つれづれなるマンガ感想文8月前半

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「つれづれなるマンガ感想文」7月後半その2
「つれづれなるマンガ感想文」8月後半
一気に下まで行きたい



【同人誌】・「産直あづまマガジン」(1) 吾妻ひでお(2001、アヅママガジン社)
【同人誌】・「産直あづまマガジン」(2) 吾妻ひでお(2002、アヅママガジン社)
【同人誌】・「取水塔・4」 粟岳高弘(2002、あわたけ)
・「さらば俺に血まなこ」 おおひなたごう(2002、イースト・プレス)
【同人誌】・「取水塔・4」 粟岳高弘(2002、あわたけ)
【同人誌】・「協定領域」 弘岳粟高(2002、あわたけ)
【同人誌】・「帰ってきたみるく☆きゃらめる(ただし大人向け)」 石川ひでゆき(漫画)、吉本松明(文章)(2002、みるく☆きゃらめる)
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第5話「とりあえずメシ食うか」
【同人誌】・「星に願いを」 袴田めら(2001、逆ギレ刑事)
【同人誌】・「あした」 袴田めら(2000、逆ギレ刑事)
【同人誌】・「Strowberry Short Cakes」 袴田めら(2001、逆ギレ刑事)
【同人誌】・「starchman」 上倉旧(2000、ロボ音)
【同人誌】・「取水塔・2」 粟岳高弘(2001、あわたけ)
【同人誌】・「取水塔・3」 粟岳高弘(2002、あわたけ)

【同人誌】・「偏西風'78 初期Sketch Book」 あびゅうきょ(2001、あびゅうきょ工房)
・「ボボボーボ・ボーボボ」(6) 澤井啓夫(2002、集英社)
・「バクマン!」 爆笑問題+おおひなたごう(2002、幻冬舎)
【アニメ】・「パワーパフガール ムービー」 総監督・脚本/クレイグ・マクラッケン
・「少年エスパーねじめ」(1) 尾玉なみえ(2002、集英社)
・「いちご100%」(1) 河下水希(2002、集英社)
・「エイケン」(6) 松山せいじ(2002、秋田書店)
【推理小説】・「火よ燃えろ!」 ジョン・ディクスン・カー、大社淑子:訳(1957、1993、創元推理文庫)
【駄文】・「ハロプロ変革は『グラップラー刃牙』→『バキ』への変化なのか!?」
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第4話
・「週刊少年マガジン」35号(2002、講談社)
・「ぷるるんゼミナール」(5) ながしま超助(2002、双葉社)
・「ぷるるんゼミナール」(6)(完結) ながしま超助(2002、双葉社)
【書籍】・「動物化するポストモダン」感想追記
【書籍】・「動物化するポストモダン」 東浩紀(2001、講談社現代新書)






【同人誌】

・「産直あづまマガジン」(1) 吾妻ひでお(2001、アヅママガジン社)

吾妻ひでお自身の同人誌。個人誌ですね。イキナリですが、もう売ってないかもしれない。去年出た本だから。
内容は、「ななこSOS」および「スクラップ学園」の新作と、ななこ写真集、ひでお日記。

なんか読んでて感慨にひたってしまいましたよ……。「ななこSOS」の説明なんかすると自分がジジイになったみたいだが、実際ジジイなのだからしょうがない。
ななこは超能力を持った「すーぱーがーる」で、マッドサイエンティストの四谷さんや何の能力もない飯田橋くんとともに、地球の平和を守ったり守らなかったりするのだよ。「スクラップ学園」は……あっ、読んだことない! だめだ! 吾妻ひでおファン失格だ!!(でも主人公の「ミャアちゃん官能写真集パート2」とかいうのは確か買った)

「ななこ」はもともと80年代中頃の作品で、アニメ化とかされて吾妻人気のピークだったような気がする。内容的には、作者も当時インタビューで言っていたようにキャラクター重視で突飛なネタとかはそんなにないんだけど、なんとなく好きだった。当時自分は高校生くらいで、もうマンガを卒業するかしないかって感じだったけど単行本は買ってた。

当HPの過去ログを見たら「やけくそ天使」を読んだ感想が載ってた。2年前の、吾妻ひでおの正当な評価がなされていないと憤っている自分。しかし、なんかネットで再びオタク論流行りという感のある昨今、ますますその思いを強くしていることも事実。
むしろ、あまりにも話題にならないんで「もしかしてそう感じていたのって自分だけ?」と思ってしまう。

やっぱり近況エッセイマンガ「ひでお日記」に少なからず衝撃を受ける。そうか……アル中になっちゃってたのか(最近、ホントによく知らないんです)。睡眠薬飲んだり断酒会に行ったりしているらしい。

というわけで、2巻に続く。
(02.0814)



【同人誌】

・「産直あづまマガジン」(2) 吾妻ひでお(2002、アヅママガジン社)

で、これが今年の7月に出た吾妻ひでお個人誌第2巻。夏コミで購入。「ななこSOS」、「ななこ写真集」、「霊能者山田シリーズ 『呪いの壱万円札』」、「MELU める」、「まじかるミステリーまおちゃん」、「ひでお日記」。

表紙がカラーで増ページんなってて、ちょっと高かったので買おうかどうしようか迷ったけど買ってよかった。吾妻ひでおは、今ふたたび必要だ。だれに。私に。

やっぱりネタの出し方とか「写真集」という名のイラスト集を入れたりとか、そういうのが本当に現在のいろんなマンガのパターンにつながっている。ななこの写真集でわざとか何なのか、ななこの読んでいる本が「ALICE'S ADVENTURES IN WANDERLAND」だったりするのだよ。泣けてくるなあ。

「ひでお日記」では、やっぱり現在も断酒会や精神病院に通ってクスリを飲んで……という生活を送っているらしい。月産20枚くらいらしい。
生活に取り立てて問題ないなら、そうやって細く長〜く活動してほしいと思う。

それにしても何度も言うようだが現状の評価が低すぎる。たとえば「その時代に読まないとまったく面白くないマンガ」であるとか「単に『初めて何かをやった』ということだけが価値のあるマンガ」ではないから、そりゃ今現在読んで爆笑につぐ爆笑とかはならないかもしれないけど、何度も鴨川つばめがひっぱり出されてきたりすることと比較すると、ギャグマンガ家の評価としては納得のいかないモノがある。

いまだに新作を描き続けているということは、とても重要だ。一時期線がふるえたりしていたが、今はそんなことはないし。

まあ私自身、細かく追っかけているわけではないので作品リストとかつくって堂々と論陣とかはれない弱点があるんですけどね。
思いついたら旧作の感想について、当HPでなんか書きます。
(02.0814)



・「さらば俺に血まなこ」 おおひなたごう(2002、イースト・プレス)

仕事が忙しいわけでもないのに、前回のレビューからかなり間が空いてしまいました。
この間、コミケがあったりものすごい猛暑でなんだか身体の調子がおかしくなったりして、あまりにいろんなことがあった気がします。いやなかったかもしれない。あったかもしれない。いやなかったかも……(どっちなんだよ!!)。
そんなこんなで、今後私は暗い影のあるキャラクターになってしまうかもしれません。ちなみに「暗い影のあるキャラクターになっちまうかもしれねえ」は、マイフェイバリット作品「サンガース」(笠原 倫、単行本5巻まで原案協力/門脇正法、1989年頃〜91年頃連載、秋田書店)に出てくるセリフ。主人公のW浅野(ホントにこういう名前)が、超能力を持った男にケンカで負けて、病院のベッドで「前田日明物語」を読みながら言うんですね。
ここはW浅野最大のライバルとの最初の接触後の重要な部分ですが、W浅野の敵に対する怯えと、同時にたいして気にもしていなさそうなユーモラスな雰囲気が漂っていました。「シビアな状況でも軽口を叩く」、ちょっと前のアメリカの漢(おとこ)るぁしいアクション映画を彷彿とさせる印象的な場面です。

……と、かなり関係ないことを実験的に書いてみたりして、この辺で読むのをやめたり怒ったりしている人が出てこないかドッキドキなわけですが(ここで「ドッキドキLOVEメール」などとはあえて書かない)、本作「さらば俺に血まなこ」はTV Bros.に連載された「俺に血まなこグレート」を中心に構成されたギャグマンガの単行本。

ギャグマンガなんで内容説明がむずかしいが(以下ですます調やめ)、作風的には思いきって言うと「サブカル好きにも大丈夫なパロディ中心マンガ」と言っていいかも。じゃあ「サブカル好きはダメであろうパロディ中心マンガ」って何かっていうと、個人的には昔の吾妻ひでおとか後藤寿庵とかだと思っている。
最近はオタク寄りなマンガも浸透と拡散していて具体的な作家名が思い浮かばないが、とにかく昔だとオタクコミュニティに受け入れられることを想定しているかしていないか、という送り手側の意識の差があったように思う。
たとえば藤子不二雄的なもののパロディとしてはスージー甘金とか、オタク的な知識の裏付けがある人としてはみうらじゅんとかしりあがり寿とかがいたけれども、実際はどうかはわからないが吾妻ひでおや成井紀郎の「ゴーゴー悟空」などとは明らかに想定される読者は違っていた。

で、多少状況は違うがおおひなたごうはものすごくおおざっぱに言うと「サブカル好きでも大丈夫」って言い方になる。同時に同じ出版社から単行本が発売されてる田中圭一もそう。
なんかそんな感想しか思いつかない。あ、それと一時期TV Bros.は毎号買っていたから「俺に血まなこ」もだいたい読んでいたんだけど、ここに収録されているのってほとんど初見だった。ということは私がTV Bros.の購読をやめてからかなり経つということだ。それを思い返すと自分の中で何かが終わったなぁ、と思う。TV Bros.的な青春が(どうでもいい)。

とにかく面白いんでオススメです。以上。
(02.0813)



【同人誌】

・「取水塔・4」 粟岳高弘(2002、あわたけ)

1冊24ページくらいでずっと続いている創作少年SFマンガの続き。81年夏、ある地方都市にある取水塔の謎をめぐって、少年少女が冒険する話……とか描いちゃうとなんかジュブナイルSFみたいだがぜんぜん違っていて、もっとずっとひねくれていて世界観そのものが主人公のような感じ。SF好きならハマると病みつきになる感じです。
「田舎の道ばたを美少女が裸でウロウロする」というこの作者得意のシチュエーションは本作でも健在で、ちゃんと裸にならなければならない設定も存在している。
作者あとがきによると、物語はこのあたりで中盤くらいまで来たそうである。
(02.0813)



【同人誌】

・「協定領域」 弘岳粟高(2002、あわたけ)

成年コミック。プロキオンから来たという異星生物は、地球人より圧倒的に高度な文明を持っていた。地球人はほとんど戦いにもならず「保護」され、「プロキオン」はその中から選出された一人だけが解読できる「情報体」を定期的に提供する。その提供される「場」が協定領域。
で、ここから先が重要なんだがこの「情報体」を軍や企業など、どんな団体にもジャマされずにとってくるのは、選出された人間にメイドとして雇われた全裸の女の子でなければならない、というわけで、またもや「美少女がのっぱらを裸でウロウロする」マンガが成立する。

それにしても女の子を裸にするためのもっともらしい(実際、もっともしてるというかこのSF的設定もじゅうぶん興味深いんだが)理由がすばらしい。今回は成年コミックでカラミもあり。そのカラミの理由もすばらしい。
(02.0813)



【同人誌】

・「帰ってきたみるく☆きゃらめる(ただし大人向け)」 石川ひでゆき(漫画)、吉本松明(文章)(2002、みるく☆きゃらめる)

ちょっとエッチなマンガとマンガ評論で構成されているユニークな同人誌が帰ってきた。以前の同誌の私の感想としては、ここらあたりを参照してください。

今回、評論部分は「オーバーヴィジュアライズド萌え」について。「過剰に視覚要素のみが突出して『過』視化されている」、「視覚要素が暴走した」萌えマンガについて、筆者がつくった言葉らしい。ああ、取り上げられている作品とかそれについての解説はわかりやすいですね。最後に持ってこられてるのが「エイケン」だということで、だいたいのところはわかっていただけるかと思います。
「過剰に視覚化されている」というのは裏を返せば従来の意味での「中身がない」ということで、本当に「終わってる」作品が紹介されてます。
でもひよひよの「くるりくる!」とひのき一志の「ファミレス戦士プリン」は、なんか「ふぬけ共和国」的にも読まなきゃいけないような気にさせられます(笑)。

こうした「オーバーヴィジュアライズドされている」要素というのは、たとえばレモンピープルとか、プチ・アップルパイなどの80年代SF的H系マンガを読んでいて私がかねてから感じていたことでもあります。というか、「オタク的なもの」が拒否される理由の多くはそれらが生来的に「過剰に視覚化されている」からだということが言えると思う。以前は「中身がない」と言われていたんだけど、逆に「視覚化されすぎている」と言った方がわかりやすいかもしれないです。

この評論では、萌えマンガを描いている作者たちの「無意識さかげん」に言及されてますが、80年代当時でもおそらくハードSF的知識の裏付けがある人(士郎正宗とか山本貴嗣とか)とない人、活かせない人、活かそうとしない人(萩原一至とか、かがみあきらとか)がいたと思うんで、その辺の現在の作家との同じ点・違う点なんかにも思いが至る、と思いました。

マンガは「探偵処女エリカ」。石川ひでゆきさんの「いつもの」感じ、ちょっと足りないっぽくてかわいくてエッチな女の子と、これ以上ないくらいブサイクでスケベに描かれた男たちの対比。
絵が微妙にオシャレっぽくなってると感じました。こういうちょっとした変化は、見ていてうれしいです。
(02.0813)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第5話「とりあえずメシ食うか」

今、溜まっている同人誌を読んだり再読したりしている。コミケがせまっているためだ。
なぜ同人誌を読むのがこれほど遅れてしまうかというと(なにせ前回のコミケは半年も前なのだ!)、「電車の中で読めない」ということがあるのだが、今回で反省した。もう男性向け以外は、その禁を破る。でないと一生読み切れん。

楽しさ、喜び、気持ちよさをエネルギーにして生きている中で、「生きててよかった!」と思える瞬間が「アニメ的」と言ってもいいと思うんですね。だから、「しょせんは絵ですよ」という前提を理解した上でグッと引き込まれる、命を感じる……それこそが、「アニメ」なんですよ。(P28)

何かを生みだしたい、その力の部分が、「ものをつくる」上で一番大事なんです。生み出す力と伝える力、それを観て受け止めて返していく力。それらを総合したとき、気持ちの良い「アニメ」が全体の関係性の中で完成するんですよね。
なんだか青臭くて稚拙なことを語ったようですけど、大前提が忘れられかけていると危惧しているんです。面白いからという動機を忘れて、語ったり批判したりするだけで良いものか。そこに対して、「ちがう」って言ってみたいですよね。言い方は工夫したいですけど。(P29)

……どちらも「氷川竜介個人誌 ロトさんの本 Vol.6 20世紀の総決算」(2000、おたくをおもしろくする会)からの抜粋だ。
なぜここでこの文章か、というと、私もそうした前提に立っていたい、と思うからだ。私は「陸まお」を初回を除いて4話ぶん観て、今のところ面白いと思っているが、それは本作に何か特殊な「仕掛け」がしてあるからとか、ポストモダ〜ン的だからとか、そういうことを大前提にしているわけではない。
私はもともと濃いアニメファンではないので、退屈を最も恐れる。テンポが悪いものやお話がなかなか進まないものは、それだけで評価できない。「陸まお」は、テンポもいい。15分弱という短さもあるだろうが、退屈しないで見れる。しかし、「退屈しないで見れる」ことが重要なことくらい、みんなわかってると思ってたよ。
ちなみに「シスター・プリンセス」は、基地外なアニメで、その基地外さ加減をある意味評価してはいるが、1回1回の緊張感はきわめて薄いと思う。早送りでいい回も、ずいぶんあった。

それと「萌えの終焉」的アニメってのは、ひとまず間違ってはいないと思う。だから前回、そういうタグイのことを書いた。
しかし、それはあくまでも「退屈しない」という一定レベルを保っていての話、だということが今回言いたいことのひとつ。
もうひとつは、私は「それが笑えるかどうか」にかなり重点を置いているということ。「萌え」は二の次。
私は現代美術にあまり詳しいわけではないが、どんなスノッブな笑いでもいい、「笑える」という要素を捨て去ったものには魅力を感じない。「笑い」という基準すら捨て去ったときに、みんなが眉間にしわ寄せて「シュミラークルが……」とか言い出して、ごちゃごちゃになって、「何が大切か」が失われると思う。それはあまりウマくないと思っている。

たとえば「まおちゃん」は、私にとって物語内にツッコミが不在のヘンなアニメ、という認識だが、……なんでここまで書かなきゃいかんのかと思うが「ツッコミ不在のコメディ」を昔っから「キャンプ」というそうである。
モンティ・パイソンとかね。

「モンテイ・パイソン」と「陸まお」なんかを一緒にするな! って別の方面から文句が来そうだが、とにかくそういうものが昔からあって、「まお」はそれに近い構造だ、ということが言いたいの。「キャンプそのものか」というと議論の余地はあるだろうが。
コレは深読みでも何でもない。以前にも書いたが、過去があるから現在があるのであって、先人の業績から現在の作品を読み解くことは普通に学校でもやってることでしょ。
とにかく、私は「まお」を「笑えるアニメ」として考えているだけで、それが何かさー、皮肉な仕掛けがあったとしても、あるいはなかったとしても、それは副次的な問題にすぎない。ただ、おそらく「楽しみ方」を語る上で、「ツッコミが不在だ」ということは言っておいた方がいいんじゃないか、という程度のことなんだよ。
その結果、どうしてもその「面白さ」を解説するときに、何かポストモダン的な用語を用いざるを得ないとすれば、それはそのときにすればいいことであって。まあホントは使いたくないんだけどね。最近の新造語みたいのは。問題がややこしくなるから。

それと、上記の氷川竜介氏の発言に戻るのだが。私は基本的にはこういう考えでいたい。突き放して語ることはあっても、上記のような心構えは根っこに忘れてはいけない部分だと思う。古いと言わば言いなさい。
まあ他人からどう思われるか知らないが、やっぱり私は基本的には物語を有機的にとらえてます。その上でのモロモロの発言だ、ということを忘れないでもらいたい。

最後に。はっきり書いておいた方がいいのかもしれないが、私は「新しい」と言われているものが「新しい」かどうかを判定することに非常に慎重です。「まお」はどこか壊れたアニメだと思うけれど、新しいかどうかはわからない。ましてや「本当に面白いアニメ」かどうかも、完結するまでわからない。
面白いとして「どう面白いのか」を考え、新しいとして「どう新しいのか」を先人の実績に照らして考える、そしてギャグアニメなら「ギャグ」について決して忘れてはいけない、それが私が今「まお」について考えていることですね。

お話は、今回もシルヴィが主役だった。
(02.0809)



【同人誌】

・「星に願いを」 袴田めら(2001、逆ギレ刑事)

かつて「アジト」(子供のつくる「秘密基地」みたいなものか)で、流れ星に願いをかけた少年二人。どちらかというとリーダーシップをとっている方の子・清順は映画監督になりたくて、もう一人の子はそんな彼に憧れていた。
10年後、再会したとき、清順はすっかり夢をあきらめていて、もう一人の青年は逆に映画監督を目指すという夢を着実なものにしていた。

清順の挫折感ばかりがリアルに浮かび上がる結末になっていて、ちょっとかわいそうすぎる気がする。むしろ物語は二人の再会から始まるのでは。
(02.0809)



【同人誌】

・「あした」 袴田めら(2000、逆ギレ刑事)

万葉(まは)の兄は、アメリカで行われる彼女の手術に立ち会うため、バイトで旅費を稼ぐ。そんな彼に惚れてしまったのが、万葉の友達の詩乃。当然、ふられる。
兄がアメリカに行ったからといって、彼女の手術が成功するとはかぎらない。詩乃の「思い」も成就することはなかった。すると、それらの祈りとか無念さとかはどこに行くのか? 万葉は立ち止まって考える。そしてふと見つけた結論とは。

本作は「少女マンガ」にカテゴライズされるのだろうか? 最近、境界線がなくなりすぎてちょっとわからないのだが、わたし的には「少年マンガ的な少女マンガ」といういささか座りの悪い形容を考えてみた(むろん、誉め言葉です)。

モノスゴイイヤな言い方をすれば、「OLの給湯室のうわさ話をひたすらに拡大した」ようなレディースものが散見される。気づかないだけで、男にもそういうマンガがあるのかもしれない。しかし、とりあえず打算的であることが「解放」だったり、他者に残酷になることが「成長」だったりする世界はいずれにしろ不幸だ。もっとも、そういう描写もまた否定することはできない、ってことはわかっているつもりだ。
この世は「給湯室的価値観」で成り立っている面が大きいから。

しかし、まれに少女マンガ的世界でも、「少年マンガ的」なまっすぐさを持った作品というのがある。少女マンガを読みまくったわけではないので、たまたまぶちあたるという程度だが、そういうものが確実に存在する。
本作の作者も「少年マンガ的まっすぐさ」を資質としている作家のように思える。
(ここで私は「少年マンガ的世界」のすがすがしさを持ち上げているわけだが、もちろんそれは現実の男性あるいは少年の世界がすがすがしいことを意味しない。物語の中の少年の世界も少女の世界も、しょせん虚構でしかない)

とても読後感がさわやかだ。読んでいて、すごくホッとする。
(02.0809)



【同人誌】

・「Strowberry Short Cakes」 袴田めら(2001、逆ギレ刑事)

で、一度に3冊買った袴田めら作品の中で、いちばんイイなと思ったのが本作。
女子高生の綾瀬は、くーちゃんという年上の彼氏がいる。恋愛相談の相手にオカマのサトルちゃんがいて、彼とケーキを食べに行ったりもする。

ある日、くーちゃんが浮気をしていることが発覚。浮気どころか「別れよう」と綾瀬に言ってくる。しかし現実を認めたくない綾瀬は、「自分は今でもくーちゃんの彼女」とツッパリとおす(ここら辺の描写が、ストーカーとかイッちゃうまで行かず、ギリギリ綾瀬の「意地」のレベルでとどめていて、うまい)。しかし、現実を見つめなければならないときが来る。

お祭りの夜、サトルは綾瀬を「男らしくなぐさめることができない(大意)」と言って無念の涙を流す。「綾瀬は綾瀬でいい」と言いながら「もっと男らしく かっこよく慰められればよかったのかしら」「でもオカマはオカマなんだもの〜!」と、泣く。

「オカマと少女」で思い出したのは、「デボラがライバル」。マンガじゃなくて、吉川ひなの主演の映画の方しか見てません。すいません。
で、映画版「デボラがライバル」と本作を比較してみると、「デボラ……」の方がオカマの異形性、孤独を意識的に出していた。ふだんは道化を演じているデボラ(で名前いいんだっけ?)が、吉川ひなのが悩んでいるときに苦渋に満ちた「異形としての自分」をさらけ出す。そこに凄みがあった(映画全体のトーンは青春グラフィティ、といった軽めのノリのものだが)。

本作では、凄みを出すどころか、サトルちゃんは「綾瀬を、自分がオカマゆえにちゃんとなぐさめられない」と泣いてしまう。サトルは、もしかしたら「オカマとしての自分」にまだギリギリまで向き合っていないのかもしれない。
しかし、その未熟さが、かえって綾瀬との関係を対等にしていて「異形のものが一般人に凄みを教える」という定型パターンから抜け出せていると言える(そのテのパターンで思い出すのは、つげ義春の「無能の人」に出てくる、鳥をあやつる男の話なんだけど)。

より日常化できているということね。綾瀬も、サトルもたぶん一緒に成長したのだろうなあと思えてくる。
そういう意味で、とてもまっすぐなマンガ。やっぱりまっすぐなのは、いいよ。
(02.0809)



【同人誌】

・「starchman」 上倉旧(2000、ロボ音)

たまたま以前買った、この人の「ノット ア サウンド ワズ ヒアド」という作品があまりにすばらしかったので購入。意志を持った、擬人化された炊飯器とその持ち主の女の子の話。作品的には本作「starchman」の方が先になるか。
なんてことない話だけど、寓話性が高く、ただの落としバナシにならない可能性を秘めている。
(02.0809)



【同人誌】

・「取水塔・2」 粟岳高弘(2001、あわたけ)
・「取水塔・3」 粟岳高弘(2002、あわたけ)

戦前の火力発電所跡、と言われた「倉浜取水塔」を探検しようとする女子高生の宏子と里留子。内部に不気味なものを見つけ、謎は深まる。大学生で今は地元を離れている勝俣くん(中学生)の兄も、そのあたりのことについて秘密を探っているようだ。
謎の仮面の少女が現れては消え、里留子も実は何かを知っているフシがある。
謎が謎を呼びつつ、物語は淡々と進む。

この人の選ぶ地域はいつも自然がいっぱいのところのはずなのに、言いしれぬ無機質感覚が漂っていてそれだけでもSFっぽい。それと、出てくる女の子がダントツにかわいくなってきた。以前はもっと頭が大きくて、ロリっぽかったから。まあ、もともとロリ属性のない私の個人的な好みなんですけどね。
(02.0809)



【同人誌】

・「偏西風'78 初期Sketch Book」 あびゅうきょ(2001、あびゅうきょ工房)

A5判。マンガ家・あびゅうきょ氏が、78年から82年頃にかけて描いた風景をスケッチを集めたもの。さすがに細密。また、すでに失われた東京の風景を見ることができる。
あびゅうきょファンなら是非。コミケで手に入れば。
(02.0809)



・「ボボボーボ・ボーボボ」(6) 澤井啓夫(2002、集英社) [bk1] [amazon]

週刊少年ジャンプ連載のギャグマンガ。基本設定は1巻の感想参照。

もう完全に、いい意味で安心して読めるようになったと思う。人気を掴めた後の、迷走状態(私はそう解釈したが。実験的なことを何かとやっていた頃)を見守っていた編集者には敬意を表したい(と、わかりもしない内情に勝手にドラマを見いだしている私)。
単に不調なだけだったのかもしれないが。

今回、個人的にヒットは「田楽マン」。外見がぜんぜん田楽と関係ないところは、ところ天の助以上のデタラメぶりだ。しかもカワイイ。みんな大好き田楽マン(スキャン画像は、友達がいなくてショボくれてる田楽マンとビュティ)。

・4巻、5巻、短編集の感想

(02.0808)



・「バクマン!」 爆笑問題+おおひなたごう(2002、幻冬舎) [bk1] [amazon]

主に「コミックH」などに載った、おおひなたごうによる爆笑問題を主人公としたマンガの短編集。といってもタレントの実録ものとは少々趣が異なり、爆笑問題二人をキャラクター化してギャグをやっているという印象が強い。

爆笑問題とおおひなたごうがバンドを組んで練習する過程を描いたエッセイ「爆笑問題・バンド日記」も載っているが、個人的にはこの作者はやっぱり文章よりマンガの方が面白いと思った。
(02.0808)



【アニメ】・「パワーパフガール ムービー」 総監督・脚本/クレイグ・マクラッケン

アニメーション部分担当は、ジェンディ・タータコフスキー。
お砂糖、スパイス、素敵なものをいっぱい入れて、むっちゃカワイイ女の子をつくるはずだったユウトニウム博士。しかし「ケミカルX」という薬を一緒に混ぜてしまったため、誕生したのがスーパー幼稚園児の3人の女の子、ブロッサムバブルスバターカップ。彼女たちは、今日もタウンズビルの平和のために戦うのだった。

映画版は「ガールズ誕生編」とでもいうべきもの。テレビで見たときもここら辺のエピソードはちょこっと話になっていたが、今回はそれをもっともっとふくらませたと考えていい。

全体的にシリアス色が強く、あまり笑えるシーンがないのが残念だったけど、アニメ映画としては満足のいくお話でした。

ガールズの誕生は宿敵・モジョジョジョ(天才頭脳を持ったサルの悪人)と切っても切れないワケだが、(まあこういう解説、書くだけヤボなのだけれど)スーパーパワーを持ったがゆえに迫害される「変わった人々」の悲劇から入っていく導入部は、非常に素晴らしい。人間たちに対するルサンチマンをつのらせながら、ホームレス生活を送るモジョジョジョの昏(くら)いカッコよさ!!
こうした「ヒーローも悪人も、その出自は近い」という点や「スーパーパワーは常に異端視される」という描き方は、バートンの「バットマンリターンズ」やサム・ライミの「スパイダーマン」でもほぼ同一テーマと言ってよく、この辺りのアメコミの「悩めるヒーロー」の系譜が過去から現在に至るまでどうなっているかは興味のあるところ、なのだがよくは知らない。ガールズとモジョジョジョの共感とその後の決定的な決裂は、それらをもパロディ化している気もするが(この辺は私の勘ぐり過ぎの可能性あり)、それにしてはシリアスすぎる展開だった(それはそれで、よかった)。

余談だが月刊プレイボーイ9月号での、作家・藤原伊織氏はインタビューで「どうもアメリカン・ヒーローの単純さが嫌いで、バットマンも見てない。僕にとって超能力といえば、やっぱり『サイボーグ009』ですね」などと言っていた。
しかし、私が小野耕世かなんかの「アメコミが『悩めるヒーロー』をテーマにし始めている」という記事を読んだのはもう20年近く前の話。具体的に言えばそれらはスパイダーマン、シルバー・サーファー、キャプテン・アメリカ、バットマンなどで、その後「スポーン」とかも出てきているから彼の指摘はぜんぜん当たっていない。電通社員なのに、それはマズいんでは?

藤原伊織氏のような「アメコミだから単純」という先入観はかなりあって、それは井筒カントクのテレビにおける、映画「スパイダーマン」に対するコメントにも見てとれる。
まあ主人公が悩んだからって面白いとは限らず、日本人にはすでに「悩めるヒーロー」のキングオブキングス「平井和正のスパイダーマン」すらあるわけなのだが、「サイボーグ009」と「バットマン」の悩みのどちらが深いかは、一度真剣に検討した方がいいと思う。だれかが。やってるかもしれないですが……。

話がそれたが、私はアメコミ&アメリカのアニメに対して詳しいわけではないのでツッこまないでください。
それにしても「D.N.A」(「ドクターモローの島」のリメイク)や「猿の惑星」(リメイク)などと合わせて見ると、なんかアメリカ人の猿を「劣った人類」として、それにとって変わられるのでは、と恐怖する感覚というのは日本人と決定的に違いますな。そりゃ「宇宙猿人ゴリ」とかいたけどね。

同時上映、「デクスターズラボ」。

・映画版情報が詳しい「パワーパフガールズ」ファンページ

(02.0808)



・「少年エスパーねじめ」(1) 尾玉なみえ(2002、集英社) [bk1] [amazon]

古来より続く白エスパーと黒エスパーの戦い。それは秩序と混沌の戦いであった……。というわけで、白エスパーの少年ねじめが人語を解するネコのすぱなとともに、黒エスパーと戦うギャグマンガ。

前作「純情パイン」も基本的にはヒーローもののパロディだったが、「純情パイン」という巨大ヒーローの設定自体が突飛だった。このため、途中からシュール度全開になって、正直、少し当惑した。
本作は、「白エスパーVS黒エスパー」という基本設定そのものはまあ普通だし、両親もおらず家もないっぽいねじめとすぱなが、のび太くん的キャラのるきじの家に住み着いて多大なる迷惑をかける序盤は、ちょっとタチの悪いギャグマンガ程度の印象である(個人的に)。

が、念力5 もう一人の白エスパー上目おろちというキツいツッコミ役が登場し(彼自身も展開のカオスの一端を担うこともあるのだが)、念力8 少年「漢」撮影会で登場する練川えすてるがねじめとおろち(あだ名:へび)の裸体を写真に撮るの撮らないのという段階になって完全にムチャクチャ化する。面白いです。……っていうか、イマドキはのび太くん的なキャラはハジケないとね。個人的意見ですが。

というわけで、次巻に続く。
(02.0805)



・「いちご100%」(1) 河下水希(2002、集英社) [bk1] [amazon]

「街で最高の夕日」を見るために、「立入禁止」のチェーンを乗り越えて学校の屋上に出た真中淳平が見たものは、夕日に照らされた最高に美しいいちごのパンツだった−−というところから始まる学園ラブコメディ。

屋上で出会ったいちごパンツの少女は、顔もよく確認できないうちに逃げてしまった。「あの美しいパンツをビデオにおさめたい」(←どうもいやらしい意味じゃないらしい。映画製作志望だから芸術的な動機?)と思った真中は「いちごパンツの女の子」を探し回る。
手がかりは残されていた東城綾の名前が入ったノートだが(この段階でどう考えたってパンツの少女の正体は東城さんだが)、ふだんはあまりに地味な彼女を屋上で出会った少女と同一人物だとは思えず、真中は学校でも評判の美少女・西野つかさを探している少女だと思いこみ、告白してしまう。
真中の不器用なほどのまっすぐな告白に、西野さんは意外にもOK。しかしその前に、東城さんは、自分が屋上に残したノートに書いた小説を真中がたまたま読んで絶賛したことから、なんとなく彼に好意を抱き始めていた。

……あまりに巷で「パンツパンツ」と言われ続けているのでパンチラ中心マンガかと思っていたら、どっこい正統派ラブコメだった。しかも、現時点ではかなりよくできている。
主人公の真中はダメ少年には違いないが、バカ正直なほどの誠実さを持ち合わせており、東城さんも西野さんもそこにひかれているという「好かれる理由」がハッキリしているし、それだけに結果的に三角関係になってしまうというのもうまい。
真中が東城さんの落としたノートに書かれた小説を読み、その才能を認め東城さんと友情めいたものが芽生えるのがわたし的には前半のクライマックス。まあ元文系少年はこういうシチュエーションに弱いからね(笑)。

東城さんと西野さんが、別々に真中を好きになって後からお互いを知り合うという設定も、真中が「どっちも(かわいいから)選べない」ことをうまく表現していてなかなか秀逸だ。
欲を言えば、西野さんが一見地味でとっつきにくい東城さんとの間に本気で友情を芽生えさせる点が強調されればよかったと思うのだが、彼女は真中にとって「謎めいた女のコ」という設定だから、その辺はサラリと流しても仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。

脇キャラである真中の友人、モテない小宮山とモテる大草もドラマを進行させるなかなか重要な役割を担っているし、真中の思春期にありがちな想像力をふくらましすぎてドツボにハマる、というパターンもまったりとしてしつこくない。いいです。
(02.0805)



・「エイケン」(6) 松山せいじ(2002、秋田書店) [bk1] [amazon]

週刊少年チャンピオン連載。「エイケン部」という謎のクラブに入った伝助が、なんとなくメンバーの女の子一人ひとりに微妙にホレられたりするマンガ。でも伝助の本命は美少女・東雲さんただ一人。

「いちご100%」が日本の少女マンガ→少年マンガ→少年ラブコメ、といった熟成をじっくり経てきた正統派とするならば、こちらは特殊な培養液でつくられたフリークス感溢れるラブコメ。たとえるなら烈海王VSドーピングしてた頃のジャック・ハンマーか。どうでもいいが。

といっても、昨今フリーキーな展開は少しなりを潜め、デートをダブルブッキングして大騒ぎとか、そんな普通のラブコメ話が続いている。あいかわらず美八留や百合子など、一般人が中心になってるし。個人的にはもっとメチャクチャしてほしいんだが。

・「エイケン」(5)の感想

(02.0805)



【推理小説】・「火よ燃えろ!」 ジョン・ディクスン・カー、大社淑子:訳(1957、1993、創元推理文庫)

「どうしたら自分の文章をネット上で読んでもらえるのか」を、血の小便が出るまで考えてみた。なんで血の小便が出るのかと思ったら、尿道結石だった(注:もののたとえです)。

やはり、感想サイトの場合は一刻も新刊の早い感想をあげるのがいいのだろう。というか、普通、読者が求めるものはほとんどそれしかないと言っていい。しかし、新刊書籍ばかり読んでいると過去のことがわからない。新刊をバリバリ読んでいる人はたいてい過去のモノも読んでいる。そして、おそらく過去の作品はレビューとして書かないのだろう。だって求められてないから(ものすごい完璧な作品リストなどを除く)。
でも私は、時間があればこうやって旧作の感想を書いてみたりする。しかもこの本、品切れなんだってさ! ますます感想を書く価値は低い。

本書の内容は、19世紀初頭に「警察官として」タイムスリップした現代の警視、ジョン・チュビアトが、当時の不可思議な射殺事件を捜査していくというもの。19世紀初頭のイギリスは本書が刊行された当時、小説としてはあまり題材となっていなかったそうで、しかしこの時代の大好きな作者の嬉々とした感じが、微にいり細をうがった情景や服装の描写に現れている。
で、イギリスの19世紀初頭、日本人にとっては、まあどうでもええっちゃええ時代である。実在の人物や場所を多く登場させ、苦労して架空の主人公や事件を滑り込ませてあるらしいが、なにしろイギリスのあまり有名でない実在の人物などこちらは知らないから「はあそうですか」と思うしかない。
主人公と未亡人フローラとのロマンスも、「スター・ウォーズエピソード2」並みの陳腐さで、「そういう陳腐さ」が好きな人以外はウンザリするだけだろう。

そんな感じだったからなかなか読み進めることができず、なんだかんだで読み終わるのに三週間くらいかかってしまった。どひゃー。もう謎が解ける直前まで、投げ出す寸前だった。
ところが、意外にも謎の解明はちゃんとしていた。意外な犯人、トリックだった。そりゃカーだから、今のミステリに比べれば素朴だけれども、それまでが退屈だっただけに、何か拾いものをしたような感触だった。やはりカーはいい。……まあ彼の、この手の時代推理ものはもう二度と読まないだろうけど。

最初の話に戻ると、感想サイトとしては、その本を読もうという気がなくても、読者が文章そのものを楽しんでもらえるようなモノを目指している。その方法はいくつかあるし、また才能と努力が必要ではあるが、とりあえずあらゆる汚い手を使ってみたい。たとえば冒頭に「えっ!? 外付けハードディスクがこんなに安いの!?」とか書いてリンク貼ってみたりして。ちょっと広告っぽいからダメか。
でも当然、リンク先はディズニーランドである。リンク先なんてみんなディズニーランドにしちまえばいいんだよ。文句を言われたら「ディズニーランドはポストモダンだから」とか答えてみる。
……まあ私のポストモダンに対する態度はその程度のものだ。

……それにしてもカーはいいなあ。クイーンの100倍はいい。いいかげんで安普請で、でもちゃんとトリックがあるところが最高だ(なんか最近、だんだん文章がヘンになってきてるな)。
(02.0805)



【駄文】・「ハロプロ変革は『グラップラー刃牙』→『バキ』への変化なのか!?」

ハロプロ変革について書こうと思い、「娘。アンテナ」を見てファンの熱意にびびり(笑)、そして時間が経った今また何か書こうと思っている。
私は別にモーヲタではないことを強調しておきたいが(←そんなに詳しくない、という言い訳をしたいわけです)、やっぱりテレビとかアイドルとかは好きだからねー。

いちおう、事実確認から始める。

・モー娘。:後藤真希→卒業、保田圭→来年春卒業
・タンポポ:石川梨華以外→卒業、新たに紺野、新垣、柴田(メロン記念日)が加入
・プッチモニ:後藤・保田→卒業、新たに小川、アヤカ(ココナッツ娘)が加入
・ミニモニ。:矢口真里→卒業、新メンバーに高橋愛、新リーダーにミカ?
・矢口がガキ(「ハロプロキッズ」だっけ?)と組んで新ユニットを結成
・平家みちよ:ハロプロ卒業
#ずっと前に、ココナッツ娘のレフアも卒業している

・「連載」的なるものから「読みきり」的なるものへ?
この間出たばかりのBUBKA9月号では、モーヲタの人たちが今年上半期について座談会を行っている(むろん、この時点で脱退や変革はみんな知らないと思う)。ここで「最近モー娘。はちょっと息詰まっている」と書かれていることは今回のハロプロ変革を予想させて興味深いのだが、それとは別に「アイドルを連載と見るか読みきりと見るか」というたとえが出てくるところが面白い。
要するに、デビュー時からの成長を見たり、コンセプトの変化を見たりするのが「連載を見る感じ」で、いきなりできあがったモノをポンと音楽番組などで見るのが「読みきりを見る感じ」というニュアンス。

思えば「モー娘。」最大の特徴は、「連載マンガ的興味を常に持続させる」ことにあったのは言うまでもない。ところが、事情は知らないが「連載マンガの掲載誌」とも言うべき「ASAYAN」も終わってしまったし、次々とユニットを立ち上げて大人数となり「ハロープロジェクト」としたため、すべての情報を把握するには視聴者側でむずかしいほどに拡大してしまった。

そうなると「連載マンガ的」興味を持続させるには、ワイドショーを「掲載誌」とするスキャンダルしかない。たとえば松田聖子や野村沙知代のように。しかしそれはアイドルとしてはハナっから問題外。
「何か試練を与えてそれをクリヤさせる」という方法論も、モー娘。の価値が上がれば上がるほど無理になってくる。みだりに加入や脱退ができなくなるからだ。

そうなるとインパクトとしては「事実」そのものをパッと突きつけるしかない。こう変わりましたよと。それが今回の変革だったのではないか、と考えている。

モー娘。ファンサイトを漠然と巡回してはじめて知ったのは、「タンポポ」がASAYANにおけるASAYAN的な上質のドラマの結果として成り立っていたという事実(勉強不足ですいません)。プッチモニも設立に「ASAYAN的ドラマ」が付与されていたため、それを無視した人事異動にマニアからは不満の声があがっている。
ところが、「それ以前」をまったく知らない一般視聴者には、メンバー的にはそれなりに興味をひく構成になっているのである(だから、ファンサイトでも「メンツはイイから過去の名前を継がせるな」という声が多かったように思う)。
つまり「読みきり作品」としては「読んでみよう」という気になるメンツ。

・新生「タンポポ」の石川梨華、紺野、新垣、柴田は、ひと目見ても今まで新人扱いされていた石川のリーダー大抜擢、「少女マンガにおけるドジっ子」的役割の紺野抜擢、他ユニットからの流入という意味を除いても見た目かわいい柴田、いつまでも「子役っぽさ」から抜けられない新垣がどうするか、などの面白味が内在されている。
何より、「全員歌がヘタそう」というのも興味のひとつだ。
・新生「プッチモニ」も、ヌーボーとした感じの吉澤がどう出るか、他ユニットからの流入という意味を除いても見た目かわいいアヤカ、五期メンバーではいまいちキャラがさだまらない小川に与えられた大チャンス、というのがある。
・唯一座りが悪く、想像がつかないのが新生「ミニモニ。」。全体的に「子供向けシフト」と思われている今回の変革なだけに、今までの「子供向け」の象徴的存在にしてカネも生んでいたユニットの変革は、いちばん冒険かもしれない。

・「グラップラー刃牙」的なるものから「バキ」的なるものへ?
「グラップラー刃牙」は、「地上最強の生物」と言われた父親を倒すため、格闘技をきわめようとする少年を中心とした格闘家の戦いを描いたマンガ。「地下闘技場編」では、刃牙も含めた格闘家たちが頂点を目指して戦った。
「バキ」は、「刃牙」のしきり直し的な作品で、「自分こそ最強」と思っている死刑囚たちが偶然日本に集結、日本にいる格闘家たちとルール無用、「殺し合い」までをも含めた戦いを繰り広げるという作品になった。
「刃牙」と「バキ」の最大の違いは、「着地点のあるなし」だ。「刃牙」では「父を倒す」ことや「優勝する」ことが物語の結末とされたが、「バキ」では「死刑囚をぜんぶ捕まえたらオワリ」かどうかすらハッキリしない。そもそも、死刑囚がどうやったら殺されずに「負けを認める」かどうかすら個々人別々でわからないのだ。
伏線とそうでないモノとの区別もつかないし、曖昧づくしの展開である。

「曖昧なのに、面白い」ところが「バキ」の興味深いところなのだがそれは置くとして、今回のハロプロ変革は、今までの視聴者側に提示されていた「暗黙のルール」を破っているように思われる。
たとえば今回のファンの反応としては「ゴマキ脱退は予想していたけど、ユニットの解体は予想していなかった」という声が強いように思える。それは「モー娘。」から「ハロプロ」に変化のワクが広がったということ。何やら「地下闘技場」から戦いのワクが広がって路上に出た印象である。
「新大陸の発見」ではないが、「世界観」が「ハロプロ」にまで広がった以上、平家みちよが「ハロプロを卒業する」という、私のような門外漢には驚くばかりの現象も出てくるし(要するにリストラってことでしょ?)、保田の「ハロプロサブリーダー抜擢」という、どう考えても中身のない役職も出現してくるわけである。

そして、着地点が見えない変革の仕方。むろん、「新人や目立たない子にチャンスを与える」図式になっているのは容易に見てとれるが、たとえば後藤・保田脱退後の「モー娘。」は想像の範囲内でも、含むユニットとなるとまったくわからない(と思う)。
それに、「今回もあるなら、次もアリ」ということを示してもいる。メロン柴田やココナッツアヤカの起用は、今後もチャンスがあれば他ユニットとのシャッフルもありえることを提示したわけで、いろんな意味で今までの変革のルールとは違ったことをやっているのである。それが、古参ファン全体の不安を呼び起こしているのだと思う。
が、もちろん「なんとなく見ている人」にとっては、面白い読みきりマンガの予告編、としか見えないだろうし、それがまたミーハーファン、新規ファン参入のチャンスだと考えられているのだろう。

・「ハロプロ帝国」構築なるか
昔、沢田研二という歌手が大人気だった。歌いながら帽子を投げたり、パラシュートを背負ったり、上半身裸になったり、化粧をしたり、毎回新曲を出すごとにギミックを仕掛け、かつそれが人気を呼んだ。
一見「何でもあり」の歌謡界でさえそれは「邪道」にうつったためか、よく同年代の歌手が「沢田研二をどう思うか」と聞かれていたように記憶する。
で、確か2回ほどそういう表現を聞いたので覚えているのだが「今でこそバカにされている部分もあるかもしれないが、沢田研二が今の路線をずっと続けていけば、いずれ今までになかったすごいものが生まれてくる可能性がある」と言っていた人がいた。同じ人間が別々の場所で同じことを言っていたのか、別人が別のところで言っていたのかは忘れた。
当時ガキだった私は「そういうものか」くらいにしか思っていなかったが、今思うのは「なんて無責任な発言なんだ……」ということ。というのは、「ギミックを仕掛け続けること」なんていつかは飽きられるに決まっているからだ。実際、沢田研二は上半身裸になった頃から飽きられ始め、ギミックなしでも新曲を出し続けていたが記憶している人は少ないだろう。
(余談だが、ものまねの人と一緒に出演するなどの「セルフパロディ化」を頑として認めないことも、沢田研二がリバイバルで出られないことの一因らしい。)

現在、「元祖ビジュアル系」くらいの系譜しか認められていないことからも、果たして沢田研二のギミック攻撃は何だったのか考えさせられるが、「今でこそバカにされている部分もあるかもしれないが、ずっと続けていけば、いずれ今までになかったすごいものが生まれてくる可能性がある」という表現は、現在のモー娘。、およびハロープロジェクトにこそ当てはまると思う。

常に変化し続けるというのは、同じことを飽きられても浮き沈みがあってもやり続けることよりも、最終的には損な気がする。労多くして実り少ないというか。しかし、ハロープロジェクトとすれば「飽きられるなら人を入れ替えりゃいいんだ」ということに気づいてしまったのである。
沢田研二的なものとはニュアンスが異なるが「セクシービーム!」とか「じゃんけんぴょん!」などの、宇多田ヒカルなどと比較すればずっとインチキ臭い(いい意味で)ギミックを延々と持続させることが、もしかしたらできるかもしれない。店の「ドンキホーテ」のように、「ハロプロ的なるもの」が日常にとけ込んでしまう日が来るかもしれないのだ。

・大変革をして大失敗した例
最後に、逆に「大変革をして大失敗した例」を出して本稿の締めくくりとしたいです。
昔、欽ちゃんが人気絶頂の頃、週3本ゴールデンタイムに番組を持っていた。確か「欽ドン!」、「欽どこ」、「週刊金曜日」。
で、定期的にリニューアルを行ってはいたのだが、この3本をリニューアルして(あと終わらせたかもしれないけど忘れた)、「ドキド欽ちゃんスピリッツ」という新番組を立ち上げた。
当時、欽ちゃんの人気はほんの少しだけ落ちてきたかな、という程度でルーティンワークとしては決してつまらないわけではなかったのに、リニューアルしていずれも失敗、新番組はまったく人気が出なかった。関根勤のすごさを見せつけただけに終わった。
そろそろ「欽ちゃん的素人いじり」が飽きられてきた頃ではあったので、いずれ来る寿命を自ら縮めてしまったような印象だった。ドリフも「ひょうきん族」がらみのたけしやさんま、そして「いいとも!」のタモリもいまだに安定した人気を保っていることを考えると、常に変革を求めた欽ちゃんの人気がはっきり言って今いちばんないことは、いろいろ考えさせる。
(02.0804)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第4話

ああー。実は更新などしている場合じゃないのだ。しかし、ちょっと今後面倒な仕事があって、マンガやアニメを見ても頭に入らない。だから現実逃避。なんたるチキンハート。まったく骨の髄までダーク世界の住人なんでしょうか私は……。

で、「陸まお」の第4話。海に「かわいいエイリアン」が突っ込んで、陸の防衛隊まおちゃんも、空の防衛隊みそらちゃんも手が出せない。
そこに第3の「海の防衛隊」、丸山シルヴィアが登場。関西弁のヌーボーとした女の子。名前がガイジンなのはクォーターだから。

今回、「かわいいエイリアン」の目的が少し証される。だが当の「かわいいエイリアン」自身が、まおちゃんたちの変身アイテムを持ってきたこともあり、わかったようなわからないような話になっている。そしてどたばたして、オワリ。

さて、以前も少し書いたが、このアニメ、少しおかしいんである。全員が天然ボケで、それをフォローする世界もなんだかボケている。読者に強烈なツッコミを要求されている感じだ。
「萌え」ということで言えば「萌え的なるもの」をおちょくっている作品だと思う。
どうやら大ボスらしいやつのシルエットが何度も挿入される(OPにも登場する)が、コイツがポコチンみたいな頭をしていて、そこからときどきドピュッと精液のようなものを噴出させる。「すべてがかわいいもの」で囲まれているまおちゃん世界に、唯一コイツだけが異質な存在として描かれているような気がする(でも全身像はなんだかけっこうカワイイ)。

私の展開予想としては、たぶん変身アイテムも「かわいいエイリアン」もぜんぶコイツが地球によこしていて、コイツはただのロリコンで、まおちゃんたちを愛でるためだけに「おびき出した」、そんな感じじゃないかと思う(違っても責任持たないけど)。
要するに、あの頭がチンポ型の宇宙人が「萌え」視聴者を表しているのではないか???

まあそんな予想はともかく、現時点での設定やストーリー展開については、「陸まおと萌え目的アニメの終焉」萌え萌えアニメ日記(2002/07)(←しゅうかいどう)に、ほぼ同意する。黒田洋介って、たぶんそういう「どんづまり感」が大好きなんだと思う。

ツラリと「萌えに対する悪意だか無関心だかを提示する」という点においては「萌え狙い」の作品の終焉、という感じは確かにする。しかし、こういう感触の作品が今までまったくなかったか? と問われると、どうしても吾妻ひでおを思い出さずにはいられない。
吾妻ひでおは80年代のロリコンブーム(と二次コンブーム)の一翼を担ったことで有名だが、その後の「マジネタ一辺倒」の作家に比べるとものすごくシニカルな視点を持っていた。まあギャグマンガ家なんだから当たり前である。
キャラクター重視ということで言えば「ななこSOS」なんかに顕著だが、吾妻ひでおは女の子の扱いがけっこうぞんざいだ。本当に、心の底から少女を愛でていたかというとたぶんそういうことはぜんぜんなく、「こういうのもいいじゃん。」って思っていただけだったと思う。
そういう意味では、今たまたま手にとった「ヤングアニマル」に載っている「Bless You!」竹下堅次朗なんかと比べると、似て非なる印象というか、「ロリコンマンガ」は吾妻ひでおを打ち上げロケットにして、切り離して、たとえば竹下堅次朗を大気圏外に放ったというような印象がある。
その間、20年の隔たりがあるけれども……。

そういう「ロリコン」における「シャレ」もあった、「マジ」もあった、宮崎勤もいた、そしてそれをみんな忘れた、その上でまた「シャレ」をやろうとしている作品じゃないかなあと思う。「陸まお」は。もっとも、本当に何かの「終焉」かどうかはわからない。
「終わった」後もまだ続くのが、この世の常なんで。
(02.0802)



・「週刊少年マガジン」35号(2002、講談社)

「究極のガンダムを創れ! 〜ガンプラ開発物語〜」代川隆史は、読みきりの実録もの。
読みきり、あるいは短期集中連載の実録モノにとっては宿命的な「なんとなく平板な感じ」からは逃れられていないものの、面白く読める。
内容は、「パーフェクトグレードガンダム」の開発物語。タイトルだけ聞いて、いちばん最初の「ガンプラ」開発モノだと思った私はカクッと来た。が、まあ単純に言ってしまえば「プロジェクトX」的なというか、むやみに熱い開発陣、工場のみなさんとのちょっとした軋轢、ふとしたことで発見したアイディアから難問が解決される様子など、そういうお約束はふまえている(「そんなわけねえだろ」的な脚色も含んだ上で)。

それにしても、本当に初期の「ガンプラ開発物語」をやったらぜったい面白いと思うので、どこかでやってほしいが……その前に取材の積み上げが大変か。
(02.0802)



・「ぷるるんゼミナール」(5) ながしま超助(2002、双葉社) [bk1] [amazon]

週刊漫画アクション連載。超巨乳の女子大生・深瀬菜々美がフェミニズムのゼミに入り、自立した女になるためにいろんなことをやるが、超スケベゆえに数々の問題を起こしていく。

漫画アクションの購読をしばらくやめてしまっていたので、なんとなく紹介の間が空いてしまった。タイミング悪い。ぶっとび系の作品としては新刊の祭丘ヒデユキの「コングラッチュレイプ」もこれ描いてる時点ではまだ読んでないし。
掲示板にも書いたが、アイドルファン界(正確にはモーヲタ界か?)は、後藤・保田の脱退、固定ユニットの大胆なシャッフル化などの話題で持ちきりである。「オッパイ大きすぎてゴメンナサイ」とか言ってる場合じゃないみたいだが、そこをあえて突き進むのが「ふぬけ共和国」の存在価値である。

とにかく本作は「ケッ作だ……」とつぶやかずにはいられない、わたし的にはすごいマンガであることを再確認した。

この巻では、ほとんどすべてが「感じやすい巨乳のため、いろいろトラブルを引き込んでしまう。オッパイを小さくしたい!」と思った菜々美が、「ダイエットについて考える」ゼミ生とともにひたすらにバカバカしいダイエットに励む様子が描かれている。
どのくらいバカバカしいかというと、「全裸でサウナに入って緊縛されれば痩せるんじゃないか」とか。

菜々美はやっとの思いでFカップをCカップにまでおとすが、その後もまだお話はえんえんと続く。微乳(ったってCカップなんだが)の菜々美はホルモンのバランスがくずれ、イライラして同じく巨乳の田嶋先生を襲ってしまったり、足フェチの男とつき合い始め、「自分は足にしか興味を持たれていない」と落胆したりする。とにかく単行本1巻ぶん、えんえんと「オッパイを小さくするの大きくするの」という話である。
もちろん、女性が読んで役立つような話はいっさいない。だいたい、FカップをCカップにする、ということ自体、大半の人間にはどうでもいいことだろう。しかしそれだけでストーリーをつくってしまう作者の手腕には感動を覚える。
(02.0801)



・「ぷるるんゼミナール」(6)(完結) ながしま超助(2002、双葉社) [bk1] [amazon]

この巻で、本作はめでたく完結する。思えば「漫画アクション」の半ば成年コミック誌化リニューアルの中で山本よし文の「オッパイファンド」とアホアホ度を競い、一部のマンガマニアをガッカリさせ、一部のマンガマニアを喜ばせた作品であった。

ながしま超助の作品は、たとえば中西やすひろや村生ミオ、あるいは小谷憲一などの「おんなじこと繰り返しエロコメ」だと思って読むと、意外にもそうではないことがわかった。
この最終巻では、ストーリー構成が完全に劇画になっていくのである。

厳しい田嶋ゼミの田嶋先生がなぜ菜々美をゼミに入れたかが過去の因縁とともに明らかになる。そして、菜々美の巨乳は田嶋先生20年来の夢、「巨乳フェミニズム」旗揚げ(学問で「旗揚げ」もおかしい気がするが、とにかくそんな感じ)に必要不可欠な存在であった。
一方、「女は金持ちの男と結婚してナンボ」という現実的な母親によって、菜々美はお見合いすることになる。最初は気が進まなかった彼女は、お見合い相手の佐田が巨乳マニアで、巨乳を瞬時にしてエクスタシーに導く「人間バイブレーター」という技を持っていることを知る。佐田のテクニックに翻弄される菜々美。だが佐田は、巨乳を崇拝するどころかおとしめることによって被虐美を見いだすサディストであった。

佐田の仲間たちとともに毎日まいにちセックスに明け暮れる菜々美。しかし、田嶋先生が「巨乳フェミニズム宣言」を行うため、世界中の巨乳を集めた「世界フェミニズム大会」は直前にせまっていた……。

とにかく最初から最後まで巨乳、巨乳、巨乳のオンパレードで、世界中から巨乳美女が集められて巨乳パレードを行ったりする。田嶋先生の「巨乳は崇高なもので、世界を救う」という考えにまっこうから対立するのが佐田の個人主義的巨乳フェチ(そんなたいそうなモンじゃないが)。で、この作者のマンガでフシギなのは、そういう思想的対立を全面に出すでもなく、かといってただ道具に使っているわけでもない、非常に微妙なタマを読者に投げてくるということだ。
実際、佐田の登場はお話を引っ張る起爆剤となっている。

いちおう前作の「爆射!! 弓道MEN」は「ぶっとびマンガ」にカテゴライズしたが、「ぶっとびマンガ」に特有の「過剰なまでに前へ前へ出てくる感」というのはそれほどない。セクハラ全開でありつつどこかスコンと突き抜けている明るさや、意外性がありつつもどこか脳天気で暖かみのあるラストへ突入していく展開は、飄々としていて気持ちがいい。

これはちょっとマネしようと思ってもできない作風である(「作風」というのは常にそういうものだが)。
そういう点で、なんだか不思議なマンガ家という気がする。

・4巻の感想

(02.0801)



【書籍】・「動物化するポストモダン」感想追記

ちょっと書き足りなかったことがあったので書いておく。本書で私が興味を持ったのは、前述のとおり「近代から『ポストモダン』への移行は第一次世界大戦のあった20世紀初頭から、70年代をひとつの中心として冷戦が崩壊した89年までにゆるやかに行われたものである」と明記されているところである。
……哲学者の間では常識かも知れないし、あるいは極論かもしれない。しかし、80年代後半いわゆる「ニューアカ」の人々の発言がきわめてあいまいだった印象を受けていたため、なかなか面白かった。まあ本当にそうかどうかを細かく検証する知識は、私にはないけどね。

しかし、「ポストモダンへの移行」が75年をかけてゆっくりと進行していた、とはっきりしてくると、たとえば当サイトのような感想系ウェブなどは、「今後の東浩紀は、特定の作品評価はどうしていくのだろう……」とよけいなことを心配してしまう。 というのは、とりあえず自分の「ポストモダンのモデル」の妥当性を立証したいわけでしょう。その際、「20世紀初頭から現在まで」のあらゆる作品が「ポストモダン的であるかどうか」によってきれいに整理されてしまうことになるから。

「これは早くからポストモダン寄りであった」、「これはいまさらなことをやっていてポストモダン的ではない」ということが作品評価の基準になりはしないか、ってのがちょっと気になるんだよね。

本書では85年のアニメ「メガゾーン23」を、当時の時代精神をよく反映したものとしている(ついでにネタバラシまでやっているが……いいのか?)。
「メガゾーン」は私もけっこう好きなアニメで、そのあまりに「いかにも85年」なところも好きだ。で、この作品では「敵」がけっこう不明瞭なかたちで出てきているところに特徴がある。
「敵が不明瞭」で思い出されるのは、当然90年代の「エヴァンゲリオン」だ。ここに登場する使徒もかなり「狙って」いるし、85年のメガゾーンとは明確に違う部分がある。
しかし、違う部分もあるが、同じ部分もあるのだ。

本書では、綾波レイ、ホシノ・ルリ、大鳥居つばめなどの類型的キャラクターについて論じられているが、個人的には「綾波的キャラクター」は綾波なしでは決して出てこられなかったと思っていて、オリジナルがはっきりしているのでかなりどうでもいい話。
しかし、「見えない敵と戦う」という点は同じでも、メガゾーンとエヴァの違いはかなり突っ込んで、あるいは愚直に考察するに足るような気がする。果たしてある作品が時代状況を敏感に反応してつくられたものなのか、それとも何か「パターン」があってそれを踏襲しただけなのか、または「パターン」を利用して「現在」を描こうとしたのか。
私は先のことや現在のことはよくわからないから、そのときそのときの感想を記していくしかないと思っている。その方が、大状況を見るより熱い。 まあそういう感想自体が「大きな物語の喪失」、あるいは「大きな非物語」の登場というどうどうめぐりかもしれんけどね。

やや余談になるが、東浩紀はアニメの知識はともかく、「オタクの歴史」うんぬんということの無知に関しては少しいじめられすぎという気はする。それは、たぶんアニメの歴史は探せばまとめられている気がするが、「オタクの歴史」なんてまとめようという人はいまだにあんまりいないからだ。「オタク史」というものがいまだにないのだ(だから、個人的に岡田斗司夫氏編の「国際おたく大学」がシリーズ化されることをすごく望んでいたんですけどもね)。

「マンガ史」、「アニメ史」、「SF史」はあっても「オタク史」というのはまだない。ちょっと調べてみたが昔出た一般書籍を探すのもタイヘンだし、同人誌即売会のシーンとなると詳しい人に聞かないとわからない。
まだ目を通してないが「ガンダムエース」の最新号で、高千穂遥と安彦良和が、かつて高千穂遥が言ったとか言わないとかいう「ガンダムはSFではない発言」に対して対談を行っているという。どうなんだろう。「ガンダムはSFではない発言」はSF史には残ったのだろうか? アニメ史には? どうもこういう間隙をぬったというか、そのとき盛り上がったんだけど中途半端に忘れられちゃってるようなことに、いろいろ機微があるような気がする。

でもなんとなく忘れられちゃってるんだよね。そういうのをどうすんのかなあというか。そういう中途半端なところをおさえていかないといけないんじゃないかなあと、本書とは関係ないところで思ったりした。
(02.0801)



【書籍】・「動物化するポストモダン」 東浩紀(2001、講談社現代新書) [bk1] [amazon]

なんかいろいろ物議をかもしている、オタク論をベースにしてポストモダンを解説し現代を読み解くみたいな。そんな感じの本。
とにかく、ネットなんかを見ると賛否両論で、オタク的にここが違う、あそこが違うと言われまくり、しかし妙に人気はあるらしく、「動物化」という言葉が一人歩きしているように感じていた(実は今まで読んだことなかったの。いろんな意味でごめんナサイ)。
作者の「不過視なものの世界」は読んでいたんだけれど、正直言って何が書いてあるのかよくわからなかったし。それと、この人のインタビューとか雑誌記事の座談会とか読んでもなんか意味がよくわからないし、「あそこも疑問、ここも疑問」って感じでどうしたものかと思ってた。

そうしたら、意外にわかりやすいよこの本。……かといって、内容を正確に要約しようとするとちょっとたいへんだけど。ネットで他の人の書評もざっと見たが「それは要約として違うだろ」ってものがホロホロと見つかったりしたし。だから、しない。

本作を含めた「ポストモダン」を扱った書物のもっとも胡散臭いところは、「何かが終わり、そして何かが始まろうとしている」と、どの時期に出たどの本でも、訴えていることだろう。少なくとも私にはそう感じる。それは浅田彰も大塚英志も宮台真司も同じ。ぶっちゃけると中森明夫も三田格もそう。
「ポストモダン、ポストモダン」って、いったいいつなんだよ!? 昨日からか? 今日からか? とかいつも思ってた。そして、おおかたはその本の出た「直前まで」がなんか古い世界で、その直後に何かが始まるらしいから、賞味期限はギリギリその本が出た直後まで、という印象。
東浩紀にもその感じはあった。たとえば常に90年代(=オタク第三世代)を基点とする点。なんで90年代なんだよー、という気持ちは今でもある。でも本書では意外に周到で、近代から「ポストモダン」への移行は20世紀初頭から、70年代をひとつの中心として冷戦が崩壊した89年までにゆるやかに行われたもの、だと考えるという記述がある。(p104)
まあ、とりあえずは納得が行く。「今がすでにポストモダンなのかもしれない……」みたいな、怪談みたいなことにはとりあえずなってないからね。

・また「萌え」か……。
だが、やはり最も議論になりそうなところは私も疑問ではある。オタクは「萌え要素の順列組み合わせを楽しんでいる」とか、データベース消費とか。
とくに「萌え要素組み合わせ」に関しては、それが作者の言うように「時代の変化に呼応してそうなった」のか、単なるジャンルの成熟なのかは証明のしようがないのではないか。もともと、少年マンガ・アニメには女の子キャラのバリエーションがそれほどなく、きちんと3人も4人もの女の子を(類型的ではあれ)描き分けるようになったのは80年代に入ってからだ。
コレはもちろん、それまで少年マンガにおいて女の子は重要な役を割り当てられていなかったからで、注意深く書いておくが男性中心社会だったことが直接の理由ではなく、「男の子の読むモノだったから男の子ばっかり出ていた」ということにすぎない。

で、(メンドクサイのでマンガだけに限って書くが)80年代から90年代初めまで、少年マンガへの少女マンガ的手法の流入、「男も少女マンガを読む」というスタイルの確立、「作品に登場する女の子に異性を感じさせること」=マンガに美少女を登場させることの確立、少年ラブコメブームといったモロモロから、読者と作者の間に少しずつ「女の子のキャラ分け」が学習されていったという経緯がある。
だから、それが時代と呼応してそうなっているのか、単なるジャンル的な成熟にすぎないのかは私にはわからない。

・データベースがどうの
「データベース消費」に至っては、私は第三世代ではないのでさらにわからない(本書では「オタク第三世代」の特徴とされている)。……コレも説明が面倒だが、なんというか有機的な意味を持った「物語」ではなく、ネットの検索エンジン的な「データベース」にアクセスし、無限に紡ぎ出される「小さな物語」を消費する……自分で書いてみて、なんだかよくわからないな。
ものすごくぶっちゃければ「大きな物語」へと至る「小さな物語」という構造がなくなってしまい、ストーリーとかドラマ重視からそういう「下地」をそれほど重要視しない「キャラ萌え」へ大胆にシフトしていっている、というような感じか。

実は、物語の構造として「大きな物語がなくなったので小さな物語から小さな物語へと横滑りしていってそれをちまちまと楽しむ」モノが出てきた、出て来るというのはわからないではない。ただし、それが時代状況と強く結びついているかどうかは、私にはわからない。
私の理解が正しいなら、「大きな物語に到達できない、あるいは結局はできても展開上、できなそうだとにおわせる」という作品が、マンガやアニメではいくつか思い浮かぶ(ゲームはやらないのでわからない)。ただ「萌え要素」ということを考えた場合、私の単純な「物語のイマドキ感」と本書で言っていることとはなんとなくズレているような気はする。

まあ何度も何度も指摘されているだろうが、「メイド服」とか「ねこみみ」、「ヘンな色の髪」などの「萌え要素」をパーツに分解して順列組み合わせを楽しむ、という現象の「発見」は本書の「売り」ではあろうが、今に始まったことではない(と言いつつ「『痕』に現れた萌え要素としての触覚」としてわざわざ「触覚」をマルで囲んでいたのにはなんだかウケてしまった)。
イキナリ一般化して申し訳ないが「女性のうなじを色っぽいと思う」とか「制服フェチ」であるとかいった、エロスを「要素」に還元することは、おそらくポルノ小説の中では昔から認識されていたと容易に想像できる。
繰り返すがマンガ・アニメでは「女の子をヤロウが喜ぶようなかたちでかわいく、セクシーに描く」という技術を研鑽してまだ20年くらいしか経っていない。官能劇画より記号化された「Hマンガ」も80年代くらいからだから、20年経っていない。
ジャンル内の技術的発達とポストモダンが関係があるかどうかは、たぶん証明のしようがないだろう。

・「オタク文化の日本への執着」と「うる星」
それと、どうにもツッコミたくてたまらないのが「オタク文化の日本への執着」の例として「うる星やつら」があげられていること。確かにオタク文化(=広義のサブカル)において、なんだか一時期江戸文化だとか中世のアジールがどうとか言われていたことは思い出した。しかし、「うる星」がその文脈に入るとは思えない。
確かに「うる星やつら」に登場するキャラクターはすごくポップなのにも関わらず、連載の途中まで鬼とか巫女、弁天、雪女、カラス天狗といった「日本的なもの」ではあった。が、別に作者が日本に執着していたわけじゃないだろう。実のところ、リアルタイムで読んでいた私にもナゾだ。「SFは受けない」というジンクスがあるから、「宇宙人と日本的な妖怪をくっつけて親しみを持たせよう」というアイディアだったのか……? ちょっとよくわからん。
まあ現在でも「犬夜叉」という伝奇的な作品をやってるし、もともとそういうのが好きなだけなんじゃないかなあ。高橋留美子のシュミにすぎないか、あるいは「忍者ハットリ君」程度の「日本への執着」だと思った方が妥当だろう。ニンニン。

・「オタク」って何だ!?
最後にぶっちゃけまくるが、本書に限らず「オタク論」に常につきまとう最大の胡散臭さは、「オタク」の定義が「本人の自覚が問われないゆえに曖昧だ」ということだ。
「市民運動家」、「サラリーマン」、「浪人生」、「売春婦」、「女子高生」、「やくざ」……こうしたくくりは、外的な要因によって決定されるから、とりあえずの線引きはできる。
「高校に行ってるけど私は女子高生じゃない」とか、「会社勤めしてるけど、おれはサラリーマンじゃない」なんていう言い訳はできない。

ところが、「オタク」に関しては、いくら議論を尽くそうが定義は絶対にできない。
コミケに行ったこともないオタクもいれば、オシャレでカッコいい外見のオタクもいるだろう。自覚しているやつ、無自覚なやつ、いろいろだ。
岡田斗司夫氏の「オタク」の定義が、唯一自覚をうながした点でカテゴライズしやすいが、本書はそうした文脈よりもっと広く「オタク」をとっていると思う。

ということは、どんなに学問的な方法論にのっとっているように見えても、その論理展開にはどうしてもマユにつばをつけざるを得ないと言うことだ。「マユツバでもいいじゃないか」という考え方もあるだろうし、それも悪くない。あくまでも「感覚的」には、オタクは常に認識され続けているからだ。しかし、学問的なコロモをまとっているモノほど、「要はただの言いようなんじゃないの?」という床屋政談になり下がる危険性は、常にある。

知識人と大衆、という区分けは現在では無効化しているらしいが、それは大衆側に「知識」が流れ込んで少し平板化したということだ。
「オタク」はその「知識が大衆に流れ込んだ一形態」であるため、「知」の側面から語られやすいが、かつて知識人の役割を担っていた人が「オタク的嗜好」を持っている場合もあれば、世が世なら毎日縁側でボーッとしてたようなヤツが、たまたま近所にレンタルビデオ屋があったんでオタク化した場合もある。
腐っても「知的行動」ととる視点をいったんやめてみるのも理解の一手段かな、とも思う。
まあそうすると「イケてるイケてない(し、死語……)談義」や、安易な大衆批判に堕する可能性も高いけどね。

おわり。
(02.0801)

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