各論1−怪盗セイント・テール

 セイント・テール。それは一つの衝撃であった。その絵柄、こっそり潜んでいる金田アクション、一見ベタベタな話の展開もさる事ながら、この時代に、木曜夜7時半というゴールデンタイムに、あのような少女性を持った作品がオンエアされたことがすさまじいことだったのだ。確かに放映が終了してから、結構時間が経過している。しかし、その重要性が失われた訳ではないし、いまだに強い影響をまわりに残している。まずは、この特異な、現代においては希有ともいえる作品について語ろう。

 いる訳はないと思うが、見たことのない人のために説明しよう。ミッション系の学校に通う少女、羽丘芽美(はねおか・めいみ)は、実は世の中の悪、というより近所のせせこましい悪人を懲らしめるために盗みを働く義賊、セイント・テールなのだ。盗みのネタは同い年の修道女、深森聖良(みもり・せいら)が、本当は秘密を漏らしてはいけないはずの懺悔などから見つけてくる。そして芽美はセイント・テールへと変身して夜の町へと繰り出すのだ。一方、同じクラスの少年、アスカJr.(刑事の息子)は、セイント・テールを捕まえようと銭型警部のごとく追い掛け回す。しかし毎回毎回都合のいい、とんでもないセイント・テールのマジックによって逃げられてしまう。だがアスカJr.はいつしかセイント・テールにほのかな想いを抱いていき、いつしか「盗人を捕らえるために追う」から「セイント・テールその人を捕まえるために追う」ように変わっていく…という一話完結ものだ。

 いくら美少女ものを見慣れたコアなアニメファンであっても、このアニメには戸惑ってしまうだろう。普通人ならなおのことだ。なぜ登場人物の顔がみんな同じなのか?(実際キャラクターの区別は男女関わらず髪型だけでしかつかない)なぜ変身前と変身後と外見がほとんど変わりないのに、捕まえようとしている連中は正体が分からないのか?キリスト教的な要素、特に「私達に、神の御加護がありますように」なんていう都合のいい祈りはどこから生まれてくるのか?なぜアスカJr.は今までの放送回数分だけ失敗しているのに、性懲りもなく警備を任されるのか?

 現在のメディアを研究対象とする学者たちや、アニメ・漫画の評論家と称する人々は、こう分析するだろう。「とにかく絶対的な権威を持つものとしてとらえられる、都合のいいキリスト教の『神』を背景に、自らの処女性を犠牲にすることなく、欲望を現実化させようという意志の現れなのである」、「物を盗む『怪盗』という設定の裏には、異性の心を手玉に取りたいという心理が働いている。それを証明するように、追いかける側の少年は、失敗を重ねてもまんざらでもないし、かえって心の中ではセイント・テールを応援したりもしている。少女が恋愛に対して持つ都合の良い願望を体現しているのである」云々。

 しかしこういった言説はまったくの間違いであり、こういった事を言う連中は、よほどの大馬鹿者である。彼らは根本的に見当違いをしている。この「作品」に流れる美しさが分からないのだ。確かに打算や逃げがないといえば嘘になるが、少女たちはもっとピュアな心を持ってこの作品を見ている。逆に言えば、この作品は少女たちのピュアな心に訴えかけるように、ストーリーの要素が注意深く選択されているともいえるのだ。こうした選択の結果、この作品は凡人には一見不可解に、御都合主義的にみえるものになっているが、私のように少女の心を理解することのできる者にとっては、この上なく精緻で、美しいものになっている。確かに一般人の目から見れば、この作品はあまりにも突き抜けすぎていて、荒唐無稽に見えるかもしれない。だが、少女的な意味においては荒唐無稽に見えれば見えるほど、美しくなるのだ。なぜならこの美しさの背後には少女特有の純粋な観念化、すなわち、暗黒の夜よりさらに深い、そして決して揺らぐことのない「思い込み」があるからだ。

 恋する少女は、とにかく思い込む。現実がどうあろうと関係なく、自分こそ正しく、自分こそ恋の物語の主人公なのだと考える。「現実がどうあろうと」という点が重要である。「私がこれほど想っているのだからあの人も私のことを想ってくれるに違いない」という思い込みは、いつしか現実を遊離して純粋に観念の世界へと移行していく。この境地に達すると、もはや「あの人」の存在は捨象され、観念の世界を整備し、拡張していくことが問題になってくる。そしてそこでの「愛」は、現実にありがちなどろどろした面は一切存在せず、理想的で、必ず自分の想いが叶い、相手は死ぬまで自分を愛し続けてくれるというものになる。これを「真実の愛」と呼ばずして何と呼ぼう。反論する人もいるかもしれない。しかし、現実世界においてこれほど純粋な形態の愛は存在しないではないか。それに、思い込みも徹底的に煎じ詰めれば現実世界にも侵食の手を伸ばす。オウム真理教を見よ。ゆえにこの「真実の愛」が現実のものにならないとも限らないのだ。

 セイント・テール。このアニメは、「真実の愛」を現実のものにする可能性を秘めているのだ。そしてその度合いは、私が今まで見てきた少女的なもの――コバルト文庫や講談社X文庫、「なかよし」「りぼん」、少女向け電子手帳やおもちゃの類――を通して見ても、かなり高い。この作品は、決して少女の都合の良い願望の現れなどではないのだ。それをはるかに越えた、形而上の世界にまで我々を導いてくれる、救世主とも呼べる素晴らしいものなのだ。

 だから、まずは信じることだ。至福の世界に自ら入り込むことだ。最初は私も違和感を感じたものだ。しかし、それを乗り越えると、「真実の愛」が見えてくる。逆に、信じようとしなければ、「真実の愛」は決してみえてはこない。何も疑問を感じず、考えるのを止め、テレビ画面を凝視し、流れてくる映像をあたかも福音のように受け止めることだ。そして少女の持つ「思い込み」を、自分でも感じてみることだ。現実からは目を背けるのだ。純粋な観念の世界に遊ぶこと、これがこのスカムでバッドテイストな世界を救う最良の方法である。

 さあ、今からでも遅くない。見たことのない人はビデオ屋に急ぐのだ。そして君も「真実の愛」を見つけるのだ。