遠藤浩輝作品集1遠藤浩輝短編集1

遠藤浩輝

講談社

 「カラスと少女とヤクザ」「きっとかわいい女の子だから」「神様なんて信じていない僕らのために」の3作品が収録されている。「アフタヌーン」に96年、97年と掲載されたもの。

 全体を通して読んで気づかされるのは、画面の作り方が極めて映画的である、ということである。例えば猛禽が小鳥を捕まえる一瞬。例えばカラスがヤクザを襲う一瞬。例えば盲目の歌うたいが遠くに目をやる一瞬。それらはどれも、それまで動いていた画面の最も重要なワンフレームを切り出したかのように描かれている。映画のフィルムのワンフレームは、前のフレーム、後のフレーム、そしてカット、シーン全体と関連を持っているが、遠藤の描く一コマも、前後の動きを我々の内部に喚び起こす。そして描かれているのは、カットのなかの最高の一瞬。映画における「最高の一瞬」が切り出されているのであり−−映画のそれと同様の衝撃を我々に与える。洗練され、効果を強められた表現を、遠藤は(素晴らしい/恐ろしいことに)身につけているのだ。この自覚的で、かつさまざまな要素と連携を持った、含蓄深い画面の表現の方法に、まずは感心させられる。

 そしてその表現は、遠藤が描かんとしているもの−−それは「取り残された想い」であったり、「生きてゆくこと」であったりするのだが−−にぴたりと符合し、それを非常に強める役割を担っている。3作品に共通していえるのだが、恐ろしいくらいに絵と内容のバランスが保たれているのだ表現内容と表現手段の合一。内容は、それ自身の鋭さを達者な絵によって強められ、読み手の心を深く揺り動かす。

 特に心動かされるのは、遠藤が常に示す、「生きること」への肯定である。しりあがり寿が「メメント・モリ」と囁くことで間接的に示す肯定とも、西原理恵子がえげつなく示す肯定とも、永野のりこが屈折者の救済を通じて示す肯定とも、ベクトルや表現様式こそ異なっているが、願うところに変わりはない。生きてゆくことはつらいこと。生きてゆくことは苦しいこと。ひとりひとりに価値はないのかもしれないし、みんな罪を抱えて生きてゆくのかもしれない。しかし、楽しみも、幸せも、よいと感じることも、素晴らしいと感じることも、生のなかにしかない。それも、自分だけの生でなく、他人との生のなかに。この姿勢は、この作品集でも、そして「EDEN」でも、微動だにせず貫かれている。私はこの姿勢にめまいすら感じる。それは直球勝負であるというせいもあるが、苦闘の末に勝ち取られた、地に足のついたものであり、きわめて自信に満ちた、力のあるものであるために。

 「カラスと少女とヤクザ」は、この姿勢に「疎外された辛さ」からの解放という要素が加わり、複合的な感動がある。そして、「神様なんて信じていない僕らのために」においては、劇中劇と同時進行する登場人物たちの心の動き、という構成の妙が、この姿勢に加わっている。どちらも身の震えるような大傑作である。また、「きっとかわいい女の子だから」は、こうした姿勢とは多少距離を置くものの、心理劇として非常に高い完成度を持っている。ハズレは、ない。読まないと後悔することが必至の大傑作単行本。かの「Sprit of Wonder」と似たような位置づけの、隠れた/永遠の/手に入らない名作になることが容易に想像できるので、見かけたら速攻で手に入れることをお勧めする。

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逆の例としては「りっちゃんのくちびる」を参照。