つれづれなるマンガ感想文3月前半
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一気に下まで行きたい

2002年

3月31日(日)

吉田等からいきなり「気志團のライブ行った? 自分は途中からだったので、最初から行っていたら前半やった曲目を教えてください」というメールが来た。
「ライブ行った?」どころか、ライブがあったことすら知らないっつーの!!

ずっと犬の生態について調べていたら、頭痛くなってきた。2冊、本を拾い読みしたが、意外に人間と犬のコミニュケーションについてははっきりしたことはわかっていないらしい。 「犬は人語を解するか?」とか、読んでいたらホントに頭こんがらがってくるよ。はっきりさせてよ!! 人類の英知はそっち方面に使われませんでしたか? それとも私が間違った本を読んでいるのか?
やっぱり泥縄じゃダメだ。なんかもっと書きやすい題材を探そう。
マンガにしよう、なんか。

・「聖楽堂酔夢譚」 夢枕獏(1993、本の雑誌社)読了。

売れっ子の夢枕獏には、売れっ子ゆえに短時間で仕上げてしまったらしい作品もある。本作は当初「自分の持っているけったいな本をエッセイとして紹介していく」、「その中に虚構の本も混ぜておく」という、いかにも本の雑誌チックな連載として始まった。そのノリからしてスカかな〜と思ったら、なかなかどうしてかなり面白い作品だった。
その、「軽いノリで本を紹介」という流れから、作者自身の青春時代の話になり、「どんな気持ちで若い頃小説を書いていたか」という話になっていく。ライブ感覚でノリに任せていくのは栗本薫と変わらないが、ちゃんと当初の目的を(帳尻合わせ的ではあれ)ラスト近くになって果たそうとしたり、ズレたらズレたなりにきっちりまとめるのはさすが、という感じだ。

しかし、本作の中で作者は若い頃、1日2冊ずつ本を読んでいたと知り、非常にダークな気持ちになったことも否定しないで書いておこう。 1日2冊ずつ本が読める速読力……。まあそういう能力があれば、私の人生変わってましたよ。 オリンピックの選手なんかちっともうらやましくないが(とくに「金がいいですぅ〜」とか言ってた女)、本を速く読む能力だけは真剣に嫉妬した。

3月30日(土)

力学(ちから・まなぶ)と飲む。「東京ブリーフ教団、解散ですよ」といきなり言ってきたから、何かと思った。
「東京ブリーフ教団」とは、数年前、由美子マフィン(←仮名)がアサハラショーコーにそっくりで、アパートに遊びに行くといつもブリーフ一丁になるため、「じゃあ由美子マフィンのブリーフを見続けることを修行とした宗教をつくろう」、「やろうやろう」ということになり発足した新興宗教だ。
もちろん、我々は彼のブリーフを見続けることなんかしなかった。でもそういう心意気だった。心意気? なんだそれ。

しかし、由美子マフィンが実家に帰って結婚してしまったため、その活動は休眠状態となっていた。

で、なんで「東京ブリーフ教団、解散」かというと、由美子マフィンの奥さんが彼のブリーフ姿をいやがり、「ぜんぶトランクスにしろ」と言ったからだそうだ。

それで私の答えが実にどーでもえーというか、「じゃあ東京に来るときだけ、ブリーフはいてくればいいじゃん」という無意味きわまりない返答をしてしまった。

まあどうでもいいんだよ、ブリーフだのトランクスだの。まったく砂を噛むような人生だ。きっと、おれの幸福は鼻の穴から抜けていって、由美子マフィンのトランクスの中に流れ込んでいるんだと思う。CG風の処理で。
「東京ブリーフ教団」自体、忘れてたよ。

・映画「キングコングの逆襲」(1966)
監督:本田猪四郎、脚本:馬淵薫、本田猪四郎

これはけっこう楽しめた。コングが言うことをきくジンガイのチャンネー(名前忘れた)がけっこうカワイイ。スパイ役の浜美枝もピチピチだ。でも演技がちょっとベッキー扮する「ベキ子」みたいだ。
クライマックスもかなり入り込んで見れたが、私が飽き飽きしていた「高いところにぶら下がって落ちそうになる」パターンであった。 やはりアクション映画は「高いところにぶら下がって落ちそうになる」シチュエーションから逃れられないのか。

・映画「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966)
監督:本田猪四郎、脚本:馬淵薫

そろそろチャンバラと西部劇とやくざ映画が恋しくなってきた……。本作の怪獣もかなりグロテスクで、私が子供の頃親しんだ70年代の怪獣とはやや趣を異にする。 非常によくできていると思うが、やっぱり自分はホントの怪獣映画ファンじゃないな、と認識を新たにしたりもした。

3月29日(金)

えーと、なんか表現規制の法律についていろいろ話題になってます。で、それに付随してちょっと思いついたことを書こうと思うんですが、まず実はその法律についてよく知りません。
知らないから、法律そのものについては書きません。

ただ、こうした問題が起こるときに必ず起こる、表現者と受け手のモラルの問題については、思うところがあるので書きます(以前にも書いたかもしれないけど)。

こういうときに、「表現者のモラル」もよく問われるんだけど、私個人は表現者に対しては何も要求しない。
印象的なシーンがあって、映画「時計仕掛けのオレンジ」の中で、刑務所に入れられた主人公のアレックス(悪人)がいちばんよく読む本が「聖書」。
このため、模範囚だと勘違いされるんだけど、実は彼は聖書の中の、キリストがムチ打たれるシーンを何度も何度も読んで、自分がキリストをムチ打っている側に感情移入してウットリしていたわけ。

このように、「表現」っていうのはどんなに送り手が「きちんと」やっても、そのとおりに受け入れられるとはかぎらない。
そうすると「それだからといって送り手がいいかげんでいいのか」っていう声があがると思う。確かに、「閉じた系」の中では「表現者のモラル」という言い方も成立すると思う。
子供向け作品などはそうだろう。インモラルなものを楽しむには、まずモラルが注入されないといけないし。

だけれども、「表現一般」ということで言えば、そう簡単には行かない。そもそも、善と悪の基準だって深く考えればはっきりしないのだから、表現は多様化して当然である。
ただし、たとえば現実の幼女にホンバンを強要するチャイルドポルノとか、そういうのは論外。これはスナッフビデオとかと同じで、表現の「製作過程」そのものがインモラルで違法なことだから。
アクション映画で、撮影のときにホントに人を殺しちゃいけないのと同じですな。

「モラル」ということで言えば、まず充分にソレを理解していない子供/大人という区分でよしとする態度と、大人もインモラルなものを受け取ってはならないという態度と、2種類あるだろうと思う。
私は、前者の立場。別に送り手ってわけではないが、立場的にはそう。「大人の受け取るもの」に対する規制は、ちょっとカンベンしてほしい。モラルに関しては、これはほとんどの娯楽に言えることだけれど、「まあこういうハメのはずし方も、想像の世界のことだからカンベンしてください」という、大手をふってお天道様の下を歩けないけど、頼むからお目こぼししてくださいっていう、そういう感じ。

まあ子供/大人と分けたとき、そこに何らかの線引きは必要だろう(線の引き方が問題になっている? いやそれは承知しているつもりなんですが)。
しかし、他の表現は知らんがマンガに関しては、子供向けと大人向けがボーダーレスであったことが発展材料になってきたことは、否めないと思うんだよね。

もし永井豪が、少年誌と青年誌、そして成年誌が完全に分化した時期に登場していたら、あれだけのインパクトを巻き起こせただろうか……? と考えると、非常に疑問。
青年誌が増えてきた80年代になってからも、少年誌と青年誌の本質的な「差」のなさ、がいい方に作用していたと思うし。

状態としては「道徳的」ではないとは思うんだけど、もともとマンガってそういうところから出てきたものだから……。規制や棲み分けが必ずしもいいことかというと、ちょっとわからない。
「どうせもう発展しないよ、だから分ければいいんだよ」という消極的な意見すら、あるかもしれないんだけど。

で、もうひとつ私には矛盾する意見があって……。
子供向けの作品って、勧善懲悪なものが多いし、ヒーローものが多いから当然なんだけど、あまりにそれが受け手に反映されていないな、と思うときはある。
昔、「オタクは自分の権利ばかり主張して協調性がない」とか言われたけど、最もヒーローものに浸かってる人々が、何でそうなるんだよ!? とか思った。
まあミヤザキツトムもそうだけどさー。
「ヒーローもの」に影響を受けたなら、まともな人間になるのが普通なんじゃない? リクツだけで言えば。
そりゃ「怪獣や怪人側に『まつろわぬもの』の立場を投影した作品も少なくないから、必ずしも勧善懲悪とは言えない」とか「受け手が感じることはそれぞれ」とかは言えるけど、やっぱり「ヒーロー=正義」って考えるのが最もストレートで単純な思考じゃないのかなあ!?

そう考えると、「正義」(「正義の味方」程度の単純な意味での正義)について考えた少年マンガって、ありそうでなかなかない。正義、正義、ってお題目になっているような気がしつつ。あるいはおさまりがよすぎて目立たないのか。

・映画「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」(1965)
監督:本田猪四郎、脚本:馬淵薫

「日本の怪獣ってちっとも恐くないな」と思ってたけど、これは恐い。だって元人間だもん。フランケンシュタイン。12、3メートルという微妙な大きさもポイント。
この間の「ゴジラ」で、バラゴンだけひとまわり小さい理由もこれでわかった。
画面全体に横溢する「昏(くら)さ」は幻想文学チックで、クライマックスの唐突に始まる怪獣プロレスはタメがないままややマッタリと始まるんだけど、さらなるラストの唐突さに、なんだか置いていかれてなんともいえない気持ちになる。
これはけっこういいな。

3月28日(木)

携帯電話の「ツーカー」かなんかの新製品で、かける相手が今、何をしているのか表示されるのが出るそうだ(どういう仕組みかは知らん)。
で、コレのCM、その新製品を使う人物が男のバージョンと女のバージョンがあるが、気になるのは女の方。

なんか頭ボサボサでだらしない感じ、服装はパジャマ? テレビの画面には、美容体操(死語)のために使うグッズの通販番組かなんかが映っている。
で、この女の人が友達に電話をかけようとすると、次々に携帯の画面に(詳細忘れたが)「子供を寝かしてます」、「姑来てます」、「家事やってます」という表示が出る。
で、やっとだれかにつながって「こんにちわ」と言う。

CM内ではっきりそうとは言っていないが、携帯画面の表示から明らかなように「友達がみんな結婚してしまった」独身女性が描かれている。

これさあ、ハッキリ言って独身をバカにしてるよな。少なくとも独身女性側には立ってない。
だってこの女の人、いかにも「ダメー」な感じに描かれているし。電話をかける表情も、なんかストーカーみたいな感じなんだよな。
もうひとつの「男性バージョン」の方は、残業で真っ暗なオフィスから電話をかけるというシチュエーションで、「あまりに忙しくて友達にもなかなか会えない」というような設定になっているので、さしたる悪意は感じられず、落差が対照的。

正直言って、見ていて非常に不愉快。なぜこうなったのかはわからない。おおかた、アイディアの段階で懲りすぎたというか、ブラックなことしたいと思ったというか、そんなところだろう。
あるいは、主婦向けに携帯電話を持たせるために、わざと独身をおとしめたのかもしれない。

かといって、抗議したり、あまりに問題視するのもみっともない。たかがCMだからな。ただ、つくってるやつを軽蔑するだけ。そうっと。黙って。「黙って」ってこうして書いてるけど。

仕事がヒマなときは一日中テレビを付けっぱなしにしているのだが、とくに女性向けのCMは、時間帯によってなかなか微妙に描かれ方が違う。専業主婦なのか、働く二十代なのか、ヒマな有閑マダムなのか、貧乏大家族なのか。

あと、上記ほどではないが、鼻持ちならなかったのがなんかの車のCM。これも2種類あって、50代の男性が娘のボーイフレンドからサーフィンを習うというのと、50代の女性が大学に行き直すというもの。確か。
要するに、そのCMのクルマに対してものすごくステイタスを限定しているわけだ。50代でサーフィンに行ったり、大学に行ったりというのは、気持ちも若いし金もヒマもある人たちだから。
暗に「こういう人に乗ってほしい」みたいなね。

明治維新の直前だか直後だかに、京都のお上品な遊びをするところで薩摩や長州の侍が暴れ回って、「遊び方を知らないヤツらが……」と芸者衆から軽蔑されるというエピソードがたま〜にドラマで出てくる。今から130年くらい前に、すでにそうなったんだから、日本にステイタスもクソもねんだよ、と思う。
どうせみんながみんな三代戻れば×○△のクセにな、知らないっつーの。

逆に「何もかもぶちこわせ!」みたいのも、それはそれでどうかとは思うが。
要するに、すべてが気にくわないんだよ!!

まあいろいろあった結果、「東京ディズニーランド」みたいな、すごいんだけどよくよく考えると実にキモチワルイ世界しかなくなった。

そういう現実を直視しないで「都会の隠れ家がどうの」とか言ってるやつ、許せない。

そういうヤツは、元若乃花みたいに、都会の隠れ家づくりに失敗した女性経営者から訴えられればいいと思う。

あと、一時期ポンキッキーズに出ていた元若乃花みたいに、似合わないカウボーイハットをかぶればいいと思う。

ビデオ屋で「カウボーイビバップ」と言うところを、間違えて「カウボーイハット」と言えばいいと思う。

店員にわざと間違えられてアニメ「まじかるハット」のビデオを渡されればいいと思う。

そして、野沢直子の歌う「まじかるハット」の主題歌を歌えばいいと思う。

・「赤い国のエイリアン」 中村省三/編・著(1990、グリーンアローブックス)読了。

3月27日(水)

雨。お客もあまり来ない。軽い被害妄想になる。そういう考え方のクセ、なんとかならんもんか。

・「怪奇小説傑作集1」 ブラックウッド他(1969、創元推理文庫)読了。

学生時代に古本屋で買って、10年以上部屋にゴロゴロしていた本。気まぐれでポンと手にとって、そのまま読み進めて、読み終わった。
実は同アンソロジーの「3」は学生時代に読んでいる。確か当時はまだ「ラブクラフト全集」が文庫化しておらず、「3」収録の「ダンウィッチの怪」を読むために買ったと記憶している。

他のヒトはどうだか知らんが、私のクトゥルーに対する興味は栗本薫(そう、今ではすっかりトンチンカン居士となった中島梓)の「魔界水滸伝」からであった。
「魔界水滸伝」、けっきょく途中で読むのをやめてしまったが、7、8巻くらいまでは私にとってものすごく面白い小説だった。なにしろ「大集結した日本の妖怪VSクトゥルー」という基本設定だけで燃えるものがある。
「早く人間が全滅して、妖怪だけで進行する話にしたい」と作者が言っていたにも関わらず、読者のキャラ萌えを察知したか、だんだん人間側に視点が移動してから、個人的には興味を失った。

今でも、「人間がいっさい出ず、妖怪とクトゥルーだけで進行する物語」がエンタテインメントとして大量消費される「もうひとつの90年代」について考えるとウットリするが、土台ムリな話だったのだろう。

で、「魔界水滸伝」に登場するクトゥルーは実際とはかなり違い、中にはまったくの栗本薫オリジナル造形となってしまった邪神もいるらしい。しかもその理由が「夜中にクトゥルーの本を見るのが恐いから、確かめずに想像で書いた」とかなんとかあとがきに書いてあった(記憶をたどっているから違うかもしれないが、なんかそんな理由)。後の中島梓トンチンカンドライヴの片鱗がうかがえる。

今もあるのかもしれんが、80年代は風見潤の「クトゥルー・オペラ」や菊地秀行の「妖神グルメ」などのクトゥルーネタ小説が散見され、いやでも興味をひいた。 でも実際のラヴクラフトの小説は、カドカワノベルズやソノラマ文庫とは比較にならないほど地味。読みにくいし。
だから、私は当時確認程度で済ませてしまったものと思われる(いちおうラヴクラフト全集は3、4冊は読んだが)。

この「怪奇小説傑作集1」もなんとなく買っただけで、急速にゴシック小説に対する興味も失ったのでそのままにしていた。

買って10年も経って読むと、自分にも微妙だが内なる変化があることがわかる。読んだら、意外と面白く読めたし。
感想はいろいろあるが、まあ半可通の繰り言なので省く。収録されているアーサー・マッケンの「パンの大神」は面白い。ラヴクラフトはマッケンにインスパイアされていろいろ書いたらしいが、確かに似ている。
でも、マッケンの方がずっと読みやすい。「こういう世界もあるんだ……」と思いました。

3月26日(火)

・映画「三大怪獣地上最大の決戦」(1964)
監督:本田猪四郎、脚本:関沢新一

「自分は怪獣映画のホントのファンじゃないなあ」と、見るたびにつくづく思ってしまうんだけど、コレ、良さがぜんぜんわからなかった。いや、世評が「良い」かどうかも知らないんだけど。
とにかく脚本がヒドい。関沢新一ってヒト、「電送人間」はわりと面白かったのにどうしちゃったんだろう。
まあツッコミを入れながらなら、面白くないとは言えないんだけど。

あと、星由里子って、怪獣映画とかコメディとかでよく見かけるんだけど当時すごくキレイだ。どういう位置づけの女優か知らないけど。東映の映画にやたら出ていた、一時期の中島ゆたかみたいなポジションなのかな。中島ゆたかも、東映の「下品ワールド」で「はきだめに鶴」的役割だったと思うんだけど。

子供の頃、何の興味もなかったミニチュアの建物に目を向けるとすごくよくできていた。
感想おわり。

3月24日(日)

「ハロモニ」の「ミニモニ。スペシャル」で、デビュー前のミニモニ。の映像が流れた。
「ミニモニ。以外のユニット名をそれぞれ考えろ」と言われて、加護が提案したのが「ちびっ子探偵団」
イイよな、「ちびっ子探偵団」(笑)。矢口が「やめてくれー」と本気で恥ずかしがっていた。
つまり、ミニモニ。とは矢口に対する羞恥プレイなのだった。
あと、ミカがなんとなくおミソなのは、「空手バカ一代」以来の日本人のアメリカコンプレックスなのだった。
考えてみれば、あんなユニット、アメリカでは考えられないからな多分。

・「偶然世界」 フィリップ・K・ディック(1955、1977、ハヤカワ文庫)読了。

かなり面白い。ぜんぜん古くなってない。これが1955年に書かれたということは、まあ、後はだれが何をやってもおんなじことの繰り返しになるわなそりゃ。……と言ってしまっては語弊があるだろうか。ディックが過去の人間と同じことの繰り返しをやっていた可能性もあるしな。
それと、ディックの小説は読むたびに「もっとたくさん読まなきゃ」という気持ちと「たぶん他も似たようなもんだろう」という気持ちを同時に抱かせる。他作で達者な人ってみんなそうだけど。
昔はそういうことに焦りを感じていたが、今後SF評論家になるわけじゃないので、どうでもいいと思った。いや、別になりたいとも思わないけど。

3月23日(土)

本棚整理のために、外に置いてある物置を整理して、開いた部分に本を入れ、部屋のスペースを空けようという計画に着手。
……だがこの物置自体がダメだ。外に置いてあるんで、砂が入っちゃってて。
保管してある本も砂や雨で汚れちゃってる。この物置を整理するためには、物置の中に入れるプラスチックのタッパーかなんかが必要だ。

次から次へと仕事が増える。参ったな。

バトルウォッチャーでは、マンガ家の伯林に改名を要求した男についていろいろ思うところを書いている。
ちょっとこの男に同情的というか、「この男みたいな境遇に同情的」というか。
マンガ家を目指してマイペースで活動して、いつの間にか30過ぎちゃってツブシがきかず、にっちもさっちも行かなくなった人間への同情、そしてそうした人間を生み出さないためにはどうしたらよいか? くらいまで考えが行っている。

言いたいことは非常によくわかるけど、私自身はこの「伯林に改名を要求した男」(=「無職男性(31)」)にはあまり同情を感じない。……っていうか、そんな余裕ないっていう感じで(笑)。いつ、自分が現在より悪い状態になるかわかんないから。31歳ならまだ大丈夫だよ。おれより若いじゃん。
「不器用」ってことで言ったら私はうるさいよ(笑)。「きさまらに本当の不器用というものを教えてやろう!!」ゴゴゴゴゴ、って感じだから。

「バトルウォッチャー」では、「不器用な人間はどうすればいいのか」的なことが書いてあったけど、そういう意味で言えば、共産主義も誤解を恐れずに言えば「不器用な人間」を補完することをよく考えたシステムだったと思うよ。
日本の場合は、インテリの夢想が先走りすぎて失敗したし(←そもそも「インテリ」ってだけで「不器用」じゃねーし)、ヨソの国でもあまり成功しなかったとは思うけどな。

だいたい、「社会に出て自分の居場所を見つける」ってことも、逆に「そういうことから逃避して別の価値集団の中で生きていく」ってことも、結局は「勝者と敗者」が出てくるという点では同じなんだよな。
オウムなんてさー、捕まったやつらの中でも勝ち組と負け組がはっきりしてたじゃん。「ちょっとブサイクだからステージが上がれません」みたいな女の人とかいたし。低学歴のやつや頭の悪いやつも、ちょっと出世できそうになかったしな。

ちょっとマジ書きしますけど、そういうことに対して、だれもが何も考えなかったわけではない。だけど、それぞれに長所と欠点があって、決定打がない。でも正解がないのが当然かもしれない。正解があるとするなら、それに合っていなければ敗者、という固定された価値基準しか存在しないことになってしまうからだ。矛盾ですな。

まあ社会システムとしてはどうにもならないでしょう。もし「社会」システムをなんとかしようとするなら、それは「社会」主義だってことだし。
あとは自分の考え方を変えていくしかないんだけど、この考え方のルートがむずかしい。というのは(まあよほどのバカなら知らないが)、この「考え方を変える」という行為そのものに、既成の価値観から背を向ける部分が入っているから。自分自身にも、他人にも、一種の敗北主義的な印象を与えてしまう。
しかし、それは同時に、自分の勝ち負けを決定したルールである現行の価値観を、自分自身がまだ順守しているということでもあるんだな。

だから「無職男性(31)」みたいな考え方は、既成の価値観を否定しているようでいて、実は興味津々、未練たらたらで離れられないところから来ると言える。で、どうして離れられないかというと、自分を敗者と認めたくないから。というどうどう巡り。……ってところは「バトルウォッチャー」で書いてあることと同じか。

で、どうしてこういうことが起こるかというと、以前からよく言われていたのは個性尊重教育による自意識の肥大化。これは一理あるけど、そういうこと主張しているヤツがきっちり個性を尊重されていたりして、「負け組」はそれが納得できない。
一理あることは認めておいて、「自我の肥大化」というよりも、やっぱり社会的な関係性を含めての「『自分』という看板」っていうの? そういうのを本質的に求める社会だからでしょ。で、これは根本的な問題だよね。たぶん近代以降の。まあ「近代」って漠然と使ってますけど。

……というのは、どんなチームプレイでも、最終的には「自分」の責任とか業績とかいったものに回帰しなければいけないから。それは給料が「個人」に払われている以上、どうしてもはずせない。
「自意識の肥大化」を批判したって、自分を無くすことはできないわけだから、不器用軍から言わせてもらうと結局は似たような思考ルートだと思うんだよな。だから「無職男性(31)」のような、中途半端な「規制の価値観の否定」が至るところで起こる。
やっぱり「否定」するってこと自体、特定の価値観を意識するってことだから「気にならない」くらいになればイイんだけど、このスタンス、もっとも逃避的と思われるからまともな神経の人間には非常にむずかしい。
そして、現代もっとも最悪の批判って「逃避してる」ってことじゃないのかな。

私、川柳における「それにつけても金の欲しさよ」みたいに、ヒトの相談に対する万能の答えってのを思いついた。どんな相談されても「それは『逃げ』だよ。」っていったん言ってしまうこと。その後はどんな適当なことでも言えるから。
「それは『逃げ』だ」って言われると、たいていの行為にみんな疑問を持たざるを得なくなるんじゃないだろうか。

「逃避でも何でもない自分のスタンス」っていうのを確立するのは、まあむずかしいかもしれないけど、そうするしかないと思うね。

3月22日(金)

注文した本棚が来たので組み立てる。いつもと違うやつを買ってみたが、勝手が分からず、間違って組み立ててしまった。で、「いいや」と思って本をザクザク入れていってから、間違いに気づく。もう戻せない。
バラしてやり直すには入れた本をまた出さなければならず、中途半端に本を出したら崩れて、かなづちでガンガン叩いて中途半端に釘をはがして、どうしても一人でやりきれず、そんなことを4時間もやって絶望。

2、3日前に書ききれなかったんだけど、日曜日の「MUSIX!」で「オトゲノム」という、「芸能人に関するいろんなことを科学的に証明する」というパロディ的コーナーがある。
で、「加入後半年経ったモー娘。の新メンバーの、今後のキャラ造形について考える」みたいのがテーマだった。岡田斗司夫が出ていて、4人の新メンのキャラをタイプ別に分け、さらに「先輩メンバーのだれとキャラがかぶるか」を言っていたのが面白かった。
具体的な名前を挙げてて、コレでしょ、って感じだった(笑)。やっぱり具体的じゃないとね。

でも、そこで気づいたんだが前・新メンバー(ツジ・カゴ・イシカワ・ヨシザワ)の加入半年後に比べると、現・新メンバーは異様にキャラが弱い。しかも、上記のコーナーで言っていたように、ある種のキャラを強めていくと先輩メンバーとカブる可能性も非常に高い。このあたり、選考の失敗か計画どおりか知らないが、少年マンガ的観点から見ても後から入る者ほど先輩メンバーとカブる、ということはまあ論理的に当然の状態。
車田正美のマンガで、後半新キャラが出てもだれがだれだかわかんなくなるのと同じ。

コレ、どうすんだろうなあ。まあ当初から、現・新メン(ややこしい)の選考にはわたし的アイドル審美眼から見ても疑問符があったんだけど、シロウト考えで今後なんとかできるのって、紺野だけだと思うんだけど。あのヒトだけ、他のメンバー全員と比べても毛色が違う。後は正統派美少女路線で言って、高橋。

とにかく新メンバーと旧メンバーのカラミが面白くないというのは、入れた意味がないからねえ。かといって「ガチンコ」とか「貧乏脱出大作戦」みたいなシビアしのぎあい路線は私はイヤだし。

3月21日(木)

せっかくの祭日だったが、風邪で1日寝る。
外では風が強く、自室の雨戸をバンバン叩きつけてうるさくてしょうがなかった。
またデブデブ病が進行すると思ったが、食わないと風邪が治らないと思い、激食いした。
テレビとネット三昧だったので、以下に感想をダラダラ書く。

・テレビ東京「TVチャンピオン 大食い選手権」
新人戦の後半。「フードバトルクラブ」にパクられて、かわいそうな感じのTVチャンピオン。でも面白いキャラクターの人がたくさん出ていて、見ていて楽しかった。 こう殺伐としていないところがイイんだよな。
個人的に「大食いマニア娘・近藤」を応援していたが、途中敗退で残念でした。

・「さまぁ〜ずのCM」
カップ焼きそばのCM。カップ焼きそばを食べようとする三村を、スナイパーの大竹が狙う。しかし三村の焼きそばにソース(?)とマヨネーズがかかっていないことに不満を持った大竹が、弾丸じゃなくてソース(?)とマヨネーズを飛ばす、というCM。
たぶん、だっれっにも理解してもらえないかと思うが、このCM、なんだか30年くらい前のセンスで、しかも演技をする大竹の「自主映画的な素人臭さ」がものすごいのでツボにはまって大爆笑してしまった。ある意味、一連のタモリのやる気のないCMに通じるテイストがある(いや、さまぁ〜ずはやる気まんまんだったと思うけどさ)。

バカルディは、昔は大竹が小劇場的な雰囲気を漂わせ、今で言うと「ラーメンズ」みたいな感じだったが、「〜かよ!!」のツッコミで三村の「ダチョウ倶楽部」的な、関東ベタベタ芸人テイストでブレイクしたのは周知のとおり。
だが、もう1回転して、あえてブレイク後の大竹の「微妙な感じ」に着目するのもいいのではないかと思うが、どうだろうか!?

sawadaspecial.comRoyta World Japan「宇多田ヒカル、北斗の拳を全巻読破」

金持ちには容赦なく嫉妬、だれも見ていないところで中指を突き立て、さまぁ〜ずのCMのカップ焼きそばをパクついている私ですが、宇多田ヒカルにもそこはかとない反感を抱いていた。金持ちそうだから。
でも、「北斗の拳」を全巻読んだっていうから、許す。
面白いのは「サラリーマン金太郎」とともに「これが日本文化か?」と書いているところで、「日本文化」って書いちゃうってのは本当に帰国子女なんだなあ、とある種の感慨を抱いた。
「オリーブ」のマンガ特集で表紙にもなった宇多田ヒカル、マンガが好きなのは本当らしい。若いのにめずらしい(今、タレントとしてのフックに利用しようとしたらマンガはもう古く、ゲームとかネットとかになるのではないか)と思ったが、もしかしたら純粋に日本のマンガが物珍しいのかも? とか思った。

日記の他のところでも、「シャンプーを多く出しすぎてしまった」とかものすごくどうでもいいことが書いてあって、意外に好印象だった。今でもDJアッパーカットと付き合ってんでしょうか。

あと全然カンケイないが、さまぁ〜ずのではないカップ焼きそばのCMで、若い男女の男の方が「いちばん大切なものは何?」と女に聞いたら焼きそばの上にマヨネーズで「¥」と書くCMがあるが、あれ異様にムカつくな。
本当に「¥」がいちばん大切だと思ってんなら、そんな貧乏男と付き合ってインスタント焼きそばなんか食ってんじゃねーよ。逆に、そういう根性がこのCM内の女を「金がいちばん大事だと思いつつ、カップ焼きそばを食うような境遇」におとしいれていると言える。

「チャッカリしていると自分で思っているつもりが、案外善良でいつまで経ってもはい上がれない」という、これまた1回転して同情すべきCMなのかもしれない。

3月20日(水)

朝起きたら気分が悪い。鼻水がとまらない。風邪。目もなんだかかすんできてる。死ぬ。っていうか、死。30分遅刻。
年度末ということもあるが、景気の悪さをヒシヒシと感じる。死。

どうでもいいことが異常に気になることがある。
ウチには毎日集配のおにいさんがトラックで荷物を運んでくるのだが、その箱を2つ、カウンターの下側に入れる。で、たいてい2つの箱のうち1つはカラ。
カウンターの内側に立っている私から見て、左側の箱からモノを取り出すにはかがまなければならず、取り出しにくいので、いつも来る茶髪のニイチャンには「右側にブツの入った箱を入れてくれ」と言ってある。

で、それまで来てた別のニイチャン(宇宙飛行士の毛利さん似)には、それを言ってなかった。言わないまま、担当が今の茶髪ニイチャンに変わった。
でも、シフトの関係か、この「毛利サン」が月1度くらいは来る。で、今日、はじめて「いつもはあんた左に入れてるけど、右に入れてくれ」って言った。この「毛利」、口うるさくて、ああせいこうせい言われるのがめんどくさくて、こいつの担当時代はずっと黙ってたんだよね。
そしたら、「いつも右に入れてますよお」とか言ってきた。

で、こっちが言い返すか言い返さないかのうちに、「○○(茶髪ニイチャン)に言っておきます」と言う。
その後、なんか「この人わかってないなー」的な苦笑混じりで、「あの、ボクはいつも回ってくるわけではないんでー、○○(茶髪ニイチャン)に言っときますからあ」とか言いやがる。
オマエが毎日来るわけじゃないのは、オレが毎日来てるからわかってるんだよ!!

しかし、よく考えたらこの「毛利」、おかしい。荷物の入った箱をふたつこちらが受ける代わりに、こちらの荷物をトラックに乗せて持っていってもらうのだが、毎回まいっかい、「あれ、こんなにいっぱいあるんですか」、「入るかなァ」って悩むんだよ。毎回まいかい。

でも、集配のニイチャン今まで5人くらい変わってるけど、そんなに悩むのこの「毛利」だけ。こっちもいいかげんイライラしてくる。だいたい荷物が多ければ多いほどいいって商売なんだし、繁忙期だって限られてるんだから、そんなに毎回まいかい悩むことないだろう。
なんか神経質なんじゃないの? デオドラント文化? それともトラックの中になんか私物入れてんの? 巨大ぬいぐるみ・ゴンちゃんとか。ゴンちゃんと行動しないといられないとか。

そんなに地球がいやなら、宇宙行け宇宙!!

おわり。

3月19日(火)

この間教育テレビで再放送していた「マペット放送局」をぼちぼちと見る。
人形たちのテレビ番組に、毎回歌手や俳優などの大物ゲスト(本物)が来るという体裁。
こういう、テレビ番組の体裁をとったバラエティって大好き(「笑ってポン」とか)なんで、見てる。

ギャグは、実は3分の2ぐらいわからない。ダジャレとか多いし。
「現象」と言うと、「マナマナ」のメロディーをハミングする謎の生物が飛び出してくる、というのがあったけど、それってもしかして「現象=フェノメノン」と「マナマナ」をかけたしゃれ!? 訳したらわからないっつーの。

ゲストもだれだかわからんことがある。向こうのテレビドラマの人気女優とか。テロップで出てくる代表作も1作か2作くらいしかなくて、思い出せなかったり。それにしてもモンキーズのミッキーがトシとったのには驚いたな。

あと、ブタの兄弟二人の大ボケの、ボケがデカすぎて一瞬理解できない。「氷って、水でできてるんだってさあ!!」、「本当!?」とか言う。でもこれは面白い。

・「裸のサイババ」 パンタ笛吹(2000、ヴォイス)読了。
サイババ暴露本。

・「異星人遭遇事件百科」 群純(1993、太田出版)読了。

3月17日(日)

また思ったことをいろいろ書いたけど、けっきょく削除した。ま、とっておいてはあるんで、直してアップするかもしれないけど。

日記も、毎日更新するのと2、3日おきに更新するのと、数日でもう心変わりするのが自分で面白いですな。

何を書こうかと思っていたかというと、「フェミニズムとSFおしかけ」みたいなことについて。でも準備段階だからと思ってやっぱり引っ込めた。
フェミニズム、思想というより生活様式とか考え方の違いとか、そういうことに関して60年代生まれの人間はそれ以降の人間よりも過渡期的な中を生きてきたのではないかと思う。どこがどうっていうとうまく言えないんだけど……。新井素子が昔、結婚ネタの本出してたけど、それの表紙だけとか見たりしてて思った。

ドラマ「おれは男だ!」は、70年代のウーマンリブをカリカチュアライズした設定だった。女の子ばっかりの高校であえて森田健作が「おれは男だ!」と主張するという。あの茶化し方、今見るとすでに怒り出す人とかいるかもしれないもん。そんな時代でした。

後は、かつて(80年代後半から90年代初頭頃か?)ミスコン反対とか、あるいは言葉狩りに似たものがあって、それらのあまりのくだらなさに興味を失った人も多いと思うんだよね。だから保留。

・「UFOの嘘」 志水一夫(1990、データハウス)読了。

3月15日(金)

・書き忘れてたけど、一昨日、近所ですごい火事があったらしくて、帰宅したら家の前に消防車が2台いてパトカーが1台、出火元らしいところへ行ったらさらに2台。
駐車場奥に資材置き場があり、そこで材木が燃えたらしい。
火はすでに消し止められていたが、消防士がいったりきたりしてものものしい雰囲気であった。

あまりにヤバそうだったんで、さすがの人嫌いの私も消防士の一人に「火事があったんですか?」と質問した。ここであれこれ聞けるオバチャンの方が、もっと情報収集できていざというとき生き残れるんじゃないか。私は死ぬ。アニメのデビルマンでいちばん最初に死ぬ人風に。

・トップページの日記に更新の日付が書かれたり書かれなかったりするが、それは私が「毎日更新しよう」と決めたときには「随時更新」となり、「もう少し推敲しよう、もしくはしばらく書くのをやめよう」と思ったときに日付となるのである。

・実は10日で当HPも3周年。この間にHP的にはさまざまな試行錯誤があったわけだが、思いついたらおいおい書くし、忘れたら書かないと思う。
何かカッコいいセリフを思いつこうと思ったが、すべてが空しくなったのでヤメ。

次回コミティア申し込み。

・映画「電送人間」(1960)
監督:福田純、脚本:関沢新一

逃走経路のわからない殺人事件が起きる。犯行現場にはかなりの低温でないとはたらかない導線のようなものが残されていた。
物質電送機を使った、男の復讐が始まった。

探偵小説仕立てで、前半はなかなか面白い。「電送人間」役の中丸忠雄という人の、「普通の人間なんだけど、考えていることが不気味ゆえにたたずまいが気味悪い」という雰囲気はなまじの江戸川乱歩原作の映画よりよく出ていた。
ただし、「電送機を使って逃走」というトリックがあらかじめ変更できないため、後半はちょっとダレた。
デカすぎる電送機を目的地までどうやって運ぶかも興味のひとつだが、どう考えてもアレを運ぶことに知恵を絞るより、普通に行って殺した方が簡単そうだ。しかも逃げた後は犯行現場の電送機を必ず爆破しなければならない。メンドクサイ機械である。

ブックオフでまた2000円以上買い物をしてしまい、絶望。

3月14日(木)

図書館に行ったら、借りようと思っていた夢枕獏の本がゴッソリ借りられていてガッカリ。気まぐれにバロウズ(火星シリーズじゃない方のバロウズ)を借りようと思ったら、閉架に1冊しかないのでやめた。

・映画「カタクリ家の幸福」
監督:三池崇史、脚本:山岸きくみ、原案:映画「クワイエットファミリー」

長年勤めた会社をあっさりリストラされ、一念発起して建てたペンションは場所が悪すぎてだあれも来ない中年男・カタクリマサオ(沢田研二)。
そんなマサオを優しく見守る(ある意味浮世離れした感覚の持ち主)妻・テルエ(松坂慶子)。勘違いロマン派少女をきどる出戻り娘・シズエ、その娘・ユリエ、シズエの弟・マサユキ、祖父・ニヘイ。お客が来ないこともあって、家族の仲はいいとはいえない。

そんなギスギスした一家のところに初めてのお客がやってくる。大喜びするマサオだが、コレが災難の幕開けだとはだれも思わなかった!! ……というホラー・コメディ。

三池監督作品は「デッド オア アライブ」とその「2」が好きだったが、「殺し屋イチ」があまりに恐そうだったので見に行けなかった。で、また新作がやるというので見た。

……すごすぎ。とにかくブッとんでる。ブラックコメディは、製作者がもともと「こういうのが好きなんです」(たとえばモンティ・パイソンとか)というのが透けて見えてしまうことが多い(それ自体は私は悪いとは思わないが)んだが、コレはいったい何ですか!? 奇想っつーか何つーか。ちょっとスゴイことになっている。

なんだかあんまり考えなしに感想を書くと恥をかいてしまいそうなのでやめますが、私個人の極視的感想としては、あまりにデタラメでメチャクチャでも、最終的には「スジを通したい」っていう、製作者の意志が伝わってくるように感じた。
「スジ」っていうのは、「がんばれば報われる」とか「希望はある」とかそういうの。

で、そういう「救い」っていうのは、ネクラな製作者だったらキチンと示さないし、あるいは物語上迷走に迷走を重ねた上に最後にやっと条件付きで訪れるとか。
直情径行タイプのヒトだったら、宮下あきら的な(じゃあ宮下あきらが直情径行型じゃねえかって言われたらそうだと思う)、石垣を掴んで根性で持ち上げて投げちゃうみたいな力業が駆使される。

ところが、本作はそのどちらでもない。たぶんラストシーンのアレはマジだろうし、メッセージはストレートなものなんじゃないかと思う。でもやってることがスゴイんだ。冒頭から、あのツカミはねえだろうっていう。そもそも。

手法がヒネてて、展開もヒネてる作品ってのはいくらでもあるし、手法がストレートで内容もストレートっていう作品もこれまたたくさんあるけど、本作は手法が実に謎なんだが見た後はさわやか……だと思うんだけどどうでしょうか!?

まあ、おそらくカントク独特の「生理的気持ち悪さ」はあるんで、それに耐えられないと当惑するだけかもしれないとは思うが。安易な例を出すなら、根本敬のマンガ的気持ち悪さ。根本敬のマンガをアニメにしたような。実際、クレイアニメが出てくんだけど。

……などと、なんだかんだ言っていろいろ感想を書いてしまいました。的はずれな比較だと承知で書くけど、私はメッセージがヒネてないぶん「マーズアタック!」より好きだなー。バートン、もうルサンチマンないからダメだろうなー。

3月13日(水)

・映画「ゴジラの逆襲」(1955)
監督:小田基義、脚本:村田武雄、日高繁明

私は特撮映画に関してはまったく門外漢。この映画がどういう経緯でつくられたかは知らないが、たぶん「ゴジラ」の第2弾。

うまく言えないが、現在確立されているハリウッドアクション映画の方法論とはまったく違う感じ。
ゴジラの登場するまでの盛り上げや、登場してからも何かまったりとしているし、ゴジラVSアンギラスの戦闘シーンやゴジラVS戦闘機のシーンもハラハラするくらいに長い。みんなが宴会しているシーンとかも長い。途中から宴会映画かと思うくらいに。

昔は、「ここはもっとカットした方がいいのに」とか「こんなにダラダラやることないのに」とか、映画を見ていてずいぶん思っていた。そして「インディ・ジョーンズ」を見たときにそのスピード感に酔いしれたが、今は逆にこの映画のダラダラ感が非常にいとおしい。ホッとする。自分勝手なおれ。

なお、一般的に「ヒット作のパート2は駄作」とよく言われるけど、コレはそうでもないと思った。ゴジラをやっつける作戦がカッコいい。氷河(流氷?)の上を歩いているゴジラを上空から撮っているんだけど、その後ろ姿がカワイイ。





マンガ家・あびゅうきょ氏の日記は面白い。いや、笑えるとかそういうんではなく、人(というか、独身の中年男性)があまり言わないようなことをズバと書いてしまう。そして、そのとおりだと思うことも少なくない。
で、以下は氏の3月9日の日記から思ったことだが、議論しようとか反論しようとかいう意味はない。ただ、私と考え方がある意味正反対だなあというか。そういう意味。
だから、リンクはしないけど、やっぱりもとの日記を読んでもらった方が私の文章もわかりやすくなると思うので、興味のある人は検索して読んでください。

……クリエイターの人は、「表現活動そのものが生きる目的であり、それ以外のことはできない」と言うことが多く、それは間違っていないと思う。確か売れた直後の夢枕獏も言っていた。……というか、私がどうこう言える立場ではない。

だけれども、生活としても、純粋な創作としても苦しみながら表現活動をしている人の傍らで、それをあきらめてしまった人たちも大勢いるはず。
そういうあきらめた人の生活とか心境ってどんなんだろう? と思うときがある。

しかし、直接の友達でもいないかぎり、そういうのってわからない。
なぜなら、クリエイターになった人間はあきらめずに表現しているから、知り合いでなくても考えていることはその表現を通して察することはできるが、なれなかった人間はしていないわけだから。つまり何を思っているかはわからない。「中間」ってのもあんまりないし。

表現と生きざまが一体化しているクリエイター、そういう人は大勢いると思うし、すばらしいと思う。
しかし、表現と生活は乖離することもあるわけだ。
それは、お金を稼いで生きていかなければならない場合でもあるだろうし、あまりにも才能がない場合もあるだろうと思う。
「あきらめ」ってのがどこで生じるかというと、やっぱり、「才能がない」ことに気づく瞬間ってのがあるんじゃないか。
狭義のクリエイター側からは、あまりそういう話は聞かない。だって、その人は才能があるんだから。
また、クリエイターをプロデュースする側からは、「才能があるんだけれど頑張りが足りない」人に対する「惜しい感じ」、「どうすればいいか」などの意見は聞かれても、「本当に才能のない人間」の生き方にまでは言及できるヒマはない、はずだ。

どう考えても才能がなくて、今後も芽が出そうになくて、それでもやり続けている人の悲惨さに、みんな興味がないか無意識に目をそらしているとしか思えん。

夢枕獏は、「売れようが売れまいが、表現活動をやり続けなければならない業を持った人がいる。それが自分だ。」と書いていた。それは本当だろうと思う。「魔獣狩り」が売れず、今ほど売れっ子になっていなくても、この人は小説を書き続けていただろうなとは思う。
しかし、それはティーン向けの文庫などから本を数冊出していた頃の話。
これが、まったく橋にも棒にもかからなければどうなったか。
投稿を続けるのか。同人誌に書くのか。
いずれにしろ、かなりの心境と生活の変化はまぬがれないだろう。

そして、正直な話、どう考えてもデビュー時期を逸しているのに頑張り続け、しかもその人の表現活動に何の魅力も感じない場合、人はその表現者を尊敬できるんだろうか?
これは、むずかしい問題だと思う。

だから、「表現活動が『業』としか言えない人間がいる」ということ、それに伴う苦しみが存在することは真実だろうが、だからといってそれをあきらめてしまった人がダメ人間だったり、「『表現すること』にそれほどこだわっていなかった」ということは、言えないのではないか。

そういう意味では、マンガ「コミックマスターJ」でアシスタントの存在を否定しつつ一人前のマンガ家になれるように鼓舞するような回、あれは個人的に納得いかなかった。
そりゃ編集者や師匠としてのマンガ家はそう言うしかなかろうが、実際、アシスタントがいなくてマンガ家やっていける人なんて五指にも満たないだろう。

主張が重層的になっていることは、その業界の考え方の深みとか豊かさを表すものだろうから、そういうものができているならいい。しかし、私はマンガ業界というものを外からしか眺めたことがないので、知らない。

何かを「あきらめる瞬間」ってのは、エンタテインメント作品にはあまり出てこないから、ちょっと注意していろいろ見てみようかなあと思ってる。
まあ運命に翻弄されて生きてる人間をいちばんたくさん描いていたのは、手塚治虫という気がする。
登場人物の立場や運命の変転が激しいから、「スター・システム」を採用していたとも考えられる。

余談だけど。

3月12日(火)

地元の婦人服中心の服屋はかなり前に閉店、代わりにマツモトキヨシ風の薬屋になった。
店の近所の、服も売ってるやや大きめのスーパーが潰れるらしい。絶望。
たまに行っていた赤坂見附のゲーセンも閉店。スロット屋になるらしい。

・「エイリアン 戦慄の人間誘拐」 カーラ・ターナー博士、並木伸一郎:訳(1995、KKロングセラーズ)読了。

いわゆる「アブダクティー」(UFOに誘拐されたと主張する人々)にインタビューした本。筆者は文化人類学者かなんかかと思ったら、最後まで読んでびっくり、自分と夫もアブダクティーなんだってさ。アブダクティー研究は、自身の体験が動機となっているらしい。表4のプロフィールにはそのことは書いてない。

インタビューはだれのを読んでも同じことの繰り返しで飽きてくるが、写真や彼らの書いた宇宙人のイラストなどが豊富。「宇宙人にレイプされた」って人、顔出しちゃっていいのかな? それともそういうのがアメリカ流なのか?

・「いつもUFOのことを考えていた UFOライブラリー・荒井欣一さん訪問記」 和田登(1994、文渓堂)読了。

日本のUFO研究の草分け・荒井欣一(日本空飛ぶ円盤協会・会長)にインタビューし、その半生を追ったもの。
インタビュアーは児童文学者だそうだが、なかなかまとめ方がうまい。
本書は子供向けだが、日本のUFO事情をものすごく大ざっぱに概観することはできる。
会のメンバーには、徳川夢声といったタレントや星新一、三島由紀夫なんかも顔を出していたらしい。

インチキ写真事件や、コンタクティーに安易に同調してしまった宗教がかった団体の出現と解体など、日本も欧米と同じような流れをたどってきていることがわかる。

名前が出てくる「森田たま」という人がだれだかわからなかったのでネットで検索したら、Morita Tamaという一種のファンページがあった。
これによると、女流文学者で国会議員にもなった人らしい。「有名人」という文脈で出てくるし、著作も少なくないが、現在では何となく忘れ去られてしまった人なのだろう。
UFOとカンケイないところで、諸行無常を感じてしまった。

3月11日(月)

・「涅槃の王」巻ノ結 神獣変化・覚者降臨編 夢枕獏(1998、祥伝社)読了。

シッダールタを主人公とした伝奇ロマン、これにて完結。不老不死の秘密が隠されているという蛇魔(ヴリトラ)像の争奪戦に巻き込まれたシッダールタ(若き日の仏陀)が、いろいろあって、最終的に悟りを開く話。
平行して複数の長編作品を書き進めている夢枕獏の、数少ない完結作品となった。実に15年かかっている。

感想をダラダラ書いてはみたが、結局全部削除した。余計なことはいい。本作が夢枕獏の作品群の中でどの程度の評価を得ているのかはわからないが、「長編であるがゆえのいびつさ」こそが本作の魅力であると言うことはできる。
それだけは言いたい。終わり。

3月10日(日)

なんだか、お客がぜんぜん少ない。いくら衣替え前とは言え、真剣に心配になってきた。
最近、地元の商店街でも次々に店がつぶれている。
とくに薬屋。
気が付いただけでも薬屋2件、ゲームセンター1件、喫茶店1件が閉店。

あと、ちっとも仕事が覚えられない。
28歳くらいから、いろんなことが覚えられなくなった。
もう、28歳くらいから私を別人と考えていただいてけっこうです。以前もたいした人間ではなかったが、ますますダメ人間化した。

なかの小劇場で「映像温泉芸者その8 美女と映像温泉芸者」
バカ映画を中心とした自主製作映画上映会。前回の「上映大パニック」が、上映会のアクシデントを意図的に演出するという趣向だったが本当に上映作品が揃わなかったっぽかった(イベント全体は面白かったけど)のに対し、今回は作品のツブが揃っているように感じて楽しかった。

上映作品や合間に挟まる小芝居の面白さとはまったく別に、自主制作映画のCGレベルの向上に思いをはせた。それは、「特撮もの」にあった拭いがたいチャチさを払拭する役目を果たす。全体の印象が劇的に変わる。
「特撮もの」に潜在的に潜む「バカ映画的要素」は、拭っても拭いされない「チャチさ」にあった(だからこそ、一部の作品が突出して一般観客に衝撃を与えた)と思うのだが、それがCGによってなくなってくるとなると、「バカ」の基準が変わってくるのではないかというのが最近の感想です。

入場者全員にくれるプレゼントとして、袋に昔の「へんちんポコイダー」の1巻が入っていて真剣に嬉しくなった。

帰りにながたさんと小杉さんとながたさんの友達とでイタリア料理店に入って、ご飯を食べて解散。

見下げ果てた日々の企てJornada日記恥を知れ、中島梓――第二十二回日本SF大賞・中島梓の「選評」批判

中島梓の選評をきちんと読んだわけではないが、この文章を読むかぎり大方は正当な批判でしょうね。
「説明することを怠って、好き嫌いや思いつきの印象だけでモノを語る」というのは、有名文筆家の陥りやすいワナですな。要するに言葉足らずでも自分のことを理解してもらえるという奢り。
もっとも、TPOによりけりで、言いっぱなしでいい場所もあるんだろうけど賞の「選評」は「バトル・ロワイアル」のときに顕在化したように、選考委員の文学論を凝縮したものだから、こんなところで書き流していいハズがない。

しかし、それと同時に「賞」の選評というものに対する虚しさも感じる。
文春漫画賞の選考委員の一人であった加藤芳郎は「最近のマンガは読んでない」と言ってたそうだ(事実そうでも口に出しちゃいかんだろ)。SF大賞の「選考委員を選ぶ際の選考基準」って知らないけど、定期的に入れ替えるようにしておかないと、最初はまともでも後からおかしくなっちゃったり、選考のモチベーションが下がったて適当になったり、ってのは容易にあることだからなあ。
あるいは、はずすにはずせない業界内大先生がボケたり頑迷になってどうしようもなくなっちゃったり。おそらく中島梓的トンチンカンは、あらゆる業界内にあるできごとであり、SF界内部のことというよりそっち方面の連想でダークになる話だ。

やっぱりだれか「コミニュケーション不全症候群」のときに、徹底的に叩いておけばよかったんだ。
で、私は一読者として「コミニュケーション不全症候群」が発売時にそれほど叩かれなかったのは、中島梓の栗本薫としての仕事がうまくいっていて、それで斟酌されたのではないかとゲスの勘ぐりで思ってしまうのですよ。
まあ当時、若者評というかオタク評をしていた浅羽通明やオバタカズユキも評価してたと記憶してるので、やっぱりゲスの勘ぐりかなあとも思うが。

そしてそれは、今回の中島梓選評の、比較的に好意的に見て「政治的」、悪意をもって見て「内輪にしかわからない言葉遣いで、内輪に向けて発信している」感じからも連想されてしまうのだけれど。

3月9日(土)

ひさしぶりに力学(ちから・まなぶ)と飲む。於:新宿。
自転車で中野ブロードウェイに行き、いったん新中野に戻って丸の内線で新宿へ行こうと考えていたら、まったく間に合わない時間になってしまう。
仕方がないので、JRの中野駅に自転車を止めて中野駅から新宿に行くことに。
待ち合わせ時間を10分ほど過ぎてしまった。力学(ちから・まなぶ)はまったく気にしたふうもなかったが。
紀伊国屋をざっと見た後、「甘太郎」へ。

急いで来たので喉が乾いたため、ビールをぐいぐい飲む。その後鍋を頼んで、それの熱だかなんだか知らないが急速に酔いが回ってきた。

力学(ちから・まなぶ)は「もうインターネットは見ない」と言っていたので、力学(ちから・まなぶ)などというわかりにくい呼称はやめ、どん亀ポテチとかお猿モンキーマタンゴ娘とか、いつかだれかとお菓子メンッとか、陵辱剣道少女とかカッパ巻き磯辺焼きとか「はいはい、こちらおもいっきりB級グルメ探偵団!!」とか、どんな名前でもイイんだよな。
……っていうか、私自身が他人がテキトーに付けたペンネームを大切にしすぎたと言うことだろう。それは、小さな敗北。

中野駅に止めておいた自転車が気になったので、早めにあがる。

夜、酔っぱらってものすごくイヤな夢を見る。
自分が夢の中で「ビッグマグナム黒岩先生」みたいなVシネマに出ることになる。主演級の人々がみんな関西の大物芸人で、休憩時間とかみんな本物のやくざのように恐かったので必死におべっかを使うという夢。

3月8日(金)

昨日の続きのような、そうでないような。
けっきょく、「伝統」を守りつつ自分がその中でのし上がっていくというのは、他人のくつの中にこっそり画鋲を入れちゃうような、まあそれは偏った見方だけど、「しのぎあい」しか方法がない。
何かの権利意識でもって反抗したりということができないわけだよ。「権利」という四角四面の概念がないわけだから。
後は「横紙破り」って言われる行動をとるとかしかない。

で、そういうシステムで成り立っている社会というのが、必ずしも悪いとは思わない。それなりの利点があるんだろうと思う。
けれども、気になるのは、普通の人ってそういうの、都合のいいとこどりするでしょ。

たとえば学校教育がダメだっていうときに、対象として伝統芸能の徒弟制度出してきたりとかさあ。どう考えてもおかしいだろ、ありゃ。

けっきょく、業界だとか、国だとか、そういういちばん大きなくくりでいちばん大きな利益が出やすいように、ってシステムが動いているだけでしょ。
その辺は「プロジェクトX」的な考えの矛盾でもある。

たとえば、「だれがやっても同じものができるシステム」っていうのと、「この人ではないとダメな技術力」って矛盾するじゃん。
「職人の技は工場の中でも生きている」とか言うけど、それはあくまで、「もっとも大きな利益が出る」体制の中でたまたま生き残っているだけだから。

伝統工芸でもそう。私、たまたま「神社の彫り物の職人さん」に会ったことがあるけど、神社のちょっとしたところに掘られている鳥とかそういうの。今、神社自体がそんなに立たないから、仕事もぜんぜんなかった。
これは、「お茶の選別をできる人が、機械化によって減った」というのとは少し違う。伝統工芸の職人も、あくまでパーツを担っていたということ。
だから職人の「腕一本あれば食える幻想」ってのも、時と場合による。

教育問題に関しても、今までの学校教育っていうのは最底辺の底上げには有効だったんでしょ。いわゆる徒弟制度では、それは見込めないと思う。たぶん。
そもそも職人って、テレビや雑誌には超一流の人ばかり出てくる。でも私が興味があるのは、どこまで行っても中途半端なヤツとか、ぜんぜんダメでも異常に熱心なヤツとか、そういうのはそのコミュニティの中でどう生きていったかということ。
一生バカにされてたのか。それとも、何らかの救済措置のようなものがあったのか。
あるいは、そういうヤツは追い出されるシステムになっていたのか。
追い出されたヤツはどこへ行くのか。

もし、一生バカにされてたら、たまんないよな。
そういう状態だったら、サラリーマンとか、現状はどうあれ、たてまえ上は権利を主張できる職業とかシステムに飛びつくと思うよ。
「高校三年生」って歌だって、単純に戦前の窮屈さからの解放感だけでなくて、タテマエ上ではあっても一種の平等主義に対する謳歌だったわけでしょ。あれ作詞した人は、男女共学なんて経験してない世代らしいし。
その辺の時代の変遷とかどうなってたのか、見ていかないと本当のところはわかんないでしょ。

どうせ一流の人間は、自分が一流なんだからどんな状態でも居心地がいいに決まってんだからさあ。
一流の人間はホントのことを言わないし、三流の人間はバカだから自分の言いたいことが言えない。

それが現実。現実パンチ。

そういえば最近、掛け値なしの復讐モノってないよな。いつか、マンガの復讐モノについてなんか書こうっと。

3月7日(木)

なんかさあ、某伝統芸能の後継者のオカアサンがその息子が結婚することになって、ワイドショーに出て来ちゃワイワイ言われてる。
「伝統芸能はこういうものなんだ」という考え方と、「それは現代には合わない」みたいな考えが両方対立していて、それは「女性が相撲の土俵に上がっていいか」という問題と、まあ無関係ではないわな。
だから常にこういう問題って興味をひくんだと思う。近藤サトみたいにね。

結論から言うと、私、あのオバサンが出てくると急いでチャンネルを変えることにしてんのね。すっごい嫌い。だから内情もよく知らない。でも不愉快だから、知らないまま書く。

こういうネタってのは、常に一般人の注目を集めるところとなる。なぜなら、すべてのヒトが「伝統」と、「(俗流)近代化」とのハザマで生きているから。
明治維新以来、そうなっちまったんじゃないスか。
で、私はある程度不条理、非合理なことを守っていかないと伝統を守っていけない、という現実はあると思う。何でもかんでも今風にしていったら、何がなんだかわからなくなってしまう。

でもさあ、知らないで書くから間違ってたら直すけど、あのオバハン、ステージママみたいに芸能界に打って出たいわけでしょ? これからもどんどん。
そもそも、歌舞伎や能・狂言などの伝統芸能の担い手が、テレビや映画などの「俗」な分野に進出していく系譜を把握していないと勝手なことは書けない。いったい今まではどうだったのか?
けれども、狂言出身者って、私は映画「陰陽師」をやっている人と、あのオバハンの息子しか知らない。

で、オバハンの息子の活躍を見ていると、「伝統芸能としての狂言を知ってもらいたいからこういう活動をしています」という雰囲気のようには、見えない。
やっぱり「俗」な、芸能界に対しての色気が見える。
そういう活動は、「伝統」ということに照らせば明らかに「違反」だろう。
「本来の活動をぜひ見て欲しい」というスタンスなら、デーモン木暮閣下(ロック)や赤信号の小宮(小劇場系芝居)の方が明確に思える。

芸能界という華やかな、イイ女も誘惑してくる女もいっぱいいる中で(顔がよくてカネのある男に限るが)、あのオバハンの息子がその誘惑に勝てるわけがない。まあどこぞの女を妊娠させるのも、時間の問題だったはず。
それをさあ、あまりに「自分は『伝統』側です」って顔されてもたまんないと思うんだよなあ。あれこれ言うくらいなら、最初っから芸能界なんか入るなよ。
で、似たような家柄の、鈴木大地の元のかみさんみたいな女と結婚してりゃイイんだよ。

以下は全部想像なんだけど、あのオバハンが自分の「家」の中でヘゲモニーとってるというのは、あの人旦那死んじゃったの? 生きてんの? よくわかんないけど、やっぱり陰険きわまりない「しのぎあい」があっての上でのことでしょ。たぶん、絶対的な男社会だと思うし。
そういう中で生きてきたことには同情も賞賛もあるべきかもしれないが、要はあのオバハンの「しのぎあい」が、そのまま私の目のふれる側に流れてきた、そんな感じだわな。
要するに、「狂言」という世界がどうこうではなくて、あのオバハン一人の「生きざま」として捉えると、「週刊漫画TIMES」とか「漫画サンデー」に載ってるような、女性が旧弊な世界でのし上がっていくタイプのマンガ、要するにアレなわけじゃん。
そんなの私が知るかっつーのよ。

世の中には2種類の「スゴイ人」がいる。前者はその「すごさ」を一般人でも認識できる人。スポーツ選手とか、歌手とか役者とか。何かの技術を開発した人とか。
後者は、「どうやらすごいらしい」ということしかわからない人。囲碁を知らない人にとっての囲碁名人、ホーキング博士のような理論タイプの学者、マニアックなプロレスラー、門外漢にとっての歌舞伎役者、能、狂言の人々。

もう後者に、そのすごさがわからないままに「どうやらすごいらしい」っていう視線を向けるのやめようよ、と思う。
もちろん、それなりの世界でそれなりの業績を上げてきたことに対して尊敬するのはいい。だけど、あのオバハンの息子が、役者としてはともかく狂言をやる人としてすごいかどうかなんてたいていの人はわかんねんだから。ただ「腹の底から声が出せる」ってことくらいしかわからん。でもそれだったら「劇団四季」の人でもジョビジョバでもいいような気がするしな。

あのオバハンが狂言できるわけじゃねえんだろ。

3月6日(水)

「サイボーグ009」を録画してるはずだと思って確かめたら、間違えてその前にやってる旅番組を録画してしまった。
それも、出てるのが松尾貴史と原久美子で、その状態だけでなんかムカつきました。

それにしても、009の録画ってよく間違えるんだよな。その後の「MUSIX!」はぜんぜん面白くなかったしさー。男ばっかり出てたから。男、興味なし。
それと、打ち込み系の曲はウチのテレビで楽しむには限界があるしな。音が悪くて。

DJ KEMCOのワキガ研究所の3月3日の日記で、TBSラジオの企画「LIVE954」のレポートが載ってた。まあ探せばネットのどこかしらにレポート載ってるんだろうけど、やっぱりセンス的に信用している人のが見たいじゃん。
だからこそ、ケムコ氏のレポートなんですよ。

で、ずいぶんダレダレだったみたいね。個々の出演者のファンすべてにフラストレーションがたまるみたいな。そんな中、伊集院ががんばっていたらしくてホッとした。別に伊集院の親戚でも知り合いでもねーけど。

この間「モンスターズ・インク」を見てても思ったんだけど、ライブなどでは自分だけ楽しくても、他の人が楽しんでくれないとイヤだ、となぜか昔っから思うんだよね。
以前にも書いたっけ? 「TVスクランブル」という、ニュースステーション以前の久米宏がやっていたニュースと娯楽の中間みたいな番組があった。で、その中で「ジャンル別映画の楽しみ方」というのをやっていた。
事前に時代背景について調べておくとか、そんな提案の中に「アニメの見方」ってのがあって、ソレが「前日、一睡もしないで映画館で寝ろ」というものだったんだよ。
アニメファンの人、怒れー! こぶしを振り上げろー!

要は、自分のガキに連れられていって、親はアニメなんて興味がなくて苦痛だから寝とけ、と。
今じゃ考えられない提案であった。

ま、逆に考えれば、同じ人種が宮崎駿を過剰にありがたがったりするってのもわかる気がするけどね。

まあいいけどさ、子供の頃、親が「いかにも連れてってやってる」って態度だったのが屈辱でさあ。「連れてってもらえるだけでもありがたく思え」って、小林よしのりとかなら言うと思うけど、あんたに育てられたわけじゃないから知らないよ!!

はっきり言って、もはや単なるマーケッターに成り下がったな。ヨシリン。あと、だらしないのが一時期持ち上げてた人々だよ。とくに反骨をきどってた人々ね。今のゴー宣が気にくわないくせに何もコメントしない。けっきょく「反骨」ったって政治的に動いてんじゃねーの。ちくしょう。

今日、ロフトプラスワンに杉作J太郎が出るっていうから行きたかったんだけど、行かなかった。なんか「あいぼん祭り」とかいう、加護亜衣に関するトークで、私、加護亜衣にすごく興味があるわけじゃないし。
「行ったよ」って人に話して不思議そうな顔をされるのもイヤだったから(コレが上記の「他の人が楽しんでくれないとイヤだ」につながるっていうのわかる?)

「なんでそういうとこ行くの?」とか、「なんでそんなもの買うの?」とか言われる人生だもん、おれ。

死。

3月5日(火)

ファッション雑誌に載ってるようなちょっとしたオシャレ・ストーリー
・「スズキムネ子と秋の空」
晩飯どき、いつも行く中華屋が休みだったので、その斜め前の中華屋へ行った。
別にいつもいくところがものすごく気に入っているわけではない。ただ、なんとなくそこにしている。
いつも客が一人くらいしかいなくて静かだし、味はまあまあ。店員は、おばちゃん一人と、そのおばちゃんの息子だかアカの他人だか、矢崎滋的たたずまいをした料理人が一人。
……まあ休みだった中華屋をここまで描写しなくてもいいんだが。

で、斜め前の中華屋。
ここに今まで行かなかったのは「高そう」だから。「街のラーメン屋」という雰囲気ではない。内装は妙にこぎれい。そして客はいつもいない。いつも行く中華屋以上にいない。入りづらい。
しかし、メニューをよく見たら「チャーハン700円」とかまあそんな値段だった。
普通じゃん。

……ってことで、中に入って、チャーハンとギョーザを注文して、食う。
客がいないだけあって、確かに、あまりうまくない。
店内のテレビからはスズキムネオがどうしたとか、スズキムネ子がどうしたとかのニュースが流れていた。
スズキムネオは弁解に必死、スズキムネ子は「私、この名前からいつもバストが大きいんじゃないかと誤解されるんですゥ〜」とか言う。
「いや〜大きいよ、じゅうぶん大きい」ブラザー・トムが大げさに言うと、頭の悪そうなスズキムネ子は「いえっ、そんなことないんですっ」と、顔の前で手をヒラヒラと振り、「ほんとに、ほんとにそんなことないんですっ」とか言った。

そのとき、ブラザー・トムの隣に座っていたヒロミが、下卑た笑い顔で何かを言った。
この瞬間、自動車がものすごい勢いで通り過ぎていった(番組内ではなく、現実世界の、私のいる中華屋の前を通り過ぎた)ので、ヒロミが何を言ったのかわからなかったが、番組内では爆笑の渦。
ヒロミの前に巨大な発言テロップが現れ、「やっぱりそうだったんじゃねえかよ」と読めた。
何がだ?

スズキムネ子、ブラザー・トム、ヒロミの3人がお下劣トークを繰り広げている間、スズキムネオはテーブルに縛り付けられていた。
テーブルには「プラレール」みたいなおもちゃの電車が走っていて、その電車に付いた針がスズキムネオの頭の上にある風船を割らないように、だれかが必死にどこかとスズキムネオの乗ったテーブルを往復し、風船を上げたり下げたりしていた。

見ていると、どうやらメインはスズキムネ子のトークで、別のスタジオでやっているスズキムネ子の相方(「オセロ」のようなコンビらしい)とスズキムネオとのゲームは、何かの罰ゲームらしい。
「で、どうなってんのかな、『計器板』は」
「Bスタの計器板さーん」
トムとヒロミが呼びかけると、「計器板」と呼ばれた女が汗だくになりながら、ムネオのテーブルと、金魚すくいをやる水槽とを往復している光景が映し出された。
「計器板」とは妙な名前だな、と思ったが、スズキムネ子がいかにも「ワンギャル」とか「スコラ」における「春のイチオシギャル10人」などの企画におさまりそうなのに対し、「計器板」は、ホワイトベリーのヴォーカルがトシをとって、サブカルにかぶれて1回男に捨てられた後、三流劇団に入ったような顔をしていた。
この二人が「パイレーツ」のようなコントをした場合、おそろしくつまらないことは目に見えていた。

計器板がトムとヒロミの呼びかけに注意を向けた瞬間、走ってくるオモチャの電車から風船を守ることができず、風船は針によってはじけ、中からナメコのような、何か気持ち悪いドロドロが出てきてスズキムネオの顔にべっとりとかかった。

そのときには、すでに画面下方にものすごい速さで放送作家の名前が流れ始めていて、番組の趣旨はかいもくわからないままだった。
ただ、スズキムネ子と計器板に助け出されたスズキムネオは、渦中の政治家でも何でもなく、しかも女だということがわかった。
スズキムネオの「ムネオ」は、さとう玉緒の「玉緒」みたいなニュアンスのものらしい。 顔はものすごく美人で胸もスズキムネ子の3倍くらいあったが、若い頃のキャシー中島をもっとキツくしたような感じで、今のテレビで流行るとは思えなかった。

だが、番組が終わった直後、スズキムネオが登場する北関東の遊園地のCMが始まった。
「もしかして、けっこう有名なタレントなのか?」とも思ったが、この遊園地がCMから見てもさびれきっていて、ムネオはミッキーマウスみたいなキャラと腕を組んで楽しそうに走り去っていったが、そのミッキーマウスみたいなやつは、リリー・フランキーのイラストみたいな顔で、背中に電極板みたいな用途不明の気味の悪い機械が付いていた。
ムネオがその機械をいやらしい手つきでなでまわすと、CGの効果かなんだか、「バチバチッ!!」と光が出る瞬間に、先ほど出ていた「計器板」の顔が現れた。

都合3回出てきたが、そのたびに計器板は口にフランクフルトやアメリカンドッグをくわえていた。3回目にはギャグのつもりか、ソフトクリームを口いっぱいにほおばってより目になっていたが、あまりの醜悪さにチャーハンを口に運ぶ手も止まった。

ムネオと、2体のリリー・フランキー的着ぐるみが去っていった後の空は曇り空だった。

このCMを見ている間中、本来の音声以外に、何か小さな話し声のようなものがする。小人同士が話しているような、せわしない声だ。
チャーハンを食い終わり、金を払おうとしてレジの裏側を覗いたら、そこは宴会場っぽい小さなスペースになっていて、もう1台テレビがあった。そこで、その店の娘かなにか知らないが、小学3年生くらいの女の子が笑いながら、テレビに顔を10センチくらいまで近づけて見ている。

女の子の顔は、テレビの画面が変化するたびに色が変わり、サーカス団の一員みたいになっていた。
小人同士が話しているようなせわしない声は、そのテレビから流れてきていた。

「きっと、店の大きなテレビが見られないから、こっちでアニメでも見ているのだろう」と思ってのぞき込んだら、やっぱりムネオと2体のリリー・フランキー的着ぐるみが去っていった後の、遊園地のどんよりとした曇り空が映っていた。

3月4日(月)

映画「モンスターズ・インク」を見る。
テレビでCMを見てから「見よう!」と決めていて、前売り券を買っていた。
で、実際面白かった。こりゃかなりよくできてるよ。「史上、もっともたくさん『どこでもドア』の出てくるアニメ」として人々の記憶に残るであろう。
「見たい」と思って、期待どおりの面白さを体験できるというのは幸せだ。

だけど……ひとつだけ難を言うなら、それは私自身にある。
当たり前だけど、もう子供みたいに楽しめないんだよね。「次はこう来るからこう来て……」とか、頭で考えちゃう。
これ、小学生くらいのとき見ていたらいい意味ですごくショックを受けただろうなあ。
だから、非常によくできた映画だけど、もう昔みたいに楽しめない以上、そろそろ卒業かなあとも思う。単純に言えば「飽きた」というか。
……と言いつつ、似たようなものをまた見てしまうかもしれないけど。

夜中に目が覚めてしまい、時間感覚がグチャグチャになってしまう。
今、とても悩んでいることがある……。
それは、月曜深夜に放送しているアメリカン・プロレスを見続けるかどうか……。
どうやら自分は、プロレスが心の底から好きというわけではないらしいと気づいてはや何年。しかし、周囲を見渡せば、アメプロ大好きっ子の大軍勢……。
というわけで、話を合わせるためにとしばらく見ていたのだが、まあ……ちょっとは面白いと思うんだけど、そんなに夢中、って感じではない。

また微妙な物件に遭遇してしまった……。
ちなみに、他には「ガオレンジャー」、アニメ「メダロット」、「ギャラクシーエンジェル」などが私にとっての微妙物件です。「アギト」は、途中から微妙ではない方向に自分の中で脱落。

3月3日(日)

夜、鶴岡法斎さんのロフトプラスワンでのイベント「CC'Sのひなまつり」へ行く。
CC'Sというのは、鶴岡さん、江口寿史、大地丙太郎監督、田村信の4人でつくった謎の(?)ユニットらしい。

その前に、夕方5時からオタクアミーゴスの前売り券を売り出すというので、早めに行った。そうしたら、ながたさんがいた。ながたさんの隣にいた人物が話しかけてきたので、彼の知り合いかと思ったら別に何の関係もなかった。
その人物は、これまたまったく知らない人と、福田和也やらミスチルやらの話をしていた。ちなみに私は福田和也という人の本を1冊も読んだことがない。よく飛行機を題材にしたミステリを書いていた人だっけ? 違いますね……すいません。

風邪気味のながたさんと1時間ほど近くのマックで雑談して別れ、私はロフトプラスワンへ向かう。

イベントの内容は、トークとか大喜利的なクイズ(?)とか。ふだん作品を見ているその製作者本人を見るというのは、なかなか感慨深いものがある。とくにジャンプ出身の作家って、なんだか囲い込まれてて、普通に会ったり見たりする機会って一生ない気がしていたので、江口寿史を見たときは不思議な気分がしたなあ(当然、今はジャンプの専属でもなんでもないが)。酔っぱらって繰り出す毒舌がマンガどおりだなあ、と思って感心したり。
田村信は、彼の描くマンガのキャラクターに似ていた。ギャグマンガ家だから気むずかしい感じの人かと思ったら、印象は違っていた。むしろ逆。自分のまったく知らない話題にも切り込んでいく積極姿勢が面白かった。

「オリジナルを見ないで漢字や絵を描く」というゲームをして、描いた紙にサインをして帰るときに観客に1枚ずつくれた。まあものすごい速さで絵を描いているわけだけど、それぞれの味が出ていてさすが絵に携わる仕事をしている人たちだと思った。

私は、大地丙太郎監督の描いたセーラームーンをもらえてラッキー。
気楽院さんはだれかの描いたヤマトをもらってた。二人ラッキー。

3月2日(土)

「タイムスリップグリコ」のオマケを交換しようと、吉田等と会う。
まったく想像どおり、箱はすべて処分してしまったようだった。
あまりに予想どおりだったので、自分が吉田等の性格を把握しているな、と思った。
西武新宿駅の方の「甘太郎」で飲む。飲むと言っても、酒を飲んでいたのは私だけだが。
ひさしぶりだったので、楽しく飲めた。

3月1日(金)

昨日は、近年まれにみるダーク日記になってしまったが、F先輩に電話して雑談をし、気が晴れました。いろいろお騒がせしています。

お金をあんまり使えないので家にじっとしていたら、非常にイライラしてしまった。
悶々として時間を過ごす。お金使えないとか言って、雑誌をたくさん買ったら、たくさん買いすぎてかえって読む気をなくした。

・「UFO事件の半世紀 ロズウェル事件からMIBまで」 キース・トンプスン(1991、1998、草思社)読了。
比較的マジメな、UFOについての論考。
カーティス・ピーブルズ「人類はなぜUFOと遭遇するのか」と似たアプローチではあるが、「人類は……」の方がずっと詳しいし、年代を追って詳細に描かれている点などでは軍配が上がるか。註も充実していて、資料的価値も高いし。

本書「UFO事件の半世紀」は、事実関係もおさえているが、筆者の論考に重点が置かれている。基本的な主張は、「UFOがいるかいないかではなく、なぜ『UFO神話』が語られるようになったのかを考えるべき」というもので、それ自体は最近めずらしくはないと思う。そして、基本的には私もそう考える。

しかし、この筆者、ユングに傾倒しているらしくて、「UFOは人間の無意識から来る何者かによって『見える』が、かといってすべて錯覚とはいいがたく、何かが飛んでいることも考えられる」というようなことを言っている。

まあそういう考えがまったくデタラメとは言わないけれど、「そういうことは、いくら考えても仕方のないことなんじゃないの?」という言葉が喉まで出かかる。
確かに、本書にあるようにUFOに限らず、天使や妖精などの目撃例が人間の無意識下にある何かを表していることは間違いないだろう。
だが、さらに広げればUFOや天使などにすら、限らないはず。ポッポコプーとかラーメン仙人などの目撃例は、どう解釈すればいいんだ? いや、ポッポコプーもラーメン仙人も私が今考えたんだけど。

実はもっとずっと単純な話なんじゃないかという気がするが。ウワサの伝播からUFOの目撃例は変化してきたし、そもそも飛行機やロケットがあんなに飛ばなけりゃ、ここまで騒ぎになることもなかったわけでしょ。
たぶん、モダンとかポストモダ〜ンとかからの観点から、人間の意識は変わってきているのかもしれないが、それはUFO神話からはたぶんわからないんじゃないかと思うんだけど。



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2002年2月の日記
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