"lain"をめぐる二人の対話

登場人物

吉本松明…Ionisation主幹。世の中は悲しみに充ちているとの想いを最近さらに深める。そこに生じる「切なさ」を何とか書き留めようと日夜努力中。
松明先生…自称少女学博士。世の中は虚偽と悪徳に充ちているとの想いを最近さらに深める。全てを超越した純粋思念の世界を求め日夜努力中。

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吉本 希代の怪作か、はたまたよくまとまった掌編か分からなかった特殊作品、「ナスカ」の後に始まった、"lain"について語り合ってみようじゃないか、先生。

先生 うむ。

吉本 まずはオハナシから語ってみようか。まだ5回しか互いに見てないわけだが、俺はこのオハナシの構造を支持したいね。主人公レインは自分が何者か知らないか、あるいは忘れてしまっているわけだが、このような構造はアニメでは今までなかったことだ。もちろんSFやミステリでは「ここはどこ?私は誰?」ものとして定着した手法ではあるが、それをアニメに導入したことは積極的に評価していいと思う。

先生 わたしはお話の構造そのものについては判断を保留しておこう。なんだかとんでもない方向に進む可能性もあるように思えるからな。ただ、最初から受け手に謎を提示するやり方はあまり褒められたものではないだろう。少女主義の基本は「分かり易さ」だからな。

吉本 確かに視聴者に「預け過ぎ」の感は強いね。これもまた「エヴァ後」の顕著な現れだ。エヴァ→ウテナ→ビバップ→レイン、っていう流れ、傍流、または一寸かすったものにはエスカとかナデシコとかが在るわけだが、その流れに乗り過ぎてしまっているきらいはあるかもしれない。

先生 その流れ自体にけちをつけるつもりはわたしにも無いのだがな。少女主義を離れてしまうが、説明過剰なあざとい悪おたく向けの作品に比べればよほどましだからな。なんだあの「ロスト・ユニバース」とやらは。だが抽象化し過ぎるのも困りものだと思うぞ。

松明 だけど、文学ではそれは当たり前のことだったじゃないか。作品が提示され、それを読者が解釈する。文学ではそれが当たり前だったわけだけど、アニメはまず商品性が先に立ってしまっていた。また、子ども向けという大前提に縛られすぎていた。だが、エヴァの登場以後、「解釈」は許容されるものとなった。エヴァの最大の革新性というのはここにあったと思うのだけど。ようやくアニメは文学に追いついたっていえるのかもしれない。まあ、もちろん、文学的だからすべて良い、すべて正しいと言うつもりはないけどね。

先生 抽象化をするにもそれに適した次元や題材というものがあるはずだ。この作品はまさに少女主義を代表するような年代の少女を扱っているのに、あまりにも先鋭的に抽象化を進めているように思えるのだがな。

松明 このことについてはこう解釈したほうがいいんじゃないかな。この作品が扱っているのは現代におけるリアルの感覚の揺らぎで、それは具体的な方法論を採るよりは観念的・抽象的方法論を採ったほうが伝わりやすい。その分歯切れは悪くなるわけだけど…。ともかく、抽象的テーマが先にあって、それを具象化する際に少女という依代が選択された、というふうに。

先生 それは分かっている。しかしそうであればあるほど、表現様式、簡単に言えば少女の描き方と様々な小道具といったものだが、と描かんとする内容の間に乖離が生じるのではないか。少女の少女らしさと、「ハードなテーマ」との間に、重大で回復し得ない溝が生まれるのではないか。そもそも、そういう抽象的なことに少女を担ぎ出すこと自体が、悪しきおたく共への迎合であって、少女をその本来の素晴らしさから引きずり落とすあざとい行為だ。可愛い女の子が出てくればそれだけで眼を惹くからな。こうした点からも、レインの描き方にわたしはあざとさを感じてならないのだ。

松明 でも先生、アイデンティティ・クライシスに苦しむ主人公がむさ苦しいデブだったら誰も見ないんじゃないかな?

先生 少女主義の啓蒙のためならば、少女の持つ商品性、これは認めたくないが、を使うことは正当化され得る。しかし少女の良さを別の目的を完遂するために使うことは、わたしには承服しかねる。

松明 …しょうがないなあ。


松明 じゃあ描き方が出たところで聞いてみるけど、先生はどうだい。あのパジャマ。部屋に沢山あるぬいぐるみ。少女たちのナビの使い方。当然のように使われるまる文字体のフォント。そのほかそのほかの表層的なものは。

先生 うむ…。表層的な部分ではかなりよく出来てはいるんだが。特にあのパジャマは、少女主義の最高の上澄みの部分と言ってもよいものだと思うのだ。「ぼけぼけの方のレイン」ならあれを自発的に選びそうではないか。そういう「かわいいもの」への志向が感じられるところは確かに表層的ではあるものの素晴らしいとは思うのだ。だが…ダブル・ミーニングだからな。それが分かってしまうぶんわたしとしては切なくなる。

松明 少女たちが「かわいいもの」に耽溺し、子どもっぽい世界にいればいるほど、「シャープなレイン」、そして新たな形のリアリティが明確な形で描き出されるというわけだね。

先生 だから!繰り返すが、本当はそういった抽象的な議論のネタとして少女を使ってはならんのだ。少女は何かを媒介するものや、何かの触媒になるものではない。まずは少女は「それ・自体として」賞玩されねばならん。この作品では少女に対する愛が感じられないことはない。村田蓮司を彷彿とさせるキャラクターデザイン、小道具の提示の仕方、そのほかそのほかからそれは明らかだ。が、それは同時に現実を描き出すための触媒ともなっている。そういう「少女の二次的な利用」には、わたしは断固反対せざるを得ない。

松明 俺はいいと思うけどなあ。訴えかける力の強い少女を依代にすることにより、またキャッチーな…それはサイバー志向の若者にも、少女たちにも…アイテムを登場させることにより、現代のリアルワールドの「すがた」を、そしてサイバースペース(この作品ではワイヤードって言っているけど)の現在における「現前」を、力強くあらわしていると思うから。神は細部に宿る。戦略的に、効果を持つように、配置されている「かわいいもの」たちにはうならされる。

先生 ふん。それで結局は相対化の堂々巡りに陥るわけだ。二義性を持った「もの」は限りなくその意味をだぶらせてゆく。そしてそのものが持つ本質、すなわち本当の良さはどんどんぼやけてゆく。なにも判断できない、なにも感動できない世の中が来るだろう。ああ、文化の終焉。それを回避するためにも軸線の設定は必要不可欠だ。少女、という軸の。

松明 でもさあ、よく考えてみると、「レイン」のテーマっていうのはそこに関連して来るんじゃないかな?確かに先生の言う通り、善悪の基準は失われ、モラルやマナーといった言葉は死につつある。そこにサイバースペースに代表される現代の変化が絡んでいることは疑いのないところだ。だけど、サイバースペースとリアルワールドのかかわりはそう単純なものではないはずだ。リアルワールドはサイバースペースによって「侵略」されるのではない。両者にはそれぞれの「リアル」の姿があるのであり、かといって両者は分離しているのでもない。両者のぶつかるところに新たな形の「リアル」が生じ、それに合わせた生き方、人とのつながり方が生まれる。倫理、と呼び変えてもいいと思うけど。レインの描こうとしているのはそうした新たな次元なのではないかなあ。そしてその次元で何が作り出せるか、ということなんじゃないかなかぁ。


先生 どちらにせよ絶対性は失われると、か。弁証法の甘い罠だ。わたしには信じられぬな。人はどうしても絶対性を求めてしまう。何ゆえ「自分捜し」や資格の取得が流行るのか。それは自らを絶対化し、拠り所にしようとしているからだ。宗教が流行るのはなぜか。絶対性に帰依したくなる傾向を人が持っているからだ。ひとはかくも弱い。弱さを引き受ける人もいようが、それはごく少数だ。また強く生きることができる人もいるが、それはまたさらに少数だ。多くの人は絶対性があると信じ、それに縋って生きている。ならばよりよき絶対を提示することのほうが建設的なのではないか。

松明 それじゃあ、何にも変化しないじゃないか。そして全体主義か?

先生 はは、甘い甘い。絶対性にナイフを突きつける前に、圧倒的な人間の不安に思いを寄せるがいい。絶対を失うことによる。それに社会に対する評価は学者などによる客観的なものなどでは決してなく、きわめて主観的なものだ。学者がどう評価しようが、そこで生きている人が精神的に満足していれば、それでいいのだ。少女主義による新たな主体性はその点強力だ。全ての立脚点を自らの「想い」におくことで生じる自給的世界。そして題材は人の心をプラスに動かす「ときめき」。

松明 俺はそういった簡単な解決のなかには未来はないと思うよ。レインはなんていっている?「みな、つながっている」と。さっきは言わなかったけど、レインのもう一つの訴えかけようとしていることはコミュニケーションなのだと思う。つながりを持たない人々は閉じていって、そして自滅してしまう。少女主義にしたってそうじゃないか?

先生 何ィ?わたしの少女主義はそんなに脆弱なものではないぞ!

松明 まァまァ。ともあれ、レインは「つながって」ゆくことによって…他者とコミュニケーションをとってゆくことによって、そうした行き詰まりを打破しようとしているのではないかな。日常生活におけるぼけぼけのレインはまさに生ける屍の如くだが、コミュニケーションを回復したレインは非常に生き生きとしている。そして彼女はコミュニケーションを広めてゆくことにより、他者の「生」に決定的とも言える影響を与える。それだけコミュニケーションというものは現在においては重要だということなのだろうし、それを訴えたいのではないのかな。また、新しいコンピュータを使ったコミュニケーションが、そうした傾向をさらにエンハンスするということも。

先生 他者とのコミュニケーションは不確実で、予想のつかないものだ。確かにコミュニケーションなしでは文化の進歩はありえない。しかしレベルの低いコミュニケーションは堕落をもまた、生む。コミュニケーションを云々する以前に自らのうちに強力な自我の城郭を築くことが必要だ。そも、西洋的な意味での「コミュニケーション」とは、主体と主体のぶつかり合いではないか。主体性すら望むべくもない今の日本社会ではコミュニケーションなどといってもどれだけ実態があるというのだ。はン、笑止、笑止。

松明 …もうやめよう。平行線だ。


松明 最後にこの作品に対する互いの立場を明確にして終わろうじゃないか。先生。

先生 うむ。

松明 まずは俺から。この作品は非常に意欲的に思える。二つのテーマ、すなわち現代のコミュニケーションの姿を描き出すことと、新たなリアルの姿を描き出そうとしているから。それは今までは学者や文学が行うべき作業だった。アニメの領域ではなかった。ところがこの作品は真っ正面からこうした骨太なテーマを扱っている。「エヴァ後」の今のところの最大の果実ではないか。
 また表現様式も…かなりやりすぎなところがあるものの…洗練されていて、オトナの鑑賞にも充分耐えられるものとなっている。両方とも今までのアニメとは一線を画すものであり、アニメの新しい「すがた」を示している。これまで、特にエヴァ後は、様々なアニメの実験が行われてきた。本格的に演劇の要素を取り込んだ「ウテナ」。徹底的に洗練をはかった「ビバップ」。レインも当然その流れの中にあるが、レインは今の生活実感に基礎を置いた、今の我々の「生」とからみつく内容を提示している。また、相対性をまず引き受けた上で、そこからコミュニケーションによって新たな世界を開こうとしている。これは今、世の学者たちが必死になって取り組んでいる部分であるし、我々にとっても今後のコンピュータライズされた社会の中でどうしてもそうした立場を取らなくてはならないことだ。だからこの作品はその点で画期的であり、優れていると言えるんじゃないか。実はエヴァよりも現状を先取りしていて、エヴァよりも問題作なのかもしれない。…俺はこの作品を強く強く支持したい。

先生 確かに非常に強いメッセージ性を持った作品であることと、文化的に洗練されている点は認めよう。が、この作品での少女の扱いは非常に恣意的だ。描きたいテーマに少女が従属してしまっているのだ。それは結果的に、少女がもたらすはずのスタティックな世界構造を薄めてしまっている。この世は今や迷っている。その迷いを解決するためには導き手となる基準、軸線が必要だ。なのにこの作品では軸線となるべき少女の存在が薄められてしまっている。結果現れるのは、何も決定することのできない相対性の、いや相対性しか存在しない世界だ。すべての人間がそれに対処できるだけの強い主体性を持たない以上、その世界は非常に危険なものとなる。まあ、そもそも主体性そのものも少女主義によってしか得られないのだがな。ともあれ、この作品は、少女に対する低い扱いが危機をもたらすという好例だ。「水色時代」を5万回ほど見直す必要があるな、この作品のスタッフは。

松明 …まあ最初から議論にならないことはわかっちゃあいたんだが。トホホ。


松明 「レイン」について真面目に書いている人はまだ少ないと思うので、感想を募集します。ところで、君はどっちに共感するかな?

先生 絶対性をもとめるこのわたしか。

松明 相対性を引き受けようというこの俺か。

先生 感想を待っているぞ。


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