようが、地味な作品に見えようが、だまされてはいけない。これは名作だ。

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*1 「竿をさす」タイプの漫画家には山本夜羽がいる。榎本ナリコ(ノビタでなく)もそれに近い。かれらの特徴はすべてを無に帰する「流れ」に対して「自分」を刻みつけようとすることだ。近代的コギトの抵抗。
*2 不可能ではない。事実、優れた「作品」(特に大河小説など)の背後には必ずや構築された世界がある。それが受け手を惹きつけるわけだ。また、世界を構築する作業がむなしいというつもりはない。