どうにかなるどうにかなる
町田康+The Glory
ビクターエンターテインメント VICL-708




 「駐車場のヨハネ」でちょっとパワーダウンしたか?と思わせた町蔵が名前を変えて戻ってきた。しかしどうしてこう重要な詩人&パンク歌手がWeb上に姿を見せんのだ。ドリアン助川のようなへっぽこ詩人は出てくるというのに。まあそれはいいとして、相変わらずもの凄く豊穣に展開される詩的イメージには唸らされる。ファッションマッサージの個室で「翔は飲み陽子とホイだ」り、運転手ハンマーで殴っちゃったり、空想世界の中で羽ばたく想像力の広さは他の詩人には真似のし難いものだ。詩的言語の現代を示すという点でも重要なアルバム。この点で徹底的に町田康はドリアン助川を凌駕している。社会派詩人というスタンスはあり得ようが、その詩において展開されるイメージが即物的なものでしかないというなら、言葉によって聞き手の内面に広大なイメージを喚起できないとすれば、詩人としては失格ではなかろうか。私は「叫ぶ詩人の会」のCDも聞いたが、なんだあれは。詩は直接社会に影響を与える類の表現媒体ではない!詩で説教してどうする。詩で社会を変えられるものか。詩で変えられるのはきわめてパーソナルな心象世界であり、社会とは間接的に関わるものでしかない。確かに町蔵の詩の中にも現代社会に対するもの凄い鬱屈と不満、解消の可能性が示されているが、それはあくまで詩の中に現れるモチーフに過ぎない。ところがドリアンは詩を持って社会を解決しようという性急さのみが目立ってしまうのだ。結果、その表現は苛立たしいものになる。ドリアンをいい詩人だなんて思っている人はそういないだろうが、もし思っている人がいたらすぐにその考えを改めるべきだ。
 ただ、私は詩人以外のドリアンの活動まで否定する気は毛頭ない。「もう君は一人じゃない」を読んだのだが、結構いい回答をしているのだ。だからかれは詩人であることをやめて、社会活動家になるべきなのだと思う。


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