・19 時代錯誤の歌詞とは

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・19 「壊れない愛がほしいの」、「シャボン玉」歌詞の時代錯誤とは?



・その1
私の家には、半分くらいしか読んでないBUBKAが何冊か積ん読してあって、ヒマなときにパラパラとめくったりしている。
そんなとき、必ず目を通すようにしているのが宇多丸の「マブ論」という、ハロプロを中心としたアイドルポップスのレビュー。ふだん音楽雑誌を読まない私にとっては、音楽に詳しい人が書くポップスのレビューとして興味深く読んでいる。文章うまいんだよな。

BUBKAの今年の9月号では、毎年恒例のハロプロシャッフルユニットについて各曲レビューしている。その中で、ラッパーである宇多丸がSALT5に厳しいのはわかるんだが、7AIR「壊れない愛がほしいの」についての発言がキツい。一部引用すると、

歌詞に描かれる演歌的恋愛〜女性観(それが一概に悪いと言っているのではありません)が、サウンド・プロダクションの志向性に対して余りにも時代錯誤的に響いてしまっている点です。(中略)ついに聴き通すのが苦痛という域にまで達してしまいました。

「聴き通すのが苦痛」という表現はキツい。その後のフォローはあるけど最大限の批判と受け取ってさしつかえないだろう。
同コーナーでの「時代錯誤歌詞批判」は一貫していて、「ごまっとう」の 「SHALL WE LOVE?」、モーニング娘。の「シャボン玉」に関しても、その都度連載コラムの中で「時代錯誤的」だと批判してきている。

実は、私もそう思っていた。

具体的に書くと「壊れない愛がほしいの」に出てくるのは完全に男に振り回されている女だ。男に関して「ささやかなことで幸せを感じ」、 彼氏から「仕事の愚痴をたまに聞くのがうれしくて」、「頼られている」と喜ぶ。
「SHALL WE LOVE?」は、他の女に男をとられた女が「寂しくないよ、寂しくなんかないよ」と強がるという歌。
「シャボン玉」に関しては、あれだけ激しい曲調と振り付けでありながら、歌詞はというと男にふられた哀しみを「激情」という感じで表現したモノ。石川梨華のセリフは男にじゃけんにされた女が下手(したて)に出たあげくキレてしまうという内容だ。
確かに時代錯誤的である。実に現実的ではない。

むろん、これは「シャボン玉」という楽曲のトータルイメージとは少し違う話にはなるのだが。個人的にはこの曲は総合的に好きです。

つんくの他の歌詞を見てみると、たとえば「恋愛以前」というか「初めて男の子を好きになった」感じに「家族」というキーワードをまぶしたところが目新しかった「ちょこっとLOVE」(プッチモニ)とか、「男にはまだ未練があるけど、でも思いきって自分からバイバイ」と別れてしまう「LOVE涙色」(松浦亜弥)および「BYEBYE 最後の夜」(カントリー娘。に石川梨華)、純な男の子から「純な女」とカン違いされてありがた迷惑だと歌った「GOOD BYE夏男」(松浦亜弥)など、アイドルソングとしてはけっこう新しめというか(ガールポップ全般としてはどうか知らないが)、自分としては面白い歌詞もある。

だから、つんくもやってやれないことはないと思うんだけど、結論から言うと時代錯誤的歌詞の多さは、「手クセで歌詞を書いちゃった」ということだと思う。
つんくは「手クセで曲をつくっちゃう」とはよく言われるんだけど、歌詞に関してはどうなのか? ネットなどでほとんど言及されていない気がする(してたらごめん)。

・その2
それでだね。私が気になっているのは、まあ音楽をよく聴いている人、および女性が聴くとまず時代錯誤だと思う歌詞が、CDを買うターゲットである人たちにとって「本当に時代錯誤なのか」ということ。
前述のCDの売り上げを調べたわけではないのでわからないんだけど(本当は調べるべきだ。すいません)、「時代錯誤的である」ということについては私も確かにそう思うんだが、ではそれがターゲットと深刻なズレを引き起こしているかというと、実はそうではない気がする。

つんくの歌詞に「家族」という言葉が頻発したり、藤本美貴が「いちばん大切なものは家族」と言ったり、「選挙の日は、ウチじゃなぜか投票行って外食するんだ」という歌詞が出てきたり、ソニンの歌の中の女が、目的もなく東京に出てきて覚えたのはカレーライスのつくり方だけだったりするのは、まあはっきり言って「ドキュン」と言われるような人々を直接のターゲットにしているからだと考えていいと思う。
で、「ドキュン」的な人にはまだ、陳腐な、悪い意味でのこうした世界観がギリギリ有効なのではないか。
むろん、音楽を常に「先鋭的でなければならない」ととらえるなら、それは批判されなければならない。
が、「時代と合っているかどうか」ということで言えば、少なくとも数万単位の人が「シャボン玉」のCDを買っているわけで(まあ最近の日本人は歌詞を重視しないという風潮があるけれど)、それはそれで事実なのではないかと感じるわけです。

コレは余談になるけれども、考えてみるとソニンが歌っていた「目的もなく都会に出てきて、始めは希望も抱いてたんだけどだんだん都会にいることが目的になっていくようなやつ」(それは作中では女だが男でもいい)が、つきあい始めた男(女)に振り回されるというのは現在でもありそうな話ではあり、その「振り回される」部分だけを切り取ったのが「壊れない愛がほしいの」なんだろうなあという気はする。
切り取っちゃったからマズいというか、うまくない感じ。

・その3
で、その「シャボン玉」的世界観を批判的にとらえるか、「現に受け入れられているから」と肯定するかはなかなかにむずかしい問題ではないかと思う。
もうひとつ、つんくには「タンポポ」の歌詞に多くあるような「ベタベタなアイドルソング的歌詞」路線がある。「恋をしちゃいました!」とかだって、「壊れない愛がほしいの」と同じくらい男に都合のいい歌詞なのではないか。真に女の子の心情を表現した歌詞なのだろうか。まあ「デート中に携帯にメールを送る」といった面白いところはあるんだけど。
だから、「SHALL WE LOVE?」が批判されるならば同じように「恋をしちゃいました!」も批判されなければならないような気がする。しかし、アイドルソングとしては本当にソレでいいのか? という問題が今度は浮上してくるわけだ。

なぜなら、アイドルソングとは「受け手が抱く異性に対する妄想」が底流に流れているからである。
たとえばフェミニズム的な観点から、ラブソングをすべて先鋭的であるか、ないかとより分けたりすることも可能ではある(「BUBKA」でフェミニズム的観点からレビューしていたわけではないが)。それに近い論評も別のところで目にしたことはある。しかし、そんなことをして本当に意味があるのだろうか?
たとえば、「部屋とYシャツと私」っていう歌、私はバカじゃねえのと思っているし、真逆のハナシになるが「関白宣言」「一生一緒にいてくれや」(タイトル忘れた)も何だか背筋がこそばゆくなってくるが、それはもうそういう妄想だから、仕方ないのである。
もっとはっきり書いてしまうと、「部屋とYシャツと私」と「壊れない愛がほしいの」的なものとはバーターで両者存在しているのではないかという気さえする。

最近はエンターテインメントの中でどんどん男女の妄想が混淆し始めているが、私にはそれらがアウフヘーベンされて何か違うものができてバンザイバンザーイというふうになっていくとか、そういう幻想はない。
妄想が完全に溶融するということは性差が完全になくなってしまうということであり、それは論理的にもあり得ないから(完全になくなるということは、性器まで同じになるということである)。それに、そういう幻想を持っていたとしても、それでだれがどんな得をするのか(あるいは損をするのか)が明確に示されないと意味がない(それこそはフェミニズムの役割だろう)。

まあ客観的に見て、「シャボン玉」ほどの時代錯誤というか古風な歌詞は、もうつんく以降は出ないとは思う。しかし、アイドルソングが異性のお客さんを相手に商売をしているかぎり、その歌詞の内容は、とくに男性相手の場合は保守的なものにならざるを得ない。
なぜかってーと、現在が男性中心社会であると仮定したとして、それは「すでに存在しているもの」であり、男性に媚びた内容のものは昔からあるものに寄り添うことになって「保守的」ということに理屈上、なるからだ。
まあ正確に言うと、「自由恋愛」が許されるようになって以降の男性向けアイドルソングというものに、ほとんど大きな変化はないのではないかと思う。
「理想の彼女」を演じるのがアイドルの役目だからね。

それをどうとらえるかは、受け手それぞれの問題になっていくだろう、などとおためごかしなシメにしてしまうことも可能だ。
ただ、もともと「先鋭的である」ことを至上命題とするような音楽ジャンルでないもの(=アイドルソング)を論評することは、どうしたって一般庶民の保守性に触れざるを得ないという問題は、これはもう何十年も前からあることなんだよな、と思う。
(03.1224)



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