未来のゆくえ
やまむらはじめ
少年画報社



 「ヤングキングアワーズ」に掲載された短編を集めたもの。『最後の夏』『最後の夏Second Take』『よるのむこうに』『まつりの季節』『肩幅の未来』『OUR DAYS』の6篇の短編から成っている。

 やまむらといえば、『ハイパーボリア』『ガンスミスハウンド』などのSFテイストの強い続きものの作品で知られていよう。また2000年現在、SF要素を前面に押し出した『エンブリヲンロード』(コミックガム連載)、伝奇ものの『カムナガラ』(ヤングキングアワーズ連載)という二つの月刊連載をもっている。「やまむらはSF/ファンタジイの人である」という認識は間違いなく存在しよう。米村孝一郎、松本嵩春などとともに。

 だが、この作品集では、SF要素も伝奇的要素もいっさい登場しない。舞台は現代、登場人物は普通の男女。語られる物語はそれぞれの登場人物が置かれた立場や状況に忠実に由来したもの。謎のエネルギーも霊的な剣も登場せず、「大きなオハナシ」もない。きわめてどこにでもありそうな物語である。

 それは、今までのやまむらからすれば意外であると言えるかもしれない、しかしここで語られる物語は、実に重く、力強い。
 なぜか。第一に、SFやファンタジイ的小道具や世界観が介在しない分、オハナシが「日常」に結びついているからである。どこか別の世界の誰かの物語ではなく、隣にいる誰か、いや、私の物語が語られるのである。ひそかに思いを寄せる死んだ友人の彼女。負傷して走れなくなったランナーの、走ることに対する複雑な思い。そうしたごく身近な物語が、われわれに深い共感を呼ぶのである。現実と違うところからオハナシをはじめることを否定するものではないが、自らの問題として語られる物語は、やはり強い影響力を持つといえるのではないか。
 第二に、ここで物語は、台詞によって語られていないからである。たとえば『肩幅の未来』。中島みゆきの曲のタイトルを持つこの作品は、一見実に単調に感じられる。コマ割りはどのページでも等しく4段に切り分けられ、登場するのもごく普通のカップル。オハナシは彼氏の家に彼女が遊びに来て…というもの。何の特徴もないように見える単なるホームドラマのように見えるのだ。だが、それはすべてやまむらによって意図されたもの。単調なコマ割り、コマの両端になるよう配置された台詞、視線の動き、説明的要素をほとんどいっさい排除した台詞内容から見えてくるものは、見た目の単調さからはとても信じられないような深く、痛いオハナシである。見た目が単調であるそのために、オハナシの痛みは増幅されるのであり、そこから実はやまむらの意図はそこにあったことが導き出される。

 そう、やまむらは過剰な説明や、SF/ファンタジイ的な要素が重要な位置を占め、それが大勢を占めている現在の漫画状況とは違う方向から、作品を作り出しているのだ。確かにそれは、分かりやすさを重視する現在の文化状況からすれば、わかりにくい方法である。だが、それは我々に本当の意味で「漫画を読む」ことを要求する。そして、我々は作品を読み、自分の内面に反映させる。読み飛ばすタイプの作品*1では得ることのできない感動が生まれ、深く深く我々の内面に訴える。

 さらに興味深いことに、やまむらはここでの方法論を「大きなオハナシ」を持った作品でも使っている。『エンブリヲンロード』でも、『カムナガラ』でもだ。世界観、小道具が成功すればそれで良し、キャラクタの造形はその次、という少年/青年誌(より正確に言えば「新・少年誌」*2)に良くある漫画構造に、かれは別の視座を導入しようとしているのだ。そしてそれはきわめて力強い。現状に対するオルタナティブであり、新たな視角*3を導入するのだから。

 漫画に勢いがなくなったとよく言われる。それは産業としてはそうかもしれない。しかしそれは決して漫画がつまらなくなったり、表現として力を失っていることを意味するものではない。どんな文章による作品が呼び起こす感動にも、どんな映像による作品が呼び起こす感動にも、この作品集が呼び起こす感動は決して負けるものではない。
 「漫画がつまらなくなった」。そんな簡単なことを言う人間は、単に漫画を読んでいないだけである。傑作はここにある。新たな可能性もここにある。愚か者の言説に耳を傾けてはいけない。

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<注記>この本については、私吉本松明は「やまむらはじめ『未来のゆくえ』を読む」というコピー本を作っています。コピー本においては、図像分析を軸としたより深い分析を行っています。よろしかったら買ってくださればと思います。こちらをご覧下さい。

1 私はだからといって「読み飛ばす」タイプの作品を否定するつもりはない。こうした作品があるからこそ現在の漫画分化の隆盛があるわけだし、こうした作品の売り上げが、さほど商業的に成功を収めないであろうこの手の作品の出版を支えているからだ。

*2 ガム。電撃大王。マガジンZ。ウルトラジャンプ。少年エース。エースネクスト。面白いことに、たいていどの雑誌にも毛色の異なる作品が掲載されている。たとえばエースには『エヴァンゲリオン』が、ウルジャンには『アガルタ』が。「良くある漫画」があるから、こうした作品は引き立つのであるし、そのコントラストから生じる「グルーヴ」のようなものが漫画雑誌を規定する。だからここでは「良くある漫画」を批判しているが、雑誌の中では欠かせない位置付けにあることは認めているし、すべてを十把ひとからげに否定しさるつもりはまったくない。

*3 もちろん「絵で語る」「等身大のオハナシを語る」という試みは、漫画の歴史の中にずっと存在する潮流であった。手塚治虫は初期は前者、晩期は後者において画期的な足跡を記した。前者の実験に自覚的であったのは石ノ森章太郎だった。後者で顕著な作品を残している作家にはつげ義春や永島慎二がいよう。だが現在において、こうした実験に自覚的に取り組んでいる作家がどれほどいよう?熊倉裕一や荒木飛呂彦といった明かな例外を除けば。そこでここでは「かつてはあったが、今はない」という意味で「新しい」という言葉を使っている。

Last-Update: Monday, 15-Aug-2016 09:52:39 JST