つれづれなるマンガ感想文6月後半

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「つれづれなるマンガ感想文」7月前半
一気に下まで行きたい



・「COMIC阿ロ云(あうん)」7月号(2002、ヒット出版社)
・「COMIC阿ロ云(あうん)」8月号(2002、ヒット出版社)
【コラム】・特定の文化ジャンルに外的な「説明」は必要か
【書籍】・「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」  大塚英志(2000、朝日新聞社)
【小説】・「ヴァート」 ジェフ・ヌーン(1993、1995、ハヤカワ文庫)
・「週刊ヤングマガジン」30号(2002、講談社)
・「週刊少年チャンピオン」31号(2002、秋田書店)
【映画】・「少林サッカー」感想その2
【コラム】・ナンシー関その2 「信仰の現場」が今、もたらすもの
・「平成義民伝説 代表人」上之巻 木多康昭(2002、講談社)
・「週刊少年チャンピオン」26号(2002、秋田書店)
・「週刊少年チャンピオン」27号(2002、秋田書店)
・「週刊少年チャンピオン」29号(2002、秋田書店)
・「週刊少年チャンピオン」30号(2002、秋田書店)
・イモセンリンク
・「娘。物語」(2) 田中利花、神崎裕(2002、講談社)
【テレビ番組】・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)






・「COMIC阿ロ云(あうん)」7月号(2002、ヒット出版社)

成年コミック誌。出てから、時間が経っちゃってすいません。

「Party Time5」師走の翁は、矢内ヤられまくりの回。でもすごくかわいく描いてある。作者は矢内がとことん好きなんだな、と思わせる。

ぜんぜんカンケイないが、知り合いである程度「モー娘。」の好きなヤツがいて、エロマンガはあんまり読まない。読まないけど、本作は「モー娘。」の情報がらみで知ってるんですよね。
で、「本当にコレってエロいんですかね?」とか聞いて来るんですよ。まあ……正直言って、バカじゃないかと思った。それはキミ自身が読んで決めることでしょう!! 付き合ってられないよ。なんか人気のあることに反感混じりでね。いや、「ボクの愛しのだれだれちゃんをこんな目に合わせるなんて……」というのならわかる。ただね、「人気がある」ってことそのものが気にくわないらしい。ケツの穴の小さいヤツだ。
ここでも書いたんだけれど、まあエロマンガを知らなくてモー娘。に詳しい人間に、本作についてある程度の説明の義務は私にあるかもしれん。が、「エロマンガが好きかどうか」は趣向の問題であって、ムリに好きになる必要もないし、興味があるならエイヤッとその世界に入っていく以外ないわけでしょう。「エロいんですかね?」はないと思った。そういう会話のレベルかよ……と思ったよ。私事ながら。

「つくもがMIX」幸田朋弘は、コドモの頃からためた消しゴムのカスから美少女が出現。前作「あっちのカナカ」に続いておしかけ女房モノだ。これ、かなりイイ。SFおしかけ女房参照のこと。

「BAD SLAMMERS」ジャム王子は、「妊娠瓜(にんしんか)」というキモチワルイ果物を、女の子の身体を使って育成する悪人ぽいやつが登場したんだけど、三蔵たちが戦うかと思ったら戦わなかった。変な話。
(02.0630)



・「COMIC阿ロ云(あうん)」8月号(2002、ヒット出版社)

「とりぷるさんしゃいん」幸田朋弘は、先月、先々月と「SFおしかけ」を描いた作者の、海に行った漫研部員たちを描いた普通の(?)話だった。

「LOVE BRIDGE」師走の翁は、爆走58ページの「シャイニング娘。」シリーズ最終回。いや、本当に疾走している最終回。精液まみれ、粘液まみれのシャイ娘。たち、それと物語的にも決着が。ああ、私はこういうマンガは好きだ。結局ねえ、好きなら好き、嫌いなら嫌い、怒ったり笑ったりというのを「開放」の方向で、カタルシスの方向でストレートに出す作品は好きですね。
それとラストの衝撃部分(?)は、爆笑とともに拳突き上げますよ!! まあ連載しながら考えていったことじゃないかと思うんだけど。いいなあ。

「BAD SLAMMERS」ジャム王子は、急に新キャラが出てきて戦った。でもけっきょくヤッちゃうんだけど。
(02.0630)



【コラム】・特定の文化ジャンルに外的な「説明」は必要か

これはやや口幅ったいというか、できるだけ普遍性を持たせた話として書いておきたいんだけど、特定の、特異な文化ジャンル、たとえばふた昔前のマンガでもひと昔前のゲームでも、コミケでも、ロリコンでも、何でもいいけど、そういうものに対して外的な、そういうのにまったく興味ない人に対して言葉としての「説明」は必要かというのを最近考えていて。

なんやかんや言われるでしょ、いちいち。ときには反対運動とか、そういうのも起こるわけです。
で、結論から言うと、
・全員が全員「説明」することができなくても、だれか「説明屋さん」みたいな人が一人くらいはいた方がいい。できればみんなが考えていた方がいいが。
・その「説明」は、便宜的なものでいい。極端な話、ウソでもいい。

……というのが、私の今のところの考えです。
「説明」ってのはおおかた、言葉によってなされる。当たり前かもしれないけど。
「言葉による説明」ってのの効力を、私は昔ほどは信じていない、という部分も確かにある。
単純に、影響力とか、数の力とか、電通に頼むとか(笑)、そういうものでねじふせることができるような気もするし、逆にとことん外部との接触を断って秘密結社みたいになるのもいいし、「年寄りは新ジャンルにほとんどついていけない」、逆に「ガキの頃のすり込みは一生続く」ということもあるので、上の世代が死んじゃうのを待つという手もある(笑)。いや、本当にあると思うよ。「キマイラシリーズ」で九十九三蔵も言っている。

でもやっぱり、言葉による説明は必要だと思うんですよね。
「マンガは鳥獣戯画から始まった」って、昔のマンガ入門では定説めいて語られていたけど、今、それをまっちょうじきに信じている人っていないと思う。ただ、新興文化は何らかの「伝統」と結びつけた方が受け入れられやすいから、そういう説明がなされた。
「ゴジラ(1作目)には反戦思想がある」というようなことも言われてたけど、それは本当だと思うけど、今考えると別に「反戦」だったからゴジラ見てたわけじゃないですよね。でも、そういうことをとりあえず対外的に説明しておいた方が面倒がなくていいや、ということはあったと思うんですよね。

もちろん、説明したって永遠に理解され得ないものもある。ある種の変態趣味とか。
「ギブスフェチなんだけど、理解してください」って言ったって、まあ理解されることはないでしょうね。「わかるよその気持ち」とかそういうの。……っていうか、そういうツラされると逆に腹立つでしょうたぶん。あ、あの、女の人がギブスとかしてるとコーフンするってやつね。包帯とかもあるけど正式名称忘れちゃった。

でもねえ、いちおうウソでも何でも「『理解してもらおう』とシミュレーションしたうえで言葉を組み立てていく作業」というのはした方がいいと思う。
我ながら生意気な言い方ですが。

なぜかっていうとねえ……どうしてもそういうシュミって「言葉によって組み立てられざるを得ない」という部分があるからなんですよね。
まあわかりやすいんで変態趣味の話をしますが、「おねしょマニア」ってのがいて、そのサイトがあって、そこに「おねしょ小説」ってのがアップされてんだよね。変態性欲のサイトもいろいろ覗いたけど、「パートナー募集」などの「実践系」でないかぎり、けっこう小説って載ってるんですよね。
おねしょマニアの人は、おねしょを追体験したいから、そういうのを書くんだと思う。ビデオとか写真とかでもいいとは思うんだけど、快楽を追体験しようとするだけでも、どうしても言葉の問題はつきまとう。「外的な説明」は、イコール自己言及になるから、シュミが深まるんじゃないかというのが私の仮説なんですけどね。
もしかしたら、ぜんぜん違うかもしれない。単なる理屈屋に終わるかもしれないけど。
だけれども、外的に説明を試みようとすることは、表立って反論とか弾圧とかがない場合でも、合気道の型の練習を常にするようなことと同じで思考訓練になる。
……というのが、私の今のところの仮説。

関連事項では、某創作同人誌即売会で、「何も知らない人でも入ってこれるイベントを」ってのを目標に掲げてたところがあった。今はどうなってんのか知らないが。
それに対する反論もあった。要するに「外部に内容を『合わせる』必要はないじゃないか」とね。
それは一理あると思う。実は「こぎれいなイベントをしたい」という欲望が出てくるのは、コミケが巨大化していくうえで歴史の必然だったとも思うんだけど、私も「外部に内部を合わせる必要はない」という意見には賛成。
ただ、これは「イベント」という実践を通して行われたから物議をかもしたのであって。「実践」が思想をも改変してしまう危険性があったということであって。
「よそゆきの、言葉による説明」だったら、別に問題なかったんじゃないかと思う。金もかかんないし。
「よそゆきに説明」して、後は内部で好き勝手なことやりゃいいんだから。
以上は、「言葉」と「実践」の違いについて感じたこと。

ただ「言葉」に関しては、やっぱり外部向けのことを用意していた方がいいと思うんですよね。それだけ面倒な摩擦が減るし。頭の体操にもなります(なんか生意気な言い方)。
(02.0630)



・「おひっこし」で少し思ったこと
見下げ果てた日々の企てここにおいて、「竹易てあし漫画全集 おひっこし」に関して、「実力派の若手俳優がバラエティ進出して妙に張り切ってるの目にしたような」っていう形容があったけど、思わずポンと膝を打ちましたよ!!

この形容で、「おひっこし」に関する心のもやもやが全部氷解した感じ。こっから先は私の個人的感覚なんですが「がんばってることは評価したいし、実際笑いもとってるんだけど、なんか『う〜ん……』」というか。
同作にはまったくの脇役で、ウーロン茶かなんかのCMに出てくるチャイナドレスのモー娘。のそっくりさんたちが出て来るんだけど、そういうのナニゲに収集している私もすっかり失念していた。それって本当にファンなのか画力があるだけにようわからん……、ということなんですわ。達者すぎて、かえって作家としての「顔」が見えにくくなってしまっている。本来なら少し自伝的なにおいが漂うような(本当かどうかはともかく)題材なのに。

「モー娘。」登場に関しても、木多康昭の「代表人」でキャラクターが妙に写実的なのとどう違うのか、読んでてとまどうというか……。「ピーナッツ娘。」を書いたみずしな孝之は確実に「モー娘。」のファンだったと思うけど、竹易てあしの場合、不明瞭なぶん記憶に残らなかった。私は。
「ごきげんよう」で布施明のトークが妙に面白かったりするときに感じる違和感。いや、布施明のトークってもともとちょっと面白いんだけど、あの人、別にバラエティで食ってるわけじゃないから。そんな感じ。
(02.0629)



【書籍】・「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」  大塚英志(2000、朝日新聞社) [bk1] [amazon]

「小説トリッパー」連載。出たのは一昨年だが、私は紹介のタイムリーさとかはあまり気にしないのでヨロシク。
「小説の書き方入門」的な本で、なおかつ文学論となるように配慮されている。そういうものは失敗すると「入門」の方は単なるダシとなって批評部分の嫌味さ加減だけが残るが、本書は専門学校での実際の講義をもとにした、ということだけあって、……まあ私がこれに基づいて小説を書いたわけじゃないが、実践的に感じたし、また本書を読んで書けるようになる人もいる、と思わせる部分はある。

・実践部分
本書での大きな目的は、「小説を書く行為」を神秘的なものとせず、あくまで技術的なものに還元すること、どこまで還元できるか実験することだ。これは、十数年前に著者が「物語は何パターンかに分解でき、それの順列組み合わせにすぎない」とどっかの民話学者の論文を引用していた頃から変わらない視点だ。
変わったのは、著者自身が実際の作劇(……といっても昔っから無記名でやってたかもしれないが)や生徒たちへの講義を通して学んだ実際的な部分が加わっているということ。
タロットカードのようなものの配列から物語をひねり出してみたり、村上龍の「五分後の世界」を叩き台として創作をしてみたり、つげ義春作品をノベライズしてみたり……というのは作例を読むのも面白いし、漠然と「物語が書きたい」という人には刺激になるのではないかと思う。著者の執筆したマンガ原作を元にしている部分も、説得力がある。

実は、大塚英志を読むのは十数年ぶりになる。ある時期を境に、なんとなく遠ざかっていた。評論家の浅羽通明が大塚英志徹底批判をどこかで行い、大月隆寛がどこだかのカルチャーセンターで大塚に水差しの水をぶっかけた(らしい)というところまでは記憶している。しかし、彼らが何にいらだっていたのかサッパリ思い出せない。
確か、民俗学の方法論を持論にかなり乱暴に使っていたことが原因だったような気がしたが。で、それが関係あるのかないのか知らないが、大塚英志はその後、創作の世界でもっぱら自分の知識や方法論を活かしていたらしい。私は実は彼の「創作作品」もキチンと読んだことはないんだが、今でいうトンデモ本かトンデモ本ギリギリであったと思われる「少女民俗学」がそれなりに面白かったことを考えると、マンガとか小説向きの想像力だったのかもしれない。

実際、彼の著作の中の「たとえ」とか「考え」というのはヨタだかそうでないのかわからないところがあった。マンガ評論の中に必ず奥さんの白倉由美の名前を織り込むのは、あれは冗談だったのか本気だったのか……。あまりにヨタがキツすぎる、と考えて私が何となく興味を失っていったのが十数年前なのだが、本作は「実践性」がしっかりして「ヨタ度」は薄れ、「創作入門」と「文学論」のバランスも良いと思う。

・「文学論」部分
ただし、実践性はともかく文学論の部分で疑問がないわけではない。たとえば、第六講「つげ義春をノベライズして、日本の近代文学史を追体験する」では、日本の「私小説」の系譜について江藤淳の考えを引用しながら解説し、スニーカー文庫とかコバルト文庫などの「キャラクター小説」をいわゆる「私小説」とは違ったものとして論じている(早い話が、自分のやっている仕事を近代文学史の中に位置づけている)。

大塚英志の名誉のために言っておけば、別に「キャラクター小説」、「キャラ萌え」を喚起させる小説が文学の系譜に連なるからどうの、と権威づけているわけではない。しかし、「日本で初めて」というニュアンスで新井素子を「自然主義的伝統と異なるリアリズムを小説に持ち込んだ」としたり、彼女以前のSFやファンタジー小説についても「現実に存在しない世界のことを記してもその内側の世界はリアリズムによって成り立っていた」というところまで行くと、まゆに唾を付けざるを得ない。

いや、もしかしたら言いたいことは理解できるのかも。説明を省けば「オタク的」な小説が勃興してきている、とでも書けばいいことだからだ。「キャラ萌え」は広義のオタク文化の特徴でもある。が、本作全体を通して読むと、大塚英志の「文学」に対する愛憎相半ばする心情というか、「文学」に寄り添ってその文脈で語ることが重要だと思っているように受け取れる。だから読み手も「文学」の流れにそって理解しないといけないだろう。
しかし、「近代文学史」とか「私小説」という流れで新井素子を語ってしまうと、どっかおかしいなァというか、自分の理論を引っ張り寄せるためにあえて「閉じた系」をつくり、その中で完結させようとする胡散臭さを感じるのだ。

そういう「胡散臭さ」は、たとえば第五講「『行きて帰りし物語』に身を委ね『主題』の訪れを待つ」でも感じられる。ここでは専門学校の生徒さんに「五分後の世界」の世界観で新たなプロットを書く、という課題を課した際、一人の生徒の作品が意識されないまま「成長物語」になっていたことに喜び(?)、「『成長物語』のような健全な物語を自然に生み出せるようになってほしい」(大意)と言う。
十数年前、著者は「通過儀礼なき現代社会」において、オトナになれない青年たちを問題視していたと記憶しているから、そこからテーマは素直に地続きになっていた。
この辺りで著者をファニーだと思うか、「意図的に主題を誘導している」とか「『成長物語』という安易なパターンに固執している」と胡散臭さを感じるかで、本書の感じ方も少し違ってくるかもしれない。

まあ「成長物語」はエンタテインメントの中でも求められるテーマだから、それすらも「実践的」だと言えないこともない。ただ、話は戻るが結論が導かれる「閉じた系」が著者によって意識されているのかされていないのか、その辺はいまだに気になるところではある。

・「文学」そのものに対してのギモン
それともうひとつ。本作は「小説トリッパー」に連載されていたのだから、当然「文学」の意義を認めたり疑ったりして論が進められている。だがときどき思うんだけど、「文学」ってそれほどの価値のあるものなのか、開き直るつもりはないがいまだにわからん。本書で引用されている江藤淳の主張も、よく理解できん。江藤淳は、「私小説」の「私」が書き手とは微妙に違うということを書き手自身が理解していない小説を酷評したそうだが、その辺の流れは勉強不足でぜんぜんわからん。
結果がすべてじゃないのか。エンターテインメント作品では、かなりの部分で結果がすべてだと思うが。みんなウソばっかり書いてるし。結果ではなく、「書き手の姿勢」まで問うのなら、それはただの根性論じゃないのか。いや、これは批判ではなくて単に私がわからないだけなんですけどね。

まあ、そんな感想を抱いたわけです。
(02.0629)



・「やじうまワイド」大幅リニューアル
20数年間続いたテレビ朝日の朝のニュース番組、やじうまワイドが主要司会者・解説者を一新させるため終了。なにしろ20ウン年間だから、私が中学生のときからやっていたことになる。「ああー、終わったんだー」的なしみじみ感がある。
とはいっても、番組的にどうこう、という強い思い入れみたいなものもない。ニュース番組における功績のようなものも知らん。ただまあ他の同じ時間帯の番組に比べれば、落ち着いていたかなと。
とくにTBSの早朝、「中年男性とモテない君を小馬鹿にした番組づくり」(注:私の被害妄想かもしれん)にヘキエキしていた私にとって、ほとんどTBSVSテレビ朝日の戦いとして見ていた。まあ実際には戦いでも何でもないんだけど。
東京の放送では土曜まであったのだが、金曜で全国放送はオワリ。ラストの星占いのところで、読み上げながら津島亜由子キャスターが涙に声をつまらせるシーンも(翌日の土曜日は、さすがに二度目のお別れということもあって涙は見せず)。
本当は歴代の解説者の紹介くらいしてほしかった(私が見てないうちにやってたかもしれんが細かいところはわからん)が、塩田丸男とか今どうしてんだろうな。この人、一時期「やじうま」の顔っぽかったでしょ。「朝生」では議論に加わらないで、ぜんぶ終わってから最後にとつぜん新聞の解説してたし(なんかこういうのって、議論に加わらないだけ高見に立ったように見えたもんだが)。
この間、水野晴夫と2人でメリーゴーランドに乗って人生相談してたけども。
(02.0629)


【小説】・「ヴァート」 ジェフ・ヌーン(1993、1995、ハヤカワ文庫) [bk1] [amazon]

どうも品切れらしいな。弱ったなァ(すいません、興味を持った人は自分で調べて)。
オビには「新鋭が放つ超話題作」、「妹がいて羽さえあれば、この世は最高だぜ!」って書いてある。93年にして、すでに「妹萌え」? とかってそんなわけないんだけど、しょうがないからツカミで書いてみたよ。いちおうマンガに結びつけなければいけないのが当コンテンツの掟だからな。しつこいようだけど。

「ヴァート」とは未来のドラッグのことで、鳥の羽の形状をしており、口の中に入れて喉をなでて使い、効用によって色分けされている。その威力は強烈なヴァーチャルリアル体験をもたらす。いや、ヴァーチャルではない体験をももたらす。
ある日、主人公のスクリブルは近親相姦関係にある妹・デズデモーナとともに謎の「黄羽」でトリップし、トリップした世界に彼女を誤って置き去りにしてしまう。代わりに残されたのは、ヴァート世界のあんまし気持ちよくない生物、通称「物体」(この「物体」は「宇宙から来た生物」みたいな形状のキモチワルイやつなんだけど、描写にどこか愛嬌があって、イイ。横山えいじの描く宇宙生物みたいなやつなんじゃないだろうか)。
ヴァート世界にはオキテがあり、何かがそこに残されたらそれに見合った価値のものと入れ替えなければ取り戻すことはできない。スクリブルは、「黄羽」を手に入れ、「物体」と妹を交換するという困難な仕事に着手しなければならなくなる……。
「ヴァート」まみれの仲間たちとともに。

数少ない私の読書体験で、本書から真っ先に連想されるのがディック「暗闇のスキャナー」。もしかして「ヴァート」に引き合いに出される定番ですかね? とにかく、「暗闇のスキャナー」は読んだらSFというより、未来人が未来ドラッグで未来トリップして未来廃人になっていくさまを描いた、「未来」ってつけりゃ何でもありかよ、SFってそういう意味じゃないだろ的なシロモノだった。でも面白かったんだよな。

で、本作も「似たようなもの」で、定職にもつかないでブラブラしている薬漬けの若者たちが絶望的な戦いを繰り広げる。解説には「90年代の時計じかけのオレンジ」と書いてあったけど、むしろ「妹(大切なもの)を追い求める探索行」というプロットからすれば「ドラッグまみれの『羊をめぐる冒険』」とでも言った方が正しい。
本当にパターンが「羊をめぐる冒険」で、やや無根拠に世界のありようを探る資格を与えられた主人公が、さまざまな冒険をしながらそこにたどり着き、絶望と、そうでもないものを同時に手に入れるような話。訳の読みやすさ(田中一江という人)のせいもあってスイスイ読めるが、「またこのパターンかよ」という印象も否めなかった。
けれども、ラストのまとめ方は妙によかった。うん。どこがどう良かったかというとむずかしいけど。「小説として面白い」というか。「このパターンかよ」って書いたけど、パターンを作者が自分のものにしている感じですね。

余談だが本書は刊行当時(95年)、テクノ雑誌の「エレキング」でドラッグに対する警鐘とともにレビューされていた。本作の舞台はマンチェスターで、はっきりそうと書いてないがクラブカルチャーが背景となっているのは明白な作品。「未来サウンドシステム」みたいのでDJするシーンもあるし。レイヴっぽい描写もある(今どき「レイヴ」って言わないのかな? 知らん)。
「エレキング」のレビューでは日本のドラッグ浸透について問題視するような内容だったように記憶しているが(あれ? 他の本だったかな? 忘れた)、当時、たぶん本当にドラッグやってるやつと、そんなのぜんぜん関係ないところにいるやつが、95年頃の日本のテクノシーンって混在してたと思う。……っていうか、情報の浸透度として交錯しようがない部分があったんじゃないかと。
当時、インターネットがあったらまた変わってたと思うけど。ネットがあったら、テクノのありようもまた変わってたんじゃないかと思う。不明瞭な事件(?)も少なくなかったしな。そういうのって「事情通」の知り合いとかいないとホントにわかんないし、わかんないならわかんないでいいことだと思うし。

ま、「オービタル」の色違いのCDの中身すらよくわかんない私が言うことでもないんだけどね。いや、ベスト盤が出たっていうから思い出したんだけど。……っていうかホントわかりにくいんだよなそういうの。
(02.0629)



「週刊ヤングマガジン」30号(2002、講談社)

「けっこう仮面R」だけの感想ってのもどうかと急に罪悪感を感じてきたので、キチンと読んで他の作品も感想を書こうと思います。
……それにしても、日記を失ってから当コンテンツ「つれづれマンガ」において我ながら小姑みたいな発言が多くなってきた。しかしこれも一種の「実験」と思っている部分もある。読んでいる人があまりにウザいと思うなら考えるし、私自身がイヤになったらこういう形式はやめる。

まず、グラビアの井川遙なんだけど、もう水着NGならグラビアはいいです。と思いました。それを補うかのように、真ん中あたりに「女体全面裸ティッシュケースカバー」っていう付録が付いている。要するにハダカの女の子の股間からティッシュを引き出すかたちになるんだけど、これヘンじゃない? 男ならわかるけど。自分、くだらないこと言ってますかね???

「代紋(エンブレム)TAKE2」木内一雅、渡辺潤は、あまりの長期連載のため、もうまったく物語に入っていけない。単行本50巻ぶん読むってのもなあ。どうすりゃいいんだ。

「妹は思春期」氏家卜全は、新連載4回目らしい。4コママンガ。なに? また妹ネタ? 始めて読んだからお話が見えん。

「BE-BOP-HIGHSCHOOL」きうちかずひろは、ヤンマガ手に取るたびに「出た!!」って感じで身構える。あのさあ、素朴な疑問なんだけど、このコマ割、何? なんか前衛? いや、むしろ保守? なんでこんなに淡々としてるの? ぜんっぜんわからん。これ指摘するの、タブー? タブーってことはないよな。こうやって堂々と載ってんだし。載ってるってことは人気もあるらしいし。
このコマ割が、何か特別な意味があって、続けて読むごとに良さがわかってくるものではない、ということを前提に書くが、新人のためにならんと思いますけど。「これでいいんだ」と思われたら編集部だって困るだけだと思うが……。

「ヤマト猛る!」宮下英樹は第三回。ガリガリゆえに負けてばかりの相撲部1年、大和の物語らしい。拳法と話が交錯してる。大和が、拳法から相撲のヒントをつかもうとしているわけ。うまくその辺が転がっていけば面白いかも。同じ格闘つながりでは「空手小公子小日向海流」馬場康誌がある。こちらは単行本が8巻まで出てる。断片的にしか読んでないけど、異種格闘技のシーンとかけっこう面白かった記憶がある。……にしても、この主人公打たれ強いねえ。
体育会系臭さが薄い(断片的に読むかぎりは)わりにはきっちり「空手部」のマンガなあたり、逆にヒく部分もあるなあ。肉体的に痛そうなところだけ、きわだつし。

「けっこう仮面R」永井豪、江川達也は、豪ちゃんの「けっこう仮面」の江川達也によるかなり忠実なリメイク。「デビルマン」のリメイクは「江川風デビルマン」として受け入れていたが、今回は個人的に違和感バリバリだった。というのは、江川達也の描く女体があんまり好きじゃないから(マンガの面白いつまんないとはまた別の次元で)。
「けっこう仮面」の顔は隠しているが身体は全裸、という設定は、ある程度デフォルメした体型でないと妙にナマナマしいんだよねー。「SPA!」でやってた頃の「キューティハニー」で、「ハダカと間違えられるようにわざと下半身の色を白くした」と永井豪が書いてたけど、要は「服の色を塗るか塗らないか」でハダカかそうでないかがわからなくなってしまう程度のデフォルメがなされているのが、豪ちゃんの描く女体だということだ。

江川達也は、最近のマンガ家としては珍しく女の子の身体を球体の集積として考えていない(「球の集合」としてとらえているのは、思いついただけで描くと克・亜紀とか。まあ手塚治虫がだいいちそうだし)。それが多くの場合、ヤローマンガ家の描く女の子の特徴のひとつなんだけど、その点昔っから江川達也って、ヌードデッサンから起こしてきちんとデフォルメしたような女の子のカラダを描くんですよね。好みは分かれると思うけど、「けっこう仮面」のような荒唐無稽な設定の場合、目立ってしょうがない。
現実の女の子が演じた実写版の「けっこう仮面」はどうだって??? もちろん、演じる女の子のカラダは、視聴者が望むように一種「デフォルメ」されていることは当然だろう。それはグラビアアイドルでもAV女優でも言えることだが。
MEGUMIを見よ。
(02.0626、020627)



・「週刊少年チャンピオン」31号(2002、秋田書店)

「えん×むす」瀬口たかひろは、新連載。ダメっぽい少年・蟻川義介は、いつかダメな自分から脱却したいと思いつつそれができない日々を送っている。
ある日、とつぜんメイド姿のロシア美少女・ソーニャが転校してきて、義介にまとわりつく。彼女は義介の人間性を非常に買っているらしい。そして、彼に世界的なグループ企業「ドラグーン」が関係あるらしい謎の御守りを渡す。この御守りをめぐって、いろいろな騒動が起こるという話らしい。

まだ連載第一回目だが、義介の自己変革願望は見ていて非常にイタい。こういうの流行りなのかなー。なんとなく内省的なカンジの。瀬口たかひろの絵は、以前のネットリ感がなくなってかなりカチッとしたキレイな絵になっている。

「フジケン」小沢としおが最終回。先週から、キャラクターの「その後」を描いている。少年ヒーロー(ヒロイン)ものの最終回はむずかしい。なぜなら、その少年のヒーロー性は、「コドモである」、「学園という治外法権な場所が与えられているからこそ成立している」場合が非常に多いからだ。
よく学園モノのヒーローの主人公が卒業して教師になってしまうのも、「学園」が最も少年・少女ヒーロー&ヒロインが活き活きと活動できる場所だからだ。そういう意味では「炎の転校生」で滝沢昇が普通のサラリーマンに(確か)なってたのは、作者がいろいろ考えてのことだと想像できる。

さらにヤンキーマンガの場合、実社会とのギャップはかなり大きい。主人公は「学園」というマンガ的に料理しやすい舞台ではなく、「不良のコミュニティ」という、リアルだが実社会とは関係が学校以上に微妙なところでのみのヒーローだから、ヤンキーマンガのヤンキーの行く末というのはなかなかむずかしい命題だと思う。
そもそも、ヤンキーマンガの親戚というか叔父さん筋にあたる任侠映画では、ヒーローはラストには必然的に死ぬか監獄行きである。そう定められているのが任侠映画なのだ。

本作「フジケン」は、先週から今週にかけて、主要キャラクターのその後を少しずつ書いていたのは個人的にはけっこう好感が持てた。建設関係の仕事に就いたヤツらが多いのがちょっと不安だが(ヤンキーマンガでは、キャラクターが建設関係の職業に就くことが多い)、過去そうだったからまあしょうがないか。
ほぼ全員がなんとか成功しているのも、「フジケン」というマンガの性質上当然といえば当然。
そして肝心のフジケンの将来だが、考えたなあと私は思った。フジケンって、外観のデザインはヤンキーというより普通の悪ガキに近いが、いざ登場すれば問題がほとんど解決してしまうくらいのケンカの強さと胆力を持っていた。しかし対世間的にはかなりのバカ、という設定だったから、いい最終回だったんじゃないでしょうか。

「プラモ狂四郎」の狂四郎なんて、大人になってモデラーになってるかと思ったらプー太郎みたいになってたんだから(あれはあれで味のある「将来」なんだけど)。
少年ヒーローは、とにかく大人になってからは我々と同じ苦難の道を歩む。まあ子役タレントみたいなもんかね(ぜんぜん違うか?)。
(02.0627)



【映画】・「少林サッカー」感想その2

「少林サッカー」の感想を書いて時間が経ち、いくつか人から聞いたりネット上で見たりした同映画の感想について、私が考えることも含めてちょっと補足したい(映画の感想についてはどうも腰がひけるところがあるんだが。よく知らないから)。

「少林サッカー」は、「泣ける」と「笑える」と(カンフーアクションやCGが)「すごい、燃える」という3つの側面で語ることができると思う。それらを融合させて語るのはちょっとムズカシイので、「『少林サッカー』は映画として新しいか」ということからせまってみたい。私にしては、珍しく。

私は、実はある作品の表現自体が新しいものを持っているかどうか、という評価については半ば放棄している(半分は保持しているが)。たとえばマンガの話だが「エイリアン9」の先進性や「最終兵器彼女」の「イマドキ性」については、だれか他の人が書いてくれるだろうという気がする。
だがどうしても、話題作の先進性については問題にされざるを得ないところもあり、「少林サッカー」についてそこらへんどうなのかだが、結論から言うと「新しい部分がある」と思う。
それは、CGその他の技術革新によって、「洗練されたマンガ表現」というのが可能になったということ。

まあこれは「少林サッカー」独自の先進性というよりも、映画全体に起こっていることなのではないかというのが私の考えです。
「映画の中にマンガ的表現を持ち込んだだけなのではないか」という意見を目にしたけれど、私からするとその「持ち込んだ感」がここまで「見る側」に受け入れられていることに、衝撃を感じた。

映画あんまり見てないのでちょっと例がよくないかもしれないが、「ルパン三世念力珍作戦」という、おせじにもよくできたとは言い難い邦画がある。が、コレって「マンガ的表現」をできるだけ当時の技術でやろうとした、という実験精神はあった。 たとえばアニメによくある、ドアにはさまれて人間がペラペラに薄くなってしまう描写なんかを、人形をつくって撮ったりしてる。ただし、やっぱり「アニメ(マンガ)のマネ」にとどまっていて、苦笑しか出てこない感じだった。
あらゆる特撮モノには、どうしても苦笑混じりにしか見れない部分があって、それを見る側が「なかったことにする」か、ツッコミを入れながら楽しむか、スタンスの微妙な違いはあれ、そこに「違和感」が生じるのはやむを得ないことだった。

ところが、CG技術によって、その拭いがたい「トホホ感」を取り去ることができちゃったのである。個人的にはCGだけで「すごすぎる!」と思ったのは「ジュラシック・パーク」からなんだけど、「恐竜の動きがぎこちないな(笑)」とか、パッと見ぜんぜんなかったから(細かくツッこめばあるんだろうけど)。
「少林サッカー」を見て、ボールが燃えたりといったことに「面白さ」を感じた人はいても(逆に「面白くない」と感じたとしても)、「トホホ感」を感じた人は少なかったのでは、と思う。ここ、かなり重要だ。

今はまだハッキリしないが、CG技術によってトホホ感が払拭されたとき、映画を見る感覚がどこか決定的に変わるような気がする。「特撮映画はバカバカしいもの」の「バカ」の部分には「チャチさ」も確実に含まれていたはずなのに、その重要な部分がなくなってしまうからだ。これからは逆に、CG技術によって「チャチさ」を演出する方向に行くのかもしれない。
この点に関しては、まだ「映画らしさ」を求めて特撮を含めてキレイにまとめてようとしていた「スパイダーマン」より、「マンガ的表現」のチグハグ感によるパワーでもって「新しさ」という点では「少林サッカー」に軍配が上がるだろう。
もっとも、私が「チグハグ感」を愛しているからそう思うんだけどね。

もうひとつは、今後CG技術によって「実写とアニメと区別がつかなくなる」ということで、「ハムナプトラ2」を見て思った。後に「ロジャー・ラビット」や「スペースジャム」が先進的な作品だと言われるようになるかもしれないけど、個人的に考え不足なので保留。それにしても「ロジャー・ラビット」は傑作だった……(ウットリ)。

話を戻すと、エンタテイメント映画というのは「群体として」進化していくのではないかと半可通ながら思っていて、CG表現としては「マトリックス」→「スパイダーマン」&「少林サッカー」という流れになっている気がする。
ここで見過ごしてはならないのは「CG」だけでなく「アクション」という点。人間の「アクション」は、人間の動きを基調にせざるを得ない点があり、人間がやるからこそ意味がある、という側面がある(これは「スパイダーマン」のようにアクションの中に「人間風のCG」を組み合わせていても同じことだ。「人間」に合わせるのだから)。その点、アニメやマンガは、また別なのだ。
だから、「少林サッカー」が「少林」サッカーであったことはもっともっと注目されていいはずだ。「少林寺」を題材にとっていることこそが、同作がアニメでもマンガでもなく、映画でなければならない理由のひとつだと思うから。

後半バタバタしたが、今感じているのはそんなところ。
(02.0626)



【コラム】・ナンシー関その2 「信仰の現場」が今、もたらすもの

レビューにはおおざっぱに分けて2種類しかない。対象物をホメるものとケナすもの。そしてさらに分けると4種類ある。対象物をホメるモノとケナすもの、そしてレビュアー自身をホメるものと、レビュアー自身をおとしめてさらに対象物をホメちぎるものである。
すすんで自分でやっていることとは言え、頼まれもしないのにレビューを書くとき、対象物をホメるときには自分が「ヨイショ君」みたいになった気がするし(それにしてもなんで稲垣吾郎のドラマ「ヨイショの男」は「ヨイショ君」というタイトルにならなかったのか? この方がぜったい通りがいい)、ケナすときは、こんな吹けば飛ぶよなサイトでも、どのような報復がどの方面からやっているかおびえながらの作業となる。虚しい。

虚しさの理由はもうひとつあり、ホメるにしろケナすにしろ、対象物にあまりに自己を没入させるのは、身体によろしくないということだ。また他人から広い意味で「信仰の対象としている」と思われるのも迷惑な話である。
だから、ナンシー関のことについて書くのはもう1回だけとしたい。

追悼、ナンシー関を書いてから約10日経った。その後、少しばかり商業誌の追悼文やネット上の追悼文やワイドショーなどを見て、ある種の感慨にひたったりした。
そろそろ一歩ひいた「ナンシー関論」が出てきてもいい頃だ。そこで「週刊朝日」7月5日号(2002、朝日新聞社)斉藤美奈子「本棚の隙間」を読んだ。1ページものの書評。取り上げられたのはナンシー関「信仰の現場」 [bk1] [amazon]だ。

・ナンシー関唯一の取材作品
だれかを総括するとき、手法がいくつかあることくらいはシロウトの私も知っている。ひととおりの「功績」を見ていった後は、「私だけしか知らなかった彼(彼女)のエピソード(ワイドショー風に言えば「秘話」)、「故人のあまり知られていない隠れた名作」、「兄弟、知人の証言」などを出してきてツカミとする。
今回、斉藤美奈子が持ち出してきた「タマ」(言葉は悪いが)は、ナンシー関が唯一残した「取材もの」である「信仰の現場」だったわけである。同書の取材先は「矢沢栄吉コンサート」、「映画『男はつらいよ』上映映画館」、「笑っていいとも! 観覧」など、著者らしいセレクションで構成されている。ふだんは部屋から外に出なさそうなイメージのナンシー関が、「何かが盲目的に信じられている現場」に行って、それをレポートするというものである。

実は私は斉藤美奈子という人を知らず、「そういえば元祖鈴木その子みたいな『ミス・ミナコサイトウ』という人がいたなあ。この人、文芸評論もすんの?」とかボヤいていたら、「ミス・ミナコサイトウ」は斎藤澪奈子という別人であった。「ポジティブ・シンキング」という言葉を広めたひとなのね。しかもここを見たら、すでに亡くなっていた。なんとなく衝撃だ。

さて、ミス・ミナコサイトウのことは置いておいて(当たり前!)、斉藤美奈子の同コラムは「信仰の現場」を引き合いに出して、ナンシー関の取材力をホメちぎっている。そこには「ジャーナリズムの原点っていうんでしょうか。」というようなものがあると。
引用はメンドクサイので省くが、要するに「『信仰の現場』は『小耳にはさもう』などのテレビコラムとは毛色の違う作品である」と書きつつ、けっきょく「こうした視点がナンシー関のテレビ批評を優れたものにしていた」的な結びになっている。
じゃ、けっきょく両者は同じってことじゃんか。

斉藤美奈子は「『信仰の現場』は、唯一の取材ものであるからこそナンシー関のルポルタージュの方法論を明らかにしている」ということが言いたいらしいが、私も読んだけど別にそこまで異色な本ではない。
むしろ、テレビのコラムのときと、まったく同じ方法論だと言っていい。

あくまでも一般客に混じって取材すべき物事を観察し、それ以外のことも観察し、書く。これはナンシー関のテレビ視聴の視点と何ら変わるところはない。
斉藤美奈子の書くように、ナンシー関が「幻の視聴者」を想定してテレビ評を書いていたことは何も「信仰の現場」を読まなくてもわかることで、彼女のテレビ評を2、3冊読んでそれがわからなければ、現代国語で「C」しかあげられません。まあ人力車夫の私がこんなこと言えるのも、ネット社会だからですね(←またひがみ根性)。

テレビ評と唯一違うのは(というより強調されているのは)、「信仰の現場」というタイトルのとおり、「好きな人しか行かない」一種の密閉空間にわざわざ足を運んでいることだ。テレビはテレビを持っているすべての人が自宅で視聴可能だが、お金を払って、わざわざ出向くところには独特の雰囲気があるだろうという見込みのもとでの取材である。

・「信仰の現場」に対する私見
結論から言うと、私は「信仰の現場」は非常に面白い本ではあると思うが(ナンシー関の「取材もの」という希少性も含め)、同時に限界をも提示していると思う。
本書が書かれたのは90年代初頭、まだ80年代的な「ものごとを突き放してツッコミを入れる」という方法論が今よりもっと無邪気に有効だと思われていた頃。当時、「好事家同士が集まって何かに没入し、閉鎖された空間で騒ぐ」ことは、サブカル好きの「とんがった」若者には忌むべきことであったと記憶する。よしんばそれが許されたとしても、それは「オシャレな空間」でなければならかった(だから「コミケ」なんかは黙殺されたんではないか)。
80年代の落とし子と言っていいナンシー関が、そういう閉鎖空間を好んだり容認したりするはずもなく、それぞれのリポートにもかなり手厳しいツッコミが入っていたと記憶する。テレビ評でも「特定のだれかにしか向けられていない情報」には「そんなこと知るか」的な言葉を浴びせていたモノだ。

だれかが集まって何かをやっていれば、ツッコミをせずにはいられない若者が当時「信仰の現場」を好んだ(私がそうだ)。「そんなところ、行ってられるかよ」と。「よくそんなとこ行くなあ」とね。同書の連載は94年くらいまでだったというが、確かオウム事件が起きたのが95年。閉鎖も閉鎖、閉鎖しまくった集団が事件を起こしたのである。
好意的な見方をすれば、「そのような状況を緩和するために、『信仰の現場』的ツッコミが必要なのだ」ということになるだろうが、私は必ずしもそうとは言いきれない。「おもしろ半分で、ひっそりとその他大勢に混じりながら、しかし『視点』だけはまったく別」という感覚は、少数のあつかいづらいひねくれ者を生み出しはしたが(私がそうかも)、他の人々はカラオケボックスに集い、マイナーアイドルのイベントに集い、羽毛布団の販売会に集い、そしてカルト宗教に集った。そこには、ちょっと融和しがたい乖離があったと思う。そこが重要だ。

オウム事件のことを考えるたびにいつも思うが、たとえば「別冊宝島」かなんかに書かれていたカッコいい(実際納得の行く)言説と、「『宝島』とかそんなの読まない人々、でも『ムー』とか『脳内革命』とかだけは読む人々」が、80年代から90年代初頭にかけて(現在までも、だけど)いかに乖離していたかを考えるべきだと思うのである。
「信仰の現場」を今読むとき、ナンシー関の80年代的サブカル的考えに対する信念(というか、もっと肉体化されたものだと思うが)はよくわかる。考えるべきはそのあたりがその後90年代、そして現在までにどうなって行ったかである。
斉藤美奈子が同コラムで言うように「仕事モードでチョコマカ取材するより、現場で感じた違和感を大切にするほうが、ずっと核心に迫れたりするんだよな、と改めて思った私であった。」などと、悠長なことを言っている場合じゃないのである。それは言わずもがなの大前提。大事なのはその先。

コラムの結びとして「追悼文で『文体模倣(それをやっても絶対負けるんだからやめた方がいいぞ)なんかしてる間に、もっと学ぶべきことがありそうだ。」とか言ってるが、文体模倣に、オリジナルに対しての勝ちも負けもないだろう(文体模倣者同士の勝ち負けはあるだろうが)。それじゃコージー富田はタモリに勝ったのか負けたのか? 鶴太郎は小森のおばちゃまに勝ったのか負けたのか? そんなことは、知らん。

・裕木奈江問題について
以上は、ナンシー関を代表とする80年代頃から出てきた視点、価値観がいかに一般レベルでは浸透していなかったか、ということを問題にしてみたが、ナンシー関が主張したことで唯一世評とシンクロしたのは「裕木奈江批判」だろう。
実際、女性週刊誌などの反裕木奈江キャンペーン的なものとナンシー関の裕木奈江批判のどちらが先でどちらが後かは知らない。細かいところでは当然主張の違いもあったろう。
裕木奈江が急速にテレビに出なくなった理由も、これらのバッシングによるものがどうかは知らん(目立った理由がなくて、いつの間にか消えちゃう人っているから。持田真樹とか。今も芸能界にいるらしいが)。

ここで「ナンシー関は、裕木奈江バッシングにおいて世間とシンクロしてしまったことに『しまった』と思っていたんではないか。なぜなら、常に孤高を保っていたいっぽかったから」とか書いたら座りのいいシメになるんだろうけど、私、まったくのカンだけで書くけど、「裕木奈江、消えてくれてラッキー」と思ってただけだと思うな。やっぱり。
以上。
(02.0624)



・「平成義民伝説 代表人(だいひょうびと)」上之巻 木多康昭(2002、講談社) [bk1] [amazon]

週刊少年マガジン連載。宇宙飛行士になるため、アイドルグループIGARASHIを辞めた米良だったが、「もうアイドルじゃなくなったから」と彼女にもフラれ、どこかひがみっぽい日常。しかし宇宙飛行士になればオレの株もまた急上昇……と思っていたのもつかの間、とある大事件が……(ここら辺はネタバレなので書かない方がいいかな?)。
この事件により、「元アイドル」というひがみ根性からキレた米良は、スペースシャトルをハイジャック。「ハイジャック」という言葉すら知らない偏差値30の米良は、国家プロジェクトを台無しにする危機に自分でも気づいていないというか、そんなことはどうでもいいというか……。地上では当然、この事実を知る者たちはパニックとなる。

状況を打開すべく、NASDAでの米良の上司・米村(顔が佐野史郎)が提案したのは、不可能を可能にする義民・佐倉惣五郎にお願いすることだった!
そして、14代目を名乗る佐倉惣五郎の人物像とは……!?

私は正直言って、週刊少年マガジンがあまり好きではない。こんなこと書いて、人間どこでだれに会うかわからないから週刊少年マガジン関係の編集者とかに会う機会があったらどうしようかと思うが、仕方がない。そのマーケティング力と作品構築力、新人発掘力、そしてそれらの結果による大部数を認めつつも、なんかさあ、すべてが決められている息苦しさを感じるんですよ。
いや、すべてが決められているのは他のマンガ雑誌もそうかもしれんけど、その決められ方が窮屈に感じる。端的に言って、ヤンキーと体育会の雑誌でしょマガジンって(決めつけ……「どっきんロリポップ」とかもあったじゃないか!!←自問自答)。
その「ヤンキー」ってのも、チャンピオンと違ってもっと地に足がついているというか。昔、ワルだったけど今は徹夜して仕事してます、みたいな。上司から「昔ワルだったやつはここぞというときがんばりがきくな。ワッハッハ」みたいなさあ。 体育会系の方は、入社試験で「大学でのいちばんの思い出は、南極まで行って、その氷でウイスキーを飲んだことです」とか言うヤツで。日焼けした顔に、ニカッと笑うと歯が白い。あーあー、かないませんよ、おれが悪かった!
……と、ついひがみ根性で何行もダラダラ書いてしまいました。すいません。

そんな、良くも悪くも管理の行き届いた(ように見える)マガジンで、なぜこんなマンガが始まったのか、サッパリ理解できないくらいデタラメな作品である。もしも「義民」たる佐倉惣五郎が主人公だったのだとしたら、「スペースシャトルのハイジャック」という前代未聞の事件を解決するという、なんつうの、大事件のシミュレーションもののパロディだったのかもしれん、という解釈は成り立つ。
しかしそれにしたってメチャクチャすぎるんだよな。しかも、確か少年マガジンって編集者2人体制ですよね? だれか反対するヤツはいなかったのか。どうしてこんな企画が通ったのか。そもそもどんなコンセプトから生まれた作品なのか。
謎は限りなく深い。

作品的には、次から次へとまったく予想が付かないし、比較的写実的な作者の絵を最大限に活かし、似顔絵キャラ続出、有名人をノーギャラでどんどん出演させる面白さもあるし、とにかく前半は米良の閉塞感がなかなかに伝わってくる。言うまでもなく、米良のモデルはオートレーサーになるためにSMAPを脱退した森くんであり、アイドルグループ・IGARASHIはSMAPである。
もし人気がなかったとすれば、GTOやらはじめの一歩やらの、努力根性自己実現的な作品が人気の中心にあるマガジンで、こんなに自分の境遇を嘆いてばかりいて、しかも行動するごとに深みにはまっていくキャラクター(=米良)というのはマガジン読者にとってウザいだけだったかもしれない、とは思う。

さらにおそらく主人公であるはずの「義民」佐倉惣五郎は完全なるパクリキャラだし(=「泣き虫サクラ」餓狼伝)、ヒーローである彼が登場して物語が整理されると思いきや、ますます混迷してムチャクチャになってしまうのだから、まあマガジン読者がヒいちゃったのも仕方ないのかなあ。

しかし、個人的にはとても嬉しかった。世の中もまだまだ捨てたもんじゃないな、って思ったよ。よく考えたよ。そしてよく企画が通ったよ。そしてよくちゃんと作品にして発表されたよ。ある意味、オススメ。

なお、 サンプリングの多い作中の元ネタに関してはここの解説裏幕張)がすばらしい。
(02.0622)



・「週刊少年チャンピオン」26号(2002、秋田書店)

いつもの積ん読を今頃読んでいる、というパターンです。はい。
最近のチャンピオンはなぜかギャグの投入がぼちぼちあって、しかも弱い……。

「バキ」板垣恵介は、ヤングチャンピオンとの連動企画「バキ、初めてのセックス。」(←コレが正式タイトルじゃないよな!?)への伏線。……とか、今頃書いたってしょうがないかもしんないけど。
なんか板垣恵介の描く女の子って、西田ひかるをかわいくなくしたような感じ、とか言ったらダメかな。

「一丸伝記」岩塚佳和は、新連載。由緒ある剣道の流派・風間流を受け継ぐために修行する少年・修太郎は、父親から「代々風間流に仕える御庭番の存在」を知らされる。しかしその「御庭番」とは、主人の寝首をかくことしか考えていない一丸であった……という少年忍者ギャグマンガ。
ま、「忍者ハットリくん」みたいなもの? 違うか。
作者は「デカポリス」を描いていた旧名・岩塚卓。

「無敵看板娘」佐渡川準は、新連載第2回。出前の途中でいろんなことについ首を突っ込んでは騒ぎを大きくしてしまう、パワフルな中華料理屋の看板娘・美輝が主人公。
美輝は、いわゆるひとつの「萌えキャラ」なのだろう。展開は好みがわかれるか。なんかドタバタ具合が「しゅーまっは」とかと同系列なんだよね……。

「SAMURAIMAN」芹沢直樹は、早くも連載第5回。実は第1回以来読んでいなかったのだが、思ったよりも面白い。主人公の少年・龍馬が鎧武者の怪物・遮那王と合体、シンクロして謎の怪物と戦うことになる。
「強殖装甲ガイバー」とか「キングボンバ」とか「ブライオー」とか、そんな感じですかね。そして「デビルマン」。合体する怪物に意志があり、対話しながら戦う。

「キャラメルリンゴ」内海甲介は、新連載第4回。ファンタジー風世界で、忍者を目指すリンゴとララの物語。見た目および設定は、「ドラゴンボール」、「忍空」、「ワンピース」、「RAVE」……とかそんな感じ。
前作のバスケマンガ「スプリングマン」の方が何となくのびのびしていた感じがするなあ。今回は、何かお手本があってそれに沿って描いているような印象を持ってしまう。

「虹色ラーメン」馬場民雄は、久留米ラーメンとの対決前夜。プロレスラーのような巨漢で、シャベルでとんこつスープをかき混ぜるゴーカイ男、久留米ラーメンの有馬純太郎と出会う。
馬場民雄、こんなにサワヤカな絵&展開にも関わらず、自分の作風から発せられる独特のエロさに自覚的だと見た。むろん主人公・太陽くんを慕う原田さんは重要ヒロインだが、今回は「漢臭さ」ムンムンの有馬純太郎を「カッコいい」と評して周囲がビックリ。
アニメ「コメットさん☆」のスピカおばさまの旦那がクマゴローみたいな「漢臭そう」なヤツなのにもエロスを感じますが(笑)(注:むろんクマゴローにではなく、おそらくそのクマ野郎と獣みたいなHをしているであろうスピカおばさまにだよ!!)、それと同じことを感じませんか? 
ボクは感じます。そしてこの作者、狙ってますたぶん。

「フジケン」小沢としおは、彼氏とケンカしたトモが家出。みんなで探し回るという、100年くらい前からあるパターンなのだが、キャラ立ちがイイため新鮮な気持ちで読める。このマッタリ具合、持ち味だよな〜。

「七人のナナ」今川泰宏、国広あづさは、最終回。最近ぜんぜん読んでいなかったのだが、7人に分裂してしまったナナも元に戻り、高校にも合格したようである。他のマンガ感想サイトを見ると、わりとすんなりまとまった感じでよかったよかった。
でも、私はあまり正視できずに読んでいた。それは、自分が辛かった高校受験のことを思い出すから……。本当に辛かった。中学受験も辛かった。高校受験も辛かった。大学受験も辛かった。浪人も辛かった。すべてが辛かった。もう気が狂いそうだった。……っていうか、狂った。だからこんなサイトをつくった。あははっ。
(02.0619)



・「週刊少年チャンピオン」27号(2002、秋田書店)

「ハングリーハート」高橋陽一は、不定期連載のサッカーマンガ。自分と同じくサッカーをやっている兄へのコンプレックスからサッカーをやめた恭介。しかし、足が悪くともマネージャーとしてサッカーに関わる森や、ゼロからグランドをつくり上げた女の子(名前わかんね)に感化され、再びサッカーを始めることを決心する。
個人的には小手先技のない、素直な高橋陽一先生らしいマンガだと思うけど。「オレンジ色の頭」ってのも、日本代表で赤い髪の毛のヒトがいて、なんかなじんじゃうね今読むと。
それにしても出てくる女の子がかわいくない。作者が結婚してトシとって欲望が薄まるとこんなものか。

「元祖! 浦安鉄筋家族」浜岡賢次は、まったく目立たないクラスメート・金子翼くん(あだ名は中年の地味な先生みたいだから「金子先生」)の家が学校のすぐ近くにあることが発覚、小鉄たちが入り浸るようになる。にぎやかになって喜ぶ翼母子。しかし、ほとんど学校帰りのガキどもの秘密基地と化しただけで、休みの日にはだれ一人として来ない。
こ、これ、笑えん(笑)。こういう「家が近い」とか「ゲーム機がある」っていう理由だけで友達が来るヤツってホントにいるもん。ラストのだれも来ない土曜日のコマ、翼の母親もこのシビアな現実に気づいていないのが悲しい。
(02.0619)



・「週刊少年チャンピオン」29号(2002、秋田書店)

巻頭グラビアの磯山さやかは、うわくちびるのめくれ具合がセクシーでいい感じ。

「バキ」板垣恵介。克巳VSドイル決着か……? ああ、これはいい。これはいいよ。迷走をきわめたドリアン編に比べるとすごくいい。「バキ」という作品は、地下闘技場編にはない「どこに勝ち負けの決着があるかわからない」ところに従来の格闘技モノにはない最大のポイントがあり、それゆえに迷走している印象もあるのだが、今回はキレイにキマっていると思う。

ただし、ドリアン編のときもそうだが「肝腎なときにいつも甘い」克巳が、都合よく使い回されている感があることも指摘しておかなければなるまい。

「A.−D.O.G.S」北嶋博明、鈴木ダイは、最終回。始まってすぐのときはなんかイマイチかと思ったが、最終回へ向かっての盛り上がりはなかなかのものだったと思う。
本作における、ナノマシンだかなんだかの設定についてクサしているSF考証好きのヒトの文章をネットでちらっと読んだこともあったが、まあ「ナノ」なんてのはこの場合ただの方便であって、間違いは間違いかもしれないがマンガとしては確実に何かがあった。鈴木ダイは、自分で原作とかはやめてもっとイイ原作者が付けばマンガ家としてもっともっと面白くなるかも、とか思った。
(02.0620)



・「週刊少年チャンピオン」30号(2002、秋田書店)

「ラフ&ラフ」立松昴治はゴルフマンガ。よくも悪くも、極端に突飛なことのない「サンデー・マガジン系」のスポーツマンガ。「拳魂(ケンダマ)」今西鉄柱も空手マンガだが、同じようなテイスト。

「B・ONE」岡田蜜は32ページの読みきり。浜辺で練習もせずに女の子をナンパしたりいじめられっ子にちょっかいを出したりするサッカー部員と顧問の先生。顧問は、この浜辺で一人ボール遊びをしているいじめられっ子少年・シンジのサッカーの才能を見抜き、グラウンドに来てみろというが……。 後半の、練習によってシンジやサッカー部員の心がひとつになっていく部分はいいと思う。ただ、出だしの数ページで、このサッカー部が不良なのか、どの程度デキるのか、顧問のヤンキー風教師は本当に不真面目なのか実はまともなのか、そのあたりのことが読んでいてぜんぜんわからない。
それと、女の子の顔がうまくない。かわいいかわいくない以前に、描き慣れていない印象。たぶんアニメ絵がキライな人なんだろうなーというのはわかるけど。

「柔道放物線」今井智文は、おおひなたごうの「おやつ」に変わって巻末を占めてからしばらく経つギャグマンガ。だんだん波に乗ってきている感じで、楽しめる。
(02.0620)



・イモセンリンク

ノリノリで「モー娘。」うんぬんについて書いていたのだが(笑)、その間に伊集院光のラジオの録音に失敗、急速に凹む。ウチのラジカセだけなのかもしれんが、タイマーをセットしても、間違えて触れてしまったらその段階でスイッチが切れてしまうという構造はいかがなもんだろうか?(要するに私の部屋が散らかってるということなんだけどね……) ビデオデッキはそんなんじゃないのにね???

全日本妹選手権に関してもにょもにょ語るリンク集は、読んでます。以下はリンク集、およびリンクから飛んだ数々のサイトについての漠然たる感想です。
最初は、「おそらく知り合い同士の論争(というか語り?)を外側に広げちゃっていいのかなあ」とかも思いましたが、結果的にいろんな人の意見・発言スタンスが読めて勉強にはなりました。
「こんな作品ごときで話し合うなんて……」的発言も見ましたが、「妹選手権」あたりの話だからいいんじゃないですか!! とは思う。これが宮崎駿とか押井守作品をめぐる論争だったら、なんかツマランですよ。「別に語る必要もないんだけどさ……」と言いつついつの間にか語っちゃうのがオタクなのであって。
あとは自戒として感じるのは、ネットにおいてどういう発言がどの範囲の人にまで届くのか、完全に把握するのはむずかしいけれども、やはり考えなければいけないということですかね。どの程度まで説明すればいいのか。あるいはしないでいいのか。
あとねえ……もう「リンク集」ができちゃってる状態なんだから、そういうカテゴライズで巡回する人が出てくることは明らかなんだし、せめて一度発言したら過去ログは残しておいてほしい、という「ところ」はありました。なんか、1日で消えちゃったところあったから(その後、また復活?)。よくわかんないんだけど。
(02.0618)



・「娘。物語」(2) 田中利花、神崎裕(2002、講談社)[bk1] [amazon]

「なかよし」連載。第2巻では、メンバー一人ひとりが苦労時代を回想する、といった体裁をとり、ゴマキ、矢口、保田、飯田それぞれを主役にすえた物語を、一話完結形式で綴る。
連載時期としては、新メンバーの高橋、小川、紺野、新垣が入ったばかりでキャラ付けも十分でない頃。ムリに現実と同期させてセミドキュメンタリーにするよりは、確定した過去を描くことは手堅い判断と言えよう(偉そうな私)。要するに「グラップラー刃牙」幼年編みたいなモンですよ!!

パターンは毎回決まっていて、「何か新しいことをやらされる」→「不安」→「努力とだれかの励まし」→「克服」という流れ。こういうの、ねちっこい人が描くと「トゥシューズに画鋲を入れました」みたいな(古い表現?)今では泥臭い感じになってしまうのだが、描いている人の筆致はサラリとしていて抵抗なく読める。
私も「モー娘。」の初期の頃ってよく知らないのだが、メインヴォーカルをはずされた飯田が悔し涙にくれながら言ったという「きのうに戻りたい……」というセリフや、ミニモニ。の名前を決める際にテレビ番組「ハロモニ」で実際に加護から提案された「ちびっ子探偵団」というネーミングがフォローされていたりと、モーヲタの人は小さいところでニヤリとするかもしれない。

あ、それと後藤真希がソロデビューする際、最初に出演する歌番組で辻加護が応援に来て安心する、という実際にあったシーンも脚色されつつ描かれていた。でもあれってさー、そんとき私テレビ見てたんだけど、これから初披露のはずの「愛のばかやろう」を事前に辻加護が歌ってしまうなど、辻はともかく加護には「後藤を食ってやろう」っていう野望があったのでは? と勘ぐりたくなる一幕であった。
いや、考えてはいなかったかもしれんが、本能のレベルでやりかねんよ。加護さんは。

話はそれるが「モー娘。」における関係性の妙として、加護さんに注目している部分は私にはありますね。
「天才性」の衝突ということで言えばゴマキとの食い合い、ってのはありうるかもしれんとか思って。むしろ後輩メンバーのリーダー的存在を狙ったらどうか? とか。
まあ、半可通の妄想ですけどね。

ちなみに私の1巻の感想はここ
(02.0618)



【テレビ番組】・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)

……んでまあ何カ月も前に出た「娘。物語」を引っぱり出してきたのは、最近の「ハロー! モーニング」の感想を書きたかったからなんですけどね。
「日記」をやめて、今日だれと飲んだとか、いちいち書かなくてよくなったのは面倒が消えてせいせいしたんですけど、テレビについて書く場所がなくなっちゃったんですよ。
でも私にも意地があるんで、「マンガつれづれ」のコンテンツにあまりに関係ない話題は書きたくない。……ということで、関連性を持たせるための「娘。物語」でありました。

さて、最近の「ハロモニ」なんですが、個人的にすごくよくなってると感じる。この「よくなってる」の基準の説明がむずかしい。アイドルの番組って、その人のファン以外にとってはバカバカしいものが多いし、「スマスマ」もがんばってるとは思うけど「あのSMAPがやってる」という高みに立ったところからのいろいろ、という視点は避けられないと思うんですよね。SMAPがビッグすぎて。

最近のハロモニは、ほぼ全編コントと言っていい展開になってる。今週から始まった「ゴマキペンギン物語」は、タイトルだけ聞いたら何のこっちゃだが、内容を見ても何のこっちゃで、重たいペンギンの着ぐるみを着たゴマキが少しずつ坂を登っていこうとするけどうまくいかない、というそれだけのもの。
これ、たぶんもしお笑い芸人の番組の中でやったら面白さ半減だと思うんですよね。
「あのゴマキがこんな関西仕事を!!」みたいに見られるでしょ。でも「ハロモニ」内だとそういう意味合いも薄れるし。第一、なんで今みたいな中途半端な時期にこんな新コーナーができたのかが、よくわからないんですよね……。

事前にものすごく期待して、裏切られた「バスが来るまで」という全員コントも、多少マシになっている。個人的には男役のゴマキと石川梨華の恋愛コントに集中させちゃえばいいと思うんだけど、まあ全員に見せ場をつくらないといけないのでそれはムリか。

メロン記念日を主役にしたミニドラマ「アルバイトしばた」も、妙に力が入っている。最初、企画を聞いたときは「ドラマ風の、毎回いろんな実際にあるバイトに挑戦するとかそういうヤツかな」と思ったら、ホントのドラマなのね。
で、毎回現実にないバイトをやる。どこのタコ焼きがどれくらいうまいか調べろとか、「電話の時報の声を生でやる」とか、星占いのモニターとか、この道ウン十年の新聞配達員の手伝いとか。 ゲストキャラの役者さんもちゃんと雇っている感じ。これ、こだわり感じるなあ。

「ミニモニ。ぴょ〜ん星人」は、「バスが来るまで」のダメさ加減を補ってあまりある(私の中で)ダークホースだったコーナー。ミニモニ。が「ぴょ〜ん星人」という宇宙人に扮するというコント。しかも、「ぴょ〜ん星人がふざけてコントをする」というコント内コントみたいになってて、それもぜんぜん意味がない(ホメ言葉)。
だって、「ぴょ〜ん星人」のピンクの宇宙人の衣装の上から、学生服とか着物とか着てコントやってんだもん。学生役の辻の名前が「ゾミ夫」だったり(名前が「のぞみ」だから)、寿司屋の大将役の矢口が「まり平」だったりとか。
CGっつーか、なんつーの? 後からゴテゴテに入れたエフェクトもすばらしいし。く、狂ってる(ホメ言葉)。

「ハロプロニュース」は、情報コーナーなんだけど、司会の石川梨華(チャーミー石川)と中澤裕子の「キャスターと解説員」というコントになってる。おそらく出来レースの「キャスターは本当にチャーミー石川がふさわしいのか?」という投票をやったり。
とくに昨今の石川の成長いちじるしく、「キャスターであることに常にご満悦、いじめられっ子を演じることで逆に中澤をおとしめる(もちろんギャグでね)」というキャラクターはなかなか堂に入っている。わざとローテンションの中澤もよい。

……んでまあ何で私がこんなに喜んでみているかというと、「モー娘。」全体が古き良きアイドルを思い起こさせるからなんだけど、ひとつだけ違うところがある。

彼女らを引っ張ったりフォローしたりする先輩的お笑い芸人が、存在しないんですよね。別の番組ではいる場合もあるらしいんだけど、完全にアイドルだけで成立しているアイドル番組ってかえってめずらしいですよ。
別にそれで不安定感もないしね。メイン司会の中澤の功績なんですかね? この辺、謎。構成上の問題なのか、それ以外のモンなのか。
(02.0618)

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