つれづれなるマンガ感想文7月前半

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「つれづれなるマンガ感想文」6月後半
「つれづれなるマンガ感想文」7月後半その1
一気に下まで行きたい



・「週刊少年チャンピオン」33号(2002、秋田書店)
・「YOUNG キュン!」7月号(2002、コスミックインターナショナル)
【アニメ】・「地球防衛隊まおちゃん」
・「ヤングチャンピオン」12号(2002、秋田書店)
・「ヤングチャンピオン」13号(2002、秋田書店)
・「ヤングチャンピオン」14号(2002、秋田書店)
・「ヤングチャンピオン」15号(2002、秋田書店)
【コラム】・ネットの勝ち負け
・「娘。物語」(3) 田中利花、神崎裕(2002、講談社)
【書籍】・「未来からのメッセージ」 高橋克彦(1996、1999、サンマーク出版)
・「コミック 背筋の凍る話 交通事故」 桜金造、桜水樹、枝松亜紀、瀬河美紀(2002、リイド社)
【書籍】・「リンダリンダラバーソール」 大槻ケンヂ(2002、メディアファクトリー)
・「キックオフ」におけるサッカー描写
・「キックオフ」全12巻 ちば拓(1982〜84、集英社)
・マンガ「キックオフ」を語る前のプロローグ






・「週刊少年チャンピオン」33号(2002、秋田書店)

巻頭グラビアは安藤希(水着ではナイ)。平成ガメラや「さくや妖怪伝」に出ていた女の子ですね。近頃めずらしい、アンニュイな感じを漂わせた女の子。加藤夏希ともども、トクサツ関係でがんばってほしい(それにしても、加藤夏希の名前が出てこなくて「燃えろ! ロボコン」で検索してしまった私はもう健忘症なのかもしれない)。

さらに思い出したが(まあ美少女つながりってコトで)、先週の伊集院光の月曜深夜のラジオで、リプトンのCMにおける市川実和子の「恐さ」をえんえんと語っていたのが面白かった(顔がホラーに出てきそうで恐いんだそうだ)。「つき合えるか……?」とか言ってて、中学生並のネタフリがイカす。
ちなみに、私は「ポンキッキーズ」時代から市川実和子が大好きでした。いや〜ホントカワイイよ。でも「血塗られた雰囲気」というのには否定しません。だってソレっぽい映画にも出てるしね。
さらにさらに思い出したので書いておくが、私が市川実和子の話題を出すたびに「ポンキッキーズ」つながりで「あんじ」の話題を出してくる人がいるが、私はあんじには1ミリも興味ないし、この人が今何やってるのかも知らないのでそういう表層だけの、都会の冷たさを体現するような、間違った社交辞令的なネタフリはしないでください。イライラするから。
本当にあんじのことなんか知らないんだよ。

さて、「BOYSTYLEの達人スタイル」福本岳史、鈴木伸彦は、新連載第3回。「アイドルしても、ギャグりたい!」がキャッチコピーの女の子4人アイドルグループ「BOYSTYLE」の4ページものの宣伝マンガ。
いまどき、こんな宣伝形式でだいじょぶなのかと思うが……、ゲストはサンプラザ中野。内容についてはインタビューをそのままマンガにした感じ。

で、「BOYSTYLE」の公式ページなのだが、私の見落としだったら悪いが、他のところで聞く「夜もヒッパレ出身らしい」、「浅草キッドがプロデュースしているらしい」などのキャッチーな情報がひとつも載ってないんですが……。
青年マンガ誌のグラビアがイエローキャブに征服されていいわけがないように、「アイドル」が「モー娘。」とイコールになるのも健全ではないと思う私としては、こうしたユニットにがんばってほしいのだが、もうちょっとわかりやすくしてほしいです。
とか言いつつ、この間、タワレコでBOYSTYLEのCD買おうと思ったんだけど「特典がつく」って書いてあってやめてしまった……。だってポスターとか、イベントの無料券とかいらないもん。面倒だし。こういうの私だけか? 特典で購入の二の足を踏むってのも。

「キリエ〜吸血聖女〜」杉村麦太は、先週から連載再開。……どうも読みにくいな……。コマ運びの問題だろうか? この人のHマンガを読みにくいと思ったことはないんだが。

「エイケン」松山せいじは、先生がまた局部を出してしまったりする。正面から見た鼻の描き方が少し変わりましたね?

「ラブリードール レッドリバー」鈴木ダイは、「A.−D.O.G.S」の作者が連載終了後、早くも描いた32ページ読みきり。
Mr.フゴーという支配者に、毎年女の子を「ラブリードール」という愛玩物として捧げなければならない村で、赤川雫という女の子が行き倒れで発見される。村人は雫を愛玩少女として捧げようとするが……。

「北斗の拳」第1話的プロットですな。ここでは圧倒的な悪人、弱い村人、弱いが正義感の強い少年、そして圧倒的な憎しみと強さを持って蘇ってきた少女がただひたすらにドンパチしたり肉弾戦したりする、リクツも何もないウットリするような世界が展開されている。……ということで個人的にけっこう好きですこのマンガ。
読みきりだからだろうけど、本作を前にしては「キリエ」さえ理屈っぽいマンガに見えてくる。まあ連載になっちゃうとまた違うんだろうけどね……。
(02.0712)



・「YOUNG キュン!」7月号(2002、コスミックインターナショナル)

成年コミック雑誌。つい読むのが遅れてしまったが、8月号は12日だから今日発売ですか。

「アブナイ課外授業」毛野楊太郎は、最終回。女教師・武内久美村崎あやめを犯して調教し「課外授業」を楽しんできた生徒たち。土門は行方不明に、倉田は死んだ(死んだんだ……)。残された望月は恐怖にかられる。これは偶然ではないのでは、と……。

それはそれとして、久美はすでに望月たちの手を離れ、もっと大きな組織によって牝奴隷として調教されつつあった。もともと久美と「課外授業」するのが目的だった望月は、もはや久美が自分では手の届かないところに行ってしまったことを悟らざるを得なくなる……。

始まったときはその基本コンセプトがいまいちつかめず、どうなることかと思った本シリーズだけれど、最後は鬼畜ながらキレイなまとまりだったと思う。
話は変わるが、性奴修行に出される久美は「女教師でメイド」ってことになる。スゴイことである。なお、本作は単行本化決定だそうである。
(02.0712)



【アニメ】・「地球防衛隊まおちゃん」

「地球防衛隊まおちゃん」の、第2話を見た。
ウチのあたりでは水曜深夜から放映。他の地域は知らない。「熱血電波倶楽部」とかいう枠で、前半15分を本作、後半を「朝霧の巫女」がやっている。
ストーリーは、私が実際に見た第2話と公式ページの文章を参考にすると、かわいいぬいぐるみ型のエイリアンが地球にやってきて悪さをしようとするので、「かわいいものにはかわいいものを対抗させる」ということで防衛隊の幕僚長が、自分の孫娘のまおちゃんをなんかそういう戦闘員(鼓笛隊みたいなかっこう)にして、ビッグサイトあたりで戦ったりなんだりするという話。

mhkから、 まおちゃんマップ(更新中)逸般人.com)というのに飛んで見てざっといろんな人の感想を読んでみた。うーん、こんなに賛否分かれるのか……。
確かに、むかし「プチアップルパイ」とかで腐るほどあったよこういうマンガ。でも、第2話を見たかぎりでは普通に面白かったなぁという印象なんだけど。テンポも悪くないし。
要するに「パワパフ」みたいに、幼女のカワイイ部分は残しつつ、(「パワパフ」はアッパー系だったけど)ややダウナーに好き勝手なことやろうってアニメじゃないのかなあ。「あ、この企画通っちゃったー。じゃやろう」みたいな。
その安易さが、どこまで私の「フザケンナ臨界点」に達するかどうかが問題っちゅーか。

「萌え」っていう観点からすれば、私は8歳の幼女には何の興味もないので、ウザくない程度にカワイイ造形ならばいい(突き放した書き方かな?)。鼻がないのが気になるけど、それが赤松健の「ちょっと変化つけてみました感」ならそれはそれでいいし。

それにしてもホントにトシを感じるなー。ここでも書いたけど。「萌え」を重視する人々にひとつだけ言いたいのは、トシとってくるとそっち方面にだんだん何も感じなくなるということだ。精力がなくなるから。
極真空手の総帥だった大山倍達は、バチバチ拳を当てあう空手の普及を早くから考えていたらしいんだけど、別の人から「アンタのやってることは『青春空手』だ」って言われたらしい。確かに、肉体を極限まで酷使し、スポーツカーまでジャンプして飛び越える空手には「若いうちしかできない」というイメージがあった。まあ太極拳とかの対極(シャレじゃない)に位置する考えですよね。しかし、マス大山は自分は現役引退はしたけども、その理念は死後も残した。
「萌え」にそれは可能か!? と、私は応援しつつそういう問題意識を突きつけたいわけですよ。
「萌え」のみなさんには生涯「萌え」で行ってほしい。……でも、そうでなくて完全に「足を洗った」としても、ボクは見守ることにするよ……。

「まおちゃん」の話に戻ると、2話見たらあれでしょ。吾妻ひでおでしょ完全に。
「ななこSOS」とかあのあたり。「そんなの知らねー」とか「いまだに吾妻ひでお……」とか、年寄りだと思われるのがイヤだから書きたくなかったんだけど。幼女に対する突き放し方は完全にそう。「でじこ」以上に吾妻ひでおっぽい。ちなみに「でじこ」を見たときは、「元祖天才バカボン」ぽいと思った。ちょっと違うか?
(02.0711)



・「ヤングチャンピオン」12号(2002、秋田書店)

週刊少年チャンピオンで連載中の「バキ」において、主人公のバキがガールフレンドの梢江と結ばれるシーンを、少年誌ではできないということで本誌で「特別編」として集中連載するという。
私には最初から企画自体に疑問があったが、まあファンなので付き合うことにした。
それにしても、バキと梢江の巻頭カラーの過激キスシーンの後にしれっと平山綾嬢のグラビアがはさまっているのにはちょっと笑った。

「泌尿器科医 一本木守!」高倉あつこ。31回目らしい。下半身の恥ずかしい悩みやケガなどについて、解説をまじえて病院内でいろいろあったりする「下半身メディカルコメディ」。
今回は、主役で医師である一本木のファン球団のライバルチームの選手・立方が「陰茎折症」で病院に訪れる。なんとチンチンがポキッと折れてしまうという恐ろしい症状だ。
自分の好きじゃないチームの選手なんで、症状を少し大げさに言って立方を脅す一本木(もちろんコメディ風にね)。

立方「また……なったりするんでしょうか?」
一本木「さーー オレのチンコじゃないからわかりませんねー 使い方次第じゃないですかー?」

……話は前後するが、次の13号の本作、「元気よく立たせましょう!!」というエピソードでは、一本木の部下にあたる看護士・桃崎(女性)が、他の患者の前でEDの患者に対し大声で「バイアグラならありません!!」と言ったことを一本木がかなりマジに叱る。
いやそれは正論だと思うけど、「さーー オレのチンコじゃないからわかりませんねー」って言うのと、桃崎の言ったことって患者をイヤな気持ちにさせるという意味では大差ないと思うんだけど???

それと、本作を読むとドウデモな下ネタ系4コママンガのほとんどが、泌尿器科では真剣に扱うべきことを小馬鹿にして笑いをとっていることがわかるな。まあそれが100パーセント悪いってんじゃないけどな。
(02.0710)



・「ヤングチャンピオン」13号(2002、秋田書店)

とくに書くことなし。グラビアの小倉優子かわいい。

「東スポ」関一成っていう巻末のギャグマンガ、ものすごく悪趣味。まあ悪趣味にも受け取る側の好みとかあるだろうけど。最近、やく・みつるのマンガもそうだが「深いところで風刺になってない」というのが真の悪趣味なんではないかと思い始めた。
(02.0710)



・「ヤングチャンピオン」14号(2002、秋田書店)

「軽井沢シンドロームSPROUT」たがみよしひさは10回目。旧作「軽井沢シンドローム」の続編らしいが、もともとの「軽シン」を知らないこともあってお話がまったく見えん。
そういえば、高校時代に「軽シン」に夢中になってたクラスメートがいたな。あれっていちおう恋愛モノだよね? 80年代の少年ラブコメについて半可通的なことを「キックオフ」のところで書いたけども、「男の読む恋愛モノ」に幅を広げた場合、「軽シン」も課題図書に入るんだよねえ。「少女マンガの影響」ってコトで言うと五十嵐浩一の「ペリカンロード」まで入るからねえ。

また、たがみよしひさはいしかわじゅんと並んで80年代、「アニメ絵嫌い」の急先鋒だったことを思い出す。「アニメ絵のどこが嫌いか」っていうイラストまで描いてたもん。「口はちんこをくわえられないくらいの大きさしかない」とかね。今やアニメ絵美少女はちんこくわえまくってますけどね。
これは本人が嫌いかどうかよりも(嫌いだったろうが)、「アニメ絵」という未知のスタイルが繁殖する気味の悪さに対する防衛手段だと考えた方がいい。大友克洋の後世への影響はずいぶん取り沙汰されたが、それより何よりアニメ絵の浸透と拡散の方がよほど事件だったことは、今振り返るとわかりますね。

……と、本編と関係ないことばっかり書きました。だって途中から読んで、お話読めねーんだもん。作中やたらと二頭身になるのも慣れないと見にくいな……。
(02.0710)



・「ヤングチャンピオン」15号(2002、秋田書店)

巻頭グラビアはMEGUMI。悪いとは言わないが、何か読者側に「乳がでかけりゃいいんだろ!?」とせまってくるファシズム的なものを感じる(笑)。何も乳はイエローキャブの専売特許じゃないだろ!? と一言書いてみたくもなる。

……というわけで「バキ〜特別編〜」板垣恵介は終了したわけですが、……まあ笑いながら「よくやるよ!!」って思って読むしかない、って感じですかねぇ。
コレ読んでヌケる人とかたぶんいないでしょ?(いるのか?) そういう意味では最後までいったいどの辺に作者の意図があるのかわからなかった。いや、マンガ表現としては面白いと思いますよ。いろんな意味で未知の企画だったと思う。
だけれども、コレはあくまで「板垣恵介の描いたセックス」でしかないわけだから。
なんかそういう突き放した感、が読者としての私にはある。だれかがやりそうなパロディを、作者自身が最上の方法でやり遂げたような。実際、バキを題材にセックスがらみのパロディを描いたとしても、本作を超えるものはたぶん出ないだろうと思うしね。

でもやっぱり最後まで意図がわからなかった。梶原一騎の少年モノにおける、空々しい「禁欲主義」に対するアンチテーゼかなあとも思ったけど。なんか違うみたいだし。
(余談だが、梶原一騎が「色欲」に対して、少年モノと青年モノでは二枚舌と言ってもいいほど描き方を変えていたことは、梶原一人の問題というよりも、彼が受けてきた教育にそういう含みがあったんじゃないかと思う(勉強不足でわからず)。
コレは戦前教育(あるいはそれ的なもの)を主人公の行動原理とした「魁! 男塾」や、「覚悟のススメ」にも見られる雰囲気だからだ。)

……というわけで、ボク的には案外ドウデモな企画でした。
これが「手を握った握られた」の少年ラブコメが突如同じキャラクターで青年誌に移ってコトをいたす、というのなら面白かったと思うんだけどね。

「ガキ☆ロック」柳内大樹は、新連載。浅草を舞台にした青春アクション。

「BLOOD RAIN」村生ミオは、第70回。この作者も、最近ストーカーものばっかり描いてるなァ。ストーカーものって、読むたびにスタープラチナが出てきて3ページくらいにわたってストーカーしてくるヤツを「オラオラ」ってやってやればさぞかしスッキリすると、いつも思う。

「あさってのザビエル」辛酸なめ子は、第8回目。何がなんだか私にはさっぱりわかりません。BUBKAかなんかでやってる、鈴木あみをモデルにしたマンガの方がまだわかりやすいと思った。

「メグミックス」倉島圭は、第58回。何がなんだか私にはさっぱりわかりません。わかりやすいのはオヤジっぽいネタが多いし。代原として掲載されてた昔の作品「汚物」の方がおもしれーじゃねーか。

「ダメなオヤジ」加藤伸吉は、読みきり。一見ダメそうなオヤジが、実は拳銃づくりの名人。足を洗おうと取引先に掛け合うが……というような話。

「池袋ウエストゲートパーク」石田衣良、有藤せなは、連載35回。チーマーってムカツクよね。みんな1カ所に集めて、昔隠れキリシタンにやったという拷問「みの踊り」(火の着いたみのを着せる拷問)をやってやればいいと思う。
でもその中で、いい人は助けてあげればいいと思う。
(02.0710)



【コラム】・ネットの勝ち負け

よくよく考えてみれば、他のサイトを見て「コラム」のコンテンツがあり、しかもその人がシロウトで、文章が面白くない場合、カッコ悪いなあと思っていた。
中高生時代、カーツ佐藤や泉麻人や中島らものコラムを読んできた身としては、コラムとはソレを書ける技術や人間関係のような「特権」がないと書けないものだという思いこみがあったからだ(まあ実際には、本当に商業誌で「穴埋め」的なコラムがあって悲しくなることがあるが)。

だから、自分でHPをやるときには常に、短いスパンではあれ超時間的に閲覧可能な「コラム」よりも、いつ何時でも常に新しい文章を書いてやる、テーマは同じでも接種する情報が違うものを書いてやる、という気概をもって「日記」を始めたはずだったのだ。
だがどうも話が暗い方へ暗い方へ行く性格が災いし、自滅してしまった。そしていつの間にか「コラム」と自分で銘打って書いているんだからこりゃ滑稽人生というもんである。でも「コラム」と書かなきゃカテゴライズしようがないんだからどうしようもないじゃんよ!!

さて、今回書くこともダウナー気味になるかもしれないので、後でイヤにやったら消す。一度アップしたものを簡単に消すのは私自身のポリシーに反するのだが、まあ物事に対する姿勢を変えてみて、これも実験企画だと思っていただければ幸いです。

・ネットの「勝ち負け」
現在、週刊少年チャンピオンで連載中の「バキ」は、「敗北を知りたい」とまで言うほどの、世界各国の無敵の格闘家(正確に言えば殺人者?)たちが死刑直前に脱走、日本の格闘家と戦うという話である。
本作の最大のポイントは、「勝ち負けの着地点が、基本設定に組み込まれていない」ことにある。主人公側の格闘家は、一般市民だから死刑囚を殺すことはできないだろう(今後、その「暗黙のルール」さえ破られるかもしれないが)。
戦いに時間制限があるため、それまでに戦闘での負傷が回復しなければ「リタイア」というかたちになっていた「ジョジョ第3部」や、もっとぶっちゃけて「死んだら負け」といった「北斗の拳」とは違う。
これは非常に実験的な企画で、実験的ゆえに成功しているとは言い難いとも思うが、「勝ち負けは当人の中にしかない」ということはとりあえず教えてくれる。

ネットに勝ち負けがあるかといったら、それはある。ただし、人それぞれ違うだけだ。ネット商取引では儲からなければ負けだ。広い意味でのネット広告は効果がなければ負け。ネットバトルならまた別の勝ち負けの基準があるだろうし、アクセス数やリンクされたか、話題になったか、という面もあるだろう。

・私が考えるネットの「勝ち負け」
とりあえず「頻繁に更新して、アクセス数を稼いだりネット上のある種のコミュニティで話題になったり認められたりする」ということを勝ち負けの基準に考えてみる。
この場合、私は単純にアクセスの「数」だとか、そういうことは問題にしない。
それよりも、「毎日更新する」という目標が一応ある、いろんなことの感想が書いてある日記系サイトの場合。
ネットができるまでは、「書く速度」というのは計量できなかった。
プロのマンガ家では「手が遅い」ことが非常に問題になるらしいのだが、読んでいるぶんにはそのマンガがどのくらいのスピードで書かれているかはわからない。アシスタントの数にもよるだろうし。

ところが、ネットの場合は「書く速度」がある程度わかってしまう。当人が真実を公表しての話だが、サラリーマンで文庫本を毎日1冊読んで感想をアップするサイトがあったとする。
そうすると、まず仕事が終わってから、文庫本を1冊読まなければならない。そしてその後、文章を書かなければならない。
いずれも、一人でやる作業だ。
最速でも午後5時に仕事を終え、それから夜12時に眠るとして、その7時間の間にすべてのことを一人でやっているわけだ。
日曜日くらいは休むかもしれないが、それを毎日やる。
コレは、できる人とできない人を明確に分ける能力だろう。
私の場合、そういうのを目標にしていたが、けっきょくできなかったので「負け」である。

・別に勝ち負けのない世界
対するに、「別に勝ち負けのない世界」もある。
きわめて特殊なフェチの世界、それひとつしかないサイトなんかの場合はそうだろう。
だって、そこひとつしかないんだから。
情報の発信を、まあ公開してはいるが、それを欲している人が限定されているそういったサイトはたくさん存在する。

(あー、ここで急に書くの面倒くさくなってきた)

要するに、よくある「テキストサイト論」は、もっと「自己表現」として広げて考えてほしい、と私なんかは思うわけです。そのためにも、ソフトマジックから出るという「テキストサイト大全」という本は読んでみようと思っています(今、リンクしようと思ったらなんかできない。できるようになったらします)。
ネットの特殊性はじゅうぶん理解しているつもりだが、それでも「自己表現一般」と照らして考えたとき、見えてくるものってぜったいあると思うから。

・テキストサイトにおける年齢問題
この数カ月ですごくトシをとったと感じている。「トシをとった」という表現と矛盾していると自覚しつつ「生意気ながら」思うが、やっぱりネット上で意気盛んな人って私より若い人が多くて、「んんー?」とか思ってももう反論する気とかなくなってきた。だって私の方が年上なんだから、書けることはそりゃ亀の甲で書けることなのであって。
だけど、それはまず第一にフェアじゃないっぽい気がするし、第二に私がアホみたいでしょ。どうも、自分で卒業してからも高校や大学の漫研やアニ研に入り浸っているダメ先輩の気分がしてしょうがなくなってきたのだよね(笑)。
私の年齢なら、そういう発言でお金を稼いでいる人か、あるいはオトナに沈黙を守っている人か、あるいは日々の生活に追われてネット上の論争なんか知りもしない人に分かれます。
お金を稼いでいる人はもったいないから無料の発言はあまりしないし、オトナはオトナだし、日々の生活に追われている人は家族サービスにディズニーシーかなんかに行ってますよ。

だから、もう若い人の発言に割り込むこと自体がおれの中で「負け」っていうか。そんな気がしますね(←後から読み直して、我ながらホントにダウナーだと思う。もと明るく生きられないのか!?)。

ただね、ネット上のレビューというかたちでは、やります。それが結果的に何かをフォローしたり討ったりすることになればいい。しかし、それすらも「書く速度」ですでに負けてんですけどね。

そういう思考の悪循環。いいじゃん、今日くらいダウナーでも。
(02.0710)



・「娘。物語」(3) 田中利花、神崎裕(2002、講談社) [bk1] [amazon]

「なかよし」連載。モーニング娘。オフィシャルストーリー。
今回は、話がさらにさかのぼり「モー娘。」結成のいきさつから明日香脱退、二期メンバー加入、後藤加入、「LOVEマシーン」大ヒット、安部なつみが映画「ピンチランナー」主役抜擢、……っていうような流れですかね。それをいちいち五期メンバーに語って聞かせるという形式。
これを読むと、あらためて初期のモーニング娘。の「企画っぽさ」を再確認できる。いや、悪い意味じゃなくて。なんというか……こういう出方しかなかったんだよね実際の話。現在でも「次々と新しいことをブチあげる」のがつんくの方針だけど、モー娘。が完全に企画臭さと決別したのって「恋愛レヴォリューション21」あたりからかなあ……そうすると当時新人だった吉澤、石川、加護、辻はやっぱり選ばれるべくして選ばれたんだなあ……とか思う。っていうか、個人的に初期はその企画臭さゆえに、私もまゆにつばをつけて見ていたんですよね。

で、本作で後半、やっと新メンバーが主役の話に。常に「落ちこぼれががんばる」という基本構造の本作において、もちろん(?)新メンバーにおける一番手は紺野あさ美さんです。
むかし「のらくろ」で、のらくろが出世しちゃうともうドジをしなくなった。なんか軍隊で上の方の階級の人間がドジしたらまずい、って文句が来たとかいう話。で、新人で若い頃ののらくろみたいなドジな犬(チンみたいなやつ)が入ってきて、そっちが主役みたいになります(もっと他にいい例がないのか……)。紺野さんは明らかにそういう存在だと、マンガを読んであらためて思った。そういう意味では彼女の加入は必然だと言える。ちなみに、この作者の描く紺野は目がクリクリしていてとてもカワイイです。
で、イキナリ現実世界の話に飛ぶが、27時間テレビでモー娘。の新曲「Do it! Now」を初披露してた。えーと、安倍・後藤の2トップ、裏2トップみたいなかたちで高橋愛と紺野。これがなかなかよかった。まあ加入当初から、既存メンバーとまったくキャラがかぶっていなかったのは紺野だけだったが、もしかしたらそろそろブレイクするかもしれん。まあもししなくても、おれの中だけでブレイクするかもしれん(あくまでも私は平田裕香のファンだけど。ぜんぜん関係ないが)。

たぶん高橋愛は今が完成形。だけど、今後の紺野には何かあると思う。

話を本編に戻すが、失敗ばかりで落ち込んだ紺野さんを励ますのは加護ちゃんだ。加護ちゃん、ブラウン管内(って今言わないか)でもそういう役割を担うのかと思っていたが、そうでもなかった。でもマンガ内で紺野を励ますとしたら、まあ加護さんしかいないだろうなあ。

あと今回読んでて思ったがやはり平家みちよの当て馬感と、福田明日香はどうなったのか? が気になる。モーヲタならぬわが身にはどうなったかはわからんが、いくらなんでもつんくの送り出し方は白々しいと思ったのはその当時を体験していないからかなあ。だってシロウト考えでも、歌手としてやっていくならモー娘。の所属事務所界隈をウロついてないとムリに決まってるじゃないですか。っていうかそういうこと、ネットで山ほど言われてますね。すいません。

また半可通丸出しで書きますが、平家みちよにいまだにまとわりつく「当て馬感」は、一貫して「歌謡ロック」っぽいものを歌ってることにあると思う。なんでつんくはあの路線にこだわるんだろう? オーディション優勝者としての扱いは、寝っころがってテレビ見てるぶんにはいまだに悪くないと思うんだけど、それだけになあ。メロン記念日もEEジャンプも松浦亜弥も藤本美貴も、みんな「歌謡ロック」路線をとってなくって、そこそこの売り上げであることを考えると(「メロン」はどうだか知らないがおれが面白いと思っているからいい)平家みちよはいちばんおいしくないところをもらってるような気がして仕方がない。
たぶん、10年くらい経ってハロープロジェクト全体を振り返ったとき、平家の歌謡ロック路線っていぶし銀のように光るかもしんないけど、本人はそんなのぜんぜん望んでないと思うしな。

と、半可通なことを書きたいほうだい書いて、本稿はおしまい。

ちなみに私の2巻の感想はここ
(02.0708)



【書籍】・「未来からのメッセージ」 高橋克彦(1996、1999、サンマーク出版) [bk1] [amazon]

霊魂、前世、異星人、予言といった広義のオカルト現象を、世紀末を目前にしてどのように受け止め、人は生きるべきかを小説家の高橋克彦が書いた本。

高橋克彦は「トンデモ本」シリーズの中でも指摘されているように、かなり過激なビリーバーである。だから上記のオカルト現象も、彼はすべてストレートに信じている。それでまあ、そういうのが「生き方」とか「人生」に結びつくってんだから、はっきり言ってヨタな本です。ヨタ本です。

96年頃書かれた「まえがき」は、購入したパソコンの「使えなさ」に対する愚痴から始まる。96年当時のパソコンが、パソコンマニアでない人々が期待していたほど「使えなかった」ことには私も同意するが、高橋氏の愚痴は以下のような展開を見せる。

「パソコンの普及は人類の衰弱に拍車をかけるのではないか、と少し大げさだが感じた。明らかに購買者の知的好奇心のレベルを低く見積もっているソフト販売メーカーと、その程度で満足している購買者との幸福な合体。マンガが大ブームとなった昭和三十年代の状況と似ている。三十年以上をかけてマンガは確かに成長したが、パソコンの成長を待つほど我々に時間が残されているだろうか、と思うと何か暗澹たる気持ちに襲われる。」(p2)

現在、パソコンが96年当時から目覚ましい進化を遂げたかどうかは、深いところでは議論があるかもしれないが、6年経って、高橋氏の知的好奇心に耐える程度には進化したように思える。だって高橋氏は、小説の資料集めのために購入したのだから。
だいたいこの人、パソコンの、数年前から96年までの(私のようなシロウト目に見ての)早い進化についてはぜんぜん知らないのだから、困ったもんである。
さらに、マンガが嫌いらしい。これには驚いた。マンガの「進化」についての議論もあるだろうが、高橋克彦の伝奇SF小説は荒唐無稽がウリのようなところがある。
が、マンガは嫌いなんだそうだ(としか読めないよな、この文章)。どこがどう成長したと思ってるのか問いつめたい気にもなるが、まあいいでしょう。
「阿弖流為II世」[bk1] [amazon]という、原哲夫が高橋克彦作品をリミックスしてグチャグチャにして、原テイストをたっぷりかけたような怪作が生まれたのもわかるような気がする。 マンガ好きを公言する栗本薫や夢枕獏原作だったら、あそこまでムチャクチャな作品は描かせなかっただろう。
まあだからこそ、我々は「阿弖流為II世」を読めたということもあるが。

んで、後はまあ霊を見たとか前世はあるとか、UFOは異星人が乗っているとか長々書いてある。「人それぞれ」と言ってはそれまでだが、「ノストラダムスの大予言」の1999年7の月の予言について、その予言の成就が、

「つまり神の実在を明らかに認めることとセットになっているため、何かが起きないとキリスト教社会は崩壊してしまう。神の存在が否定されることになるからだ。」(p145)

……というのはいくら何でも勇み足だろう。「ノストラダムスの予言が成就しないとキリスト教社会は崩壊する」ってアンタ。

後はニューエイジっぽいことがダラダラ書いてあるので割愛。
もっとも、多少ちゃんとしたことは書いてありますよ。高橋克彦のオカルト感は基本的に陽性のもので、「前向きに生きるため」というメッセージが強いからね。

しかし、読んでてため息が出たことも確かだ。というのは、高橋克彦の小説はわりと面白いからだ。たぶんノホホンとした人柄なのだろう、激しく反社会的なことや人をイヤ〜な気分にさせることを書いているわけでもない。良質のエンタテインメントだと思う。

で、話は飛ぶが、若い頃って「思想」とかに興味があるじゃない。「思想」ってつっこまれるとよくわかんないけど、広い意味での倫理とか道徳とか。違うかもしれないけど私にとっては似たようなものなんですよ。
で、「思想」が、数学の公式であるかのようにいろいろなことに当てはめられるのではないかと少しの間、思ってた。だって論理性とかうるさく言うんでしょ。だったら論理的なことがはじき出されて来なければおかしい。
小説も、思想的に「いい、悪い」を決めることはある程度、できる。あくまである程度だけど。だけれども、小説の作者にまでなるともう当てはまらない。

いろんな解釈がある。「こういう作者だからこそ面白いものが書ける」とか。「作者の人物像と描かれたモノは別だ」とか。だけれども、それは「世の中って複雑なのよ」ということを言っているにすぎない。世の中が複雑なのは、そりゃあわかってまさあ。要はその複雑さにどう対処すべきかという処方箋があるかもしれないからこそ、普遍性を見いだそうとしてこむずかしいことをいろいろ考えるわけでしょ。

私の考える「公式」にあてはめようとすると、この本はダメダメだ。作者は古代の「生け贄を捧げる宗教」を否定する。なぜなら「家族を犠牲にして平気な人などいるわけがないから」。要するに、現代人と同じ視点で物事を見てしまっている。
「昨今の科学万能主義が、若い人に希望を失わせた」とも言う。それが96年当時の若者の話だとしたら、彼らが子供の頃には科学万能主義はすでに崩壊していた。
「現世をせいいっぱい生きられるように、前世と来世を肯定せよ」と言う。まあ気持ちはわかるが、そのままの意味合いにおいては私は反対だ。現在や近い未来を肯定するためにフィクションを導入する、というのはぶっちゃけ最近の「ゴー宣」とかにも通ずるものがある気がする。ここらあたりはなかなかむずかしい問題で、すんなり素通りはできないだろう。

だが、ここに書かれたことがすべて「小説」としてちゃんとしていれば、まあいいかなという気がする。書き方にもよるが、高橋克彦的書き方ならそれほどどうしようもない、「思想的に」(←とりあえず私はいいかげんにこの言葉を使っているが)どうこういうものにはならないと思う。

そもそも、小説でもマンガでもいいが、物語っていうのは何の方向性もない。「だれもが望む物語」というのがあることはあるが、物語自体は論理的にはどんなことでも書けるはずだ。それを倫理とか道徳で縛るのは、私は基本的におかしいと思う。
しかし、最近(っていうか昔からかもしれないが)、そういう本来あてはめられないものにムリヤリ、自分の言い分を当てはめてどうこう言ってる文章が多いような気がして気になってきてしまった。私も含めての話だが。……っていうか、私はかな〜り広い意味で「人間こうあるべき」とかヒソカに思ってたりする。
が、高橋克彦のエッセイとか対談の悪い意味でのメチャクチャぶりと、小説の荒唐無稽な面白さを考えるときに、マジで「いったい物事の基準って何だろう」とか考え込んでしまう。たぶん高橋氏をひっつかまえてきて、コンコンと「教育」したらヘンな考えは捨てるかもしれない。でも彼の書く小説は面白くも何ともなくなるだろう。
これがもっと「芸術」っぽい話なら「芸術家ってこういうもの」とまだ落ち着き具合もあるが、高橋氏の描くのはエンタテインメント作品。メッセージはそれほど複雑ではないはずだ。しかし、彼の考えそのものはおそらく作品の面白さに影響しているだろう。こういうのはどうしたらいいのか? 最近、よくわからなくなってきた。
むろん、私の「よくわからない」には「世の中こうあるべき」という気持ちが隠されているんだろうねえ。と、ヒトごとのように書いておく。
(02.0708)



・「コミック 背筋の凍る話 交通事故」 桜金造、桜水樹、枝松亜紀、瀬河美紀(2002、リイド社)

コンビニ売りの廉価版コミックス。桜金造の怪談シリーズ「背筋の凍る話」[bk1] [amazon]をコミカライズしたものらしい。全部で5作、桜水樹、枝松亜紀、瀬河美紀がマンガを描いている。

芸能人の語っている怪談話は、たま〜にまんま昔の怪奇小説を現代版に焼き直ししていたりして、オリジナリティとかわかんないのだが、とりあえずそういう「語り」を話者自身が選択していることに意味を見いだすことにする。

で、稲川淳二の場合は確か「人から聞いた話」が多くて、内容もオーソドックスというか「実はそこはかつて墓地でした」、「そこはかつて病院でした」って感じの話が多いのだが、「恐い話を知っている人」として出てきたときの桜金造って、そういうオーソドックスな話を1回転ひねっていたことを思い出す。しかも実体験(という設定?)が多い。

有名なのは(以下、うろおぼえですいません)「謎の男が部屋に入ってきて、彼を歓待するためにメシをつくろうとする。そのときキャベツを千切りしていたら、急に頭が痛くなってきてそれが夢だった。しかし目が覚めたら千切りのキャベツだけは現実に残っていた」とか「幽霊が出てきて、消えて、部屋のものすごく細い隙間から出てきたからその隙間を覗いたら、細い幽霊が中に入っていてこっちを見ていた」とかいうもの。
要するに意味があるんだかないんだかわかんないような話で、怪談としては現象の因果がハッキリしないのが新鮮だった。
本書に収録されている5編は、オーソドックスな因果話もあるが、やはり因果関係があるようなないような話が印象的。

「小さな幽霊」(画:枝松亜紀)は、話者の桜金造が1カ月の長期公演の間、役者とスタッフたちがホテル組と旅館組に分かれて宿泊した際の話。要するに「ホテルや旅館に霊がいました」という話なのだが、ポイントはクライマックスよりもむしろその前兆。

・最初ホテルに泊まった桜金造は、真夜中にトレンチコートを着た中年男の「霊」を見るが、この「霊」が、手に何も持っていないのに新聞を読んでいるような仕草をする(これは伏線でも何でもなく、本当にそういう「現象」)。

・次に恐ろしくなった金造が、頼み込んで旅館に部屋を変えてもらう。そして、寝ている間にジャグジー風呂に入っている夢を見る。最初は気持ちがいいが、だんだん背中の泡の勢いが強くなってきて、最終的には背中を強く押されたような衝撃で目が覚める。

……というような感じで、現象自体の意味が判然としないところに恐さがある、と思いました。まあいざ話を聞くと、典型的な「怪談」もよく語ってますけどね。桜金造。あとぜんぜん関係ないけど、伊丹十三が自殺したとき、「変わった人だから、自殺しても考えられないことはない」って言って伊丹十三の変わり者エピソードを話していた桜金造は、いろんな意味で恐かったです。

表紙は笑わせようとしているとしか思えん。……っていうかそういうツッコミを待っているかのようだ。いまだに小山遊園地……。おやまゆ〜えんち〜、ってもう若い人は知らないぞたぶん。
(02.0707)



【書籍】・「リンダリンダラバーソール」 大槻ケンヂ(2002、メディアファクトリー) [bk1] [amazon]

90年代初頭に起こった「バンドブーム」について、「筋肉少女帯」だった大槻ケンヂ自身の経験を元に、実際のバンド名などをあげながら綴った、エッセイと実録モノと小説の中間のような感触の本。
青春時代に「ブーム」という巨大な波に巻き込まれた青年の心の揺れと、それを現在から見ているオーケンの心情が交互に描かれるせつない感触を持った本です。

・ぜんぜん売れねえ私の同人誌
こういうのはレビュアーの自分語りからしちゃった方が早いと思うんで書くと、90年代を通して、筋肉少女帯の描く世界がすごく好きだった。「何か自己表現したいんだけど、ままならない自分」、「社会と折り合いがつかなくて苦しむ自分」の描写が絶妙で、また自虐、自閉におちいらず接した人間を「やる気」にさせるものだった。
精神疾患みたいなものを煩って苦しみながら綴った(らしい)「のほほん日記」[bk1] [amazon]「のほほん日記ソリッド」[bk1] [amazon]は、かなりダウナーな部類に入るのだろうけど、単行本として終わりが近づくと、オーケンの精神的彷徨にいちおうの決着が付くように描かれている。
具体的に言えば、父親と兄の暴力から逃げ出し彼のもとに転がり込んできた少年「宿無し君」をオーケンが励まし、またオーケンが宿無し君を励ます。
今考えてみれば1冊にまとめるときの「きっかけ」として出てきた架空キャラクターなのかもしれないけど、「のほほん日記」を読んだときは実在すると思い込んでいた。我ながらファニーです。

自分語りの話でしたな。私は90年代を通じて同人誌活動をしていた。今もしてるけど、今より少し毛色の違ったものを。はっきり書くけど、ぜんぜん売れなかった。具体的に書くと、コミティアで新刊として出して15冊くらい、レヴォとかだと7、8冊。もちろん、同じ本を同じイベントに出すごとに売り部数は低減していく。「楽しければ売れなくてもいい」っていうヒトもいるけど、売れないより売れた方がもっと楽しいに決まっている。

本書「リンダリンダラバーソール」にも、オーケンのメジャーデビューを闘志むき出し、嫉妬むき出しにして非難するバンドマンが出てくる。同じことをやってて、なぜオマエでオレじゃないんだと。
デビューが決まった「選ばれた側」のオーケンは、いつ自分が彼に追い越されるか、いつ自分の「幸運」が自分の元を去ってしまうかに恐怖する。でもまあ当然私は、同人誌界では「なんでコイツの本がおれより売れるんだ!?」っていうことばっかり思ってましたよ。このオーケンに毒づくバンドマンの心境でした。
で、そんな中、筋肉少女帯のつくる曲とかオーケンのエッセイというのは、いつも「何かを表現したいんだけどくすぶっている」人々の不安を理解しつつ、勇気づけるようなものが多くて、それを励みにしていた。

けれど、いつの頃からか、オーケンの悩みはその才能から来るものであり、ワタシの「同人誌が売れない」とか、そういう悩みとは別だと悟った。え? 悟るのが遅い? ……そう言われると言い返せないが。
コレは、私自身の「同じことやってたらダメだな」的な思いと、オーケンが自分の神経疾患みたいなことについて語りだしてた頃と偶然、シンクロしてた。神経症の苦しみほど他人に伝えるのがむずかしいものはないだろうし、私が私の同人誌を「売れない」ってジタバタしても、他人にはどうすることもできないしね。

だからそこで、一歩ひいてオーケン諸活動を見るようになった(ファンであることには変わりないにしろ)。で、本書は「のほほん日記ソリッド」などから比べると、文章はマイルドになっている。それほどドロドロしていない。以前読んだ、似たようなバンドブームの頃のエッセイは、もっともっと赤裸々でなんかドロッとしてた。本作は、どんなことが起こっても、それはなんかセピア色の風景の中で行われているっていうか。そんな感じ。
たぶん、意識的にノスタルジーを演出しているんだろうけど、私はこういう書き方はけっこう好きです。バンドブームの狂騒をノスタルジックに描くには、その渦中にいながら現在もバンド活動を続け、なおかつ売れている(どのくらいかは知らないが、「特撮」というバンド名くらいは私も知っているし)オーケンがうってつけの人物だろうと思うし。
「バンドブーム」についてもっと知りたい人は、「ナゴムの話」平田順子(2000、太田出版)[bk1] [amazon]と合わせて読むといいかもしれない。時代的にはバンドブーム前夜で「ナゴムレコード」に絞ってあるが、資料性も高いし、どちらかというと当時のバンドを俯瞰的に扱っている。本書を読むと「何かが爆発する」前夜、どういう人々が何を考えてやりたいことをやっていたか、が見える気がする。

さて、オーケンが「才能があるがゆえの苦悩者」として、私の中で(あくまでも私のインナースペースの中での話で我ながらどーでもえーと思うが)変化していった頃、私の心の「同人誌が売れない苦しみ」をある程度軽減してくれるかに見える書籍はどこにあるか。
……というと、これがあるのである。

・「消えた!?イカ天バンド」
「消えた!?イカ天バンド」 氏神 一番(2000、イースト・プレス)[bk1] [amazon]は、「カブキロックス」のヴォーカル、氏神一番が「イカ天」に出場してからバンドブームの渦中に飛び込んでいき、そしてブームが去ってからも芸能界にとどまり活動を続けていくさまが赤裸々に描かれている。
本当は「リンダリンダ……」を読んで、同書との比較で話を進めようと思ったのだがさすがオーケン、「リンダリンダ……」内に本書のことが出てくる。それに付け加えることは何もないのだが、「消えた!? イカ天バンド」はその看板に少し偽りありで、イカ天ブームを俯瞰的に検証するのとは正反対、氏神一番氏の半生がインタビュー形式で描かれている非常にパーソナルな本なのだ。
また氏神一番という人が芸能人とは思えないほど正直っつーか、「技巧的」とも言える「リンダリンダ……」とは対極的な、(退屈な部分も含めての)セキララ告白をしているので、当初の興味とは別になんだか引き込まれてしまう本である。そもそも、この人「スター誕生」オーディション経験者。もともと「ザ・芸能界」に憧れていて、しかも「芸能界憧れキャリア」も長い人のようだ。

さらに、「リンダリンダ……」との最大の違いは、失礼ながら、語り手の氏神氏が「ものすごーく売れた人」ではないことにあると思う。シンデレラボーイ的なデビューの仕方をした(と「リンダリンダ」には書いてある)筋肉少女帯に比べ、「カブキロックス」は、氏神氏が悩みに悩んで、年齢的にもほとんど滑り込みセーフでデビューしたような感じだったらしいし。

他にもコラム的に「イカ天バンド」のインタビューが何本も載っているのだが、正直言ってそれぞれがものすごくショボいのだ。そして、それだけに興味深い。私は「ブームに翻弄されたアーティストたち」というよりも、「波」が去ったときに表現者がどのように生きていくかという、ショボいなりのプライドというか前向きというか、そういうのを感じ取ろうとした。

・もっとダメダメな人々
……そして、もっともっと売れなかった人々もいるんだろうけど、そこまで行くと本にはなりにくいと思う。なぜかというと、あんまりダメダメだとかえって言い訳が用意できちゃうし、逃げ道を確保してやっていた人もいるだろうし、本当にやる気がなかった人も含まれてしまうから。「ちょっとやってみただけだったんですよ」って言われたらオシマイだから。

もちろん、私は同人誌活動の経験上、上記のことを書いている。「リンダリンダ」の情熱を最高位とすると、表現者として最下位に位置する人、というのがいるのだ。それは売れた売れないとはもちろん関係がない。で、それより下は別に自己表現とか考えたこともない人。上の方が偉いとは当然言いきれないから、上下逆転させてもイイんだけど、とにかくそういう衝動ってグラデーションになってると思うんですよね。
「自分を表現していいのか悪いのか」という、その段階で常に迷っている人々がいる。私はそういう人たちが最下位だから悪いとは微塵も思っていないが、「表現したい」人々と、「表現していいものやら悪いものやら」と迷っている人々の確執はあまり書かれて来なかったと思う。プロの世界だと、当然そういう人は切り捨てられていくからね。同人誌だとボーダーな人、いっぱいいるでしょ。

……ホントにもう、やる気のないやつと付き合うと「修羅場」という言葉を使って締め切りごっこしている、などと言われて批判されている人たちが愛おしく思えてくること請け合いなんだよな。だって締め切りを設定しているだけ偉いもん。本当にそう思う。
もちろん、そういう私を「やる気がない」と憤っている人も私の上位にいるわけで、そういう低レベルの闘争みたいの、だれか描くべきだと思う。まあ一流の表現者は書かないと思うけど。周りにそういう人がいないと思うからね。
でも、だれか書かないかな???
(02.0705)



・「キックオフ」におけるサッカー描写

ここからうまく話をまとめることができず、「キックオフ」について3回ぶんも書くことになってしまった。かといって、面白いネタをとっておいたわけでもない。もったいぶらずにごく普通に始めます。

・「キックオフ」におけるサッカー選択の意味
「キャプテン翼」という人気サッカーマンガが連載中、同時期にラブコメ「キックオフ」で、刺身のツマ的にサッカー部が舞台となっている理由について少し考えたのだが、作者のちば拓氏がサッカーをやっていた(らしい)こと以上の意味はおそらくないだろう。
この間「ひきこもり脱出を考える少年たちにラグビーをやらせる」というのをテレビでやっていて、なぜ「ラグビー」なのかはたぶん「スクールウォーズ」の影響なんだろうなと思った。で、サッカー部は70年代に村野武範主演の青春ドラマの舞台だったし、そこら辺「キックオフ」と関係あるか考えたのだけれど、「青春もの=サッカー」というような、直接の影響はなかったと思う。

ただし、「キックオフ」で「兄が野球部で甲子園を狙えるレベルにあるのに対し、サッカー部はたいしたことない」というニュアンスで描かれていること、野球部で活躍できそうだった太陽が、由美ちゃん目当てにあえてサッカー部を選択したことなどには意味がありそうだ。やっぱり野球の方がラブコメするには熱血すぎる気もするし(といいつつ、あだち充の「タッチ」は野球部でしたけどね)。

・「キックオフ」におけるサッカー描写
で、肝心のサッカー描写なんですが、意外とあることはあって、単行本(ジャンプコミックス)第6巻「いつかはきっとペア・ルック……! の巻」(しかしなんつータイトルだ)において、太陽と由美ちゃんはデートで「Wカップスペイン大会写真展」に行ったりしている。
そこで由美ちゃんは「フフ……永井くん あんな真剣に写真見ちゃって…… ほんとにサッカー好きなのね…… サッカーに嫉妬しちゃう……」とか思うのである。

もうひとつは、単行本(ジャンプコミックス)第12巻「●番外編●あま〜いA体験の誘惑の巻」。これはおそらく、連載開始前の読みきりだったのではないかと思うが、太陽がサッカー部の部員たちと、国立競技場にヤンマー対古河の試合を見に行くシーンがある。
どうでもいいがこのエピソードで、たいして不自然でもないように毎回登場するが思いっきり不自然な「太陽の自室に飾ってある由美ちゃんの特大パネル」が初登場したのではないかと思われる。

他にも、コミックスの「まえがき」でちば拓先生が「サッカー部をつくった。早く試合したい」と書いているなど、「単に舞台としてサッカー部を選択したのではない」っぽい印象がある。ただ「キャプつば」が目立ちすぎたんで、全面に出なかったんでしょうね。

ただし、太陽の所属するサッカー部の日常描写は、ひたすらに軟派だということは言わなければならない。ヘタをすると帰宅部より軟派かもしれない(笑)。先輩後輩の上下関係も厳しくなさそうだし。でも楽しそうだけどな。
ちなみに顧問は美術の男の先生で、彼も展覧会に出品した絵が賞がとれなくても「愛する人のために書いたからいいんだ」とニヤつく「キックオフ」的な人物であった。 さらに斎藤慶子先生という(ネーミングが時代ですな)美人教師がコーチに入ったりして、後半はますます軟化するサッカー部。
ただし、太陽はまったく万年補欠でもいいと思っているわけではなく、「足だけは速い」という潜在能力という伏線を付けるのも忘れられてはいなかったから、前半では一補欠にすぎなかったが、物語終盤ではレギュラーを獲得している。

・「こりずに! キックオフ2」
「コミックフィギュア王」(1999、ワールドフォトプレス)掲載の新作「こりずに! キックオフ2」は、基本設定はそのままで舞台は99年当時に。太陽の兄がロン毛で茶髪になっていたり、由美ちゃんは首から携帯をぶらさげたり、バッグにあきらかにポケモンの「プリン」らしきマスコットを付けていたりする。セーラー服ではなくブレザーにチェックのスカートというイマ風の制服を着たり、ルーズソックスっぽいものをはいている描写もある(以上余談)。
で、太陽の所属するサッカー部が「浦和グリーンズ」というJリーグチームの入団テストを受ける、ということになっているのだ。

それはいくらなんでも悪ノリだろう、と思うがそれをあえてやってしまうのがたぶん「キックオフ」魂なのだろう。マンガの最後には「その後、どうなったかって……!? それは、キックオフJリーグ編で!」(なんちゃってね)で終わっている。
よしんば太陽がJリーグに入団し、そこでも「由美ちゃん」「太陽くん」なんてやったらW杯でおとなしかったフーリガンも暴れようというモンだが、かえって作者の元気っぷりを証明したかたちになっててわたし的には微笑ましかったです。

・余談
私は未読だが、前述の「コミックフィギュア王」によると、短編集「たんぽぽの咲く道」に「その後のキックオフ」という読みきりが収録されているらしい。大学生になった太陽と由美ちゃんが、また進展しそうでしない関係が描かれるものの最後には結婚、ラストでは中年夫婦になってもアツアツで「キックオフ」してる(子供たちにひやかされる)二人が描かれているという。

「人間はいつまでも同じではいられない」というのはしばしばマンガやアニメでもテーマになっていて、それはワンパターンが望まれる場面でこそ問われることでもある。
「Dr.スランプ」でも、10年後かなんかの未来に行ったアラレたちが、そのまんま成長していて成長も挫折もない自分たちにツッコミを入れるシーンがあったと記憶しているし、「Zガンダム」でアムロとフラウが結婚しなかったことにファンから抗議が来て、それに対してアニメ誌でスタッフのだれかが再反論(そんなに人生うまくいかない的な)していたのを覚えている(例が古くてすいません)。

その意味で言えば、結婚しようが子供が産まれようが、時代が平成になろうが永遠に変わらない「太陽と由美ちゃん」を描いた「キックオフ」ってマンガは、「逆にすごいな」と少し思ったりもするのだった。
(02.0704)



・「キックオフ」全12巻 ちば拓(1982〜84、集英社)

・若干の改訂の上、ぶっとび&そぼくコラムここに移動(02.0724)。

(02.0703)



・マンガ「キックオフ」を語る前のプロローグ

いや〜終わりましたなサッカーW杯も。開幕前に「興味なし」を決め込んでいた私も、前代未聞の一般人の熱狂ぶりが恐くなり、「もしかしたら、世の中についていけなくなるかも……」とか思って日本の試合は見ました。それと、準決勝とか決勝とかも見ました。

駅で日本代表のユニフォームを着た「キャプテン翼」の広告を見て、「こんなふうに扱われて高橋陽一って幸せ者だよなぁ〜」と思いつつ、「でもキックオフもあったじゃん!!」というベタギャグを考えるワタシ。
ンでまあ本当に「キックオフ」について書こうと思うのだが、その前にW杯についてもいくつか言わせてくれ!!

・「面」(ツラ)リーグ
「ザ・ワイド」を見てたら、「W杯に出てくるイイ男特集」とかいって、ベッカム、ジダン、トッティー、あと日本のカッコいい選手(名前よく知らない)、あと韓国のカッコいい選手(名前よく知らない)などを取り上げ、「どうしてサッカーの選手ってこうイイ男が多いんでしょうね〜」などとのたまっていた。
しかし、いくら興味ないとは言え、顔もよくてサッカーもうまくて何億円ももらって、そういうことに嫉妬しないわけがないでしょッ!!(クライベイビーサクラ風に)ということで、私は密かに嫉妬していた。

「何の取り柄もなさそうなのにサッカーだけはうまい」とか「いちじるしくブサイクなのにサッカーだけはうまい」とか、「顔が恐い」とか、そういうヤツもクローズアップされるべきだとも思った。
しかし、日本代表では面「ツラ」的に迫力に乏しく、有名な方の中田なんて何アレ!? ツルリとした顔しちゃって。プロ選手はおろか、体育会系らしくすらない。どう考えても顔的には帰宅部で、学校帰りの駄菓子屋の10円ゲームに興じている高校生の顔だ(決めつけ)。ちなみに本はマガジンしか読まない(決めつけ)。

そんな中、私の中での「面(つら)」救世主として登場したのが、日本トルコ戦および決勝戦のコリーナ審判であった。黙っているとホラー映画専門俳優みたいだが、笑うと「サイボーグ009」のグレート・ブリテンそっくりになるという(とりイカでもちょこっとコメントされてましたが)魅力的な容貌。009がハリウッドで映画化されるなら、007役は彼にお願いしたい。ところで「コリーナ」って、なんか西洋風RPGの村娘みたいな名前だな。

そして大御所登場、カーン様(カーン様大特集しゅうかいどう)である。シロウト目で見て、サッカーの選手は野球ほど体型の差異がないようだが、この人は絵に描いたようなゴリラ風外見。そしてなぜかネットを巡回しているとみんなカーンに「様」を付けている。なんか発信源がはっきりしているとこういう話は急につまんなくなっちゃうんだが、自然発生的に「様」を付けているとしたら面白い。
即座に「ラオウ」を連想していた人が何人もいて面白かった。どこかでドイツブラジル戦を「北斗神拳VS南斗五車星」にたとえている人がいて、ウマいと思ったり。むろんドイツにもいい「キャラが立ってる」選手はいっぱいいたんだろうが、パッと見そんな感じであった。

スポーツ新聞では、カーンは日本企業のCM出演はブラジルの選手よりいいギャラもらえるんじゃないかと書いてあった。日本のドイツに対する政治経済関係ないとしたうえでの無根拠な親しみや、最後に負けてしまったところも判官びいきの日本人心をくすぐるとは思う。
……まあ実際には「ラオウ」というよりは、チームメイトにとっては「ゴリライモ」みたいなキャラなんじゃないかと思うが(ホントに顔どおり、すごい恐いらしい)。

他にもいい面(ツラ)をした選手はいると思うが、よく知らない。

・「シャア」の存在をリアルにしたマスク宮本
そして、顔そのものではないがビジュアル面で私のようなトウシロに興味を抱かせたのが宮本のマスクである。

「ガンダム」って、すごいSF考証の本とか出ているから、もしかしたら何らかの説明がついているのかもしれないが、私が昔っからギモンだったのはテレビ版でガンタンクが空を飛んでいたことよりも、シャアのマスクであった。
シャアは「顔にキズがある」とウソをついて、ザビ家に正体がばれないようにあのマスクを付けているのだが、厳しい軍隊生活でそんなことが可能なのだろうか? 富野サンの小説版では、「マスクを付けるために自ら顔に傷を付けた」ということになっている。
むろん、アニメというジャンルの性質上、美形キャラクターとしてシャアの顔にキズがないことにしたであろうことくらいは私にもわかるが、もうみんな慣れちゃってるけど、あれ最初に見たときホント違和感なかった?
しかし、宮本のマスクが許されたということは、シャアのマスクもまったくありえないことではないということだ。まあW杯と軍隊じゃまた違うけどさ。韓国の選手の赤いマスクも、宮本のマスクをつくった同じ技術者がつくったらしく、「技の1号、力の2号」(まあどっちが1号でもいいけどな)という感じで良かった。

惜しむらくは「バットマン」の呼称が「マスク・オブ・ゾロ」よりも定着してしまったことだが(単に私が「マスク・オブ・ゾロ」が好きだというだけの話なんだが)、これは「マスク・オブ・ゾロ」というのがひたすらに言いにくいということが裏目に出た。「怪傑ゾロ」ならまた情勢も違っていただろう。

・ハラハラした嫌韓感情のストレートな表明
それと、あくまで個人的感想なのだが、誤審問題その他で、ネット上で嫌韓感情をあらわにした発言を多く目にしてハラハラした。いやまあそれなりの知識の積み重ねがあって、考えがあってやっているならいいんですけど。私は、モヤモヤとした感情はあるが、とにかく知識がないので発言のしようがない。感覚的には、ちょっとアメリカとかの悪口を言うのとは何か違うんではないかと思うので、どうしたもんかというのが本音です。

また、飯島愛がテレビで「韓国のサッカーひどい」と表明したことが問題になっていたりするが、発言内容よりも「テレビ的にオッケーなのか?」「だれがオッケーを出しているのか?」が気になる。
さんま発言の方は、半分くらいしか見ていないがさんま流の範囲内としてはあり得ることだとは思う。なにしろかつて、落ち目になりかけの欽ちゃんに番組のゲストで呼ばれて、ほとんど欽ちゃん潰しとも言えるパフォーマンスを行った男である(そういうことがあったのです)。
まあ「計算」ということにかけては飯島愛だって相当なものだろうとは思うが、ならば飯島愛に「ゴー」を出させた「雰囲気」はなんだったのかということだ。それとも単なるハプニングということなのか。

W杯日韓共催が決まってから、テレビではあからさまに「韓国オッケー」になった。
商品も、韓国旅行、韓国風お好み焼きや焼き肉、海苔などのCMが増えた。それまでは、タブーとはいかないまでも避けていた気がする。それがわざとらしく「オッケー」となり、さらにそれを通り越して「オッケーなんだけど、あれ(誤審問題など)はないんじゃないか」という放送を可能にするものっていったい何なんだ? それと、ずっと韓国批判してた豊田有恒とかどうしてたんだろう? ちゃんとだれかコメントとったのか?

他国の意見としては、韓国の新聞かなんかで「日本人は(自分たちほど)まとまった応援をしない」って批判されて、別の外国人からは「日本人は自国以外の国の応援でもそこのユニフォームを着て盛り上がっていて驚いたけど、他の国ではそんなことしない」とか書かれて、「どうすりゃいいんだよ!!」とか思ったのは確か。
なんかさあ、戦後50年も経って、この期におよんでサッカーのW杯では日本は吉良に呼ばれた浅野タクミノカミ状態というか。まあそれは私の被害妄想だけど。でも「ちょっと曇り空だけど、遠足が中止かどうかわからなくて、ランドセルにしたらいいかリュックサックにしたらいいか」って悩んでる小学生みたいな感じだと思った。

まあそれが世界常識だというのならしょうがないかもしれんが、ストレートに政治や経済問題のトラブルで「敵、味方」を区別するのは寂しい気がする。当事者はそれどころじゃないくらい恨みが募っているのかもしれないし、サッカーくらいしか憂さ晴らしの方法がないくらい息詰まっている国もあるのかもしれないから、そんなにいい加減なことはここでも書けないんだけどね。

サッカーのW杯って、オリンピックほどバラけないでしょ。「コッチは敗退したけど、コッチはまだ残ってます」とかないから。負けたらオワリだから、盛り上がりもするし、度を越したせっぱつまり具合にもなるとは思うんだけど。

……とか書いたら、長くなったので、「キックオフ」についてはまた後日。
(02.0702)

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