ディジタル・ナルシス宣言!

少女学博士 吉本 松明先生

 電脳界のナルシスたちよ、目を覚ませ。今や世界はナルシシズムを必要としている。立ち上がるときは今だ。世界の美化は、そして世界の最構築は、君たちの手にこそかかっているのだ。

 見よ、世界は混沌と俗悪に満ちている。無趣味と下品さが文化の表層に溢れている。調和は失われ、残っているのは空しい狂騒と、増大してゆくエントロピーのみだ。さらに悪いことに、社会に横溢する雰囲気だけでなく、日常のレベルにさえそうしたことは顕れるようになっている。

 まずはテレビジョンを見よ。バラエティ番組やクイズ番組などと称する無能番組では、芸能人と呼ばれる人々が愚にもつかぬことを繰り返すばかり。ここにあるのは「創造」などでは決してなく、いわば「蕩尽」とでもいったものである。ドラマと称する学芸会番組も、その題材にせよ、登場する人々(俳優と言えるか?)の演技にせよ、まさに幼稚園レベルであり、徹底的に無内容、かつ無趣味である。共通するのは趣味的な節制や、それに由来する「文化」の破壊である。大衆文化は文化に非ず。

 また、日常生活を見よ。電車に乗っているとあたり構わず鳴る携帯電話の呼び出し音。周りを気にすること無く私的な会話に興ずる人々。混んでいるにもかかわらず、3人分の椅子のスペースを独占して平気な顔でいられる人。町に出れば、辺り構わず座り込み、交通の邪魔になること夥しい若者の群れ。文化の退廃と秩序の消滅はここに極まれり、といった状況である。

 何故このような退廃が起こるのか。その最大の原因は、「自分」に対する美意識の欠如と、「自分」に対する他者の視線の欠如である。

 テレビジョンなどの「表現」の退廃は、市場におもねるがゆえの美意識の欠如に由来する。一片の美意識でもあれば、ここまでの退廃は起こらないはずである。また、社会における秩序の崩壊は、自己の閉じこもり現象に由来する。現代の自己は自分の世界を守ることに汲々とするあまり、自分に対する視線をもたない*1。それは自己存在の意識が希薄になっていることを意味し、他者からの視線が気にならなくなることをも意味する。自分の存在そのものが薄いから、他者の存在もまさに「透明な存在」であるのだから、「何をやってもいい」ということになる。挙げ句はこのような社会秩序の崩壊である。

 そこで求められるのが、自己への視線の復権である。そのために、一番手っ取り早く、かつ一番効果的なのが、ナルシシズムにふけることなのである。

 ただ、単にナルシストであればよいというものではない。現在急速に進行しつつあるディジタル社会においてもそれを広めなければならないのだ。ディジタル世界こそ、ワイヤードの世界こそ、人間に残されたフロンティア=可能性だ。現代を生きるために、そして未来を生きるために、我々は電脳世界のナルシスト、すなわち「ディジタル・ナルシス」にならなくてはならないのだ。無論、現在の生活世界*2から運動を始めてもよい。だが、ディジタル世界から始めたほうがより有効だ。第一に、それは将来の秩序を先取りすることだからだ。第二に、人類の可能性を広めることだからだ。第三に、ディジタル世界には我々にとって有効な、そして非常に扱いやすい武器があるからだ−WWWという。ディジタル世界を先取りしたほうが、ナルシズムはより我らにとって歓迎すべき福音となる。

 人々よ、ディジタル・ナルシスたれ!WWWを駆使し、自らの美しい存在を誇示せよ!自らの趣味を、日々の出来事を、家族のことを、そして何より自らの「すがた」を、徹底的にさらけ出せ!広大な、きわめて広大なWeb世界には、必ずあなたを見るものがいる。憶してはならない。なぜなら、その分世に美しさは減少し、無秩序という醜さが増えるからだ。さあ行け!未来は我らのもとにある!!

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吉本松明による注
 まず注意。吉本松明と吉本松明「先生」は、肉体の宿主は同じであるものの、人格や思考は別の存在である。これについては「松明先生の少女主義講座」を参照。バックボーンになっている考えは、松明のほうは社会文化論とコミュニケーション論であり、松明「先生」のほうは、ファンダメンタリズムと国家社会主義である。


*1 松明「先生」はこうおっしゃっておられるが、正確には「持ち得ない」「持つことが許されない」という状況である。第一の原因は「仕事」における要請。今はかなり改善されてきたとは言え、労働の場においては「その人」であることは求められない。第二の原因は集団の圧力。遊び友達仲間などの集団を外れることは、現在の若者たちにとって非常な恐怖であり、絶対に避けねばならないことである。集団から外れないようにするためには、集団に適した外見をとり、集団の考えを自らの考えにしてゆかなければならない。そこで「自分」は消滅するか、抑圧される。ここには集団内の他者の視線が存在するが、あくまで集団内にとどまり、集団の外はまったく関係が無いことに注意。


*2 ここでの「生活世界」は、ガダマーなどがいうような哲学用語ではなく、「サイバースペース」に対置される概念である。ナマの人間同士が接触しあう、「lain」でいうところの「リアルワールド」である。