05 「萌え」に歴史あり 第1回(!?)「キックオフ」

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・06 タモリはいつまでウキウキウォッチングできるか
・04 ゴマキはゴトマだった! 〜呼称について考えよう〜
一気に下まで行きたい

・05 「萌え」に歴史あり 第1回(!?)「キックオフ」

・「キックオフ」全12巻 ちば拓(1982〜84、集英社)

週刊少年ジャンプ連載。太田学園高校に入学した永井太陽は、中学時代には陸上で大会記録を出したこともある元気いっぱいの少年。その足を買われ、同じ高校の野球部に所属する兄に野球部に入るよう勧められていたが、サッカー部のマネージャー・川村由美にひとめぼれ。サッカー部に入部してしまう。
その後、由美も太陽に対して「まんざらでもない」ことが太陽にも容易に知れ、どちらからともなくカップルとなるのだが……というラブコメ。

毎週必ず登場する、太陽と由美ちゃんが何コマにもわたって見つめ合い、瞳と瞳で言葉を交わし合う行為は「キックオフ」「キックオフごっこ」などと呼ばれ、読者の全身にむずがゆいような電流を走らせ作品の代名詞ともなった。
99年に出た「コミックフィギュア王」(ワールドフォトプレス)では、この「キックオフ」行為が1回につき何回、どんな状態で出てきたかが細かくチェックされている(ちば拓による新作「こりずに! キックオフ2」も掲載。開き直ったタイトルがイイ)。

・「『キックオフ』背景」
当然、同作連載の裏事情など知らない私ですが、状況的には70年代後半に少年マガジンで柳沢きみお「翔んだカップル」が、少年サンデーでは高橋留美子「うる星やつら」の連載が始まり、少女マンガの方法論が少年マンガに移植されていくような感じを受ける。
そして、80年代は「少年ラブコメ」連載ラッシュとなる。

少年キングでは80年に村生ミオ「ときめきのジン」が、その後同作者の「胸騒ぎの放課後」が少年マガジンで連載開始。70年代に少女誌で青春ものをやっていたあだち充は、80年に少年ビッグコミックで「みゆき」、翌年には少年サンデーで「タッチ」を連載開始。
同じく少年サンデーでは81年頃に原秀則「さよなら三角」も連載されている(この辺り、連載と単行本化に少々のズレがあるかもしれない。ネットでざっと調べたが、それだけではキチンと年代がわからない作品も多いのよ)。

そんな中、少年ジャンプでもラブコメの連載が始まるのは、当時の読者だった私としても当然の流れだったと思う。
ところがどうも「少年ジャンプ」誌上では、ラブコメ反対の機運がそこはかとなく感じられた。宮下あきらとかは「少年ラブコメ」を露骨に嫌っていたように思える。それは他誌にはない感触であった。
ともあれ、82年に連載が始まった「キックオフ」は、おそらくジャンプのラブコメ初連載という歴史的意味を持った作品ではある。

・真のミニマルマンガ?
漫$画太郎のコピペ繰り返し芸もじゅうぶん衝撃だが、現在再読すると「キックオフ」というのは、当時読者の記憶に残っている「キックオフする」シーン以外にも、恐ろしいまでに同じパターンの繰り返しである。まさにミニマルテイストなのだ。

ざっとあげるだけでも、

・太陽と由美ちゃんがお互いを見つめ合い、瞳と瞳で語り合う(「キックオフ」行為)
・「キックオフ行為」に、周囲の友人たちが「何やってんだよ」とツッコミを入れる
・一人で盛り上がった太陽が、自室に飾った由美ちゃんの巨大パネルにキスをする。すると、それを必ず背後であきれながら見ている兄がいる(これは、後に太陽が一人暮らしになった後も、隣に住んでいる担任の慶子先生が見ている、というパターンとして継承される)
・一人、由美ちゃんといちゃいちゃする妄想にとらわれ盛り上がった太陽が、道ばたにいるネコの頭をバシバシ叩く
・太陽と由美ちゃんが部活が終わった後、二人で帰宅途中におしゃべり
「由美ちゃんがいるからいいの〜」、「ううん、太陽くんがいるから〜」、「由美ちゃ〜ん」、「永井く〜ん」と、いちゃいちゃする

……これらの繰り返しで物語は進行する。もう本当にコレの繰り返しなのだ。通読して初めて気づいたが、太陽と由美ちゃんはきわめてのろいスピードでトシをとっており、連載開始時に高校1年生だった二人は、数年経った終了時には2年生の終わり頃という設定になっている。
この間、クラス・マッチ(球技大会みたいなもの)、体育祭、予餞会、修学旅行、みんなで海に行ったりハイキングに行ったり……という行為がきわめてていねいにまったりと続き、太陽と由美ちゃんの仲も、ものすごくじわじわと進展する(最終的にはキスまでだが)。

コレはほとんど、一見ただの繰り返しに思えながら、実はジワジワと大きな流れをつくっていくミニマル・テクノのDJプレイそのものである……というのは明らかに言い過ぎだが、当時の少年ラブコメというのはほとんどがそんなようなものだった。

70〜80年代のマンガマニアというのは「24年組」を「発見」したりして、非常に少女マンガに強かったから、たぶん少女マンガの読みきりを単行本何巻ぶんにも引き延ばしたような少年ラブコメにはいい印象は抱いていなかったと思う。
しかし、今考えるとマンガ読者全員がマンガマニアであるわけはなく、好意的に見れば「少女マンガ的要素」を少年マンガが(読者も含めて)学習するための、過渡期的作品群だったのではないかという見方も可能だ。

・脳内麻薬出っぱなし!!
「少年ラブコメ」は、作品の展開・絵柄含めた「おおコレだコレだ」という読者の感覚が、非常に強く時代と密着している。そのときそのときの(今で言うところの)「萌え」作品はそのときだけのもので、あまり興味のない作品を複数通して読んだり、過去のものを今の人がわざわざ読んだりしない性質のものだ。
しかし、それにしても「キックオフ」は思い出されて手放しで好意的にみんなで盛り上がる、ということのない作品のような気がする。むしろ、好きだった人が必死に封印したがる作品であると言える。おそらくその度合いは、柳沢きみお作品よりも村生ミオ作品よりも強いだろう。

その理由は、作品全体に通底するあまりにも過剰な太陽と由美ちゃんの「脳内麻薬出っぱなし」状態にある。
ときどき恋のライバルが現れたり、お互いのことが信じられなくなったりはするものの、その「事件」の重要度は他のラブコメに比べると格段に低い。さらに、現在の「よりどりみどり美少女回転寿司状態」のラブコメからは考えられないほど、由美ちゃん以外の女の子キャラの区別がされていない。
これは作者が「女の子の顔を描き分けられない」というミもフタもない理由もあったろうが、結果的に「太陽と由美ちゃん」のいちゃいちゃに物語を集約させざるを得ず、その集約されっぷりは「キックオフごっこ」に象徴されるように、異常なまでに強力である。

本作に登場するキャラクターは、基本的に深刻に悩むことがない。逆にいつもウキウキで、何もかもが楽しくて楽しくてしょうがないのである。
太陽は由美ちゃんとハイキングに行けることが決まれば大喜び、風呂上がりの由美ちゃんを見ては大喜び、由美ちゃんのチアガール姿を見ては大喜び、ノースリーブの由美ちゃんを見ては大喜び、まあ私の感覚からすると、普通の三十代独身サラリーマンが1年に1回、経験するかどうかというウキウキ感覚をほとんど24時間、味わっているのである。
ラブラブ部分だけではない。学校行事がきわめてていねいに描かれているのも、太陽たちがそれを心の底から楽しんでいるためで、彼らは球技大会には全力を尽くし、「ミス学園」コンテストは盛り上げ、学園祭も盛り上げ、修学旅行も盛り上げ、……しかしなぜかサッカー部は軟派な印象しかない(笑)という本当に脳内麻薬出っぱなしの状態なのである。

まあ現在の高校生に比べると少し子供っぽいかもしれないが、こういう熱に浮かれた状態というのは(彼氏彼女がいるいないとはまったく別に)小中学生時代、高校時代にだれもが経験していることであり、その「脳内麻薬ダダモレ状態」の描写が、大人になって我に返った元読者たちに「封印」の衝動を与えるのではないかと思う。なぜなら、恥ずかしいから。

・「キックオフ」の終焉
しかし、そんな登場人物のテンションが非常に高いまままったりと続く、という幸福なマンガも終わるときが来る。そして最終回もミニマルである。
太陽と由美が恋人同士であることにもかまわず、由美に告白した真田という少年がサッカー部にまで入ってきて由美をくどきまくる。業を煮やした太陽は、真田に「試合で得点の多い方が由美ちゃんと付き合う」と勝負を挑む。

……これは、連載開始当時か「キックオフ」が読みきりだった頃に使われたプロットで、それをもう1回、ていねいに繰り返して終わっているのだ。う〜ん、やっぱり「ミニマルラブコメ」の称号にふさわしいような気がしてきた。

その後、私の知るかぎりではちば拓は短編集「たんぽぽの咲く道」を出したり「ショーリ!」というラブコメ寄りでない野球マンガを描いたり、確か刑事ものを描いたりしていたが、とりあえず「少年ラブコメ」的王道からは姿を消してしまう。
ここで気になるのは80年代に「少年ラブコメ」を描いていた人々の「出どころ」である。少年ラブコメは、80年代に勃興した新興ジャンルと言ってよく、「少年ラブコメを描きたいからマンガ家になった」人はそうはいないと思うからだ。

少女マンガのノーハウを知り尽くしていたのはたぶん高橋留美子とあだち充(と、弓月光)で、柳沢きみおと村生ミオはギャグ出身。原秀則はちょっとわからん。
……で、私の今のところの仮説では「青春もの」的な作品を描いていた人ほど、かえってその後のラブコメは辛かったのではないかということ。
「青春もの」と「少年ラブコメ」は、似て非なるものだと思う。後者はあくまでも「コメディ」と「広い意味でのエロさ」を要求されていた。「青春もの」は一種のドロ臭さも「味」のひとつだったし、「エロさ」という直接リビドーに訴えかけるような魅力を持ち合わせていなくてもよかった。

たとえばあや秀夫とか、「ふられ龍之介」の織みゆき、「青い空を白い雲がかけてった」のあすなひろし、みやわき心太郎などは優れた青春ものの描き手ではあっても、優れた「少年ラブコメ」の描き手ではなかったように思う。石井いさみの「750ライダー」は続いたけど。
このあたりきちんと詰めて考えていないのだが、ちば拓は初期の絵柄からしても「コメディ」よりは「青春もの」に近いテイストの人だと思うし、「キックオフ」は同時期にやっていた「ウイングマン」[bk1] [amazon]があれだけエロエロだったり「ストップ! ひばりくん!!」[bk1] [amazon]がフェロモンを出していた頃に、不思議なほど入浴シーンなどのサービスカットが少ないマンガでもあった。

もうこの辺りは完全にパラダイム・シフトだと言わざるを得ない。そうです……「きまぐれオレンジロード」[bk1] [amazon]の登場である。

・「きまぐれオレンジロード」のはじまり
ちょっとヌルい調査で申し訳ないが、「キックオフ」終了後、84年にまつもと泉の「きまぐれオレンジロード」が始まっている。記憶だと同時期に連載はしていなかったと思うが、とにかく「ジャンプ」における「少年ラブコメ」の席があけ渡される結果になったのは確かだ。
「きまぐれオレンジロード」は、全12巻の「キックオフ」以上に長く、全18巻まで続く長期連載となり、アニメ化もされ、小説として現在でも続編がぼちぼち描かれたりして[bk1] [amazon]いるラブコメとしては驚くほど長命な作品である。その「きまオレ」のジャンプにおけるもっとも大きい歴史的意味はズバリ「アニメ絵でラブコメをやった」ということだろう。

今見ると、初期の頃の絵柄はアニメ絵というほど「濃い」ものではない。さらにその後、萩原一至という「これ以上アニメ絵の人いねー」作家が大人気になってしまったため、まつもと泉のジャンプにおける美少女の先進性は忘れられがちだが、当時は少年マンガから進化した絵柄の「キックオフ」とはすでにパラダイム自体が違うことを思わせた。
それまでにもジャンプでは、江口寿史や「ウイングマン」の桂正和など、美少女を描く作家はいたが、個人的にはまつもと泉が「ヒトが習得しやすい」タイプのアニメ絵だったことを重視している。「きまオレ」は、とくに当時のマイナーSFマンガ誌やコミケなどと強くリンクしているわけではないが、最大部数のマンガ雑誌に典型的なアニメ絵のマンガが載り、ヒットしたという歴史的意味はあると考えている。

「キックオフ」から「きまオレ」へのバトンタッチを見ても、少年ラブコメにおいてハッキリと時代が変わっていったことがわかるような気がする。かたや旧来の「青春もの」の発展系としての「少年ラブコメ」であり、かたや「オタク層も取り込むタイプの軽めの絵柄と展開」を持った「少年ラブコメ」であった。しかも、まつもと泉はもともとギャグマンガ家志望。少々のお色気にコメディ的展開を入れるのはお手のものだったのではないかと思われる。

こうして、読者の「恥ずかしいから封印したい」という欲望とともに「キックオフ」は終わっていった。しかし、現在の「少年ラブコメ」的作品(というか端的に言って「萌え」モノみたいな感じのもの)を見ると、むしろ「青春もの」的ほろ苦さに回帰しているものもあるし、「脳内麻薬出っぱなし状態」を読者が恥ずかしくない方向で進化発展させたのが「萌え」モノではないかという気もする。
「キックオフ」に限らずとも「80年代少年ラブコメ」は、現状のラブコメマンガやギャルゲーやエロゲーを考える際に、いろいろなヒントを与える部分もあると思ったりもする。「何もなかったならなかった」で、それはまたドーナツの穴のように意味があることだと思うし。

「キックオフ」におけるサッカー描写。別にたいした話でもないんだけどね。W杯がらみで書いてみた。
(02.0724)



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