つれづれなるマンガ感想文11月後半

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一気に下まで行きたい



【小説】・「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ(1955、1980、新潮文庫)
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第22話「幸せを防衛しよう」
【テレビ】・「おはスタ」(2002、テレビ東京)
【映画】・「トリック 劇場版」(監督:堤幸彦、脚本:蒔田光治、2002、東宝)
【書籍】・「モーニング娘。バイブル 言いたいこと全部。2」(2002、宝島社)
・雑記
・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)
【アニメ】・「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」 第40話「どれみと魔女をやめた魔女」
【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第21話「防衛少女アメリカン」
・「早熟児」 海明寺裕(2002、久保書店)
【同人誌】・「XXX Games−美と裸の祭典−」(上) 海明寺裕(2001、空色の猫目石)
・「麻雀激闘録3/4(よんぶんのさん)」(3) ほんまりう(1986、竹書房)
【アニメ】・「機動戦士ガンダムSEED」第6話 「消えるガンダム」
【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第5話 「笑わない少女」
【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第6話 「斗牙の休日」
【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第7話 「渚のドリル少女」
【CD】・「去年出たやつ」レオパルドン(2002)
・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)
・「コミックメガストア」 1月号(2002、コアマガジン)






【小説】・「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ(1955、1980、新潮文庫) [bk1] [amazon]

・はじめに
マンガをオタク的観点から見る場合、あるいはオタク好きのするマンガを読む場合、「ロリコン」=「ロリータ・コンプレックス」は避けて通れない。なぜかホモでもサドマゾでも熟女マニアでもなく「ロリコン」なのだ。
80年代初頭のロリコンブーム時、あるいは宮崎事件直後などは悪意たっぷりに「なぜオタクにはロリコンが多い(ような気がする)のか」についての分析がなされたが、真相は知らないし、考えてもわからない。

数年前、エイドリアン・ライン監督が映画化した「ロリータ」を見に行った。「スター・ウォーズ エピソード1」公開時には、作中のキャラクターのコスプレをした若者が徹夜で映画館に並んだりして盛り上がっていたから、「ロリータ」映画化の際にはロリコンの人が集まって盛り上がったりしているのかと思ったら、ぜんぜんそんなことはなかった。コジャレたカップル、女の子2人連れ、映画マニア風老紳士などがポツリポツリといただけであった。ちなみにキューブリック監督の方はまだ見てません。
むろん、巷に流布する「ロリコン」と「ロリータ」に登場する嗜好がかなり違うことぐらいはわかってます。ちょっととぼけただけです。映画はそれなりに面白かったが、冗談とも本気ともつかないところ、監督の演出か原作に登場するシーンかが判然としないところがあり、やっぱり原典を読むしかねえと思ったわけです。

が、ナボコフという作家自体がまず一筋縄ではいかない。「いまだに日本では、ナボコフ=ロリータというイメージしかない」というのがナボコフファンの嘆きの一部であるらしい。すっとぼけて感想書いちゃえ、とも思ったが「『ウルトラマン』は、いまだに実相寺監督作品ばかりもてはやされる」とか「『デビルマン』は原作もいいがアニメ版の面白さももっと指摘されるべき」とか飲み屋で言ってたりする関係上、文学作品に関してとぼけるのはマズいんじゃないかと思った。

そうした作家のイメージ、知名度とともに、ナボコフはロシア人であり、ロシア革命後はフランスやドイツやアメリカに住んでいる。「ロリータ」はもともと英語で書かれた小説だし、主人公のハンバートはやたらとフランス語でしゃべるシーンがあり、そのルビがはなはだ読みにくいし、読んでも意味がわからないし、なぜ何かとフランス語で話すのかもよくわからなかった。
つまり、50年代という比較的最近書かれた小説にしては、背景が実に読みとりにくい。

本作が出版された背景についても、作品理解には必要なはずだが、文庫版の解説にも書いてないし、ざっと検索してもよくわからなかった。すなわち、当初アメリカで作品の不道徳さゆえに出版拒否された事実についてなんだが(最初はフランスで出版)、似たような話(だと私には思える)である谷崎潤一郎の「痴人の愛」が1925年の作品なのである。
「痴人……」についても、浅学にして出版当時の背景はわからない。が、背徳的な小説だとは思われていただろうが、それゆえに出版されなかったということはなかったと思う。

……というようなわけで、「ロリコン」の原典に当たってまず見晴らしをよくしてから、と思ったら「ナボコフ」という私にとってまったく未知の領域の作家が眼前に出現してしまって、当惑したことこのうえない。
だったらこんなテキスト書かずにそらっとぼけていればいいのだが、ざっと「ロリータ」の感想をネットで検索したらあまりにも納得のいかないものが多く、何となく感想を書きたくなったという次第です。

・あらすじ
中年男、ハンバート・ハンバートの獄中手記としての体裁で物語は始まる。
彼はもともと、容姿端麗でインテリで、金もある程度持っていて、女には不自由しないモテモテ野郎であった。
しかし、彼を苦しめる彼自身の嗜好があった。彼の直球ストライクな女性の年齢というのが10〜12歳くらいの少女なのだ。
しかも若いだけではダメで、美しいだけでも、カワイイだけでもダメだ。そこに一種独特の、もう数年年齢を重ねたら消え去ってしまうような独特の「美」がなければならない。そういうサムシングを持つ少女たちを、彼は「ニンフェット」と呼ぶ。
金で少女を買おうとして失敗、金で成人女性を買ってみたけどやや失敗、カモフラージュに成人女性と結婚してみたけど大失敗したハンバートは、キャロライナ州の片田舎町・ラムズデイルで12歳の少女・ロリータと出会う。
下宿先の未亡人の娘で、彼女に一目惚れしたハンバートは一緒にいたいというだけの理由でそこに住むことにする。
その一目惚れ具合も尋常ではない。もう完全にロリータの虜、ロリータに狂ってしまったのである。
あまりにも、自分の好みに超直球ストライクな少女と出会ったハンバート。至高の体験をすると同時に、そこからが破滅の始まりだった……。

・感想
ネット上の感想では「これはポルノではない」というのと「美しい小説」という感想が多かった。間違いではないと思うが、とにかくそうした説明からはこぼれおちる、皮肉と冗談に満ちた小説であることは間違いない。

まず第一に思ったのは、「作者=ハンバート」ではおそらくないことだ。重なる部分もあるが、ズレている部分もあり、それが読者に明白なのだ。
ハンバートの嗜好や行動に対し作者が「しょうがねえなあ、この人」と共感している部分もあれば、突き放して小馬鹿にしているような部分もある。ハンバートの教養、知識体系は意図的につくられたものだと思うが、必ずしも作者は全面的に支持しているわけでもないように思えるし。

たとえば、普通の大人にとっては子供じみてぜんぜんエロくないなあ、というロリータの仕草が、いちいちハンバートには今でいうハァハァ状態なところとか。厳密に言うと、彼のハァハァ状態の仕草には「子供っぽくてダメ」なものと、「子供っぽいがゆえにエロい」ものがあるらしいとか。
そういう書き分けとか、ロリータについての描写など、「そういうマニアの人」を皮肉っているというか笑っているとしか思えない部分がある。
ねじくれたユーモアが全編に漂っているが、とにかく背景がわからないので笑っていいかどうかわからないものが多い。アメリカ流のベタな感じとももちろん違うし、イギリスのチェスタトンなんかに見られるひねくれ方とも違う。このあたりは本当によくわからない。

第二に、作者はフロイトなどを嫌っていて、「ロリータ・コンプレックス」などという言葉は本人の最も意図していないところだと思うが、ハンバートの嗜好が嗜好としてあまりに徹底していること。
「痴人の愛」との最大の違いはそこで、「痴人……」ではあくまでも「若い蠱惑的な女・ナオミ」という個人に譲治がひかれていく様子を描いていた。確か、譲治は他の女には目もくれないのである。
ところが、ハンバートというのはロリータを手に入れてからも、彼女の友達から「ニンフェット」たる少女を探す。本に載っていたガールスカウトの写真を見てはハァハァする。ロリータが「ニンフェット」たる年齢を過ぎてしまったとき、愛も覚めてしまうだろうと自覚している。しかし、ロリータに娘を産ませればまた美しいニンフェットになるのではないかと夢想する……という具合に、「頭にはソレしかないんかい!」とツッコミを入れたくなるくらいに嗜好が徹底している。「ニンフェット」という抽象概念が、もう心根に根付いてしまっている。

ロリータ個人に関する描写も偏執的なところがあり、とくに「ロリータがテニスをしているときがとにかくいちばんかわいい、ああ映画にとっておけばよかった」とえんえん回想して嘆くところ、「ロリータに自転車を買ってやってよかった、彼女が自転車に乗っている仕草が本当にかわいいんだコレが」と思い出すところなどは、「やっぱり笑わせようとしているのかな?」と思うくらい執拗で、しかもこうした視覚的な描写は「痴人……」にはないものである。いや、あることはあるんだけどはっきりとエロスを志向しているのに対し、本作の場合は「好きな人間しかわかんねーよ」な描写がなんだかすごい。

「痴人の愛」に感じない「おいおい」な感じを、「ロリータ」に抱く人はいるのではなかろうか。

第三に感じたのは、「美しい」とか「ブンガク的」という感想は間違ってはいないが、そうした感想からは逸脱するほどエンタテインメント性がある、ということである。
前半は「いかに世間的に非難されずにロリータを手に入れるか」ということにページが費やされるし、後半はロリータを連れ去った謎の男を追い続け、復讐することにページが費やされる。
要するに、サスペンス性があるのだ。

「読みづらい」、「途中で投げ出す」という意見もネットで目にしたが、形容詞の多い描写は最初はひっかかるものの、大久保康夫の訳は途中からものすごく読みやすくなるし、フランス語のルビはぜんぶ読み飛ばしてもかまわないと思う。読んでそのニュアンスがまったくわからないかぎりは。
少なくとも大江健三郎やラブクラフトの1000倍は読みやすい。

実際、このエンタテインメント性には当惑を覚えるほどだ。謎の男の「正体」はミステリ仕立てだし(「ミステリ」というほどではないが)、復讐を完遂するところもどこかふざけていて、それでいて緊迫感がある。
映画では、復讐される側の男が復讐に燃えるハンバートを前にして、なぜか全裸でピアノをひきまくるシーンがあるが、これは原作にもあった。ふざけているとしか思えないが、形容しがたいもの哀しさもたたえている。

第四に、いちおうのベタな説明がきちんとある、ということである。
たとえば、ハンバートはもともとニンフェット志向だったわけではなく、子供の頃に12歳くらいのガールフレンドとの性交がうまくいかないことがトラウマになっているらしいとか、なぜロリータの心がハンバートを離れてしまったかということが「ここまで説明しちゃっていいの?」というくらいきっちりと説明されている。
しかし、総合的にはベタで終わっていないわけだ。深読みもできるし、また同時に深読みを拒絶しているようなところもあるし。
訳のせいもあるのだろうが、あまり「ブンガク」っぽくはないのだ(「ポルノ」を期待すると裏切られる、という説明は、もはや本作をポルノとして読む人はいないと思うのであえてしないが)。
かといって、俗っぽくもない。あまりに説明されると解釈の余地がなくなって面白くなくなる場合があるが、全編通して独特のブラックな印象に包まれていて、読後、何とも言えない気持ちになるのである。

・おわりに
以上がだいたい読んで思ったことであるが、「オタク」と関連させるとすれば、やはり執拗ともいえる視覚的な描写にあるだろう。
現在の、日本の視覚的エロスの源泉の多くは欧米から来ていると思う。パンチラとか裸エプロンとかね。胸の谷間が見えるとか、太股がチラリと見えるとか、全部そう。
だって「洋服」そのものが日本になかったわけだから。

で、本作はオタク論における「ロリコン」とは直接の関係はないんだろうけど、「こういうのにハァハァする」みたいなオタク言動と、驚くほど相似形な部分も多い。
それがアメリカ的なものなのか、ロシア的なものなのか、ヨーロッパ的なものなのか、この作者の資質なのか、それは私にはわからないんだけどね。

これは本当に何なんだろうなあ。すごい当惑する。でも小説としては非常に面白いですよ。
(02.1130)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第22話「幸せを防衛しよう」

かごめ(まおちゃんたちの上司、学校では教師)は、あこがれの陸士郎(まおちゃんの祖父)に呼び出され、見合いを勧められる。 陸士郎の告白を期待していたかごめは、混乱してつい了解してしまう。
見合い当日、お見合い場所の料亭に様子を見に来たまおたちは、カンガルー型エイリアンを発見するが、騒ぎを大きくして見合いを中止させないために、 料亭内を逃げ回るエイリアンを追いかけまわす……というドタバタ劇。

アニメやマンガで1話は必ず出てくる「お見合いこわし」エピソード。一度だれか、アニメやマンガの膨大なエピソードを集大成して「お見合いこわし大全」とか同人誌でつくったら面白いんじゃないかと思う。でも、だれかがやりそうでやらず、買う方も買いそうで買わない企画だなこりゃ。

さて、本作は意識的なベタエピソードの踏襲が多いが、今回はわりときまじめに「お見合いをこわす」のではなく「お見合いを中止させないように」行動して結果的にぶちこわれてしまうところがミソ。
それと、お見合い当日までの時間経過の描写(遠景に朝日が昇って夕暮れになって夜が来て……というのをものすごくチャカチャカと繰り返す)が面白かった。これはマンガではできないね。実写でやったらもっと面白いかも。

今回の作画は、なんだかムリしてマネして描いたような絵で、あまり上手に見えないんだが妙にカワイイ。
(02.1130)



【テレビ】・「おはスタ」(2002、テレビ東京)

主に「おはガール」と小学館系の情報を流すことを主眼とした、子供向け月〜金の帯番組。公式ページ。「山ちゃん」が司会のやつね。

今まで当ページでうだうだ書いてきたことについては、こことかここを参照。

・「学校でデカいのしてわるいか」キャンペーン復活!!
毎週木曜日、「よゐこ」扮する「よゐコーン」が「学校のトイレでウンコをしても、恥ずかしくない!」ということを小学生にオルグするため奮闘するコーナーがあった。
小中学校のトイレでウンコして、人間扱いされない経験をした人も多かろう。なかなか面白い企画だと思っていたのだが、「よゐコーン」が文部科学省のおエライさんのところへ行って「学校でデカいのしてわるいか」キャンペーンの重要性を訴え、ひとまずオルグは達成したと考え、その後一時期お休みになっていたらしい。

28日(木)の放送では、中沢プロデューサー(現実の番組プロデューサー)が登場、「まだ学校ででかいのができない小学生が全国で64万人もいる! よゐコーン、このままでいいのか!」と説教。よゐコーンは次週から「学校でデカいのしてわるいか」キャンペーンを復活させるらしい。

いちおう後世の歴史家のために書いておくと、同番組の「学校でデカいのしてわるいか」キャンペーンはもう1年以上は少なくとも続いていて、毎週木曜日に、美少女だろうがアイドルだろうが「学校ででかいのしないと健康に悪いよ!」と言わせられるというコーナーであった。
いちばん盛り上がっていた頃は「学校ででかいのしよう体操」(正式名称失念)を出演者全員がさせられていた。和式でウンコするときのようなポーズだった。

今後の新展開が興味深い。

・おはガール・フルーツポンチのミニドラマ「クリスマスがどうたらこうたら」
新曲「クリスマスなんとかかんとか」発売へ向けて、おはスタ恒例のミニドラマをやっている。おはガールのメンバーが特訓したり仲間割れして仲直りするようなやつ。
で、ぜんぜんマジメに見てなかった。ビデオ早送りしてた。
前おはガールのウチリサがスタジオに来て、「あなたたちはおはガールじゃない!」などと言わせてドラマと現実との境界線を曖昧にするのかな〜と思っていたら(デビュー曲のときはそういう感じだった)私が見たかぎり最初だけで、後は普通のミニドラマになった。

で、繰り返すがぜんぶ早送りしていた。中途半端だから。
えりボン「ウチリサ先輩ウチリサ先輩って、みんなそんなにウチリサ先輩のことばっかり言うんだったらウチリサ先輩と(バトンを)やればいいじゃない!!」
さおりん「違うのよ! 5人いたら一人は巨乳がいた方がいいのよ!」
えりボン「私が乳だけの女だと言いたいのね、ムキー!!」
みお「えりボン、もういいでしょ。みんなえりボンを待ってたんだよ」
ゆりん「みおはロリ体形すぎるからおはガールには入れられないもんね」
コンちゃん「沖縄に行ったときとか、あまりにロリ体形すぎてヒいたよ……それに水着が黄色だったから、遠目にハダカかと思ってうろたえたよ」
みお「私はねえ、そういう路線でやっていくんだからほっといてよ!」

……というやりとりは途中から全部ウソなんですが(当たり前だ)、「学校ででかいのしてわるいか」にいきなり中沢プロデューサーが出てきたりと、もう仕掛けも虚構も現実もグチャグチャになってますな。やっぱりデビュー曲のときに中途半端なことやるからこうなるんだよ。

あ、でもずっと前に書いた「どうせやるなら、おはガール以外の出演者にも試練を!!」という意見が現実化したことにはなるか。みおも突然ハリポタ役の男の子のインタビューを命じられたしな。
(02.1129)



【映画】・「トリック 劇場版」(監督:堤幸彦、脚本:蒔田光治、2002、東宝)

公式ページ

テレビ朝日でやっていたドラマの映画化。

売れない奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)は、村人たちの不安を取り除くため神を演じてほしいと、糸節村の男女(山下真司、芳本美代子)から依頼を受ける。だが村で奈緒子を待っていたのは、自分の他に神を自称する3人の怪人物(竹中直人、ベンガル、石橋蓮司)たち。
村人は「だれが本物の神かテストする」と言う。著作「どんと来い超常現象」の取材に来た物理学者・上田次郎(阿部寛)は、村人には姿を見せず陰ながら奈緒子を助けようとするが……?

すでにテレビで2回連続のエピソードがあるし、「山奥の閉鎖的な村で起こる事件」というエピソードもすでにやっているため、映画としてのスペシャル感はない。 が、いつもどおりの人を食ったような演出と、小ネタながらたたみかけるトリックとそのたねあかしで引き込まれる。……というか、テレビドラマのファンしか見ないと思うんでぶっちゃけると、テレビのファンにとっては充分満足のいく出来だと思う。

私はテレビの「トリック」は、パート1もパート2もそれぞれ半分くらいずつしか見てないことを前提にして書くのだが、この「劇場版」は、最後の最後が何か惜しかったと思う。
このドラマに関して「演出が鼻につく」という人がいる。まあこのあたり、好き嫌いの問題なのでどうしようもない部分ではあるが、そもそも本作のトリックは、「温泉グルメうんたらかんたら」みたいな2時間ドラマで使用したら「ふざけるな」というようなものばかりである。それを「アリ」にしているのが、奈緒子が貧乳であるとか、刑事がカツラであるとかのアホらしい設定であり、わざとらしい言動や行動をとるその他大勢の登場人物たちである。
すなわち、個人的には演出は一種のミスディレクションであると考えているのだが、どうせ「鼻につく」という人は作中のトリックもバカバカしいと思って取り合わないだろうから、まあいいです。もう説明しません。

さて、なぜ「惜しい」と思ったかというと、真相そのものが悲惨すぎないですか? 最後もギャグっぽく終わってるけど、なんかそれどころじゃないだろうとツッコミを入れたくなってしまう。
そもそも「外界と隔絶した山奥の村で、前近代的な『神』を信じる村人たちの間で起こる怪事件」という設定そのものが、現代を舞台にした場合、もう今ではありえない設定である。それを可能たらしめているのが、前述の、本作独特の演出であり、また強調されている村人たちの「胡散臭さ」である。「神を演じる人々」を盲信する側面を持ち合わせながら、「にせの神」を疑うしたたかさは持ち合わせているという描き方。
それが、そのまま真に前近代的な因習のからむ真相へと直結しているのだが、そこでちょっと「そりゃないんじゃないか」的なオチになる。前半の「にせの神を村人が判定する」というエピソードは従来の「ドラマ『トリック』」的な方法で描き出すことに成功しているものの、後半のシビアさはその範疇から逸脱してしまい、結果的にどこか投げっぱなしの印象がある。

確か、ドラマ「トリック」パート1の最終回では、「前近代的な因習を持つ」故郷の島に奈緒子が戻り、そこの村人たちの事件に巻き込まれる話だったが、あちらは物語の描き方とプロットに乖離はなかった。が、本作では真相の深いところには踏み込めなかったというか、逆に「意外性にプロットが準じる」と考えた場合でも、意外性を重んじるあまり本作の方法論では描ききれない領域に踏み込んでしまったという感じはする。
いや、パート1の最終回っぽいことをもう一度なぞってもよかったと思うのだが……。

もっとも、そうした不満は少々あるものの、子供じみたトリックを堂々と描くドラマとして、今後もシリーズ化が望めるという点でまたドラマでも映画でも、こうしたものを見てみたいという感じはある。
「古畑任三郎」は、主演の田村正和が大物すぎるのと、パート2の後半からの脚本の煮詰まり具合には「ちょっとどうか」というものがあって、今後新シリーズが見られるかどうかわからないし……。

阿部寛は、「孔雀王」(未見)や、カラテアクションもののVシネマ(タイトル失念)など、わりとマンガっぽい役ばかりやっている印象があるが、それが実を結んだという感じ。カッコいいやつがあえて真顔でバカげたことをする、というキャラクターは、最近いそうでいないと思うんで。
(02.1128)



【書籍】・「モーニング娘。バイブル 言いたいこと全部。2」(2002、宝島社)

平田裕香はあいかわらずいい。松浦亜弥はアイドルサイボーグだと言われるが、ヒューマノイドにたとえると硬質の松浦がグレッグならば、やわらかそうな平田裕香はオットー(byキャプテンフューチャー)。ヘンにつくっていないだけ(あるいは「つくっていないように見せている」だけ)、その虚構性は小倉優子より上だ。
それゆえ、ファンは癒されるだろうが、松浦のアイドル性が「歌」とか「ステージ上の存在感」に帰結するのとは対照的。ファンの心中の「平田裕香的」なるものは、マチスモからもフェミニズムからも徹底的に踏みにじられるだろう。
そうしたルサンチマンが、彼女のファンには鬱積しているに違いない。

一方、内田さやかはギャル系の最右翼(と勝手に思っている)。まだしゃべっているのを見たことがないので判断は一部保留だが、ファースト写真集から比べると現在、格段にキレイになっている。あと、唐突に話は切り替わるが大城美和もよくなっている。ひさびさに、半年とか1年単位でキレイになっていく子を見た。
イエローキャブ(事務所のイエローキャブ)の政治力だか何だか、乳がでかいだけでビジュアル的にはツマンナイ人が増えた。イエローキャブが今のグラビア界のパターンのようなものをつくった実績は買うから、もう一度シャッフルされる時期に来ていると思う。いろいろと。

……というようなグラビア系の話をしたところで、「モーニング娘。バイブル2」をあらかた読んだ感想。
リリースされたCD、コンサートやテレビ出演などの基礎データがすごく充実していて、こういうのは細かく熟読する人は少ないだろうが、ものすごくイイ仕事だと思う。
子供の頃は何とも思わなかったが、オトナになるとこういうのがいかに大変かわかりますからね。

そうしたデータ性を前提とした上での、個々のパーソナル・キャラクターやユニットの分析も的を射ていて非常に面白かった。
関連して書くと執筆者が重なっている「まるごとモーニング娘。 音楽誌が書かないJポップ批評」 別冊宝島編集部(2001、宝島社)も面白かったです。

キャラクター分析は、分析される本人が面白い場合と執筆者が面白い場合、その双方がシンクロしている場合がある。飯田圭織や五期メンバーなどは、立ち位置が微妙で書くのがむずかしいだろうと思うし。逆にイメージが堆積しすぎている後藤真希なんかもむずかしいだろう。
いちばん笑ったのは「ココナッツ娘。」の項で、ミニモニ。におけるミカの「星条旗みたいなのが書いてあるつなぎ」に注目していたのは面白かった。いや、ミカが立派に「ミニモニ。」のメンバーとして認知された過程というのはある意味感動的なものがあるし。石川梨華の成長はよく指摘されるところだが「なじんだ」という点では、ミカも(視聴者側の視線の)同じくらいの変化が認められるのだ。
別執筆者の、「うたばん」の石橋と「Matthews Best Hit TV」の藤井隆のアイドルいじりを「中学校の休み時間」と「大学のサークル」にたとえたのも秀逸。

これに対し、杉作J太郎の加護亜依評は驚くほどパンチが弱い。もともと「けなし芸」とは無縁の人だが、なんだか往年の、エヴァや綾波にハマリ込んだ人々の文章を連想してしまう。別に、他の文章を読むと筆が鈍っている印象はないので、真性ファンになるとここまで礼賛になってしまうのかとちょっと考え込んでしまった。

ここで疑問を提示した「なぜハロモニ評がないのか」だが、積ん読にしてあった本書の第1弾を引っぱり出してきたら、そこではちゃんと記述があった。ただし、書籍全体のトーンとしては「ASAYAN的なるもの+楽曲批評」という意味合いが非常に強く、虚構性の強い「ミニモニ。」や、テレビ番組で言うと「ティンティンTOWN」などの扱いが不当に低い気はする。ハロモニに至っては記述もないわけだし。

そこで感じたのは、やはり本書は「モー娘。」をASAYAN的な視点で見ているということ。メンバーの加入や脱退、あるいはユニットの改変、「だれだれはキャラが弱い」とか「だれとだれが仲が悪そう」などといったキャラクターや関係性の評価などの、現在ある要素はおそらくASAYANにすべてあったのだから当然といえば当然なのだろうが。
個人的には虚構性の強いものが好きなのだが、ハロプロにおける虚構性(たとえばミニモニ。や「ミニはむず」)に注目するのは、やはり本道ではないのだろう。本書ではコミックソングに愛着があるらしい宝泉薫が「アイ〜ン体操」に冷淡なのも哀しい。

とにかく、よくできた本だと思いました。

・ミカ評(いきなり)
んでまあ、以下は紹介した本とは関係ない、私の極視的なミカ評。

私はミニモニ。をかな〜り高く評価してますので、ミカもココナッツ娘。というよりはミニモニ。の一員、という印象が強いんですが、確かに加入当初の外様っぽさはぬぐいがたいものがあった。
「なんだよ、オトナの事情かよ!」と三村的ツッコミをしてしまうほど大人げなくはなかったんだが、「矢口が勝手につくった」という虚構性を揺るがせるものという印象はあった。

が、その後ミカの独特の位置づけにうならされることにもなった。
まず、矢口、加護、辻全員を主役にできたという役割(ミカはあまりうれしくないだろうが)があった。
3人組というのは不思議なもので、どうしても「センター、次点、野村義男」という役割がわりふられてしまうのだ。「キャンディーズ」で言えばミキ、「ごまっとう」で言えば、今のところ残念ながら藤本美貴(同じ「ミキ」か)。
もし「ミニモニ。」が3人でデビューしていたら、おそらく「野村」のパートを辻が受け持たなくてはならなくなる。が、実はミニモニ。の陰の中心は辻であるため、それではバランスが悪い。もともとアナーキーさでは辻→加護→矢口の順番なのだが、そこに「アメリカ人で、しかも身長は150センチ以上、さらにバカっぽいこともそんなにできない」という辻とは別種の「異質性」を持ったミカが加入したことで、辻が自由に動けるようになったという面はあると思う。
日本庭園に置かれた、バランスのための最後の1個の庭石、それがミカだった。

また、「おはスタ」において「ミニモニ。」のスポークスマン的役割を果たしていることも、まあ世間的には小さな仕事だろうが個人的には重要だと思っている。
ミニモニ。で全員が「おはスタ」に生出演するのは、新曲リリースなどのよほどのことで、通常時の生出演やガキどもがミニモニ。のものまねで素人参加する「マネモニ。」の審査員、さらに「おはスタ」全体が夏休みとなって録画放送となる8月の一周まるまるなど、すべてミカが受け持っている。

グループ全体の「上品」部門を受け持っているのも、考えようによっては重要。「アイ〜ン体操」レコーディングのときに志村けんと共演して「感激して死んでもいい」と言ったり、「おはスタ」の夏休みの週で「ハワイの怪談を話して」と言ったら「若い男の子ばかりを襲うトカゲ女」という、どこか異国エロス漂う話をしてみたりというイイ味も出してるし。

もっとも、ここまで褒めちぎってきたが今後ミニモニ。の「リーダー」になると話は別。新加入の高橋愛もおとなしそうだし、ユニットのいい意味で浮ついたイメージがなくなってしまう恐れもある。

そういう意味では、バイプレーヤー的役割の人の辛さを感じてみたりもする。
(02.1127)



・雑記

・その1
今明かす、『LOVE ME IN DA BEAT』の秘密レオパルドン
最近、アルバム「去年出たやつ」(私の感想)をリリースしたテクノ・ユニット「レオパルドン」の公式HP内で、アルバム収録曲「LOVE ME IN DA BEAT」のイメージについて、「こういう映画のこういうときにかかって欲しい」と冗談混じりに書かれたテキスト。曲はここで視聴できる。

今どきありえない「ディスコでのダンスバトル対決」を描いた架空の映画について語っているのだが、この映画のストーリーに半ば本気で感動してしまったよ(笑)。このテキスト書いた人はすごく映画見てますよね。……って確か香港映画ファンなのは知ってたけど。
・アニメ版「こみっくパーティー」や「わが子が[いじめ]にあったとき」でもそうなんだけど、個人的に、傷ついたり未熟だったりした少年少女が、マンガや音楽などの自己表現に関わることによって自己変革していくという話に、不当なくらいというか、とにかくものすごく感動してしまうんですよね。
「火の鳥 鳳凰編」とかもそうかな。

それもねえ、主人公にものすごく才能があって、その才能によって道が切り開かれる、そっちのサクセスに重点が置かれるようだとダメで。あくまでも主人公の自己開放の方にウェイトがないと。
……実際には、失望とかモメ事とか、つまんないことの方が多いと思うんだけどね。
「プロジェクトX」とかでは職人的技が賞賛されて、日本人は細かいことが得意らしいからそういうのが多いらしい。昔はその「細かさ、緻密さによるすごさ」っていうのも感動の対象だったんだけど、自分がいかにえーかげんな人間かを思い知ってから、感動のツボからはずれた。
逆に言うと、「徹底的に細かい」ことと「全体像を見渡す」ことのどちらかができないと、世の中ってサクセスできないどころか、右のモンを左に動かすだけみたいな仕事しかないんだよな。
「右のモンを左に動かす」ことにもむろん機微はあるんだけどね。

そんなこんなで、だれかが自己表現で何かを掴んでいくことに対する感動は、まだ消えてないみたい。まあその理由についてはいろいろあるんだが、思春期の最初のとっかかりみたいなところにある感情であるぶん、フィクション色が強すぎて、私の心の中に残っているのかもしれない。すでに自分の中で、ノスタルジーの領域に入りつつあることでもあるし。
まあ、なんかのかたちであっさり消えちゃうかもしれないけどね。こうして言語化すると消えてしまうのかもしれないし。

・その2
「いつか小説を書きたい」とホザく中年ってのはけっこう多くて、「実はこういうアイディアを思いついたんだ」とかいう人間も多い。でもそういうヤツはたいてい書かないのな。「書きたい」じゃなくて、今すぐ書かないと。
そのタグイの話として「空手家と宇宙人が戦う」という話を「書きたい」と思って、宇宙人の名前を決めようと思った。「スパイダーマン」で「グリーン・ゴブリン」っていうのが出てきたから「グリーン・グリーン」でいいやと思った。ほら、「グレイ」っていう宇宙人いるでしょ。じゃグリーンでいいかなと。それと、「未知との遭遇」で出てきたUFOからの音楽、あれが「グリーン・グリーン」だったら脱力するだろうなぁと思ったの。
そしたらグリーン・グリーンっていうギャルゲーがあるらしいんだよ。
このページ、開くといきなり声がする。リロードすると何種類も出てきて、……すごく萎えた。どっとはらい。

・その3
アイドルの衣装って、それだけであんまり言及されないですよね? そうでもないのかな?
ピンクレディーの「UFO」の衣装を今でも覚えている人はいると思うけど、あれも歌のインパクトとつながったものだし。

森高千里のウェイトレス姿と、杉本彩のTバックくらいですかね。独立して語られるのは。森高千里は「ストレス」のときにウェイトレス姿だったんだけど、これは確かPVが喫茶店のウェイトレスのストレスをテーマにしていたことと関連していた。
で、あるときの歌番組では最初コートをはおってて、歌うときにおもむろにそれを脱いでウェイトレス姿になって歌っていた。「ミュージックステーション」みたいな、ゲスト全員が集まって座っている形式の歌番組で、ジャニーズだか何かのバンドの男が、その森高を見てあからさまにスケベそうなリアクションをしていたのを思い出す。
なぜただのウェイトレスなのにそれほどインパクトがあったのかは、面倒くさいので説明はしない。くそー、前置きが長くなったな。

「カントリー娘。と石川梨華(モーニング娘。)」「BYE BYE 最後の夜」の衣装は「ものすごい」ものだと思っているのだが、知り合いと飲んでて話していたらぜんぜんそんなふうに思っていなくて、ぼけらーとしていて、キャバクラ内でぼくとつキャラみたいな女の子を探してはお気に入りにして通い詰めるような、志の低いそいつに失望して、今ここにそのいらだちをぶつけている。
あれものすごくエロくない? あれって「BYE BYE 最後の夜」に話を戻してますが。ある意味、「かわいらしいエロさ」を主眼とした前曲「色っぽい女〜SEXY BABE〜」よりもヤバい。
左から里田、石川、あさみと並んでいるのだが、いちばん左の里田があからさまに狙った、お腹と太股を大胆に出した「セクシー」を狙った衣装、いちばん右のあさみが、ミニスカートではあるが確かピンクの帽子をかぶっていて全体的に薄いピンクのかわいらしい衣装。

で、問題はセンターの石川なんだけど、頭にはピンクのかなり大きめのキャップを横にしてかぶっていて、服は素材はわからないがテカテカした、なんかエナメルみたいな感じの、裾の広がったピンクのワンピース。肩とかは完全に出ている。それで、ブーツに目の粗い網タイツ(私にとって名称不明なものが多く、無骨な表現でスイマセン)。

首にはチョーカーをしているが、コレが完全に首輪。そして、首輪に見えすぎるとマズいので、それを半分にちょんぎって、首輪の全面だけバックルを正面に向けてとりつけている。後ろは確かヒモが付いていて、それでゆわいているようなカンジ。実際にはキッチリ留めてるだろうけど。

思ったけど、コレって「アイドル的かわいい衣装」のボンデージ化ですよね。私の見立てに間違いがなければ。
3人のトータル的なテカテカ感、セクシー感はあって、それはいちばん目立たないあさみにも通底しているコンセプトだが、左のセクシー里田、右のぼくとつ系あさみにはさまれて、ちょうどエロさにおいてグラデーションになってる。真ん中の石川は、アイドル的衣装がボンデージに変化(へんげ)する瞬間で時間を止められたような衣装なんですよね。

これはものすごく挑発的、画期的な衣装だと思うんですが。石川の典型的80年代アイドル的外見を、一種パロディ化というか、ふまえた上で一段階飛躍させたかたちになってると思うんですよね。
大胆なミニとか、挑発的なセクシーさというのは、よく知らないが「ディーバ」系の歌手はけっこうやってきたと思うんですよね。「HAL」とか、もともと身体に自信がある人も多いようだし。最近ではCMにおける浜崎あゆみのGパンずらしとか(笑)。「色っぽい女」ですらその系統にあると思うんだけど。
が、この石川の衣装ってその文脈にそわないんですよ。

……とか、書いてて急速に覚めてきたけど。そういうことです。
(02.1125)



・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)

今、「モーニング娘。バイブル 言いたいこと全部。2」(宝島社)を面白く読んでいる。私の場合、「今、読んでいる」などと書くと途端に読書モチベーションが低下するというジンクス(?)があるのだが、気になったのは「娘。TV大辞典」のコーナーにこの番組が含まれていないことだ。
ページの都合上、特番だけに絞ったのかと思ったが、「モー! たいへんでした。」や「ティンティンTOWN」といった連続ものも含まれているし、なんだか不可解だ。その理由として、考えられることは以下のようなこと。

・編者が「ハロモニ」をものすごく嫌っている。
・逆に、ファンにはデフォルトな番組なのであえて扱わなかった。
・本書は「2」なので、「1」で語り尽くされている。

もし理由が三番目だとしても、本書では2001年8月から2002年9月までの番組、と但し書きがされており、それ以前と以後では番組の雰囲気も変わっているから、取り上げてもいいとは思ったのだが。
何度も何度も書いているが、私はもともとぼちぼちとアイドルが好きなだけで、モーヲタというほどではない。どうも、本書を読めば完全に自分自身のスタンスが決まりそうだ。キチンと読んでから、いずれ感想を書きたい。
少なくとも、私にとっては「モー娘。」の読解は「ハロモニ」中心に行っている。ASAYAN時代から知る人から見れば、たぶん物事をさかさまに見てるんだろうけどね。

「ゴマキスズメ」は、基本的にスズメの着ぐるみを着たゴマキと高橋愛、およびカラスの着ぐるみを着た吉澤が、あってないようなストーリーを元にもみあったりするだけの一種のシュールコント。
前回あたりから、簡略化されていてちっともスズメやカラスに見えなかった着ぐるみに顔が付き、スズメやカラスらしくなっている。
「ひとみカラス」が平井堅の「大きな古時計」のモノマネをしながら登場するところから、すでに意味はまったくない。そこがすばらしいコーナー。

後は先週の「ハロプロ大運動会」の続き。さすがに2週続けて見るとアラも目立つ。実況のアナウンサーの「誰?」という感じとか、もしかして解説で加藤紀子来てた? 私の空耳? というところとか。
大運動会は去年あたりからテレビで見ているが、出場者の着ている体操服(?)がなかなかしゃれていて、たとえば辻だったら「のの」とかでっかく書いてある。松浦亜弥だったら「あやや」とか。でも紺野あさみは「こんのあさみ」としか書いてなくって、ニックネームすらないところに五期メンバーのキャラの弱さを感じてしばし考えてしまった。

ま、後はいいあんばいでテキトーなことを書きますが、子供の頃見た「11PM」で、ヌードグラビアのミニコミ? みたいのをつくっている学生が取材されていて、彼のやっていた雑誌が「太股」というタイトルであった。太股に徹底してこだわっていたらしい。
子供心にそのあり方に衝撃を受けたが、やっぱり太股が出ていないとアイドルって意味ないと思うんですよね。ハッキリ言って。だから、運動会では太股の乱舞で、それがいいんじゃないかと。

「昼下がりのモーママたち。」もコント。今回は驚くほどグダグダで、まあこういうものにクォリティを要求してもしょうがない気もするのだが、コントレベルはいつもより低かった。
ただし、小川の「北の国から」のモノマネに大粒の涙を流していた中澤裕子は何だったんだろう。笑いたいのをガマンしていたら涙が出たのか。しかしあんなに大粒の涙をこぼすのも珍しい。

「ハロプロNEWS」では、中澤がいつもの「年齢のわりに男がいない」ネタ。
中澤の場合、(本当はどうあれ)恋人がいないネタは、たとえば磯野貴理子などとは違いあくまでもハロプロの中での最年長である女性のグチであるにすぎず、世間的には女盛りであるので、その「困った感じ」のたたずまいはそのまま男殺しとしておそらく日曜日のおとうさん方を悩殺していると思う。
ひさびさに中澤のスタンド能力を見た思いだ。

ニュースの途中で突然現れるキャラクターが最近高橋ばかりだが、ときには新垣あたりを起用してみてはどうか。
(02.1125)



【アニメ】・「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」 第40話「どれみと魔女をやめた魔女」

公式ページ

ある日、どれみは学校の帰り、いつもと違う道を通る。すると、街のはずれでガラス細工の工房を見つける。そこでガラス細工をつくっている女性・未来(みらい)は、どれみが魔女であることを見抜く。驚いたどれみだったが、実は未来も魔女だったのだ。
しかし、今は魔法を使うことをやめてしまっているようだった。
どれみと未来はすぐになかよしになるが、未来は「年をとらない魔女は、長い時期に一定のところに住んでいられない」、「知り合いからガラス細工を教えてくれるとはがきが来ている」等の理由でこの街を立ち去るという。
自分が魔女になったら? 未来の生きざまは? 等々、いろいろなことを考えるどれみであった。

ネットで大評判になっているのを知り、でも放映終了した後だからもう見られないや、と思っていたらご厚意で見ることができた。ありがとうございます。
実は「どれみ」自体をほとんど見たことがなくて、この世界の魔女のシステムとかよくわからないんだけど、もともと共同社会から何らかの理由ではずれてしまった人の生きざまにものすごく感動する(自分がそういう存在にはなれないから)タチであるせいか、堪能できました。

未来の声は原田知代が当てていて、公式ページの第40話のところを見ると顔写真入りでちゃんと説明がしてあった。原田知代は、声としても悪くなかったが、やはり「美少女がそのままちょいトシをとってしまった」、言い方は悪いが「トウのたった美少女」という現在のたたずまいが、作中の未来さんのキャラクターにものすごくハマっていた。
まあ起用した方はただファンだったというだけかもしれないが、個人的にはそう思いましたね。

未来さんのような「時間が止まってしまった人」は、他の人間たちの時間が流れていること、人間が成長していくことを前提にしないと存在しえないキャラクター。つまり永遠の学園祭的雰囲気や、世の中の停滞感を表すような作品には出てこられない。 だからこそ、共同体からはずれてしまった世捨て人が物語内に存在することは、その物語内の社会システムの健全性を逆に証明しているとも言える。……まあこの場合「どれみ」を知らないで書いてるからホントは違うのかもしんないけど。
「ムーミン」の「スナフキン」とか「無能の人」の「鳥師」とかは、そういう存在ですね。
(02.1124)



【アニメ】・「陸上防衛隊まおちゃん」 第21話「防衛少女アメリカン」

日本の防衛隊が開発したサポートメカの受け取りのために、アメリカの防衛隊員キャロル・キャメロンがやって来た。このサポートメカは、典型的なオタク美少女好きのするパワードスーツみたいなやつである。
キャロルはとってもいい子で、すぐにまおたちと仲良くなる。しかし、キャロルのパワードスーツを奪うため、アルマジロ型エイリアンが現れた。あまりのかわいさにピンチに陥るキャロルを救出しようとするまおちゃんたち……。

今まで、後からアメリカキャラがやってくるとたいてい自国をいちばんだと思って日本と主人公たちをバカにし、いろいろあって見直す、というパターンが多いが、キャロルは最初っからかわいい、いい子として描かれている。

この世界では、もう対立とか何とか、そういうのはないのね。たぶんわざと。
(02.1124)



・「早熟児」 海明寺裕(2002、久保書店) [amazon]

成年コミック。短編集。初出は不明なものが多いが、たぶんアンソロジーとか、「夢雅」に掲載されたものだと思う。

「早熟児」は、天才少年セックス版、の男の子が、自分の母親を性奴隷にしてしまう。海明寺さんはわりとどんな年齢の女性も描くが、個人的にはとくに人妻とか女教師とかが好きです。
「バースディプレゼント」は、兄が仲の良い4つ下の妹・かおりを性奴隷にしてしまう。人間家畜化ものの「K9」シリーズに比較的近いか。むりやり調教するというよりも、この子の中にM性が内在していることが短いページで表されている。
「おかずの代償」は、弟くんがネットから集めて大事にしていたエロ画像を処分したお姉ちゃんが、怒りをかって性奴隷にされてしまう。調教グッズも全部ネットで仕入れるところが恐い。

「レオタードの舞姫」は、「夢雅」でやっていた「全裸スポーツシリーズ」(正式名称不明)のひとつ。新体操でどこかの東洋っぽい(日本?)国に留学した女の子が、その国の流儀に合わせて恥ずかしい衣装で新体操をする。
このシリーズは、むりやりHなことをするんじゃなくて、「郷に入りては郷に従えだから」とか「こういうルールだから」とか「訓練だから」とかいう理由で、女の子がいつの間にかどんどんハダカにされちゃうところに含蓄がある。そして最後には、それが本当にその子の望んでいた競技だったのかすらわからなくなっていくんだけど、強い悪意は感じない。むしろハッピーエンドっぽい。

「はみ出ちゃう!」は、おちこぼれ生徒をご主人様にして野外露出プレイにふける女教師。小さい子供用の服を着せられるシーンがあるんだけど、こういうプレイってなんて言うんですかね? 「小さめのスクール水着」っていうのは案外定番なんですけどね。

「おかえりなさい」は、スキンシップがこうじて最終的に兄とHしたくてしようがなくなる少女の話。

「タッチダウンプリンセス」も、「全裸でスポーツ」な話。 新しいスポーツ興行団体「XXXスポーツ」がつくられる。特徴は、既存の競技を全裸に近い格好でプレイするというもの。そこの「ボウル」(アメフト?)チームにスカウトされた美少女選手、エルシー・ヒギンズの心の揺れを描く。
「レオタードの舞姫」と違うところは、はっきりと「XXXスポーツ」というメジャー団体が旗揚げすることが明示されていることで、ものすごく大規模な組織らしくむしろ陽性な感じがする。「昔は全裸でスポーツをしていた」というのも詭弁っぽいが本当の話だし、ここでは全員やりたくてやってるのでだれも文句は言えませんな。
ちなみに「WWE」を思わせる女子プロレス団体「XWF」のオーナーが主催しているとあって、スポーツの理念がたとえば総合格闘技ガチンコ系などの考えと180度違っているのが面白いし、またそれゆえの「XXXスポーツ」であることも理解できる。
(02.1123)



【同人誌】

【同人誌】・「XXX Games−美と裸の祭典−」(上) 海明寺裕(2001、空色の猫目石)

「夢雅」に掲載された、「全裸でスポーツする美少女」を競技別に描いた作品を集めたもの。「レオタードの舞姫」、「黒帯の天使」、「マイヨの妖精」。
「レオタードの舞姫」は「早熟児」に収録されましたね。「黒帯の天使」は柔道。「マイヨの妖精」っていうのは自転車競技。どれもちょっと一言では言いがたいんだけど、ギャグで「女の子が全員全裸で競技してたらいいなあ」というのでもなく、逆にイヤがる子をムリヤリそういう状況に追い込むのでもない。留学する話が多いが、異文化ギャップをそのまま羞恥に直結させているわけでもない。まあ読んでみなければわからない感じなんだけど……。

ひとつだけ言えるのは、人間の心の中に内在している「Hな気持ち」を「異性とのセックス」に直結させないで描いている、ということかな。「直結しなくてもエロ妄想はありえるのか」ということへ接近しているというか。直結しないから、その方向性はきわめて不安定になる。その微妙さ。

「上巻」ということになってますが、「早熟児」で2本掲載されたのでもう下巻は出ないんでしょうか? まだ何本かある気がするんですが。
(02.1123)



・「麻雀激闘録3/4(よんぶんのさん)」(3) ほんまりう(1986、竹書房)

雀ゴロへの道を歩み始めた堀場要は、クイ鎌を師匠とし麻雀修行。堀場とクイ鎌は、京都の幻のクマ師・松竹梅兄弟と対決することになる。
上に手をかざしただけで牌を読みとるという彼らの「牌温読み」のトリックを暴き出すため、「王牌打ち」、「ツモ牌相打ち」などの方法で挑む堀場……。というような話なんだが、スイマセン、麻雀がわからないのでどういうことなのかサッパリわかりませーん(だめじゃん)。

ちなみにタイトルは「四分の三程度のところで満足しちまう性格の人間は、一流にはなれない」という意味だそうである。ほんまりうの筆致は落ち着いてて好きだし、続きが手に入ればぜひ読みたいとは思うが、この巻だけ読んだかぎりではいかんせんこちらに楽しむだけの知識がなかった。
(02.1122)



【アニメ】・「機動戦士ガンダムSEED」第6話 「消えるガンダム」

公式ページ

ガンダムSEED MBS予告編ライブラリー

ザフトの攻撃を振り切り、軍事要塞アルテミスに逃げ込んだアークエンジェル(ホワイトベースみたいな空母)。だ が、敵はステルス機能を搭載するブリッツガンダムで攻撃してくる。

ファーストガンダムでも「やっとの思いで逃げてきたホワイトベースがどっかの基地にたどり着いて、邪険に扱われながらも補給してまた旅立つ」というような回があったと思うけど、それのリメイクみたいな感じ。
「アルテミス」は「傘」と呼ばれるバリヤーみたいな装置があって、難攻不落の要塞と言われていた。
で、それが「ステルス機能を持っている」たった1機のガンダムにメタクタにされるというのは面白い。悪人ヅラのいちばん偉いヒトも死ぬしな。ざまーみろ、ってな感じで。

でも、なんか本作も毎回見るの辛くなってきた……。第5回もけっこう良かったんだけどね。細かいところはなんだかよーわからんのだけど宇宙戦闘だけでカッコよく見られて。
でももう個人的にはダメかも。

もともと、自分はアニオタではないという自覚はある。これは資質的なものでどうしようもない。特撮はなおのことなんだけど。映画一般も。マニアの条件として、「クズ、ないし中途半端な作品に耐えられるか、むしろ愛せるか」と「コンスタントに量をこなすことができるか」というのがあると思う。
で、アニメの場合どうにも耐えられない。とくにガンダムシリーズはなあ。「ターンエー」も途中で見るのやめちゃったし。
本作に限ると、リメイクっぽいから当然だが展開にまったく意外性がない。今回だとほとんど「ステルス機能」という新兵器を試すだけの回だから、ぶっちゃけると「グラヴィオン」とそう変わらない。
だから、今後視聴するかどうかは微妙。

一時期、「みんなが見てるから見なきゃ」みたいなのを脅迫観念的に持っていたときもあったんだけど、そういうのそろそろやめないと。とか思ったりした。
(02.1120)



【アニメ】・「ヒートガイジェイ」第5話 「童(わらべ)−DOLL−」

オフィシャルサイト

TBSサイト

周囲が海に取り囲まれている人工都市「ジュド」。主人公のダイスケ・アウローラは、その「ジュド」の都市安全管理局中央指令部・特務課に勤務する青年。都市で起こる事件を、起こる前に察知し、未然に防ぐことが仕事である。
彼は、アンドロイドの相棒・ジェイとともに、さまざまな事件に関わっていく。

「第5話」脚本:浅川美也/絵コンテ:佐藤英一/演出:大西景介/作画監督:関口雅浩

ジェイはダイスケと街を巡回中に、子供を襲ってしまう。子供はマシーンだと言い張るジェイをダイスケは気にするが、ジェイは故障を疑われ、精密検査を行うことになった。
しかし、子供は本当に非合法のマシーンだった。子供は、主電源を切られたジェイを破壊するためにやってくる。

この話だけを見たかぎりでは、「イマドキ風『鋼鉄都市』」なのか「カウボーイビバップっぽい『ロボット刑事K』」なのか。悪くはないと思うが、とにかくプロットが単純すぎて見ていてテンションが上がらない。実は私が「カウボーイビバップ」も途中で見るのをやめてしまったのは(5回くらいは見たが)プロットが単純すぎるからだった。
スタイルだけで見せるなら、たまたま作画がヒドいとかそういう隙は見せられないし、細部に至るまでの徹底した気遣いが必要。だがそれが今後、本作でトータルとしてもできるかどうかは、今回を見たかぎりでは疑問。「子供を探してくれ」というじいさんはイイ味を出していたが、逆に言えばそれだけの話という気もする。

極論かもしれないが、松田優作の「探偵物語」(テレビの方ね)が悪い例をつくってしまったのかとすら思う。伝説化されている番組ではあるが、これは松田優作がひたすらにカッコいいからであって、毎回のプロットは凝ったものではなかったし、つくりも緻密とは言い難かった(それが魅力とも言えるが)。
まあ、それでも今のアニメよりは、犯人当てとかあったんだけどね。
当時、松田優作でなければ成り立たない企画だったことは確かだ。

そして、私見ではスタイリッシュを補完するのはカッコよさの徹底追及というよりは、ある種のバカバカしさだと思うのだ。工藤俊作が切ろうとした鳥の丸焼きが切れずに飛んでいったように。緑の背広のルパン三世が、腕っぷしはたいしたことがなかったように。誤解を恐れずに書けば「バカバカしさ」もスタイルの一種であるから。

本作では、ジェイのアクションがバカバカしいほどに派手だったらある種のカタルシスは得られるかなと思うのだが(「緋牡丹博徒」シリーズにおける若山富三郎のように)、それはたぶんかなわないんだろう。
こういうとき、SF的設定や未来社会の舞台はかえってアダになる。バカバカしさの基準が曖昧になってしまうからだ。

刑事もの・ハードボイルド探偵もののアニメは、プロットの骨組みだけでも若手推理作家に頼むとか、そういうことはできないんだろうか? もちろん、あまり懲りすぎてそこにひきずられてもアニメとしてはウザいものになりそうだが、その辺はバランス感覚で。
「ケイゾク」を2回くらい見たが、あれくらいのトリックが受け入れられるようなら、「名探偵コナン」のようにトリック中心の作品でなくとも視聴者に煩わしさを感じさせず、スパイス的になんとかなるだろうと思うのだが。いや、ハードボイルドタッチの作品で、なおかつプロットが単純すぎると苦痛を覚えるもので……。

……などと、テンションの低い感想を書いてしまいました。すいません。
(02.1119)



【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第5話 「笑わない少女」

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脚本:志茂文彦、絵コンテ:奥野健、演出:神戸洋行。

Gシャドウのパイロット・リィルとの親睦を深めようと、琉菜は城の敷地内でのGナイツメンバー同士のピクニックを計画。そこにゼラバイア出現の報が……。

まあ普通の回。戦隊ものみたいに、メンバー各自が主役の回が順繰りに回ってくるのかな。たぶんコレが平均的な作品になると思う。っていうか、これ以下だとヤバい。
(02.1119)



【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第6話 「斗牙の休日」

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脚本:吉村清子、絵コンテ:古賀仁、演出:西山明樹彦。

エイジは、斗牙を誘って外出禁止の規則を破り、街へと遊びに出る。斗牙にとって初めての外の世界。二人は遊んで自由を満喫するが、そこにゼラバイアが出現し……。

この回で、初めてエイジの乗っているパーツが足部分だと判明。なぜわかりにくいかというと、毎回の合体シーンでパーツがドッキングするのがCGみたいので描かれるのだが、エイジともう一人のデカパイ女の二人それぞれが乗っているマシンが変形し、両足にくっつくところがよくわからないからである。
それと、人と話していて「そうだそうだ」ということになったのだが、巨大ロボ合体シーンに必ずある、両腕が飛び出るカットが毎回、ない。だから何度合体シーンを見てもわからないのではないかと。

お話的には「ローマの休日」のタイトルのもじりどおり。合体ロボもののセルフパロディも、まあこんなもんだろう。個人的にはだんだん視聴テンションが下がってきたが……。
余談だが、物語の冒頭、大勢のメイドたちの買い出しにまぎれてエイジと斗牙は外の世界に出るのだが、メイド買い出し隊が「ここのタマゴがいくらいくら安い」とかチラシを見ながら話し合うシーンがある。さりげないシーンではあるが、コレはこのお話の中のメイドが昔ながらの「イメージとしての主婦」的役割を担っていることを匂わせる演出。「使用人」としてのメイドだったら、自分の責任ではないかぎり買い出し金を切りつめるようなマネはまずしないだろう。私だったら、しない。
「アニメ内のベタな女性描写を批判したい」ヒトは、そういうところにも目を向けた方がいい。私は指摘しておいて何だが、そういうことはあるレベルまではどうでもいいと思ってはいるが。
(02.1119)



【アニメ】・「超重神グラヴィオン」第7話 「渚のドリル少女」

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脚本:冨岡淳広、絵コンテ:蒼井啓、演出:山田弘和。
第7話に引き続いて同日の放送。
父の墓参りのため、故郷である沖縄に帰省した琉菜。一方、斗牙たちGナイツのメンバーも、サンドマンの命令で沖縄にやってくる。ここで開催される、国際平和会議の会場をゼラバイアが狙っている可能性があるからだ。そして予想どおりゼラバイアが出現する。

正直言って、2本目は見てて辛かった。以前に「こういうのを週2、3本は見たい」と書いたが、それは「いろいろな種類の巨大ロボもの」という意味で、1日に同じ作品1本以上はゲップが出ることがわかりました。
それに、第6話で「外に出る初めての感動」を斗牙が味わい、なおかつエイジとの友情が深まる、という演出が次のこの話でだいなしである。みんな水着で沖縄の海を泳いじゃったりなんかするんだから。これでは、なぜ今回までサンドマンが斗牙を屋敷から出さなかったのかの理由がサッパリわからない。
パロディ的なお話の展開は別に悪くはないが、さすがにお話としては間をあけた方が良かったと思う。なんで今頃海の話をやるのかもナゾ。

……とここまで書いて、どんどんテンションが下がってきたので今後見るかどうかは未知数となりました。
(02.1119)



【CD】・「去年出たやつ」レオパルドン(2002) [amazon]

テクノユニット・レオパルドンのセカンドアルバム。前のアルバムが、わりとワンフレーズをサンプリングして延々とループするのが多かった印象があるんだけど、今回はラップがあったり、女性ヴォーカルを起用したり、歌モノがあったり、非常にバラエティに富んだ内容になっている。「出る」と告知されてからずいぶん時間が経った気がするが、それだけのことはあったなぁと思う。
本格的にラップに移行しようとしているように思えることに対し、賛否あるかもしれないけど、今のメジャーなラップとかHIPHOPって、本家(アメリカの)を消化してある程度日本的なというかベタなところも取り入れて、わかりやすくして、という意味で洗練されすぎてしまって物足りない気がしていたので、個人的には歓迎しています。
本当にわけがわからなかったからね、電気グルーヴが出てきた頃とか。今考えると同席するはずのないユニットが「ラップ」というくくりで一緒に出てたりした。
やってる本人たちは、目指すところがいかに違うか自覚してたらしいんだけど、でもまあそういう混沌が面白かったわけで。

今、もうドラゴン・アッシュとキングギドラとキックザカンクルーとスーパーベルズが目指すものが違うって、視聴者も完全にわかってますよね。棲み分けもできて、整理されてそれはそれでいいのかもしれないけど、でもやっぱりいちばんわけのわからなかった、海外のミュージシャンとまったく交流のなかった石野卓球が「808STATEに会える」って喜んでいた頃の電気が、もしかしたらいちばんオリジナリティがあったんじゃないかという気が、今はする。
もちろん、その後アルバム「DORAGON」は、日本のテクノが絶対に通らなければならなかった道だとも思うんですけどね。
話がそれましたな。

「去年出たやつ」については、「NO DISCO NO LIFE」がアレンジされすぎてぜんぜん違うものになってるんでオリジナルを聞きたかったなあ、というのはありますが、後は文句ないです。「大漁旗-SUCCESS-」という演歌をリミックスしたような感じの曲がものすごくカッコいいんだけど、原曲があるのかどうかちょっとわからない。

一時期「ナードコア」というくくりでネタものテクノ全般が雑誌とかに紹介されていて、公式ページを見るとレオパルドンは十把一絡げにされるのを嫌がってるっぽかったし、ネタモノのネタ部分だけがクローズアップされることも、オタクネタイメージだけがあれこれ言われるのも嫌がってる感じだったので、そうしたことに対する解答が今回のアルバム、という感じはする。
思えば「ナードコア」とひとくくりにされていた人たちも、それぞれの道を歩んでずいぶん変わってきたなぁと思う。もともと目指すところが違っていたのかもしれないけど。
(02.1119)



・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)

公式ページ

「モー」関連のバラエティ番組「ハロモニ」。今週は、毎年やってるハロープロジェクトの運動会。

実際に見に行った人のネット上の意見としては「グダグダだった」というのが多かったが、私はもともと他人の運動会を見るのはきらいじゃないのでこれはこれでいいです。テレビだと編集されてるし。私はかつて男子校に行ってて、そこでは運動会とか体育祭といったものはなかったんだが、はっきり言って女子がいなければ運動会なんてものはやる価値が1ミリもないのであって、なくて当然だと思ってました。まあ運動場がなかったのが運動会がなかった理由だろうけどね。
芸能人水泳大会がなくなったんだから、運動会くらい見せろ、という感じ。別にモー娘。でなくても当然いい。うらりんギャルでも何でも。当然、男は出なくていい。

「ミニモニ。かっぱの花道!」は、「ミニモニ。は実はかっぱだった」というシュールコント。「電波少年」が仕掛けたにせカッパ騒動をさらに引っ張り、「カッパをつかまえたら賞金一千万」という遠野テレビの企画で金をせしめようと、4人のうちだれがいけにえになって差し出されるかをゲームで決めようという話。
「遠野のカッパ騒動」をネタにしたモノはいくつかあるが、正体がバレてからもネタにしているのはこのコーナーくらいではなかろうか。しかも、ちゃんとストーリーに組み込んでいたところはいろんな意味で評価できる。

藤本美貴のなんかの企画は、ぜんぜんいらないと思う。番組全体のまったりテイストのバランスを崩しているしなー。これだったら藤本に1コーナー持たせた方がいいですよ。しかも「イベントに1万人集めろと言われて8000人しか集まらなかった」と言っていたけど、あの会場だとムリヤリ詰め込んだ最大キャパが1万人くらいなのでは? じゅうぶん集まってたよ。
なんか、別に試練でも何でもないことを「試練」として描いているような、シラケた感じがしますよ。
あと、なぜ今回の曲の衣装のモチーフが「モモレンジャー」なのかが実に謎だ。

ごまっとうを初めて見た。後藤真希、松浦亜弥、藤本美貴のユニット。結成の報ではファンの間でものすごく盛り上がったり、実際の歌を聴いた感想では逆に「3人の組み合わせの面白さ以上のものは感じない」という意見がかなり多かったりしたみたいだが、実際に見てまああんなもんだろと思う。
もともとがコレは「マジンガーZ対デビルマン」みたいな企画、あるいは全員アカレンジャーの戦隊ものみたいなもんである。企画段階で終わっちゃっているところがある。いい曲ができるかできないかは偶然でしかないし、そういう点で言えば「結成」以上の感動がないのはまあ運がないとしか言いようがない。
それにしてもネット関係の感想としては、このユニットほど「実際見ないとわからないなあ」と思ったモノはなかった。そして、感想の書き方についても考えさせた。テンションの低いものほど語りにくいからね。と言いつつ、私もこうやって凡庸な感想を書いているわけだが。
それと、洋楽ファンに対するビビリが私の中にあるのだが、それも「ごまっとう」に関しては何も関係ないという確信を持った。どこかで「TLCみたい」とか言われてたけど、「TLCって何よ? 知らない」と思っていたけど、ごまっとうに関してはTLCとかいうのを知らなくてもじゅうぶん評価できると自信を持ったりした。
もともと、近田春夫的なアイドルソング評価なんか自分にできるわけないんだしな。
そういう意味では、自分は今でもチェキッ娘をある意味評価している。あの中にはハロプロに入っていたら確実に運命が変わっていた子もいただろうし。まあそれをいっちゃおしまいなんだけどね。

「ハロモニ」とはカンケイない話だが「BYE BYE 最後の夜」カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)はアイドルソングとしてはけっこうイイ。が、CDではまともだが歌番組で歌っているところを見るとその歌唱力(とくにイシカワ)のグダグダさに衝撃を受ける。
モーニング娘。関連の歌手は、プロデュースする側から歌唱力に(実際はどうであれ)厳しい評価を課されているのが秋元康やその関係の人々の手がける歌手との最大の違いのひとつだと思う。が、このグダグダさはそれらをすべてチャラにしかねない破壊力を持っていた。
まあもともとイシカワっていう人自体が、別にモーニング娘。でなくてもいいっていうか、チェキッ娘に紛れ込んでいても基本的に違和感のない人、80年代的アイドルテイストを買われて入ったと思われる人のような気がするので、むしろ当然という気もするが。
歌詞の内容は「未練はあるけど心が離れたので、自分から彼氏にサヨナラを言う」という「LOVE涙色」と同じパターン。まあ全部のアイドルソングの歌詞をひっくり返して聞いたわけではないが、新鮮なテーマではある。
「だめね気弱なあなた〜」みたいな「どうしようもないボクに天使が降りてきた」パターンでもなく「清純な乙女でございます」という感じでもない、つんく♂のイマドキ感覚が現れた曲になっている。
(02.1118)



・「コミックメガストア」 1月号(2002、コアマガジン)

成年コミック誌。「黒岩よしひろの新連載がSFおしかけ女房ものだという情報を得てはじめて購入。雑誌全体としては、巻頭にエロゲー紹介記事が載っていたり、ポスターが付いていたりして非常に絵がキレイという印象。まあ表紙の紙質のせいもあるだろうが。

「おうたま」黒岩よしひろは、80年代ジャンプ出身者によるファンタジーっぽいHマンガ。気弱なのび太くん的キャラの男の子が、実は「魔妖鬼界」の王のDNAを持っていることがわかり、その子種をねらって鬼族(きぞく)の美少女・きこが強チンしにくるという話。
「魔妖鬼界」っていうのは「魔・妖・鬼」族がいるという話だから、今後、いろいろやってくるのかもしれない。

それにしても、克・亜紀とかもそうだが子供の頃に普通のマンガ雑誌で読んでいた作家がエロを描くとすごく複雑な気持ちになる。これは80年代にはまずありえないことだったからで、今よりもHマンガ誌とそうでない雑誌の作家の行き来はほとんどなかったから。なんか、幼なじみ(女)が結婚して妊娠してるのを目の当たりにしているようなカンジだ。

後は全体的に女性上位っぽい展開が、黒岩よしひろのシュミかどうかが個人的な興味なんだが、雑誌そのものが女性がリードする話が思いのほか多く(ベタな陵辱モノもあるにはある)、雑誌の色に合わせたのかもしれないので、謎。
個人的には克・亜紀もそうだが、Hマンガを描いていなかった人がHマンガを描いてあんがいノーマルなシュミだったりするとガッカリする。マンガ家はみんな変態でいてほしい。手塚治虫のように。

作家陣としては、他に鬼ノ仁、西安、G Killo-byte、あじす・あべば、Ash横島、榊原薫奈緒子、AYUMU.M、猫玄、人見広介、SASAYUKI、魚肉ん、うおなてれぴん、樹るぅ、ほか。
(02.1118)

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