観用少女(プランツ・ドール)

川原由美子

 世の中に女(女性)はあまたいるが、「少女」はほとんど存在しない。萩尾望都「先生」が描くような「純粋少年」に比べれば、まだ数は多かろうが、日常的にほぼ見出し得ないという点では変わりがない。誰しも、男性でさえも、多かれ少なかれ少女の要素は持っているのであるが、少女以外の要素を持たない、「純粋少女」を見出すのは、ほぼ絶望的なことである。
 なんとなれば、まず日常性を超越した次元に至らないと−−少なくとも経済の問題から完全に自由でないと−−そうした純粋性は育たないからである。もうひとつ、節制の効いた趣味の世界に接していないと、同様に純粋性は育たないからである。日常の生活の思案から逃れ、いいものだけを見、いいものだけを聞き、いいものだけを味わう。こうでなくては純粋にはならないのだが、テイストレス=無趣味な今の状況では、それは望むべくもない。それに加えて、性的なイメージから自由でないと、純粋は得ることができない。俗に言う方の「プラトニック」なものでないといけないのだ。少女をかわいいと思う、抱きしめたいと思う気持ちは、性的なものから生まれ、それとの関連を完全に断ち切ることはできないものであるが、それと別次元のものへと切り替え、昇華することもできる。これは「美」を愛好することと共通する。少女のもつ「美」を賞揚しなければならないのだ。性的な対象となってしまうと、少女はその崇高な美を失い、とたんに日常性のレベルまで引き下げられてしまう。純粋とは手をつけてはいけないものなのだ

 かように、純粋少年、純粋少女は、現在の社会において見出すことはほとんどない。まさに「奇跡」なのだ

 だが。人はパンのみにて生きるにあらず。日常性のさなか、人は奇跡に憧れつづける。圧倒的な日常に潤いを与えるため、あるいは日常から逃れようと言う心の動きの現われかもしれないが、ともあれ人は純粋なものへの憧れを持ちつづける。

 そして、奇跡をあなどってはいけない。妄想と同様、この手の奇跡は現実世界にも容易に侵入し、それに強い影響を与える。妄想と違い、奇跡は、純粋は、そして理想と言い換えてもいいだろうが、これは多くはプラスの影響を与える。何をプラスとするか、という問題はあるだろうが。
 人が複雑化し、文化を洗練させてゆくのは、ひとえにこの奇跡に近づかんとしているためであるといえよう。人は堕ちゆくことに魅力を感じる一方、イデアを願う心も持っている。

 この本は、純粋少女を描くことによって、現代における「奇跡」を追求するものである。堕ちるのは簡単だが、イデアに向かうのは針の穴を通るより難しい。そのため「堕ちゆく方向」に針が振れすぎている現在、こうした奇跡への追求は、絶対に必要なことであるといえる。現在において、奇跡の価値は(堕落が蔓延していることによって)低められているが、奇跡によってのみ成立するものもあり、そしてそれは人間にとって失ってはならないものである。奇跡を失ってはならない。そして奇跡に必然的に付随する「夢」も。

 人は夢なくして、実りある生をいきることはできない。この作品はその「夢」を抽出し、見事に結晶させている。

Back