彦摩呂グランプリ
うのけんの、頭の先がピーコピコ!

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一気に下まで行きたい

2000年

4月30日(日)

自己フォローが、えらい長文になっちまった。
「同人誌即売会直前イジケ病」により、1日いじけていた。いじいじ。それにしてもいじけたことばっかり書いてるな私。いまさら気づく。

4月26日(水)の日記に、若干自己フォローしておきます。
前回は、ネタ元である本をパラパラッとしか見ずに妄想を広げていったこと、短くまとめようと舌足らずになったこと、ウケを狙いすぎて焦点がぼやけたことなどが反省点。
……ということで、今回は大学のレポート臭くなりますがご容赦。

・生産と消費に携わる個性
↑ のっけからダサダサなタイトルだが致し方ない。

>>おそらく、戦時中や軍国主義時代は個性などなかった。「国のもとめるもの」以外
>>が個性だった。「ドーナツの穴」みたいなもんだったのではないか。
>>そしてその抑圧から解き放たれ、「個性尊重」と言いだし、何でもかんでも個性に
>>なり、統率がとれなくなり、その反動として「個性批判」が行われるようになった。
>>(本当にそういう経緯かどうかは知らないが、そういう経緯であるとされている)

正確に言えば、軍国主義だって何だって「個性」はあるところにはあった(と思う。その当時生きていたわけではないが)。
数多の軍人がその「個性」により語られるのは周知だし、上官レベルでなくても、「こういう仕事の仕方をする」、という意味の「個性」はあった。仕事を離れたうえでの「仕事以外ではこんなヤツだった」という個性もあった。
当局が認めるのは「仕事の仕方」の違いで、これはあくまで仕事を完遂させる能力が認められた上での、個体差のようなもの。
「仕事を離れたうえでの個性」は、おおっぴらに認められることはないが、別にとがめるようなことではないレベルのことで、こちらが「ドーナツの穴」的個性。
軍隊をたとえにするとややこしいが、要するに「生産(仕事)に関係する個性」と、「そうではない個性(個人の生活に関わる個性)」に区別できる。
これは私が考えたことではなく、どっかでだれかが言っていた。

そして豊かになってから過剰にクローズアップされてきたのが、「生活に関わる個性」の部分で、それは多く「消費に関わる個性」であると、これまたどっかのだれかが言っていた。
「自分は何を『買う』のか、商品のどれを『選択する』のか、消費するのか」がその人間の個性として重点が置かれすぎている、というわけ。
確かに、「どういう仕事の仕方をするか」なんて職場の人間しか知らないし、「どんなシュミを持っているか」はほとんどが「金の使い方」、「消費の仕方」で決定されているので、そういう部分はある。

>>そしてその抑圧から解き放たれ、「個性尊重」と言いだし、何でもかんでも個性に
>>なり、統率がとれなくなり、その反動として「個性批判」が行われるようになった。
>>(本当にそういう経緯かどうかは知らないが、そういう経緯であるとされている)

このあたりはまあ、かなりおおざっぱだがこのまま行きましょう。
もちろん、戦後言われ出した「個性尊重」は消費のことばかり言っていたわけではない。重なるところはあるだろうが。
それより、ある決定的な価値基準に対して個人の価値観を決めていく、合わせていく、ということではなく、かなり個人の決定権に幅を持たせた、という程度のことだろう。この決定権の中には消費行動も含まれる。
ここには戦後民主主義的、みたいな、ツッこまれると定義できないけど「思想」が入っていただろうし、また戦争に負けてしまったので、絶対的な価値基準に疑問が持たれたということがある(この辺、どうも大学レポート臭くてイヤな展開だが、しょうがない)。

で、そのあげくに出てきたのは「私は〜なヒトだから〜」などと言って恥じない「自称不思議ちゃん」や、何の根拠もない「自分は自分だから正義である」というような考え方をしたカン違い野郎、なんだろうが個々については私より数段優秀な各批判者にお任せします。

「普通になろう」という主張は、おそらくそうした現状、何でもありありになってしまったことに対するいらだちから来ているのだろう。
(この前は、ここから話がややこしくなった。ここから先は、私が「パラパラと見た」本からは若干離れます。)

さて、この「普通になろう」という主張は、とくに目新しいものではなく、保守派知識人はわりとデフォルトで言う物言いではある。この場合の「普通」の基準は、「伝統」ってなところかな(この辺りも書いてて大学のレポート臭いけど……)。
すなわち、まあいろいろあるけど、「伝統」ってのは何百年も磨かれてきたものだから、これに従っていればまず間違いはないだろう。だから、伝統にのっとっていればそれが「普通」である、というような感じ。

ここから話がよじれてくるのだが、「伝統」の設定の仕方と、どの程度それを組み入れていくかで論者の立場はグラデーション的に変わってくる。
パッと見、どこが伝統的だかわからないが実は以外に古風な考え方をしている人もいるし、逆の場合もある。
このあたりが「普通」の基準の差となって表れるのではないかと思う。

26日の元ネタとなった「本」は、女性が書いていた(ということだけはそのとき確認した)。フェミニストでなくとも、女性の場合、普通の感覚で言えばいわゆる「伝統」を素直に受け入れ難いことは多いだろう。
親戚が大勢集まったときに台所仕事手伝わされたりとか。いや、もっと差別的なことはあっただろうし。私もそんな「めんどくさそう」なイメージしか浮かばない。

いや、そうでない部分ももちろんあるのだが……結婚式を古風な感じでやりたいとか。お正月に初詣するとか。しかしまあジェンダーについてはいろいろあるんだろう(最近女の人と話していないからだんだんわからなくなってきた……)。

とにかく、おそらくくだんの「本」には、「伝統」にかなり意識的に依拠しない、その筆者基準の「普通」が描かれていたのだろうし、またそうでなければ本にする意味がない。
ところが、そうした「普通」は、たちまち「空気」とか「雰囲気」といった曖昧模糊とした部分に回収されてしまうのであり、「伝統」のよい部分と、悪いところを改変していこうとする部分に意識的でないと、単なる「言いっぱなし」で終わってしまうのだ。

うむむ。ここまでで前回の言葉足らずは解消できたであろうか。

>>……しかしその場合の「普通」とか「個性」ってのはだれが決めるんだ???

よく、就職活動の時期直前に、大企業の社長が「個性的な人材を求む」などと新聞で主張しているが、これは「オレさまの言うことを聞く範囲内での、個性的な人材」ということですよね。あまり、英語ペラペラなんだけど口を開くとくわえているカエルが地面に落ちてしまうのでしゃべれないヤツとかはいらないんだし。

女性が「夢を持ったオトコがいい」と言ったところで、その「夢」が「鈍牛」という名のカフェバー(いまどき「カフェバー」)をオープンすることだったりすると困るわけだ。

何が言いたいかというと、「個性」を決めるのは、生産、消費ともに、「権力の強いヤツ」だということ。
そいつの都合、ってのが要は「個性」なわけです。
そうしないと、集団自体がまとまっていかないから、当然っちゃ当然。
集団があんまり画一的でも困るんで、「個性」とか言い出す。あくまで自分のコントロールできる範囲内で。
「ファッション」が、それを提供する側が儲かるような順列組み合わせにしか過ぎないのも同様。

女性の書いた本をネタにしたんで、前回は話を(私が)一方的にしすぎよじれてしまったが、「男の『普通』の基準を握っているのは大多数の女性である」のと同じように、女性の「普通」の基準を握っているのも大多数の男性ではある。
ただ、男が女性に求める「普通」の価値基準がここ30年くらい(私が知るかぎり、ってこと)、それほど大きな違いはないのに対し、女性側の主張はどんどん大きく取り上げられるようになっている、と感じる。
もちろん、フェミニズム的な観点から言えばそれはコップの中の変化なのかもしれないし、無意味なことですらあるかもしれないが、私は当事者じゃないのでわからん。
その変化が何が原因なのかも知らん。
ですがまあその「普通」の基準からオレ様があまりにも逸脱してしまっているので、前回はつい恨みがましいようなことを書いてしまいました。私ってまったくどうしようもないタマなしです。すいません。

>>「勝てば個性、負ければわがまま」

この部分も、上記の文脈にのっとったモノです。不思議ちゃんだろうがおたくだろうが、天下とってしまえばだれも逆らえなくなる。
「個性が大事だ」という言い方も、もともと何の強制力もない、権力的でも何でもない主張ををあたかも「真理」であるかのように見せかけての洗脳、と考えれば権力を握らずして人心を変えさせようとする一種の忍法であると考えられる(「思想」とか「哲学」にまつわる言動はすべて一種の忍法であるが)。

作家やミュージシャンのエピソードなどを読んでいると、「個性」が才能として認められる分野ほど、「『個性』に絶対的な基準などない」ことに絶望的な感じすら受ける。
多くの評論は、作家やミュージシャンといった芸術家がどのような「真実を掘り出したか」にシンクロするために読んでいるときはそれほどヘンだとは思わないが、いろんな人のをある程度の量を読んでくると、彼らの方法論にも、立ち姿にも、基準などまったくないことがわかる。下積みからちまちまとやってきて苦節ウン年、という人もいれば、1作つくって一発ドカンで大当たり、という人もいる。彼らの創作姿勢など、聞けば聞くほどどうでもよくなってきて、優れた創作者ほど独自の方法論を持っているため、それはあらゆる意味で何の参考にもならないことに気づかされる。
これは広義の芸術分野という特殊な世界だけでなく、大きな価値基準が崩壊してしまった一般社会でもほぼ同様だ。

ではどこに基準があるか。それは、「それが社会的に認知されていること」という漠然とした一点のみになってしまう。
このため、基準となる何らかの「大きな物語」が必要だとはよく言われていることで、またその「物語」の中身について論議が必要だともよく言われていることだ。
その論議の中身についてはここでは触れない。

そうした観点から、「普通を勧める」は、それがイデオロギーに流れないかぎり、面白い主張ではあると思う。常に「普通とは何か?」の検証を怠らなければ。
私はもともと「自立」とか「独立」とかを、盲目的に認めるのはヘンだと思っていて、女性の場合「離婚しても食っていけるために」とかの、生活に直接関係がある部分から来る「自立願望」だったらいいけど、「自立が一個の人間としての使命である。」というような一種の強迫観念から来るのだとしたらそれはムダだと思う。
だから、「オタク批判」も、「パラサイト・シングル批判」も、脊髄反射的批判にはまず眉にツバを付けることにしている。
「普通」も、「独立しているのが普通」といったような考えナシではないかぎり、モノを考えるきっかけ程度にはなるだろう。

だれもが自分の「個性」を認めてもらいたいに決まっている。だがどの程度、どんなカタチで認めてもらえるかははっきり言って「運」。だから、運がない人が「ワリを食っている」と思わないような何かが必要で、それはある程度出揃っているのだけれど(「普通をすすめる」というのもそのひとつだろう)、いちいち数え上げるのはめんどうくさいのでやらない。

ウドの街には何でもある。質さえ問わなきゃなんだって!(BY ボトムズ) というコトで。

4月29日(土)

ちょっと長文だ。人生は冒険だから。

その1 クイズ王西川山編
ゴールデン・ウィーク前なのでやたらと忙しい。でもボクは体調がなんだかおかしい。
店が混んでいたので、出入りのヒト(業者というのともちょっと違うがここでその詳細には意味がないので省く)が、店頭でずっと待たされることになった。
当然よく会う人なのでこちらから軽く会釈したら、あろうことか片頬を意図的にゆがませてアピールしてきた。「ふざけるな」と(いうように見えた)。

なんだ!? オレに恨みでもあんのか!?

脅えきったが、混雑している店の中で問いただすわけにもいかず(空いてたって問いただすわけにはいかないが)、恐怖にかられてすごした。
これを、「クイズ王西川山の恐怖」という。「クイズ王西川山」とは、私が描いたマンガに出てきたキャラクターだ。いつもどこかで主人公を非難の目で見つめているのだ。

くだんの「出入りのヒト」の非難アピールは、私の幻覚かとも思ったが、確かめようもない。

リーサラ時代は上司がやれだれが道端で挨拶したのしないの、休日の草野球にだれが来たの来ないのと男の腐ったやつみたいにギャーギャーわめいていたが、けっきょく勤め人をやめても、だれが挨拶したのしないの、草野球はやらないがだれがお祭りに行ったのいかないのといったことで苦しめられる。
その辺りの基準をどの辺に定めているのか、人生の教師たる親を観察したり問いただしたりしてみたが、そこには親独自の呼吸のようなものがあり、私にはマネのできないことがわかった。

「非難」ということで言えば、真剣に苦情を申し立ててきても「あのヒトはああいう人だ」で済む場合もあり、冗談めかして言ってきたのでやり過ごしていたら「冗談ぽく言っているうちにわからないヤツはボンクラだ」など突然言われて面食らったりと、私はもともと空気の読めない人間、すなわち本当のボンクラだったことは近年、判明した。

学校教育はこうした「ボンクラ(愛すべき、という意味合いをすべて削除したうえでの、シャレにならない)」度数を測るようにはシステム化されておらず、私はけっきょく「システム化」などという小生意気な言い回しだけを覚えていつの間にか30歳を過ぎてしまった。
そこで、「クイズ王西川山」が私を電柱の影とかコンビニのジュースの入った冷蔵庫の裏側などから見つめ、非難し続けるのである(「そこで」でなんだか文章がつながらないような気もするが、気にしない。こういうところがある種の人間の神経を逆撫でするのであろう)。

ところで、「クイズ王西川山」のモデルは当然、「クイズ王西村」である。
クイズチャンピオンの神業的部分を特化した、かつてのクイズ特番で、そのあまりのクイズ王っぷりにすっかりヒールのイメージが付いてしまったあの男である。
知らない人のために解説すると、外見は完全に太ったいわゆるおたく風(「神聖モテモテ王国」のブタッキーに酷似している)、その代わりクイズを答える速さは驚異的で、答えたときの「してやったり」の表情も「何かむかつく」という男である。
もっとも、本人が本当にむかつく人間かどうかは不明で、テレビで見たときのプロフィールによるとどこやらの新聞記者であり、空手だか柔道だかをやっているという(本当に道場で胴着を着て汗を流す姿が映像として流れた)。
つまりパッと見のマイナスの意味でのおたくイメージとはかけ離れた、社交的な人間だと推察される。

しかし、そうなってくるとそれはそれでむかついてくるのが世の常というもので(……オレだけか?)、クイズ王西村は、「コイツはクイズしかできない自閉的な人間だ、だからオレはこいつより劣ったわけではない」という視聴者のささいな優越感をもそのプロフィールによって無惨にもうち砕いてしまうという恐るべき存在なのである。
……そんな経緯から「クイズ王西川山」は生まれた。……「生まれた」つったって、クイズ王西川山の存在などだれも知らないし、何より「クイズ王西村」には似せないように描いた。……っていうか顔が思い出せないし。

……っていうより、私のマンガなんてだれも知らないと思う。知らなくていいのだ。 マンガについても、当然だが「マンガがヘタかどうか」を若者のうちからわかるシステムというのはわが国ではマンガ家のアシスタントになるくらいしか方法がなかった。しかしながら、若い頃、とにかくラクをしたい、ラクができるなら、あ、そうだ、これ、この商品券をさしあげましょうぞ!!!!! というくらいラクに固執していた私は、そんな苦労をしたいとも思わず、サインペンでくまや小犬や美少女(と自分が思っているモノ)を大学ノートに描いて遊んでいた。

そして「これはくまに見えない」と言われたのはその10年後くらいのことであった。

その2 力学(ちから・まなぶ)編
話がそれた。とにかく、私の心はヒトににらみつけられたことでポッキリと折れ、帰宅した。

力学(ちから・まなぶ)に頼んで、同人誌の製本を手伝ってもらう。
今回、42ページ、ページ数がやたら多い。こんなことなら、多少値がはろうがあまろうがオフセットにすればよかったと、何度も思った。
とにかくコピーが終わらないし。

ちょうど、調子がいまいちだった近所のセブンイレブンのコピー機が新しくなったので、ここぞとばかりにコピーをしまくった。

そして力学(ちから・まなぶ)を家に読んで、製本を手伝ってもらうことになっていた。ので、ほどなくして彼が来た。
なにしろ友達イナイナマンの私だから、製本を手伝ってくれる人間などほとんどだれもいない。
力学(ちから・まなぶ)にも、「エロ本見せてやるから……!」と言って頼んだくらいだ。
そうしたら、「『スコラ』なんてエロ本じゃねえよ!!」とキレたが、そこは私の方が先輩であるので、「じゃあ『GORO』を見れ」と貫禄たっぷりに手渡した。
力学(ちから・まなぶ)は、宮沢りえが表紙の古いGOROを手に持って所在なげに佇んでいたが、この場を早くやり過ごそうと頭を切り換えたらしく、
「じゃあ早く製本しましょう」と言った。

製本、といってもむずかしいことをするわけではない。ただコピーしてきた紙をひたすら2つに折りまくるだけである。
ここで「おはスタ」のビデオなどを見せたが、無反応であった。
どうも力学(ちから・まなぶ)の「どういうバカバカしさを好むのか」の基準はいまだにわからないところがある。
実はバカバカしいことなんか好きではない、バカバカしい人生より、バカバカしいひとときが嬉しい、とでもニヒルに思っているのではないかと私はかなりマジで思っているが、彼自身にもそれはわからないようだった。
まだ自分の力に気づいていないエスパーのようなものなのであろう。

あと筆がすべったが、「スコラ」のくだりはウソです。

また、テレビをつけっぱなしにしていたらアニメ「サクラ大戦」がはじまった。
はじめて見る我々。だがこの原作のゲームが大ヒットしたことくらいは知っている。
そこで対抗して

「梅おかき」

というのを考えた。「梅のほんのり酸っぱい風味と、上等なおもちでつくったおかきの歯触りが日本茶に合います」と袋に書いてある梅おかきを、いかにもおばさん、という感じのおばさんがひとつ、またもうひとつと食べていく姿を追ったアニメーション。もとい、ジャパニメーション。日常性を描き出すために、あえて時は2015年。
なんて嬉々として言っていたら、いつもは調子を合わせてくれるはずの力学(ちから・まなぶ)、さすがに手作業しながら煩わしいと思ったのか、実は鋭いパンダのごとき目つきで私を見つめるのみだった。
まあ「調子を合わせてくれる」ったって、ふだんだって私の話を面白いとは思っていないのだが、私が先輩なので立ててくれているのである。体育会系(嘘)。

製本しているうちに、さまざまなことが私の脳裏に去来した。いちばんのことは「めんどくさい」ということである。しかし、「サクラ大戦」や、その後の「ゾイド」などを「流し見」しているうちに、私がポツリと「最近は夢中になれるアニメがないなー」と言ったら、力学(ちから・まなぶ)は「まあアニメって子供向きですからねえ」と、「アニメは子供向き=本来的に大人の鑑賞にたえない」という70年代前半のごとき物言いをした。

もともと彼はアニメがそれほど好きではなく、ハードボイルドや冒険小説などが好きで、たまにくだらないことを言うとしてもそれは「大人があえてくだらないことを言う」という前提に立った言動である。私もムリに子供ぶろうとは思わないが、彼の大人性をかいまみて、松本伊代の 「オトナじゃないの」が頭の中を流れていくのを抑えることができなかった。

その3 工事編
家の前の工事はなんと夜の7時半くらいまでやっていた。仕事だから仕方ないと言えば仕方ないが、「クイズ王西川山恐怖症」にかられた私としては、その物音が実は大工さんの作業で出た音ではなく、まったく違う不気味な人物たち……「小太り、五分刈り、フチなしのめがねをかけている」という集団がガリガリに痩せた中年男を拷問している音に聞こえてきたりした。
関係ないが「暴力的な感じ」の人もブキミだが、「小太り、五分刈り、フチなしのめがねをかけている」といった、「何にカテゴライズしたらよいかわからない人物」というのもかなりブキミだな、とはこのとき思わなかったが後で思った。

その4 新宿編
その後新宿に出て飲んだが、昨晩夜中の1時半頃まで仕事をしていたという力学(ちから・まなぶ)は疲れきっていた。しかし、私が先輩なので立ててくれていたのである。体育会系(嘘)。

4月26日(水)

どうせハナもひっかけられねえか。
トレンチコート着て銃乱射か。いいトシして(笑)。

本屋に行ったら、タイトルは忘れたけど「普通の男をゲットして結婚しよう」、「女の子自身が普通の男をつくろう」みたいな本が出ていた。
この本には、なしくずし的に何でも「個性」と言われてしまった「単なるわがまま」に対するアンチテーゼ、プラス男女の性差を埋める、という意味がこめられているのではないかと思う。
この「暗い日記」では何度も何度も書いているが、「個性批判」というのは全共闘世代以下のある種の人間にとってはずっとある問題かもしれない(ちなみに、この本の筆者は73年生まれ)。
また、「オトコを自分の生きやすいように改造しよう(改造といっても乳首にピアスを入れる、シリコンを入れる等の意味ではない)」という本も何冊か読んだことがある。これにも性差を埋めようというイデオロギーが背後に認められる。
内容もロクに読んでいない本についてダラダラ書くのもアホらしいような気もするが、いいのだ私はもともとアホだから。

さて、こうした運動? はたぶん時間をかければ成功するだろう。とにかく男は「セックスをさせてくれるなら去勢以外は何でもする」という動物である。うまい具合にオルグすればどうにかなっていくであろう。
しかし、ここで問題なのは「普通」、「個性」をどの辺に設定するかということだ。
おそらく、戦時中や軍国主義時代は個性などなかった。「国のもとめるもの」以外が個性だった。「ドーナツの穴」みたいなもんだったのではないか。
そしてその抑圧から解き放たれ、「個性尊重」と言いだし、何でもかんでも個性になり、統率がとれなくなり、その反動として「個性批判」が行われるようになった。
(本当にそういう経緯かどうかは知らないが、そういう経緯であるとされている)
……しかしその場合の「普通」とか「個性」ってのはだれが決めるんだ???

だれでも「空気」ってのはわかる。どんな社会にも「個性」をカン違いしている人間がいて、それは言語化できないけど「空気」が違うのだ。
しかしそれを言葉にするのは非常にむずかしい。
この本ではたぶん、その「普通」をさぞかしウマイ具合に説明しているのであろうな(でなきゃ「○○クン」などと、特定のパターンの「人種」にネーミングするだけで終わっちゃうぞ)。

さて、「ちゃんとした個性」とは、考えれば考えるほどわからなくなる。それはドーナツの穴だからだ。穴について考えるなど。穴井夕子について考えた方がいいくらいだ。では私が本当の個性について教えてやろう。

「勝てば個性、負ければわがまま」

この文章の文脈にそって言えば、男は「セックスさせてくれるなら教会のパンを盗んでも構わない」とすら思っているため、そのキン●マを握っているのは女性軍である。つまり、女性軍(もちろん大多数の、という意味)の決めたものが「普通」、「個性」なんである。
さあ、男の子たちは書を捨て町に出て、その前にキャワイイ、ギャパユイ女の子が「これってよくなくな〜い?」と言った本は家に取りに帰って、そして町へ出よう。

女の子も、自分たちの創出する「普通」に身を委ねるのもよいが、「勝てば官軍」なのだから、大きな賭けかもしれないがわがままを貫き通してみてはいかがか。医者とか弁護士とか、踊りの師匠とか、そういう世間一般が認めるものになれれば、頭にクツを乗せて足に帽子をはいて歩こうが、いま、あえて初期しのはらのモノマネをしようが、世間は「やっぱりホンモノは違う!」などと認めてくれるぞ。

4月25日(火)

桜木町までアニメ「アイアン・ジャイアント」を見に行く。
遠い……。駅からが遠い。そしてまた、カップルや子供連れの若い夫婦が目立ち、「しあわせ家族かよ!」と隣人13号のように呪詛の言葉を投げつけてみる。

私はアニメにあんまり詳しくない(他のことにも別に詳しくねーけど)からナンだが、ネットなどで拾ってきたシロート周りの議論には、あんまり意味ないと思う。
内容的には「感動した」以上の感想はないです。またそれ以上の知識もない。
やっぱりねー、基本的にファンタジーっぽいSFやカートゥーン的なモノが好きな人のツボには入るでしょ。

ただし、人間、葬式のときにハイになったりパーティのときにダークになったりするように、映画館から出たら妙にダークにはなった。これは映画の内容がどうこうではなく、ワーッと騒いだ後の虚脱感みたいな。
渋谷に出て「コミティア」のカタログ買って。ここで百花繚乱なサークルカットを見ていつもおいてけぼりを食ったように思いダークになるのだが。
渋谷まんだらけでマンガをバカ買いしてしまう。

4月24日(月)

「クイック・ジャパン30号」の、マンガ関係の感想はこちらにかいたからいいとして、もうひとつ気になったことがあった。
「日本ロック雑誌クロニクル 第1回 中村とうようと『ニューミュージック・マガジン』」のある部分。
私はロックについては門外漢なので、インタビュー内容については門外漢なりに興味深く読んだという程度のものだったのだが。

気になったのは、中村とうようと渋谷陽一というロックジャーナリズムにおける両巨頭が、二人とも吉本隆明の影響下にあったということで、あるジャンルの評論が、過去の、あるいは別ジャンルの評論家の影響を受けることがあったとしても、それが一人の人物であったというのはそうとうに問題だったのではないかということだ。それが「ロック」という音楽の特性であるのかもしれないが。
私自身はロックやロック評論に過大な思い入れがあるわけではないが、この「クロニクル」において、その後ロックをめぐる言説がどのようになっていくのかには気になるところだ。

ところで、そうしたイデオロギー的部分を強く打ち出している音楽雑誌としては、私はテクノ大好きっコなので「エレキング」という雑誌に興味があるのだが、ここで語られる少々音楽そのものから逸脱しつつある文章を、詳細に検討するほどヒマがないので買わずにヴァージンメガストアを後にする私ではあった。

4月22日(土)

10日ほど前からアゴが痛くなり、死にそうになる。
いっこうに治らないので、医者へ行く。

仕事もうまく行かない。最近、物事を先回りしては不安がるということが日常化してしまい、予想が現実化すると必要以上にショックを受けるということの繰り返しになっている。

この日記もなんか書いてて自分で面白く感じない。もちろん日常、そんなに面白いことがあるわけではないんだが。

騒音地獄!!!!!
休みが平日になってから、家の周りの騒音がヒドいと感じるようになった。
商店街で「プッチモニ」だの「あなたのキスを胡麻の灰」だのを流すなど、そういう「公共的な音」に関しては抗議している方もいるようだし、実際本も出ている。共感も得られよう。
しかし、私が言うのは、そうではない騒音だ。だから文句を言うこともできない。
以下が、私が「騒音」だと認知するものである。狂っているといわば言え。
まずまともなものからだんだんと。あ、別に面白くないっスよ。

・選挙で当選してからの「ありがとうございました」という街宣車
選挙のときはまだ許せるが、終わったと思ったらまた始まる。これ何? 何かの暗号をどこかに流してるの?

・「歌オヤジ」
詩吟のようなものをうなりながら歩いているオヤジ。最初は声のみの存在だったが、その後何度も道端で遭遇。手ぶらで、歌を大声で歌って歩いているコロコロとした身体つきのオヤジだ。歌の練習なのか。健康法なのか。わからないが、異様にカンに触る。

・「ビンを運び出す音」
近所にビンの倉庫があり、そこから運び出すときのガラスが触れあう音。昼寝しているときには死ぬほどの苦痛。

・隣の家の女の子が大音量でかけるR&B
ああこれはかわいいもんだが、ミニマル・テクノあたりを大音量でかけかえしてやろうと思ったが大人げないのでヤメた。ちなみに、私の甥も姪も兄も妹も、ミニマル・テクノを「金払っても聞きたくない」と言っていた。号泣。

・「女子中学生のランニングのかけ声」
これは盲点だった。キミたち、運動しすぎなんだよ! だいいち、オレの母校だけど、そんなかけ声の仕方してなかったぞ! キミたちは小学館から出てる「エチケット入門」でも読んで、さらに月刊明星読んだら寝なさい。月刊明星って今出てるのか? 知らないけど。

・「緑のおばさん」みたいのの「おはようございます」の声
「緑のおばさん」かどうかもわからない。窓を開けて見てないから。そんなおれって引きこもり? でもたぶん緑じゃないと思う。何より、「こいつらは学校行っているのにおれは休んでいる」という罪悪感が苦しい。

・「サラリーマンの携帯電話」
「こいつらはサラリーマンなのにおれは……」という罪悪感が苦しい。やっぱり憧れるよな、サラリーマン。
「今、バタバタしてますんで、それはこっちサイドで動きますんで……」とか「○○さん(←企業名に「さん」付ける。)もこの製品に力入れてる、って聞いてますんで」などとサラリーマン用語を使ってみたい。でもどうせ後輩女子社員(ルーズソックス経験者)から小馬鹿にされるのがオチだろうなァ。
ちなみに、私はリーサラ時代に「アパートで密かに爆弾つくってる国語教師みたい」という非常にありがたい形容をいただいたことがある。私の内に秘めたる怨念を見抜いていたのはこんな表現した人だけだったんだなァ、思い起こせば。

・意味不明のかけ声
軍隊のかけ声のようなものが、深夜聞こえていた(最近は聞こえない)。
消防隊か競輪学校の訓練だと予想しているが、謎。

・前衛的に恐い人の声
ちょっと恐くてよくわからない。奇声に近い。

4月21日(金)

ボクにとって、情報は3年以内でいいことに決めた。
インターネットの利点はやはり情報の即時性だろうと思う。
だが私は、実は基本的に雑誌を読むのがあまり好きではない。
現在のマンガは、雑誌掲載を第一義とする。だがどうも定期購読する気になれなかったりする(もちろんしているのもある)。

なんか息苦しくなってくるのだ。作家同士のしのぎあいにアテられるのかもしれない(なんという弱い精神……)。
それに、後から思い返して「もしかしてあれは面白かったのでは?」という作品は、多くの場合、雑誌内においてのインパクトに欠けていたことがわかってきた。
読者は意識するしないに関わらず、雑誌内で相対評価を行っているということなんだろう。
もちろん、「だから雑誌を読まない」というわけではない。ただ、なんとなーく。

だから、レビューするなら雑誌の方がいいかな、とも思うし、古本屋で気まぐれにチョイスしてきたものをポツポツとレビューしてそれほどニーズがあるとも思えないのだが、する。
個人的に、3年程度で古くなるなら、別に情報としていらないからだ。

マンガにおける60年代後半、世の中全体における70年代中盤のように、大きなパラダイム変換はここ10年くらいで起きていないと推察する。
だったら、作品的には10年前のものでもいっこうに構わないはずだ。

……コーラのオマケについてるファイナルファンタジーのフィギュア、とくに好きなわけでもないので(だいいちやったことないし)いらないんですけど……。
それほどのメジャー性を獲得しているとは。おいてきぼりか、私。

4月20日(木)

休みなので国会図書館へ行く。雑誌関係なら国会図書館だ。電車で簡単に行ける距離に住んでいることに幸福を感じる。
連載マンガの単行本は、通常、後になるほど発行部数が少ないと言われ、実際「北斗の拳」すら、最終巻近くを探すのはむずかしい。それどころか、「最終巻は売れにくい」という理由で「刊行しない」場合すらある。中途半端でページが揃わないということもあるのかもしれないが、とりあえず月刊チャンピオンとコミックボンボンには何とかしてほしいと思いました。

4月19日(水)

早稲田のマンガ図書館に行く。続刊があったのでなんとか最後まで読むことができた。都内か近県に住んでいるならば、ここ「マンガ図書館」で手に入りにくい本を読むことをオススメする。「どうしても手元に置いておきたい」というのでなければね。
そういう本は、探し求めていると自分の中で伝説化してしまう可能性もある。内容も知らないものをありがたがるよりは、サクッと読んでしまった方が精神衛生上よろしい。

なお、マンガ読みほどかえってマンガ喫茶には行かないかもしれないが、おそらく開店の際、どこからか一括購入してくるためか、かなりな入手不可能作品がアッサリ置いてあったりもするので、要注意である。

4月18日(火)

同人誌「ぶっとびマンガ大作戦」の原稿を書こうとしていたら、レビューしようとしていた作品に続きがあることが発覚。「まさかないだろう」と思っていたのでガックリした。インターネットで検索すればすぐわかったはず。こういう思いこみはコワイ。85〜86年以前のものになると格段に手に入りにくくなるので、続刊も入手困難な模様。選ぶんじゃなかった。

仕方ないので気晴らしもかねて原稿のコピーをしにコンビニへ。「ダイエットペプシ」を買うために少し遠くまで行った(近くの店で売っていなかった。「ダイエット」でない方のペプシが、またヘンなキャンペーンをやらかしているらしく、そちらの入荷数を増やしたため)。

そこで見事にダイエットペプシをゲット、ついでに雑誌「ビクトリー麻雀」「パチンカーワールド」もゲットした。麻雀もパチンコもやらないが、ときどき目を通しておきたい欲望にかられるのだ。それがホビーを題材にするがゆえに。

1件で用事が済んでラッキー。こんなラッキーくらいなけりゃ、やってらんないです。

4月15日(土)

雨がソボ降る中、力学(ちから・まなぶ)とまた会った。
だって他に友達がいないから……友達イナイナマンだから。

池袋で、大学の新歓コンパのために集まっている連中をねばい視線で見ながら、歩いていく。

私「また芝居やってるヤツが飲み屋にいたらイヤだな。もしいたら、おれたちも対抗して芝居の話しようぜ。」
「『芝居』の語源とは何か!? とか。そうだ、『しばい』ってのは『しばいぬ』の『ぬ』をとったものだ、ってのはどうだ?」
力学(ちから・まなぶ)「ああ、かつては柴犬を人形浄瑠璃みたいに人間の黒子が動かしてやっていて、それがめんどくさくなった人間が始めてから『芝居』になったとか」
私「それは近世に入ってから芝居が成立したという考え方だよな。おれはちょっと違う。むかし、神は人間にも柴犬にも同等の知性を与えていた。そして芝居は人間ではなく、柴犬のものだった。だがプロメテウスが命をかけて火を持ち帰り、それ以来芝居は人間のものとなった。」
力学(ちから・まなぶ)「……その神話、間違ってません?」
私「間違ってるも何も、おれが考えたことだから。これがプロメテウスの伝説。」
力学(ちから・まなぶ)「イヤ、火を持ち帰ったのってプロメテウスでしたっけ?」
私「きみ、シューシポスかなんかと勘違いしてない?」
力学(ちから・まなぶ)「シューシポスっての、知りません。」
……などと実に双方頭の悪い会話を繰り広げた。

その後も、「西遊記ってあらためて考えるとスゴイよなー」などと、2人ともきちんと西遊記を読んだこともないのに少し盛り上がった。
この前は「あらためて考えると、ピンクレディーの歌詞ってスゴイよなー」などと、ピンクレディーのCD1枚も持っていないのに盛り上がった。

こうした話をしている間中、飲み屋では今流行りの曲がずっとかかっていて、おかげでモーニング娘関係の曲をフルで聴くことができた。やはりシロート目にも「青いスポーツカーの男(だっけか?)」はやり過ぎだったのではないかと思うが、どうか。

それと、「あなたのキスを数えましょう」は「あなキス」と略すらしい。小柳ゆき本人がテレビでそう言っていたので間違いない。
ちなみにルーズソックスは「ルーソ」、ハイソックスは「ハイソ」、オーバーニーソックスは「ニーソ」と略すらしい。
しかし裸エプロンを「はだエプ」とか「だかエプ」とか略すのはどうかと思うよ。
……っていうか、「裸エプロン」っていう単語が成立していること自体がスゴイ。
っていうより亡国。ウフ。

4月14日(金)

HPでは、あまり具体的なモノ・コト・人に対して批判的なことは書かない滑川ニュッピー。なぜなら、ファンの人が不愉快になるだろうし、インターネットはある意味「不愉快増幅装置」なので、わざわざ私がそれに一役買わんでもいいでしょう、ということです。
(といいつつ、映画とかけっこうメチャクチャ書いてるよな私)

ただし、レビュー等にゲタを履かせることはしない。つまらないものに対しては感想を書かない。おもしろいものはほめる。そんだけ。それでなくても、書きようで「誤解されるかなー?」なんて思うときがあるのだ。

……などと前置きをした上で書くのは、
「まんがライフオリジナル」5月号(竹書房)の、「第6回竹書房漫画新人賞発表」の、や●み●るの審査員コメント。
どうだ! 伏せ字で検索しても出てきまい! 伏せ字バンザイ! おやじバンザイ……は山根あおおに? あかおに?(また半可通なコメントを……)

こうした賞のコメントは、コメンテーター自身の創作論を吐露していることになる。 以前小説「バトル・ロワイアル」に対する審査員の選評が話題になり、否定的だったのにかえって宣伝になってしまったことがある。正直なのはいいけどあんまり無防備なのはどうかと思う。

この「竹書房……」では他に、秋月りす、いがらしみきお、植田まさし、臼井儀人、田中しょう、田島みるく、堀田かつひこ、森下裕美、山科けいすけ(敬称略)が4本の受賞作品に対しコメントを書いている。
同じ作品に対しても酷評あり絶賛ありで、それぞれの創作論をかいま見るような気がして、数行のコメントでも非常に興味深いことになっている。しかし、や●み●るだけが違う。彼の4作品へのコメントを抜粋すると、

・同人誌で頑張ってください。年齢相応の価値観を持ちましょう。
・同人誌で頑張ってください。とりあえず、いったん漫画との縁を絶ち、読書などでお勉強しましょう。
・同人誌で頑張ってください。とりあえず、いったん漫画との縁を絶ち、読書などでお勉強しましょう。
・同人誌で頑張ってください。とりあえず、いったん漫画との縁を絶ち、読書などでお勉強しましょう。

……というふうにほとんど同じである。
な、なんというナニサマ風(かぜ)!(笑)
確かに複数のコメンテーターがいた場合には、辛口の人がいた方が盛り上がるし、だれかが言わなければならんことを言う役の人は必要だろう。
だけど、それはアンタじゃないだろ(笑)。
「同人誌で頑張ってください。とりあえず、いったん漫画との縁を絶ち、読書などでお勉強しましょう」は、日本語にもなっていない。「同人誌で頑張りつつ、漫画との縁を絶つ」とは? 小説を書けという意味でちゅかあ?

では、似たようなコメントを載せるということでの、賞全体に対する何かの意志表示なのだろうか。「もっと自分にコメントさせろ」とか。

いや、さすがギャグマンガ家、こういうところでもウケを取ろうとしたのか。……でも面白くないよな。

だいたい、真摯にコメントしている他のマンガ家に対して失礼じゃないのかな? これで金もらえんならだれだって審査員できるじゃん。はらたいらさんに3000点。

や●み●るのマンガを、意識して読んだことはないが、やたらと目にしているような気はする。つまり売れっ子だ。しかし不可解なマンガ家ではある。
野球ネタについてはまったくわからないので、社会風刺的なモノを思い返して見ても、どこをどう風刺しているのか思い出せない。
覚えているのは、テレビで「1コママンガを描いてコメントを」というコーナーで、ワールドカップのツアー参加者にもチケットが回らない事件を取り上げ、彼がヤリ玉にあげたのがツアー会社だったということくらいか。
(まあキチンとできなかったのは会社が悪いんだろうけど、なんか「風刺」って感じじゃないよな。)

コメンテーターとしてもテレビに出ているのをよく見かけるが、そのコメントもよく思い出せないものが多い。ビートたけしのおにいさん以上に思い出せない。しかしどこかいつも満足気。つまり不可解。

同じ日本の同じ社会に住んでいる場合、よほどのことでもないかぎり、「教養」は共通している。……というか、共通してこその「教養」。
そのうえで、もんのすごい知識のある人はその土台というか、一般人がどういう考えをしているかをふまえたうえで自身の見解を出す。まったくのオリジナルな考えでは、理解されないので。
そのうえで、「その考えには同意できない」とか「同意できる」とかみんな思うのであって。
しかし、それが個性というでなし、コメント自体が印象に残らなかったりわけがわからなかったりするというのは、そりゃアンタ、何かが過剰なのではなく欠落しているからであって、本を読まなければならないのはや●み●るの方ではないのか?

なぜか「マンガの描けるコメンテーター」をテレビ界は常に欲しているらしい。以前ははらたいらとか福池泡介とか、そういう人がいたが、その席を現在や●み●るが占めているということなのだ。
しかし、本当にそれでいいのか? だれかもっと本来その席に座っていそうな人がいるのではないか!? と考えたときに、いた。

それは岩谷テンホーだ!
岩谷テンホーの方が、テレビ視聴者的には有名に決まっている。だいいちわかりやすい。あの執拗なまでに「娘の下着を盗もうとするスケベオヤジ」とか、「実はコーフンしていた」、「実は勃起していた」というオチを描き続ける人が他にいただろうか?

しかし岩谷テンホーには重要な問題点があった。以前、テレビに出ていたのだが、けっこうマジメそうな人なのである。緊張していたのか、とくに本人が面白いということはなかった。それにテレビ出演に対する色気もないようだ。

本来なら、巷の事件(どうせセクハラだの淫行だのそんなのが多いし)をおもしろおかしく絵解きして見せる最適人物なのではないか!? 

そう思ったとき、「岩谷テンホーがいるのに……」というつぶやきが、テレビを見るたびに私の口から漏れていくのであった。

あ、それと。
や●み●るのコメントに対し、もしかしたらこの人は思いっきり大雑把に言って、嫌味ったらしい(必ずしも悪い意味ではない)保守派知識人の位置を狙っているのかとも勘ぐってみたが、こういうヤツはさらに嫌味ったらしい保守派知識人に一度潰されないとイカンと思うね。でもみんな相手にしないんだよな〜。

4月13日(木)

「おはスタ」は、マジでおもしろい番組に変貌した。
4月に入り改編された「おはスタ」。何やら妙なタイアップが入りすぎ、消化しきれなかった印象があった今までと比べると、格段に面白くなってきていると感じる。
以前に書いた「中途半端性」が、中途半端を越えて本当に開花しそうな感じだ。

あ、「越える」と書くと中途半端の方が下みたいじゃん。「中途半端とは別の次元に変化して」と訂正。

私は、個人的には「つくりこんだキャラクター」が出てきておもしろおかしいことをやる番組というのが大好き だ。今回の改編で、今までの試行錯誤? の中からさまざまなキャラクターが生まれ、それらがレギュラーで出ているため、安定感を感じる。
……などと何を小難しそうに書いてんでしょうか私は。まあそんな感じ。

4月11日(月)

松本伊代擁護論に反響が!
4月1日の日記に書いた「松本伊代擁護論」に、いくつか反響がありました!
……で、「松本伊代擁護論」がらみの雑談のうちのひとつが、あまりにも伊代テイストな話だったので、紹介します(以下は直接見たわけではないので、私の脚色も若干入ってます。)

〜はじまり〜

テレビで、アイドル同窓会みたいな番組があったらしい。出演者は薬丸、早見優、三田寛子、松本伊代。みんなで飯を食いながらダベるような感じか???

終了間際、薬丸がまとめに入り、「いやー、今日は楽しかったですね。また今度別のメンバーを集めてやりたいですね。」と発言。それを受けて誰かが「尾形大作くんとか新田純一くんとか」と言ったら、確か早見優が「明菜ちゃんとかも」と発言。

すると伊代の顔はみるみるうちに「いじわる顔」に変貌し、「えー、まじで!それってあり?」という表情をした。明らかにその場のメンバーならわかるだろ!? という雰囲気で。伊代特有の「含みのある笑顔」でした。

そこですかさず早見が、「明菜ちゃんは三田寛子ちゃんとかとよくしゃべってたよねー。」と振った。
すると三田はほんの一瞬戸惑いを見せたが、「ファンデーションをかりたら白すぎて浮いてしまった」とまとめてみせた。

〜おわり〜

〜新田の感想〜
おそらく、早見優特有の気配りで「明菜も」と言ったのであろう。あるいは「他のみんなは嫌ってるけど、私はそうでもないから……」みたいなカンジか。そういうことってたまにあるもんな。
そこで松本伊代が表情だけで「語った」というのもイイ。真実などどうでもイイ。こういう「間」をゲットできたと感じたとき、人間は嬉しくないはずがないのだ。
しかも、伊代の頭の中には「私は本音で語るアイドル」というスタンスも、「イニシャルトークで当たり障りのない話をバクロするようなタレント」というようなスタンスもなかったはずだ。ニュートラルな「いじわる顔」だったに違いない。
よくわかんねーけど、松本伊代って「成り上がりたい!!」っていう感じがあんまりない。それを言うなら、82年にデビューしたここらのアイドル群にはそういう感じがない。そりゃ陰でどんな努力をしているのかは知らんが。
それが、後続の物欲しげな「不思議ちゃん」や、「投げやりな感じ系」で言えば飯島愛などと松本伊代を分ける何かなのであろう。

それと、松本伊代にはアイドルや女優にありがちな「神秘性」がまったくない。
「歌を歌っていると天使が降りてくる瞬間があるんです」などとはぜったいに言いそうにない。斉藤由貴吉川ひなのは言うかもしれない。だが松本伊代はぜったいに言わない。もちろん、それはアンチでも何でもない。ただ「そんなこと考えたこともない」のだ。本当に。
また、松本伊代は独特の鼻声をものまねされることはあるが、「芸になるくらいちゃんとしたものまね」をされたことも、ただの一度もないのではないかと思う。
同世代アイドルで言えば、ものまねのしようがない(そりゃだれかがどっかでムリヤリやってるかもしれないが)早見優や、タモリがやったのしか覚えがない三田寛子、山田邦子が完成度を追求した中森明菜などに比べると、その中途半端さはたいしたものだ。
なんか、むかし中学生が「よみすて〜らぁれるう〜(ここで声をひっくり返す) 雑誌の〜よおおにぃ〜(またここで声をひっくり返す)」などと学校帰りに悪ふざけでギャハギャハ笑いながらまねるか、「伊代はまだ〜○○だから〜」とカラオケで自分のトシを入れて歌うサムいシチュエーション、それくらいしか思い浮かばないのだ。
伊代ちゃん、「かなり高い位置からスタートしたわりには、本人も状況も無造作」という立場。いわばとてもイイ位置にいたのだなと再認識させてくれる。

それにしてもこの「アイドル同窓会」の話、三田寛子の立場も深いモノがある。
早見優が投げ、伊代が拒否したボールを受け取ってまとめたのだから。

三田寛子、「不思議ちゃん」的立場としては今となっては陰が薄く、いわば「サンタフェ」が出る前のフンドシヌードのような立場、……なんか違うな、ウルトラマンで言えば「ゾフィー」のような立場で芸能史的位置づけがなされていると思うが(結婚後は第2章ということでまた別の話)、西村知美ともちょっと違うような気もするし、覚えてますか? デビュー曲が井上陽水作曲だということを。タイトルは「駈けて来た処女(おとめ)」である。村下孝蔵の歌も歌っていたのである。

どちらにしろ、三田寛子にも「成り上がり的」な感じは、少なくとも私にはしなかった。そしてそれがアイドルというものだったのだが。

……などと感慨深く終わる(感慨深いか?)。

4月8日(土)

最悪気分さらに悪化。定期的に訪れる。原因もはっきりしてる。でもその原因がどうにもならないんだからどうにもならない。ハイサワーのサワーだけ飲んで寝るしかない。

4月7日(金)

ちょっと最悪気分。しかしお楽しみは「やじうまワイド」

「藤原紀香が自分がモデルの人形を出した」という話題で、アナウンサーの津島亜由子
「(紀香とつきあっているというウワサの)加藤雅也さんも、ぜったいこの人形持っていると思うんですよねー、それで着せ替えとかしていると思うんです」と言う。
すると隣の背の高い男のアナウンサー(名前忘れた)が、
「そんなわけないでしょ。じゃああなたの彼氏が、「あゆちゃん人形」っていうのを持ってて、『さああゆちゃん、お風呂に入りましょうね』とかやってたら、あなたどう思います?」と言ってきたので、津島亜由子は、「うう〜」という顔になって、
「ぜったいヤですう〜」と言っていた。転向に要した時間、わずか数秒。

某氏と会う。彼もナイロン100℃「絶望居士のためのコント」を見たそうだが、イマイチだったらしい。

要は全体的に「高踏的」だと受け取ったらしい。私がいちばんベタで面白くなかったなー、というコントを押していたりと、なかなか人の意見というのは人それぞれであります。

個人的な意見としては、ベタというか「オースティン・パワーズ」みたいなのは大好きだけど、ことナイロンの芝居を見に行くときにはそういうタグイのスラップスティックを求めているわけではないので。
某さんは、「モンティパイソン」も「欽ちゃん」も肯定するクチだけど、それはまったく構わないけど、笑いの質が違うのはあきらか、さらにどちらかがどちらかっぽくないからと不満を漏らすのもまたなんか違う気がする(某さんはそんなことは言っていないが、ただ場当たり的に「面白い」「面白くない」を言っていてはハナシが盛り上がらない)。

ちなみに、WAIWAIスタジオとしては、吉田等はモンティもキートンも欽ちゃんもみんな好きみたい。何より、ナインティナインがなんかに挑戦、とか、そういうのが好きらしい。

力学(ちから・まなぶ)は、よくわかんないけど「小劇場的な笑い」、「小劇場的なコント」自体、キライらしい。

新田五郎は、とにかく「タレントが何かに挑戦」とか「タレントが勝負して負けたら番組降りる」とかそういうのがキライ。すごくキライかも。
この間の「橋本VS小川」も、「負けたら引退」というふうに一気に演出が試合を矮小化していたように思った。
……といっても、「タレントが何かに挑戦する」ということそのことに、みんな「日常のくだらねえことをどう乗り切っていくか」の参考にしているのではないかということも思うので全否定はできませんが。

やっぱゴングショーが好きだね。あと変な扮装、面白い顔、奇妙なポーズ、にぎやかしアイドル。あ、それって「夕焼けニャンニャン」か。

4月6日(木)

やはり、家の前の工事がうるさい。何度も何度も、「そんなこと気にしない気にしない」、「おれより不幸な人間はたくさんいる」、「考えるんじゃない、感じるんだ!」などと思い直すが、どうもいけない。本当にマジでブチきれそう。

全然関係ない話だが、以前、「ズビーム」とかいう小劇団系のコントグループに対し、ビートたけしが「そんなこと続けてたらネタがアッという間に尽きるぞ」と言っていたそうだ。しかしこれは「小劇団的なコントがダメ」という意味ではなく、テレビではネタのみで勝負していたら簡単に消耗してしまうという意味である。

4月3日(月)

もともと、既存のマンガ作品を紹介するときに絵柄を言葉で説明できないことにいらだちを感じて購入したスキャナだったけど、買ったら絵を描いてみたくなるのが人情というもの。
で、フォトショップを少しいじったんだがサッパリわからず、だんだん腹が立ってきて「やけくそ画廊」を、本当に設置。
なんか機械に使われているような気がしてイヤになってきたわけだが、以前にMTRやDTPソフトを購入したときも、思うようにいかなくてヤケになってメチャクチャな、頭のヘンな人がつくったような雑音テープを1本つくってやめてしまったことがある。
今回もまったくそのパターンになりそうで、恐いです。

(関係ないが、自分でデタラメな音楽をつくろうとすると、ちょっと聴いただけではノイズでしかないように思える暴力温泉芸者やダムダムTVが、いかに計算しているかがわかることはわかります。)

本当は、もう塗りがテカテカで目や胸が不自然にでっかいアニメ絵美少女を描いてみたいんだけどなあ(マジで)。その上で、「CGってのはよお」などと苦言を呈してみたい。ああしてみたい。

いや、でも本当にああいう塗りは一度勉強したい。マジで。

4月1日(土)

力学(ちから・まなぶ)と会う。
なんか、会社のパソコンでこのHP見たらしい。
もう力学(ちから・まなぶ)についていいかげんなこと書けない。
高松しげおの息子だとかマリリン・モンローの死の真相を知っているとか。
あーあ。

最近のトピックス:
・何が「モーニング日記」だ!
以前、この日記を「モーニング日記」というタイトルにしたらどうか、などと書いたが、後からあまりにつまらないので自分がイヤになった。本家は「赤色なんとか」、「黄色なんとか」などとザンシンな名前を付けているというのに……。
おれってサイテーである。しかも昔、明石家さんまが使っていた意味での「サイテー」。

・「桃の天然水」
「桃の天然水」の新しいCM(3人の水着の女の子が実にバカっぽい踊りをする)は、バカっぽいがゆえにたいへんにすばらしい。真ん中はたぶん吉井怜か? 吉井怜はたいへんにすばらしい。

・松本伊代擁護論
「いいとも」の「秘密のつながりデラックス」において、「北の国から」と「大都会」で「あ〜あ〜つながり」ってのをやっていた(歌の出だしが「あ〜あ〜」って言うってこと)。そこでゲスト解答者の松本伊代は「テレビの国からキラキラ?(自分の持ち歌)」と解答していた。「北の国から」に語感が似てるってことで。司会の東野は「そんな歌はだれも知りません!」と冷酷なツッコミをしたが、すかさず松村が立ち上がって「ぼくレコード持ってましたよ〜」という元アイドルファン的ナイスフォロー。確か同い年の東野&松村、高校時代にアイドルに興味あったかなかったか、なんとなくわかるような気がする。
それにしても、松本伊代の「天然ボケ」とも形容しがたい一種独特の「感じ」をヒトに説明してもなかなかわかってもらえない。ここに着目して文章化したのはナンシー関のみだと記憶しているが、天然ボケ、もしくは天然ボケ志願者とは別に、松本伊代のナチュラルないいかげんっぷりは芸能史&アイドル史に記しておかなければならない重要事項である。

「伊代ちゃん、本を出すんですって?」という質問に「まだ読んでません」と言ったのは有名な話だが、それ以外にも、とんねるずの番組でかなりダメ系の伊代ファンを集めたときに、「この人たちはこういうヒトなんです」とにこやかに言ったりとか(これがマニア批判とかファンを小馬鹿にした感じではなく、なんか発言自体が心の入ってないいいかげんなものだった)、私の知り合いが結婚前に中華料理屋でヒロミと一緒にいるところを目撃したりとか(その無防備さは何だ?)、たいへんにスバラシイことになっているのである。

現在、かつてのアイドル群は、同世代に訴えかけるキャラづくりに必死になっており、それは堀ちえみや榊原郁恵、森尾由美、田中律子のように「主婦イメージ」だったり、武田久美子や青田典子や麻生祐未のように「セクシー現役バリバリ」だったりするわけだが、松本伊代にはますますいいかげんの道をいいかげんに歩んでいってほしいもんだ(その意味からすれば、グラタンのCMソングなんか歌ってる場合じゃない)。

それにしても武田久美子はノーフューチャーだ。1年後すら想像がつかんぞ。好きだけど。



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