終わりなき日常を生きろ

宮台真司
筑摩書房

 


 

 最近の小学生殺害事件で引っ張りだこの社会学者が、オウム事件について「語った」本。聞き書き、とのことなので、論理に一貫しないところはあるし、極論に走り過ぎているきらいはある。恐らくは出版を急いだための措置なのであろう。ゆえに、ここで語られていることも、半分近く割り引いて読まれる必要がある。

 ここで彼が言わんとしていることは、「現代の辛い社会に適応し、生きぬくすべを学べ」ということである。確かに一面ではそうしてスキルが必要になる局面はあろう。しかしそれは、どうしても、現状を徹底的に肯定し、即物的にならざるを得ないという側面を抱く。確かに、夢や幻想に逃避しきってしまうことは、何も生み出さない不毛なことである。が、こうした生き方は、まさに唯物論なのであって、ものの背後にロマンと思想性を見出し、それに惹かれていく「濃い人」、少しレベルが違い、その思いも変質したものになるが「オタク」の生き方や感じ方とは相容れない。実際は、オタク的なものや濃い生き方は、文化を生み出す上で必須のものなのであるが、宮台真司の示す方針は、文化を衰滅させるものに他ならない。確かにオウム的な物の考え方はオタク的なるものに立脚してはいるが、それを単に「不適合」と切り捨ててしまうのはいかがなものか?まあ、私の考えは「オタク−非・オタク」の乖離を進めるものではあろうが、社会は単層的なものに収斂されるべきものではなく、つねに複合的なものであるはずだ。ゆえに、私は、宮台真司の考えに明示的に反対しておきたい。

 必要なのは、単純な構図にまとめてしまうことではない。確かに宮台真司のいうとおり、現実は辛く、抜け道はないように思われる。が、永野のりこを見よ、遠藤浩輝を見よ。辛い日常の中でも、出来るところまであがき、ぎりぎりになりながらも人間のやさしさを信じている人たちがいる。その中で、徹底的にあがき、コミュニケーションを取り、よりよい方向を模索してゆく、それが大切なことではないだろうか。答えを急いでも、何の解決にもならないと思う。

 可能性としては、ユルゲン・ハーバマスのごとく、わざとブルセラ学者という頑固な立場を選択していると見えなくもない。例の権力論を読むかぎりでは、彼の考えは単に一面的なものに収斂しないように思われる。わざとやってるというのであれば実に恐ろしいことだ。まあ、私の後輩はこう言っていた。「馬鹿を演じているうちにほんとに馬鹿になる人も多いから」。にんともかんとも。ニンニン。

 

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