水色時代(その2・終わり方について)


 うむむむむむうううう。確かに、「その先」を描いてしまっては、水色たり得ないことはわかっている。結末はぼかした方が良いことも分かっている。話数を消化しなくてはならないことも分かってはいる。が、それにしても、それにしても何なのだ、あのテレビ版の終わり方は。私はこの方法に断固異議を唱えるものである。なぜならば、水色の水色たる所以が拡大解釈され、希釈されてしまっているからだ。あの「想い出アルバム」というものに。

 まずは理論的に説明しよう。ユウちゃんとヒロシくんのあの後を「最後まで語る」ことは、水色時代の完全な終わりを意味する。水色たり得る範囲を超えてしまうのだ。だから「その後」は、水色的には、語ってはいけないものなのである。その点で、スタッフがあのような話の区切りかたをしたのは実に−心情的にも理論的にも−正しいことなのである。

 が、その後に続いたものは、必ずしも賢明とは言えないものであった。この一連のシリーズが、水色思想をうまく、そして十分に体現したものであったなら、ユウちゃんとヒロシくんの結末はぼかされたもので良かったであろう。何より水色理論は強化されたであろうし、「最後まで語らない」ことにより、平安風の雅と美しい余韻も残ったであろうから。ところが、この一連のシリーズが陥ってしまったのは、「水色」が、その理論上から、もっとも避けなければならない罠であった。「水色時代」が「青春時代」にすりかわってしまったのだ。

 明らかに、「青春時代」は、良き、美しきノスタルジーの源となるものである。少なくとも、世間一般の考えでは、そういうものだ、ということになっている。が、水色時代は必ずしも、それだけのものではない。もちろん私にとっては全くそういうことはないのだが、水色時代全盛の年代を考えてみたまえ、そこには何らかの恥ずかしさが含まれていないだろうか。水色時代は、真実の愛をもっとも体現している時期であり、もっとも崇高な時期ではあるのだが、それゆえに、真実の愛を捨て去り、失ってしまったものにとっては、恥ずかしさを感じさせるものになる。そこに良さがあるのではなかったか。恥ずかしさを感じるがゆえ、われわれは真実の愛を感じ、それに戻らなければならないことを自覚できるのである。

Back