つれづれなるマンガ感想文7月後半その2

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一気に下まで行きたい



【書籍】・「からくり民主主義」 高橋秀実(2002、草思社)
【映画】・「スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃」
・「中野新橋任侠交番 総集版」 土光てつみ(2002、日本文芸社)
・「ピューと吹く! ジャガー」(2) うすた京介(2002、集英社)
・「ピューと吹く! ジャガー」(3) うすた京介(2002、集英社)

【映画】・「博打打ち・総長賭博」監督/山下耕作、脚本/笠原和夫(1968、東映京都)
【雑誌】・「CONTINUE(コンティニュー)」 Vol.5(2002、太田出版)
【書籍】・「バーチャルネットアイドルちゆ12歳」 ちゆ12歳(2002、ぶんか社)
【書籍】・「テキストサイト大全」 釜本雪生+くぼうちのぶゆき/編著(2002、ソフトマジック)






【書籍】・「からくり民主主義」 高橋秀実(2002、草思社) [amazon]

沖縄米軍基地、若狭湾原発銀座、諫早湾干拓、上九一色村などを実際に訪れ、取材したノンフィクション。「『国民の声』ってのは、いったい誰の声だ?」がオビの惹句。
要するに、テレビや新聞などを見て漠然と考える、なんというか「社会問題」に対して、いったい何が問題なのか、だれが悪いのか、を探っていく。そうすると「みんなが言っているから」とか「国民は怒っている」とか、そういう「みんな」とか「国民」というものの実体が何なのか、あるのかないのか、そんなようなことが見えてくる本。

端的に言って、すごく面白かった。私は仕事中、テレビをつけっぱにしていることが多いのだが、親がニュースが好きでよく見る。あと報道番組とか。だけど私はすごくそういうのがきらいで、まあいちおうざっと目は通すが、1日に何回も同じニュースが流されると頭がおかしくなってくるような気がする。
「一生懸命、きちんとした視点でやっているモノもあるんだろう」ということを前提としたうえで書くが、私が見たくもないテレビや新聞を見て感じるのは「視点が固定されている」ということ。たとえば朝日なら朝日、産経なら産経の視点がある。少し前だと全共闘世代的視点というのが非常に多かった。
だが、朝日は朝日だし、産経は産経だというのはわかる。全共闘世代的な悪い意味での固定された視点というものも、ずいぶんはっきりと批判されてきたし、世代交代が進んだのか私の目に触れるところではあまり見られなくなった。

ところが、立場が明確なもの、あるいは(こういう書き方はよくないかもしれないが)青春時代に強烈な刷り込みがなされたことによる固定化した視点、というものがなくても、やっぱり固定されているものはされていた。
あまりテレビの深いところまでは知らないが、おそらく「やじうま新聞」はテレビ自体の取材力が弱かったから始まったものだと思うし、ちょっと前までは……「読売新聞ニュース」なんて今あんのかな? なんか新聞記者みたいな、どう見てもキャスターじゃない人が新聞のニュースを読んでいた。

で、「ニュースステーション」だの何だのが出てきて、現在報道番組、あるいは報道っぽい番組というのはけっこう多いが、……まあ自分の頭が悪いのを告白するようだがどれを見てもサッパリわからない。
最初に物語があって、それに事実をあてはめているのは、手法的には昔っから変わらない。裏を読もう読もうとするのだが、どうしてもわからないんだよ! だから見ててもぜんぜん面白くない。どうせ善悪の基準は決まっているからね。結論も決まっている。そりゃ微妙な変化はあるが、なんかもう手に負えないというか、見てて疲れてくる。

で本書なんだけど、そういう「ある基準で切り捨てていく」情報を丹念に拾っていって、けっきょく結論が出ないことが一種の結論となっている場合が多い。そこがすごくいい。「実は……」という地元の人の話を取材して行くんだけど、それが「実は……こういう裏でした」というのではなく、そこの人にとっては「表」。
でも対外的な言い分、建前というのとも違うが……なんかそういうのがあって、それはそれで「表」だったりする。要するに筆者の視点では「善悪」、「裏表」、「真実と虚偽」というのがあるのではなく、事実がプラモデルのようにガッチリ組み合っている。それは一種の「完成品」であって、どれを削ったからよくなるとか、何かを加えたからよくなるというものではない。
だけれども、それでいいってもんでもないだろう、みたいなモヤモヤ感が残る。そんな感じ。
その結果、不思議なユーモアが漂う。ブラックにしようとか皮肉ろうとかじゃなくて、「なんか困ったなあ」みたいな筆者の当惑が、笑っちゃいけないんだけど笑っちゃうような感覚となって読者に伝わってくる。視点をそこに凝縮させて笑いを爆発させることも可能だろうし、そういうのもきらいじゃないんですが(たとえば「富士山青木ヶ原樹海探訪」に登場する自殺者の群は、根本敬や村崎百郎だったらもっとドぎつく描いたに違いない)、「どうにもこうにも……」みたいな感触が、逆にリアルだったりする。

深いのは、報道批判ですらないのではないかと思わせるところ。「真実は実際に見てきたらこうでした」というのではない。新聞やテレビ向けの真実というのもまた真実のひとつで、それなりの「役割」を担っているように思える。それすらも「世の中」のひとつのピース。

でも、私はテレビの報道番組とかはやっぱり熱心に見ないとは思う。緊急時以外は。「読売新聞ニュース」とかやってた頃は「だからテレビはダメなんだ」とか言ってればよかったけど、今、普通に面白いもん。テレビの報道番組。でもやっぱりプロレス的に決まってるでしょいろいろと。それがかえってわからなくさせてるというか。

なんかね、本書は「結論の出なさ」がかえって新鮮で痛快なんですよね。「痛快」って言っちゃいけないんだろうけど。だけど、そういう「結論が出ない」ことに爽快感を感じてしまうほど、テレビって都合のいいプロレス的な報道してるから。田原総一郎とか、そういうのぜんぶ知っててやってんのかね。だとしたら恐いね。
あ、あと本書巻末の村上春樹の解説は、意外に的確。意外って言ったら悪いんだろうけど。
(02.0731)



【映画】・「スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃」

さすがに有名すぎて、あらすじを説明する気になれん。どんな映画か知りたい人は、公式ページを見てください。

そして、これから自分語りをします。するんだよ!!「スター・ウォーズ」シリーズは、私にとって遠い遠い存在でした。思えば私が小学5年くらいに日本で公開になったんですが、アメリカで公開されてからなぜか(とにかく「スター・ウォーズ」に関してはマニアじゃないから知らん)半年も遅れていて、その間に「本編を見たこともないのにグッズを集めたりするのが流行」という珍現象が起こり、日本の映画会社は「本物が来る前にパチモンつくっちまえ!!」とばかりに「宇宙からのメッセージ」「惑星大戦争」を撮った。
東映の「宇宙からのメッセージ」を、小学生の私が最初に見たときのガッカリぶりは筆舌に尽くしがたい。今でこそ大笑いしながら楽しめるが、親に映画に連れていってもらえること自体がイベントだったこと、ファンだった石森章太郎が原作だったこと、土井まさる司会の映画宣伝番組をぜんぶ見てしまったことなどから、映画に対する期待が天井知らずとなり、そして見た後のがっかりイリュージョンぶりは自らを責めるほどのものだった(繰り返すが、今は好きです。あと「惑星大戦争」も)。

当時の学年誌に、SFX映画評論家だかシンセサイザー奏者だかのインタビューが載っていて、「今はスター・ウォーズグッズを集めるのに夢中!!」とか描いてあって「このオッサン、いい年こいて……」と思った記憶があるし(確か日本での公開前)、レーア姫をきちんと見る前に「ドラえもん」のなんかのエピソード(映画にもなったがタイトル忘れた)の「アーレ姫」を見た方が先だった。それにしても「アーレ・オッカナ姫」とは実にすばらしいもじりだ。藤子不二雄はやっぱり尊敬に値する。

そして数年が経ち、その間、スター・ウォーズに影響を受けたと容易に想像できるアニメやマンガにイヤというほど遭遇することになる。とくに、プラモデルの部品をゴテゴテにくっつけたような独特のデザインの宇宙船は、SFマンガで山ほど見た。

で、やっとテレビ放送された。コレが「いつ始まるかわからない」というヒドいシロモノで、確か番組枠を3時間くらいとっていて、本編を流す前にタモリが解説をするのだが、その解説が30分とか1時間というキッチリした終わり方をせず、いったいいつ本編が始まるかわからない。わからないから、いらない1時間くらいの中途半端なひととき、視聴者はテレビの前から離れられないことになった。
ビデオが普及する前の、アコギな商売である。

……というわけで、周辺情報ばかりたたき込まれたことですっかりお腹いっぱいになってしまい、いざ見たときもほとんど感動がなかったことを覚えている。なんか「人が勝手に騒いでる感」が最後までぬぐえないのだ。あとレーア姫がちょっとブサイクすぎた。

それでさらに「エピソード1」がイマイチだったとくれば、何か思い入れを持てという方がおかしな話だ。
しかし、「人が勝手に騒いでる感」の強さは、逆に言えば「スター・ウォーズ」の前三部作の影響力がいかにすごかったか、ということでもある。スター・ウォーズの世界設定やメカデザインなどの斬新さについては、その系譜については勉強不足なため私にはたどることができない。が、80年代前半、SFマンガはスター・ウォーズ一色に染まった。

さて、それだけの足跡を残したシリーズだが、では「エピソード1」からこれからつくられる(んでしょ?)「エピソード3」まで、要するにダース・ベイダー誕生までを映画化するべきだったのかどうかということになると、はなはだ疑問が残る。
最初に書いておくと、「エピソード2」は「1」に比べるとかなりデキがいい。退屈はしないという意味で。SFXはすごいことになっている。前三部作とのつじつま合わせにニヤリとするところもあるだろうし、陳腐な(としか言いようがないだろう、あれ)アナキンとアミダラの恋愛ストーリーにツッコミを入れるのもいいだろう。

しかし、「見たこともないものを見せてくれる」という感覚は、個人的にほとんどなかった。前三部作より時間的には前なのだから、作品内のテクノロジーは遅れているわけだし、作品世界のさまざまな設定そのものが、影響を与えた他の、別人のつくった作品で使い回されすぎている。
ヨーダとクリストファー・リーのフォース老人対決が終盤の見せ場で、なかなかに燃えるものがあるのだが、どこかで見た感じは否めない。どうしてか、と思ったら「ドラゴンボール」に似たようなシーンがあったような気がしてしょうがないのだ。
鳥山明は「帝国の逆襲」の前売り券を十数枚買って、いつでも気軽に見に行けるようにして何回も映画館に足を運んだという。「ドラゴンボール」にスター・ウォーズの影響があるのは否定できないし、ルーカスがドラゴンボールのことなど何も知らなくても、似てしまって当然。この点、大きくなりすぎてしまった作品の大変さを考えずにはいられない。

アナキンとアミダラの恋愛話も、あまりのとってつけぶりにあっけにとられる。ルーカスの映画、そんなに何本もまじめに見ていないのだが、スピルバーグに比べると暗喩としてもダークな部分がなさすぎる。
スピルバーグの「A.I」は実にいびつで気持ちの悪い映画だったが、マザコン近親相姦的なドロドロした感情をしれっと「悲劇」として描いてしまうあたり、まだ人間味が感じられた。
しかしアナキンとアミダラの間には、そうした感じがまったくない。ガキの頃に「きれいなおねーさん」だと思っていた女が、10年経ってもまだきれいで、そして自分を大人と認めてくれて恋愛関係になったら、男にしてみれば同級生とつき合うことの数倍はエロスを感じていておかしくない。
が、ここでのアナキンはアミダラに対して同級生のように振る舞う。階級差、立場の差は気にしても、年の差はあまり気にしないようだった。

「結末が決まっている」のもやはり苦しい。登場人物たちは歴史のシナリオどおり動いているだけ、というように思えてしまうから。むしろ大胆に裏切ってもいいような気もするが(たとえば「太陽の牙ダグラム」の第1回と最終回のように。たとえが古くてスマン)、たぶんないんだろうなあ。

まあ、いろいろしょうがないんだろう。でもイメージ的にはスター・ウォーズは役割を終えた、とはやっぱり思ってしまう。「ただの娯楽映画」としてうまくまとまる可能性はまだあるにしても。
(02.0729)



・「中野新橋任侠交番 総集版」 土光てつみ(2002、日本文芸社)

たぶん漫画ゴラク連載。B5判、中綴じ。無紋組の組長代理・錨芯之介は、敵対する組にカチコミに行って逮捕され、無期懲役の刑を受ける。組長もつかまって組は壊滅の危機に立たされるが、たびかさなる警察の不祥事に業を煮やした警視総監は、芯之介を出所させ子分たちとともに「中野新橋交番」の警官とする。
拳銃は持てないが、超法規的に行動できる。凶悪犯罪を検挙するたびにポイントがもらえ、100点たまれば組長を出所させて組再建ができるという警視総監との約束のもと、芯之介は今日も管轄などおかまいなしに悪人狩りにせいを出す。

日本語ってのはむずかしくて、「博打打ち・総長賭博」の感想を書いたときにそれまでの任侠映画を低めて「総長賭博」を高めるというニュアンスになってしまった。けれども、私は「仁義なき戦い」以前の、義理と人情の任侠映画も決してきらいではない。ただまあ何本も続けてみるとさすがに飽きてくるけどね……。個人的にはシリアスなものと後期「不良番長」などのコミカルなものとを組み合わせて映画館で見たいんだけど。いかがなもんでしょうか。

土光てつみの作品は、私の知るかぎりほとんどが「やくざが教師などのカタギの商売に就き、のさばる悪をぶっつぶす」というものばかり。「やくざが教師になった」という設定の作品だけで3本は描いている。
本作も、「悪人を倒すのに悪人を使う」というワイルド7的設定はあくまでも芯之介を暴れ回らせる方便に過ぎず、場所が中野新橋である理由もほとんどない(おそらく中野新橋には交番がないからか、作者が中野新橋に住んでいるかどちらかが理由だろう)。捜査の妙もないし、入り組んだプロットもない。毎回登場する悪役も政治家、医者、坊主と一般庶民が昏い嫉妬と不信を抱きかねない存在ばかり。
しかし、これがスッキリするんだな読んでて。

この悪商人ヤクザがァッ 弱者の女を 痛ぶる事しかできねえてめえに 赤い着物か白い着物を着る性根などあるかと言ってんだァ!!!

毎回、芯之介は以上のような長ぜりふを、悪人に一発のパンチをたたき込む際に見開きで叫ぶ。ちなみに赤い着物=懲役服、白い着物=死に装束、だそうです。
1コマの間にずれた時間軸が存在しても違和感を感じない、これぞマンガの醍醐味。
言ってみれば大味きわまりないのだが、なんだかみんな分別くさくなるか逆に変わり者すぎてシャバからすっとんでいってしまう劇画家の中で、いまだに「ド劇画」を描けるのは、この人くらいだと思ったのでした。
(02.0729)



・「ピューと吹く! ジャガー」(2) うすた京介(2002、集英社) [bk1] [amazon]
・「ピューと吹く! ジャガー」(3) うすた京介(2002、集英社) [bk1] [amazon]

週刊少年ジャンプ連載。1回がだいたい7ページのギャグマンガ。ミュージシャンを目指す少年・きよひこ(ピヨ彦)が、ものすごいたて笛の才能を持つがひたすらにエキセントリックな男・ジャガーさんと知り合い、忍者のハマーやアイドル志望であまのじゃくな女の子・高菜(たかな)などを交えてドタバタする。

新刊で出たときにすぐには買わなかったのは、やはり1巻では「迷走しているのでは?」と思わせる部分があったから。あと、かえすがえすも「マサルさん」は傑作だった。「マサルさん」、「武士沢レシーブ」と続くにしたがい、どうしても主人公のパターンが似通ってしまい、行動の意外性にも予想がつきはじめてしまうという部分もあった。
2巻でも恋愛話を入れてみたり、女の子キャラを登場させてみたりとなんとなく苦労しているように思えたし(してないかもしれないけど)、1本1本のできのバラツキがあることも否めない。

しかし、3巻はかなりスパークしていた!! ジャガーが夏祭りで勝手にデッチ上げたアトラクションの話・第41笛「夏祭りがっかりイリュージョン」は、「ものすごく人をガッカリさせるイベント」のねたふりをひっぱりながら実際に「がっかりしそうなイリュージョン」を描ききった力作だし、忍者・ハマーは3巻全体を通して実にいい味を出している。キャラ的には「マサルさん」のキャシャリンに近いものを感じるが、彼こそが今後の本作の面白さの重要なカギになる、と私は勝手に思っている。
そして個人的に大傑作だと思ったのが、第60笛「ジョン太夫☆ただいま青春中!」とその続編の第61笛「おかえりなさいジョン太夫」
ガリクソンプロの経営者・三太夫セガールの息子・ジョン太夫が音楽学校内に「開運パワー研究科」を新設。そのたたずまい自体に運がなさそうなジョン太夫が、おのれの不運を不運と認めずにひたすらにツッパリとおす。
「『三週間断食開運法』でティーカップセットが当たった」→「そのティーカップセットが割れてしまったのに『割れていない』と延々と強弁する」という展開には腹が痛くなりました。こういうひとつのネタでえんえんと引っ張り回すの、個人的に好きなんですよね。

・1巻の感想

(02.0729)



【映画】・「博打打ち・総長賭博」監督/山下耕作、脚本/笠原和夫(1968、東映京都)

「日記」をやめたため、「マンガつれづれ」に大量のマンガ以外のテキストが流入することとなった。最初のうちこそ「マンガにひっかけて文章を書く」ことを貫き通そうと思ったが、別にだれに命令されているわけじゃなし、古井戸に小石を投げ込んでも何も音がしないほどの空しさである。
だから「マンガに関連した文章を書く」っての、やめるかも。「少年隊」だって少年じゃねーんだし、井川遥さえ年齢を詐称しているこのご時世、「マンガつれづれ」という表題で「マンガつれづれ」でなくてもだれも困らない。

さて、映画の話。最近「中野武蔵野ホール」という映画館で「中野任侠映画入門」というのをやっている。何カ月にもわたって任侠映画を二本立てで流す。任侠映画は、マンガでも「番長もの」などに少なからず影響を与えている(あっ、今回はマンガの話が混ざるじゃん)。少々古い話だが江口寿史が「ひばりくん」一家をやくざの家にしたことや、「桜の花サイタ?」という短編がやくざ映画を下敷きにした筒井康隆っぽいSF作品だったことも70年代末までの任侠映画と無縁な話ではないだろう。
「ワイルド7」にも「オヤブン」っていうキャラがいたし、「あばしり一家」は、ありゃ完全に「網走番外地」から名前をとったんだろうし。
もちろん、現在でも「代紋TAKE2」や「本気」など、任侠もののマンガは人気がある。

しかし「実録路線」と言われた「仁義なき戦い」以前の任侠映画を数本見てみたが、ほとんど同じパターンなのが正直な感想。よく言われる「耐えて耐えて、最後になぐり込み」というパターンである。特撮モノなどにつきまとわざるを得ないチャチさなどはまったくないし、展開も淀みがない、最後にカタルシスがある、と黄金パターンを持っているが、それゆえにたくさん見ているとだんだん区別がつかなくなって、飽きてくる。
ウルトラマンだって毎回怪獣をやっつけるだけだから「似たような展開」と言われればそれまでだが、それでも違いはある。こうした「パターンを遵守しつつ、新鮮味を出すにはどうすればいいか」は、すべての娯楽ものの永遠のテーマだろう。

・「あらすじ」
ところが本作「総長賭博」は、高倉健の「唐獅子牡丹」や藤純子の「緋牡丹博徒」のシリーズとは少し違う。簡単に言えば「仁義なき戦い」(1973)に近い。
金子信雄は、大陸にパイプのある黒幕的な人物と結託し、侠客を大同団結させて愛国結社をつくり、麻薬の密輸などのアコギな商売をしようと目論んでいる。彼の兄弟筋の親分は、昔気質の博徒で愛国団体結成に首を縦に振らない。そんな彼が病に倒れてしまった。
早急に跡目を決めなければならない。人望・実力ナンバーワンの鶴田浩二に白羽の矢が立てられるが、彼は自分の出自が関西の外様であることを理由にこれを固辞する。そして自分の義兄弟で事実上ナンバーツーの若山富三郎を推薦するが、彼はまだ塀の中にいた。
「いつ戻ってくるかわからんものに跡目はつがせられない」と、金子信雄は周到な根回しによって自分のロボットとなりうるナンバースリーの名和宏を跡目候補にすることに成功する。
出所した若山は、名和の跡目相続を「仁義を欠いている」と激怒。どこまでも反対し、刃傷沙汰にまで発展していく。それを必死で止めようとする鶴田。しかし物事は悪い方に悪い方に転がっていく。耐えに耐えてきた鶴田は、最後の最後に大文字の「任侠道」を捨てて金子に立ち向かっていく。

・「感想」
高倉健主演モノなどに比較すると、本編での鶴田浩二のヒーロー性は薄く、むしろつっぱり通す若山、それをハラハラしながら見ている妻の藤純子、任侠道など何とも思っていないマキャベリスト金子、金子のロボットになるまいとおのれを貫こうとする名和といった、群像劇っぽい展開に手に汗を握る。
本作が面白いのは、コトの発端が「鶴田浩二が跡目を継ぐことを固辞したから」という、任侠道を貫いたら何もかもがめちゃくちゃになってしまったという矛盾にある。 コレは脚本の破綻などではむろんなく、作中で鶴田の関西の親分筋にあたる人物から「跡目を固辞したと聞いて、おれの教えをよくわかっていると思った」(大意)というセリフが出てくることからも、単なる「トラブルの発端」としてデッチ上げたものでないことがわかる。

本作は、金子信雄のマキャベリストぶりの描き方が「仁義なき戦い」よりも徹底していないところに味がある。かといって、単なる時代劇に出てくる悪党とも違うのだ。たとえるなら「仁義なき戦い=ガンダム」だとしたら、その前段階、「ザンボット」的な立場にある作品なのかもしれない。
だが「仁義なき戦い」との最大の違いは、基本的には旧来の「耐えて耐えて、最後に爆発」のパターンにのっとっていること。静、静、静ときて最後に動、とくる、そこから生まれるカタルシスは守られている。
これが「仁義なき戦い」になると、「動、動、動、ときて破滅」となるわけである。そして狂言回し的役割の菅原文太が、金子信雄の対立キャラクターとして生き残り、見る者への希望をつなぐ。
「総長賭博」と「仁義なき戦い」、どちらに「希望」があるかはむずかしいところだが(ちなみに、脚本も笠原和夫で同じである)、本作「総長賭博」だけを見るぶんには、旧来の任侠映画と「仁義なき戦い」とをつなぐ存在であるように思える。それだけに、それまでの任侠映画的なカタルシスは忘れていない、ということは言える。
もっとも、「希望などない」、「でも生きる(死ぬ)」という思想が、おそらくすべての任侠映画の底流に流れているんだろうけどね。

よく戦闘シーンが「今までと違っていた」とは「仁義」が指摘される部分だが、本作「総長賭博」においては別の処理(一人と大人数の立ち回りがまったく描かれず結果だけ示されるなど)がされていて、そうした点も洗練されている。

確かに東映任侠映画の頂点のひとつと言われるにふさわしいと、私は思いましたよ。
(02.0726)



【雑誌】・「CONTINUE(コンティニュー)」 Vol.5(2002、太田出版)

ゲーム雑誌。単行本「超クソゲー」から発生したような感じでしょうか? クソゲーを取り扱うというよりも、「超クソゲー」的評価基準から現在のゲーム&過去のゲームを取り扱っていくといった感じで、単行本時代の「映画秘宝」から現在の雑誌の「映画秘宝」になった流れを連想させる雑誌です。

・「永久保存版 アイドルゲーム大全」
今号の特集。こういうくくり方は大好きなので、もう速攻買いましたよ!!(そのわりには私のレビューが遅いかもしれんが)
「アイドルゲームに名作なし」とは、ゲームオタクではない私ですら感覚的にわかりますが、あえてそこに踏み込んでいったところがすばらしい。本書で、おそらく日本初のアイドルゲームはLSI(ゲームウォッチみたいなタイプ)の「松田聖子のパーマサロン」だということもわかったし、それがけっこう面白いらしいこともわかった。
所ジョージが、あの独特のキャラクターデザインでやたらとゲームをつくっていたこともわかったし、PCエンジンが出たときの最初の方のソフトに小川範子とのヴァーチャルデートが楽しめるゲームが出ていたことも思い出した!!
ファミコン「リサの妖精伝説」でアイドルの立花リサが「♪サリナバチ〜タ、サリナバチ〜タ」って歌っていたことも思い出したし、振り付けが隠しコマンドを表していたなんて、「『ファミコン少年団』って現実にあったんだ!!」と思わず叫びそうになるファンタジーです。ないけどね。ファミコン少年団は。

他にも、アイドル・井上麻美を輩出した「ゲーム内で現実の女の子がオーディションを受ける」的な実験的ゲーム「みつばち学園」(PCエンジン)や、私が友達と飲みに行くまでの時間つぶしにやたらとゲーセンでやった「ゆうゆのクイズでGOGO!」、男性アイドルV6を育成する「プロジェクトV6」などのいろんな意味で面白そうなソフトがたくさん紹介されています!!

それと、合間に挟まってるコラム「ゲームスーパースター列伝(吉田豪)」は、ゲームが出たことある芸能人について簡単に評したものなんだけど、けっこう面白い。……っていうか吉田豪だからね。何かとプロレスに結びつけるのは意識的なのか何なのかわからないけど。今後のテレビタレント評に投げかける、新しい何かを感じますね。ちょっと前の椎名基樹とともに。

・「電池以下第6回 秋元康の巻」 吉田豪×掟ポルシェ
「電池以下」っていうのは、要するにテレビゲームじゃないボードゲームとかの珍妙なヤツを探し出してきて、それにちなんだ人を呼んできて対談するという企画モノ。
バブル時代、なんかやたらと企画の凝ったボードゲームとかカードゲームとかが出てたときがあって(今も出てんのかな?)、ビックリハウスの元編集長とかがつくってたんだけど、そういうのかなりつくってんだよね秋元康も。

で、秋元康っていったら、今の若い人どう思うか知らないけど、オレらの世代から言ったら……っていうか私だけかもしれないけど「愛憎相半ばする」存在じゃないですか。「おニャン子クラブ」をつくってさ。芸能界に対する根拠のない夢を振りまきまくってさ。作詞家としても有名だし。
私も一時期「革命のあかつきには銃殺刑を!!」って冗談混じりに書いてたオバタカズユキにニヤリとしてたりしたんですが(イヤな二十代)、この記事読んだら「なんかもう許してもいいんじゃないか?」と思いました。私が許すも何もないんだけどね。

まあ細かく仕事をチェックしたわけじゃないんで知らないんだけど、……っていうかここ10年、どんなことをしてたかもよく知らないんだけど、この人、対談とかインタビューとかを見るかぎり、昔っから大上段にふりかぶったり、逆に「ちょっと気の利いたこと言おうかな」みたいの、あまりないんだよね。
いや、ソレは高城剛や鴻上尚史に比べて、ってコトなんだけど。例がよくないかな。
想像より、わりと普通。それで、面白いのは「わりと普通に見せて、でもキラリとしたところは見せて」っていう抜け目なさはもちろんある。
たとえば掟ポルシェが「どうすれば売れるか?」って聞いたら「これからは年上のアイドルの時代だから、踊りを一生懸命練習して、胸に紫のバラつけて新宿とかでライブやって受けたらマスコミが取材に来るからお金使わなくても宣伝できる」(大意)って言ったりとか。いや、口から出まかせかもしれないけど、いちおうその場では面白いじゃない。

だけどなんか、この人「普通の話をしようと思えばできるんじゃないかなー」みたいな感じがある。なんというか……「業界ノリ」みたいのを最初に商品として打ち出した人だけど、「おれがおれが」っていう空気が意外にないね。あるいは「すべてはシステムで、機械をつくるように企画をつくってます」みたいな、「それがカッコいいんだ」って感じは、意外にしない。まあ、実演者じゃないからということと、「求められるプロデューサー像」をわかってて適当に流してる、って感じですかね。

このヒトを見て(最近「千枚谷」という番組にも出ててちょくちょく見るんだけど)、逆に「ああ、プロデューサーに対するおれのルサンチマンはもうどうでもいいや」と思った。アヤパンが売れようがどうしようがもういいじゃないかと。
……っていうか、世間の人「プロデューサー」恨みすぎ。プロデューサーもさあ、「ぼく世の中ひっかけてます」って顔しすぎ(笑)。いや、それが手なんだろうとは思うけど。なんかねえ、プロデュースってもの自体が最近全能の神みたいに思われ過ぎてんじゃないかと思うんだよね。
でも、秋元康ってもしかして根っ子のところで「プロデュースは職能のひとつにすぎない」って思ってるんじゃないかと、勝手に思えてきた。

梶原一騎の「男の星座」では、あまりに赤裸々に芸能界と暴力団の関係が描いてあるんだけど、梶原一騎のプロデュースに対する感覚って、本人はどれだけ横暴だったか知らないけどやっぱり「こうしていばってるおれの裏にはいろいろメンドウがあるんだよな〜」くらいのことは思ってたし、そういうのを作品で出してたと思う。
だから(「だから」っていきなり飛躍するけど)、必ずしも「プロデュース」って絶対的なものじゃないんだから、まあこちらはこちらで勝手に楽しみましょうよと。
そんな仏心が出たひとときでした(すぐ消えるかもしれないけど)。

・「CONTINUE(コンティニュー)」公式サイト

(02.0725)



【書籍】・「バーチャルネットアイドルちゆ12歳」 ちゆ12歳(2002、ぶんか社) [bk1] [amazon]

言わずと知れたバーチャルネットアイドル・ちゆ12歳の本。過去ログに新作を加えた1冊。
構成は「ガオレンジャー」、「社会事件」、「マンガ」、「アニメ・映像」、「ゲーム・ネット」、「ヤフー・朝日新聞」などに分かれている。

いろんな人のレビューを参考にしようと思って検索かけてもホームページの「ちゆ12歳」への膨大なリンクに埋もれてしまって、よくわからなかった。
「テキストサイト大全」に紹介されているようなテキストサイトの中ではネタの重要度が高い。かといってオタク系ネタサイトのようなデータベース的意味合いは希薄。周到な計算があるのかもしれないが、ネタの探索や蓄積はランダムだ。

本書はネットから出てきた書籍としては珍しいかも。だって、「ちゆ12歳」というサイトを知らずに書店で本書を「初めて見て」買う人って、ほとんどいないんじゃないかと思うから。サイトでのネタの蓄積が面白いから書籍として独立させましょう、というのとは違う。そういう意味ではインターネットという「場」から生まれた、「場」を頼りにした本だと思う。
それは悪い意味ではない。言うのもヤボだが、本作の著者は「オタク」である。で、オタクのネット活動というのはたいてい他のメディアと連動したものがほとんどだった。プロの作家だったりマンガ家だったり、コミケで活動していたり。そういうマルチメディア(死語?)な活動そのものがオタクの特性とされていたのだけれど。

私の知るかぎり、「ちゆ」って不意に現れた。それまでは他のメディアにまったく登場していないことを前提に書くが、コミケとかイラストや小説などの自分の「作品」との連動を強く押し出したわけではない状態で、ネット内でのみ活動して最大級の読者数を獲得した、おそらくネット史上初めてのオタク、として長く名を記憶されることになるだろう。

実は私は「ちゆ」の雑誌連載とかはそれほど好きじゃなくて、それは「ちゆ」がバーチャルネットアイドルである理由がはなはだ希薄だったから。ネタやコラムの質は悪くなかったと記憶しているが、なんかまどろっこしいんですよね。ひと昔前のデーモン小暮が自分を悪魔だと言い張ってコラムの連載を持つみたいな印象だった。

本書は、「本」として、初めから終わりまできちんと制御できている感じだった。まあ100パーセント著者本人が満足しているかどうかはともかく、書籍としてのトータルバランスがとれている。だから面白く読めた。

ぶっちゃけると、ここにあるのはおそらく二十代後半〜三十代半ばくらいのちゆの「お兄ちゃん」のオタク的感性によるごった煮的評論、とでも言うべきものだ(実年齢なんてわかるはずもないが、そんなような気がしてしょうがない)。最後に載っているカルトにハマった「児玉くん」の生態観察が浮いているような気もするけど、「お兄ちゃん」がカルトを牽制するサイトを開いていることは文中でカミングアウトされているし、「オウム事件」はこれくらいの世代には避けて通れない(と、私は思っている)事件なので、いちおうの筋は通るわけである。
そういう意味ではちゆの「お兄ちゃん」と私がほぼ同世代だと勝手に想像して、いろいろと感慨深い部分はあるのだが、そうした世代論的な評を拒否するのがちゆの「バーチャルネットアイドル」であることの本当の意味だったりして。考えすぎ? もしかして私以外は「正体」をみんな知ってたりして? そういう不安がつきまとうのも「ネットもの」の特徴ではある。
(02.0724)



【書籍】・「テキストサイト大全」 釜本雪生+くぼうちのぶゆき/編著(2002、ソフトマジック) [bk1] [amazon]

また70キロバイトを超えたので、「感想文7月後半」を切って「後半その1」、「その2」とした。単に管理者の私の便宜上の理由で、深い意味はない。

本書は、いわゆる「テキストサイト」について解説した本。テキストサイトというのは……何というのか、本書でも明確な定義はなされていないが、私が考えるに少し前なら定期的に更新される日記を主とした「日記系」、現在ならさまざまなカテゴリのニュースにリンクした「ニュースサイト」を含む、ランキングサイトReadMe!を中心とした個人サイトの数々、という印象。

本書は、「テキストサイト」をマニアックではない人々に知らしめた「侍魂」や「ちゆ12歳」、その他「大手」とされるテキストサイトへのインタビュー、テキストサイトの歴史、現状、今後などがまとめられている。ネットの動向はあまりに変化が激しく、かつ消えてしまったりすることも多いので、書籍としてまとめて読むとわからなかったことがわかったりする。うまくまとめられた1冊。

さて、「テキストサイト」に対する漠然とした思いは、私自身が当サイトの2001年10月10日の日記2001年12月2日の日記で書いてみたりしたのだけれど、自分で言うのもナンだがいまいちよくわかっていなかったようだ(12月2日に書いてある「モメ事」って何だ? 自分で書いてて忘れちゃったよ)。
その理由は、私はReadMe!をたどってサイトを見るという習慣がほとんどなかったことと、本書に登場する「コジャレ系」サイトをほとんど見たことがなかったことに起因すると、今にして思う。

本書によると、まずインターネット黎明期になぜかコジャレたデザインを共通項とする「コジャレ系」な個人サイトができ、それが日記を綴ったりして地味に活動していたところに「侍魂」が「先行者」というデカいネタをひっさげて登場、テキストサイト閲覧者をひとケタ増やした。その後、さまざまな変化がありながらも現在に至る、という経緯でいいのかな。

本の構成としては、冒頭に「侍魂」の健さんインタビュー、終わりの方に「ちゆ12歳」のインタビューが載っている、というのが故意か偶然か、面白かった。

……というのは、あくまでも個人的解釈だけれど、まず「コジャレた」サイトができた、というのは「おれたちはいわゆる狭義のオタクじゃない」という人たちがテキストサイトを始め、次に「健さん」という、本書によれば「コンパで女の子を笑わせる」ようなギャグを常に考えている、さらにオタクっぽくないヒトが「テキストサイト」の裾野拡大に貢献し、そしておそらく生粋のオタクであろう「ちゆ12歳」の「お兄ちゃん」が出てきた、という流れだろうと思うから。
そういう「流れ」だと考えると、かなり納得のいくものがある。
ニフティのマンガ・アニメフォーラムに入り浸っていた身としては、顔文字や「(爆)」に対するテキストサイトの人々の嫌悪感とか、いまいちわからなかったが、「おれはそんなにオタクじゃないよ(by電気グルーヴ←古い?)」と思っていたとすれば納得が行くし(もっとも、ニフ歴が長かろうが何だろうが、顔文字を意図的に使わない人は大勢いるわけだが)。

10月10日の日記で書いたこともあながち的はずれじゃなかったと思うのは、
・コミケ=インターネット
・同人誌=テキストサイト
……という対応関係は、今でもそんなに間違っていないと思うから。
要するに「同人誌」って言ったって、おじいさんたちのやってる俳句の本だって同人誌だ。しかし、「同人誌」と聞いたとき、私は真っ先にコミケで売られているアニパロ本を連想する。コアな特撮の研究本やペット親バカ本などもあるにはあるが、量的には圧倒的にアニパロ同人誌が多い。
なぜアニパロ同人誌か、はさまざまな考察が必要だろうが、単純に言って「コミケという『場』が要求したから」ということは言えるだろう。
最初にアニパロ同人誌を見たとき、そこには「元となっているアニメを知っているか」ということとは別に、ある種のフォーマットがあることに気づく。
構成がどれも似通ってくるわけだ。なぜか。ゲスト参加者のイラストが数枚入ってたりとか。
それと同じことがテキストサイトにも言えて、「このサイトについて」、「日記」、「コラム」、「リンク」などの構成がやや似通ってくる。でも家族や飼い猫の写真をのっけたりすることは、共通点にはならない。
なぜかアニパロでも「原作ソックリに描く」ことが絶対条件にならないのと同じように。

他にもコミケ同人誌と「テキストサイト」の共通点は少なくないが、もっとも大きな違いは「やっている人間」のメンタリティの微妙だがかなりはっきりとした違いにあるのではないか、と思った。
要するに、テキストサイトをやっているヒトの多くは真性オタクではなかった。「コジャレ系」から始まり「健さん」に行き着くことへの私の深い納得は、そこにある。 もちろん、かなり重なったりはするのだろうが(コミケの時期になると巡回しているサイトがいっせいに更新が滞ったりするし)、取り組み方としては微妙な差があるということだろう。
それだけに、同じ議論が繰り返されると言う事態も起こったのではないか。たとえばアクセス数問題とか。「どうしたら売れるか、売れることが絶対なのか」(=閲覧者の数の問題)は、同人誌においても何回も繰り返されてきた議論だからだ。

もうひとつ本書を読んで思ったのは、「ネタ系」という考え方が意識的にか無意識的にか切り捨てられ、意識的に「コジャレ出身ぽいサイト」とゴッチャにされていることだ。
たとえばクソゲーレビューやアニメ、マンガレビューはコンスタントにネタを仕込まないと一行も書き進めることができないから、身辺雑記に終始する「日記系」とは微妙な違いがあるような気がする。私個人は「ネタ系」サイトと「テキスト系」サイトは何となく違うものだと思っている。「テキスト系」が「コジャレ感」を大切にしているとすれば、「ネタ」に過剰な比重をかけるのは嫌う傾向があるようにも思われるし。
……かといって、「侍魂」は「先行者」というドデカい「ネタ」をひっさげて登場したことは否定できないし、「ちゆ」に至ってはハッキリと「ネタ系」であると言える。じゃあ「ちゆ」が「テキストサイト」ではないと言われると、やはり違う気もする。この辺のカテゴライズは、確かにむずかしいところではある。
「ちゆ」に関しては、私個人は「オタク的観点によるテキストを、『テキストサイト』的フォーマットによって洗練したサイト」と考えている。それが幾多のオタク寄りサイトと一線を画すアクセス数になったと後付けで考えても、まああながち間違いではないだろう。

本書の感想に戻ると、大手だけでなく、もう少し中途半端なところや「弱小」なところへの言及が欲しかった気もする。しかし、「弱小代表としてインタビューさせてください」といって「はいそうですか」というところもなかなかないだろうし、自分で確かめるしかないんだろうね。案外そういうところに人生の真実があるんだよな。

後はオビの「新時代の町人文化」とあるように、ネット以外の「現代の町人文化」と複合して論じてくれる人がだれか出てくればなぁ、と思ったりしました。

・「テキストサイト大全」目次とリンク集

(02.0723)

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