パソコンを疑う

岩谷宏

講談社現代新書

 岩谷宏に関しては、すでに「インターネットの大錯誤」でその「凄さ」を取り上げているが、この本もなかなか凄い。

 掲示板で樺澤さんに言われたので、この人の過去の作品をあらかた読んでみたのだ。そしたらこれが二重の驚き。最初の驚きはコンピュータを介したコミュニケーションへの切実とも言える希求。コミュニケーションの可能性としてのCMCメディアをかなり早い段階(80年代半ば)から取り上げているのだ。これは学問的に見ても見るべき点がある。また、かなり良いことも言っている。「閉ざされたワープロ専用機より開かれたパソコンを選べ」とか、「電子メールこそネットワークの鍵である」とか。その辺は私も十分にうなづくところだ。まずはこの点については、きちんと評価しておこう。ところが第二の驚きは、読む本読む本、皆おしなべて、かなりレベルの高い、トンデモ本であったことだ。

 この人の文章の特徴は、分かりやすい言い切りにある。たとえば「ワープロ専用機は日本人的に馬鹿である」とか、「現在のソフトウェア産業は存在してはならない産業である」とか。これはコンピュータに対して距離を感じている人には、実に魅力ある、聞き入れられやすい言説である。その一方でこの人は、リベラルで、開かれたコンピュータ環境を熱心に説く。たとえばWin95など、この人にとっては、二重の意味で極悪な存在である。第一にブラックボックスが多く、ユーザのカスタマイズの余地がない。そして第二には、その圧倒的なシェアを持って、オルタネイティブの存在を排除するからである。現在パッケージとして売られているソフトもまた同罪で、この人はパッケージソフトの撲滅を叫ぶ。
 そこでこの人が推奨することは、ユーザが自分でプログラムを組むことであり、要求することは、それに適した「開かれた」コンピュータ環境である。ユーザの使い方に対して、プログラミングにたいして、開かれていなければならないとしているのだ。直接には言っていないが、OSさえ自分のハンドメイドでなければならないという主張さえうかがえる。

 注意して欲しい。ここには矛盾がないだろうか。一方でかれは現在のコンピュータ業界を痛烈に批判し、切り捨てつつも、開放を求め続ける。そもそも、この人が批判するコンピュータ業界も、人間の意識/無意識の産物ではないだろうか。こうした面も人間性の一面ではないのだろうか。ところがこの人はそこを全く考慮していない。きわめて分かり易い構図である。産業=悪、市民=善。やれやれ。思い出すのは「闘争の季節」。

 もう一つ見えかくれするのは、選民意識とでもいうものである。前述したとおり、この人は今のコンピュータ産業をあっさりと非・人間的として切り捨てる。その背後にあるのは「真正なる人間像」である。かれには「産業社会に毒されていない真の人間らしい人間像」が措定できるのだ。このこと自体を嗤うことはやめておきたいが、現状においてはあまりに簡単かつ単純な割り切り方であるといえよう。だがかれは積極的にそうした人間像を設定しようとし、自分自身をその座につけようとしている。

 昔「ロッキン・オン」に携わっていたこともあり、この人はカウンター・カルチャーバリバリの人である。そこに(実に興味深いことに)、オヤジの頑固さが加わっているのだ。そして自ら意識しないうちに、その二つはフュージョンし、「排他的な『リベラリズム』」が形成されている。開放を訴えながら一方で平気で囲い込みを行う、ヘンテコな境地に達しているのだ。

 また、もう一つの無意識がここに介在する。PCやネットを絶賛するような、その「薔薇色の未来」を称揚するような論が大量に現れる一方、それに警鐘を鳴らすような論もこれまた大量に現れている。C.ブロードの「テクノストレス」を嚆矢とした、クリフォード・ストールが訴えるような「反・ネット論」や「反・PC論」である。この考えの背景となっているのが、産業化・「文明化」が進行する過程でいやというほど繰り返されてきた「新しいものへの無意識的な反発」である。この考えの主な主張はこうだ。ネット上のやりとりは対面状況に由来する人間の細やかなコミュニケーションやふれあいをなくす。ネットは人間性を失わせるものだ。だから旧来の対面的なコミュニケーションを復活させ、人間性を取り戻さなくてはならない、と。
 ところがこの考えには理論的な裏付けは何もない。ネット上でもかなり内容の濃いコミュニケーションはなされているし、ネット・コミュニケーションが旧来の人間性を崩壊させるというのは大きな間違いである。そこに現れているのはコミュニケーションやコミュニティの新たな姿であり、既存のそうしたものと同居しうるものである。この考えが有効性を持ちうるのは、新しいものに対する無意識的な反発という、感情的なレベルにおいてだけである。こうした感情は人口に膾炙し、それがこうした本を--しかもかなり辛辣に現状を批判した本を--要求しているのだ。この人の著作のあり方はこうした文脈によらなくてはならない。「本が出る」ということ自体が大きな無意識の上に成り立っているのだ。ただこの人はかなり早い段階からPCに親しみ、PCについての著作もものしてきた。だからこうした無意識をそのまま受け継いでいるわけではない。しかし、パイオニアであるが故に、それをまた自負しているが故に、新しいフェーズの登場にとまどい、ついてゆけないと感じているのだ。だから面白い状況が発生する。一方でPC世界の可能性を信じたがっているが、もう一方で社会的無意識に由来する反発を感じているのだ。

 そんな状況だから、この人の著作は実にヘンテコなものになっている。年代が新しくなればなるほどそれは顕著になる。頂点を極めているのがこの本と、以前レヴュした「インターネットの大懐疑」である。

 ただ、ここで私は「リベラリズムに踏み絵を!!(ソウル・フラワー・ユニオン)」などと叫ぼうなんて野暮なことは思わない。これはこれで愛すべき人間の心の動きである。そしてこの心の動きが加速すればするほど、暴走すればするほど、書かれた文章は味わい深くなり、微笑ましさが増す。だいたい考えてもみて欲しい。意識的に考えられ、作られたトンデモ本に、面白いものはあろうや?トンデモ本は無意識の産物であるからこそ面白いのだ。
 最初にあげたように、この人はかなりいいことも言っており、「正当に」評価できるところもいろいろある。が、残りはすべて高度で、良質な、トンデモである。無意識にとらわれているという点と、みずからの言説に徹底的に自信を持っているという点で。特に最近の二冊は素晴らしい。読まれるべきではないが、愛されるべき本である。

 マジでこの人の話を聞いてしまう人には聞かせておけばよい。パソコンを難しいなどとぬかすおっさんには言わせておけばいい。大切なことは現有戦力をいかに主体的に使うか、である。ぐだぐだ言う前にパソコンを買って、ネットにアクセスせよ!

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