染盛はまだか

清田聡

講談社

 今はしがない窓拭き職人。しかし本当はギタリスト(ギターは修理のため分解中)の染盛を中心としたドラマ。

 驚かされるのはそのリアルの感覚である。確かにキャラクタはかなりカリカチュアライズされている。インドを目指すマリファナ愛好家。むかつく同僚。切れるとオカマ言葉になる元ボクサー。うだつの上がらないスタジオミュージシャン(女に養ってもらっている)。だがそれらのキャラクタはいちいち存在感があって、どこか抜けているところがあって、人間くさい。描線がねちっこいところもその感覚を強化している。

 また描かれるエピソードもまたいちいち微笑ましく、その分だけ心動かされる。捨ててあった冷蔵庫の帰属を廃品回収業のあつかましいオバサンと争ったり、久しぶりにセッションをするも、内縁の妻に逃げられたドラマーが連れてきたオコサマにめちゃくちゃにされたり、口の減らない生意気な後輩に頭にきたり…と、今までの漫画的ドラマトゥルギーとは一線を画したところでオハナシが進行して行く。どこにでもありそうなお話である。しかしこれはマンガという点では二重に異化効果を持っている。第一に、作られたオハナシを旨とする青年漫画との距離感である。第二に、だからといってここでのオハナシは完全に日常を下敷きにしているのではなく、漫画的に*1エンターテイメントになっていることである。最終話で展開されるカタルシスは、冷静に考えると日常的ではないものの、それまでの日常的なるものへのアプローチがあるため、実に力強く読み手に訴える。日常的なくだらなさやつまらなさ、そして当然それが持つ「力」と、漫画的エンターテイメントが、高度なレベルで結合しているのだ。

 こうした方法論は実は以前にもあった。俗に「特殊漫画」と呼ばれる系統の漫画である。根本敬、山野一の漫画*2のドラマは、常に日常を醒めた目で、冷徹に受け止めたところから発していた。例えば根本の名作「天然」は、田舎のムラ社会にがんじがらめにされる主人公・藤吉の姿を描いていたし、山野の作品、ことに「パンゲア」に載っているような作品は、下層労働者たちの生活を描くことから始めることが多い。もちろん彼らは単に日常を描写しているわけではない。そこに戯画化の作業を加え、エンターテイメントにしているのだ。

 清田聡の方法と根本、山野の方法は、実は非常に似通っている。その背後には、根本、山野の(漫画の)仕事量の減少があるのかもしれない。旧・青林堂的な意味での「特殊漫画」は現在はすたれてしまっている。根本敬は漫画を描かなくなってしまったし、パートナーを失った山野一は昔のような漫画をおそらくは決して描かないであろうからだ。

 清田がその流れを引き継ごうとしているかどうかは分からない。しかし背後にある日常への視線と−それはきわめてあたたかいものだ−、エンターテイメントへの志向はきわめて共通している。系列こそ違うかもしれないが、清田は現在の「特殊漫画」の正統後継者といえるのだ*3。その視線、ただものではない。

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*1ここでの「漫画的」という言葉は、少年漫画などの様にマンガマンガしたオハナシを作るのではなく、「漫画として読めるように」オハナシを加工する、といった意味合いである。

*2「特殊漫画」についてはさまざまな定義があろうが、ここでは旧・青林堂系列の定義にある程度従ってみたい。漫画のエリアで一般化しているのは旧・青林堂の定義であろうから。

*3染盛の部屋に描かれている漫画雑誌が「ガロ」であったり「アレ!」であったりするのが、このことの傍証になるかもしれない。