つれづれなるマンガ感想文5月後半

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一気に下まで行きたい



・「ゴッドサイダー」全8巻 巻来功士(1988、集英社)
【映画】・「ドーン・オブ・ザ・デッド」 監督:ザック・スナイダー(2004、アメリカ)
【アニメ映画】・「名探偵コナン 銀翼の奇術師(マジシャン)」 監督:山本泰一郎、脚本:古内一成(2004、日本)
【アニメ映画】・「アップルシード」 監督:荒牧伸志(2004、日本)
【雑記その4】・バカ中学生の魂を取り戻せ(YOU ARE SHOCK!)
・「とっても! ミニモニ。」(5)(完結) 永野ゆかり、こやまゆき(2004、小学館)
・「ミニモニ。やるのだぴょん!」Vol.3(完結) もりちかこ(2002、小学館)
・「DEATH NOTE(デスノート)」(1) 大場つぐみ、小畑健(2004、集英社)
【雑記その3】・飯田圭織、石川梨華卒業決定らしい
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)
【雑記その2】・裸エプロン学園、若乃花と浅田彰をムリヤリ話題にしてみる
【雑記】・「ヘルモニ。殺るのだぴょん! 〜きるびる。ばーじょん〜」
【映画】・「CASSHERN」 監督・脚本・撮影:紀里谷和明(2004、日本)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)
【テレビ】・「おはスタ」 ミニモニ。じゃラストドキュメンツ(2004、テレビ東京)
【CD】・「ラッキーチャチャチャ!」 ミニモニ。(2004、zetima)






・「ゴッドサイダー」全8巻 巻来功士(1988、集英社) [amazon]

週刊少年ジャンプ連載。大天使ミカエルによって、地中深く封印されていた魔王(サタン)は、復活のため、世界各地に「悪魔の側の人間(デビルサイダー)」を出現させていた。
一方、「神の側の人間(ゴッドサイダー)」も活動を始める。高野山の鬼哭寺で行仁和尚に育てられた鬼哭霊気は、「悪魔の側の人間(デビルサイダー)」に襲われたことによって、ゴッドサイダーとデビルサイダーの間に生まれたという自分の素性を知る。
自分の中の魔王の血に苦しみながら、霊気のデビルサイダーとの戦いが始まったのであった。

……「コミックバンチ」でまた本作が始まったというので、積ん読であったものを読む。連載当時も読んでたけど。
読んでる間にいろいろ考えたけど、本作の感想はむずかしいわ。
基本的には「キン肉マン」に非常に近いんだけど、担当が同じだったのかとか編集長の指示だったのかとか、考えたってわかることじゃないし。

ひとつ言えるのは、80年代の「少年ジャンプ」の正義感って、悪いことをするヤツを罰するとか、必ずしもそういうことじゃないんだよな。
ある神話的な、雲上人の世界があって、それは下々の人間たちには関係ない世界なの。
80年代ジャンプのストーリーマンガの多くは、最初は導入部として下々の人間たちの中の、そのまた小悪党を描く。で、そいつが主人公にやられたりする。
だから、読者は「これは勧善懲悪の物語なんだな」と思うんだけど、正確には違う。

主人公はスキルアップによって、だんだんグレードの高い敵と戦うことになるんだけど、敵側にも悪事を働くそれなりの理由が出てきてしまって、神話的なドラマとなり、勧善懲悪ではなくなってしまう。
「北斗の拳」に顕著なんだけど、神話の世界の人間は、悪いことしててもそれなりの事情があったりして、死ぬシーンもドラマチックに美しく描かれる。
そのように認定されていない人間は、ただ「悪いことをしたいから悪いことをする」だけで、顔も品がないし、死に方も無惨。

だけどどう考えたって、ラオウやサウザーの方が一般民衆に対する負の影響力は強いんだよな(しかも、ラオウの強大な権力を駆使することによって崩壊した文明を建て直すとか、そういう利点はほとんど描かれていない)。

なんでこんな構造になっている話が多いのかはきちんと考えていないのでよくわからんのだが、そういう「雲上人←→庶民」の世界をつなぐというか、風穴を開ける存在がジャンプの多くの場合、主人公の役割になっている。
だからこそ、キン肉マンは下品だし、「銀牙」の銀はほとんどゆいいつ人間との交流を保っていたし、孫悟空はあまり上だの下だの考えない性格だし、聖矢は自分たちが孤児だったことを最後まで忘れない。
(そういえば、なぜか大ヒット作品の中でも「ジョジョ」は全シリーズ通してこの構造から逃れているな。「スタンド」を持っているからエリートだ、と自分のことを思っているのは一部のキャラだけだったし。)

当然、本作の主人公・霊気も、普通の人々の中で育った庶民派であり、なおかつ神と悪魔の間に生まれたというトリックスター的な位置にいる。
日本は毒ガス攻撃で何百万人も死者が出るが、人間たちはほとんどがまったくの無力状態で、「キン肉マン」で超人同士の試合を見る人間たちよろしく、ゴッドサイダーとデビルサイダーの戦いを黙って見ているしかない。

まあ、それはとりあえず置いておいて。
位置づけ的には、80年代のスプラッタ・ムービー、および伝奇アクション小説ブームの露骨な影響下にある作品である。
同じ作者の前作「メタルK」は確か十週打ち切りだったが、これもスプラッタ・ムービーの影響を濃厚に受けている。私は好きでした。やはり「ゴッドサイダー」のヒットの原因は、異世界バトルを全面展開したことにあるのだろう。

確か同時期には伝奇モノとして荻野真の「孔雀王」などがあり、ほとんど初めて、露骨な小説でのブームがマンガに影響を与えたことになった。

ただし「ゴッドサイダー」は、前述のとおりキン肉マン的世界観を展開しているので、パッと見それほど伝奇アクション小説の影響は見えない(作者がそれらを読んでいたという表記は、少なくとも本作の単行本あとがきなどにも見られない)。

物語として今考えると珍しいのは、最後に登場する「巨悪」が実に唐突なところ。ホント、最終回近くになって「だれなんだおまえ」という感じで登場します。しかしそれはまた、このテのアクションもので「巨悪」の存在がわりとすんなり容認されていたということを意味する。

ジャンプうんぬんは抜きにして、個別の作品としては「神」とか「悪魔」を確固たる肉体を持った存在として堂々と描ききったところに、本作の迫力がある。しかも「孔雀王」みたいに、土俗的というかアニミズムというか、そっち系じゃなくてはっきりと「魔王」とか「大天使ミカエル」とかが出てくるところがスゴイです。
隠喩とか象徴とか、この作品には関係ないんだよね。悪魔は悪魔、神は神。その潔さには感動すらします。

今のジャンプには残酷描写にかなり自主規制があるそうで、現在ではぜったいできないシーンが続出である(とくに生首がよく出てくる)。それともうひとつは、ゴッドサイダーの一人、ヒロインの流璃子が何かにつけて吊されて緊縛されるところが印象的。
H系イラストサイトで、執拗に流璃子の緊縛シーンばかり描いているところがあるので興味のある方は探してみてください。

いやー、やっぱり小学生くらいのときに見たら、あれは後の性妄想を決定づけちゃうよね。
(04.0529)



【映画】・「ドーン・オブ・ザ・デッド」 監督:ザック・スナイダー(2004、アメリカ)

公式ページ

ロメロの「ゾンビ」のリメイクらしい。ある朝起きたら、謎の奇病により人々がゾンビ化、世界はメチャクチャになっていた……という話。

なんかヒットしてるみたいなんで見に行った。実はロメロの「ゾンビ」も見てないんだよね。スイマセン。
それでまあ、映画のこと何もわからんのだけど、最近の映画って「インディペンデンス・デイ」も「猿の惑星」のリメイクも「ハムナプトラ2」も「ザ・コア」もだれが撮っても私には同じにしか見えず、まあそれはそれでいいんだけど飽き飽きしていた。

で、何でかわからないけど本作は不思議にそういう「ハリウッドSFX映画臭さ」がなくて、そこはいいと思った。CGの使い方が奥ゆかしいからかね。
だが個々の演出は非常に悪趣味で、かつ前後のつながりがない。
私が「悪趣味」と言っているのは、ショッピングモールに立てこもった人々がゾンビの存在に慣れてきてしまい、屋上にいる警官と、地上がゾンビだらけで助けに行けない遠くの銃砲店の屋上にいる男が互いのホワイトボードを見ながら地上のゾンビ撃ちゲームをする、というシーンではない。それはいいの。ブラックユーモアだから。

それより、このシーンって前後とつながりがないんだよ。あきらめきってゾンビに対して不感症になってしまったとか、あるいは助かる見込みができてうかれきってしまっているとか、そういう演出がない。
ヒマだから他のやつはセックスしたりテレビ見て呆けたりしてて、でも突然ヤバいと思ってバスの改造始めたりするの。

その辺の、アイディアだけ連続してる感じが、人間ドラマを排除しててすごい悪趣味に見えるんだよね。

あと、犬を使って銃砲店の男に食糧を届けようとするんだけど、その犬をかわいがっている女がとつぜん犬救出のために銃砲店にトラックで突入しちゃうシーンとか。
「最初からかわいがっている」ならわかるけど、迷い犬にそこまでするか? なんかゾンビよりこの女に腹が立ってきてしまった。
他にも、妊婦がゾンビ化とか、お調子ものが因果応報的にヒドい目にあってしまうとか、さまざまなアイディアが盛り込まれているんだけど、なんだか妙につながりがない。
ヒロインと、立てこもり仲間の一人とがお約束の恋愛関係になるんだが、そこら辺も「何でいつの間に好き同士になってんだよ」とか思ったし(警備員の若造と、前述の犬好きの女との恋愛については理解できたけど)。

「イヤなやつが最後に男気を見せる」というのもパニックものではお約束の展開なんだが、改心したシーンがないので「何で突然カッコ付けるんだよ」とか思っただけでした。

シナリオは元トロマ映画の社員が書いてるということだが、トロマの映画って「後味悪いよ」っていう意見が周囲に多いんで1度も見たことないんだよな。だから私の身体がもともと「トロマ的悪趣味」を受け付けないのかもしれん。

仲間が一人ひとりと欠けていくのも、このテのパニックもののお約束なんだがとにかく全員が全員いちじるしくイヤな死に方で、うん、まあホントに「世界の終わりはメソメソとやってくる」とは思ったけどね。

カップルの客とか入ってたけど、本当になーんにも考えないで見るか、「だれもかれもが死んじまえ!」とルサンチマン持ってるか、あと生粋のゾンビファン、にしかオススメできないなあ。
(04.0529)


【アニメ映画】・「名探偵コナン 銀翼の奇術師(マジシャン)」 監督:山本泰一郎、脚本:古内一成(2004、日本)

公式ページ

舞台女優の指輪を盗むと、怪盗キッドから予告が来た。それを防ごうとするコナンたちだが、コナンと仲間たち、女優と容疑者たちを乗せた旅客機が、さまざまなアクシデントにより通常の方法では着陸できなくなってしまった! という推理&飛行機アクション。

もともと少年サンデーをほとんど読まない私だが、「天国へのカウントダウン」を偶然見て以来、「ベイカー街の亡霊」、「迷宮の十字路」と「コナン」の劇場版は見ている。ネットで調べたらこれら3作はこだま兼嗣という監督が手がけている。 脚本はシリーズ一貫して古内一成。刑事ドラマを多く手がけている人らしく、毎回見ていても危なげがない。

今回は、監督は山本泰一郎。調べたら、いろいろやってる人。「アイアンリーガー」の作画監督とか。この人もこだま兼嗣とそう変わらない感じで、見ていてやっぱり危なげがなかった。

コナンの特徴は、「クスリで子供になってしまった」、「麻酔針で眠らせた大人が謎解きの演説をする」などの、ミステリとしては非現実な、周辺的な設定を利用することで作品全体にワンダーを持たせている点にある。推理マンガを一度リセットしたのが「金田一少年」だとして、それが単なる「金田一耕助の孫」というだけの設定なのに対し、「少年サンデー」の許容できるファンタジーを、アイディアとして乗せてきた印象だ。
まあ、それの返しってわけじゃないだろうけど「探偵学園」っていう、少し変わった設定の「探偵学園Q」がマガジンから出てきたのだろう。

劇場版を私が毎回見ている理由は、まず第一にマンガもテレビアニメも見ていない人にも非常にわかりやすくつくられていることが一点。
それともうひとつは、オーソドックスながらなかなかに手堅い演出の推理ドラマが見られる、ということにある。
以前は、私にとってその役割は「土ワイ」の天地茂の明智小五郎シリーズが持っていたのだったが、アレに匹敵するモノがない(古畑任三郎も終わっちゃったし)現在、コナンに同じものを求めている。

本作は、小さいトリックを積み重ねることで全体を描くという、前三作と同じパターンで、驚天動地のどんでん返しがあるわけではないが、何よりもサスペンスを見せる、という気概が伝わってくるような気がして安心して見られる。
冒頭三十分の演出などは、なかなか面白いですよ。
まあ「ぜひに」とは言わないが、推理マンガ(アニメ)のひとつの完成形ということは言えると思う。
(04.0529)


【アニメ映画】・「アップルシード」 監督:荒牧伸志(2004、日本)

公式ページ

優良な遺伝子を持つクローンみたいな存在「バイオロイド」と人間の確執に巻き込まれた女戦士・デュナンがどーちゃらこーちゃら、という話。

うーん、映像はキレイだし、話運びもヘタではないと思うけど、いまいち。
これ、ひと言で言って「アップルシード」の争奪戦、っていうだけの話でしょ? いや、それ自体悪いとは言わないけど、それだけ単純な話なら本作で用意してあるSF的ガジェットはほとんどいらないわけで。
何しろ、予告編でやってたのが「スチームボール」の争奪戦らしい「スチームボーイ」と、不思議なメダルの争奪戦らしいジャッキー・チェンの映画「メダリオン」だもん。アクションものが、そういう「何か」の争奪戦を基本とすることが多いのはわかっているつもりだけど、その争奪戦を楽しむにはあまりに舞台とか設定が無駄に感じてしまう。

唯一、マンガでは発表当時あまりにも違和感があったブリアレオスが、他のキャラクターとも背景ともなじんでいたのは時代感覚の変化も含めてほんのちょっとだけ感動したけど。
脚本があんましよくなくて、たぶんいろいろと話し合いで決まったんじゃないかと思う。いろいろ削っていって。監督の腕は悪くないと思う。
(04.0529)


【雑記その4】・バカ中学生の魂を取り戻せ(YOU ARE SHOCK!)

・「〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター」 ササキバラ・ゴウ(2004、講談社現代新書) [amazon]

という本が出たそうだ。すぐにでも買いに走りたいが仕事で出れません。きっと私のものすごく知りたいことがたくさん書いてあると思う。そして私はたぶんそれに衝撃を受けると思う。
大塚英志の「おたくの精神史 一九八〇年代論」は、まあもともと私は大塚氏の本はある時期まで時系列で読んできているのでそれほど突飛なことが書いてあるとは思えず、またその予想どおりだったが、この「〈美少女〉の現代史」はあまりにも私の興味の対象(80年代の美少女の変遷など)とドンピシャリなので、かえって読むのが恐い。知りたいことが奔流のように頭に流れ込んでいくような気がして恐い。
きっと、これを読んだ後は私は暗い影のあるキャラクターになってしまうと思います。

しかし本が出たからといって(しかも自分が読みたい本である)、怯えさえ感じるというのは私のテンションはまたどっかおかしくなってきているのである。

平静を保つためには、グラビアイドルなどを眺めるのが良い。

5月8日滝沢乃南DVD発売イベントレポートはてなダイアリー - シェルター

ネットでは既存のグラビアアイドルの基準値以上に太ってしまったヒトのことを「樽ドル」などと呼び、好事家はデカダン的な喜びに浸っていると聞いてはいた。その代表が類家明日香で、私は類家明日香はもともとの素材には並々ならぬものがあるとは認めつつ、少し太りすぎちゃってありゃないだろ、金出して写真集とかDVD買うならさあ、とは思っていた(ヒトのこと言えるかとか言わないように。寿司を握れない客だって出された寿司に文句を言う権利はある)。

類家に関してはガンプラ好きなど面白いキャラでもあるので心底憎んでいるわけでもない(私が本当に憎いのは卓球少女愛ちゃんとヤワラちゃんだけ)。むしろがんばってほしい。

で、この滝沢乃南[amazon]なのだが、ちょっと動いているところを見ていないので何とも言えないが、このレポートの写真はイイと思う。何というか太り方が均等で、「若い太り方」って感じだから(年寄りな意見でスイマセン)。
もともと、滝沢乃南は個人的にグラビア誌で何度も見ているはずだがまったく印象のないグラビアアイドルであった。顔立ちもハッキリしていて正統派美人、しかも均等のとれたナイスバディとなると、逆に特徴がなくて埋もれてしまうのだ。
今や「ひもパン宣言」だの「水着ファイター」だの「生徒会長」だの、グラビアアイドルでもキャッチフレーズのある時代。しかし、彼女はそんなフレーズもなく、キレイだけど地味だった。
だが、この5月8日の段階での滝沢乃南は、なんかそういう「ふくよか系」の好きなマニア筋のヒトの描くHマンガに出てくるような体形になっている。これならひと目見たら忘れない。

「水着少女」とかに出てくれないだろうか。まあでも「水着少女」ってのも、見ていて虚しさに死にたくなってくる番組なんだけどね。でもDVDを買わずにグラビアアイドルが生きて動いているところって、あれくらいでないと見られないからなあ。

追記:今週号の少年チャンピオンの巻頭グラビアが滝沢乃南なのだが、

めちゃめちゃ体型を誤魔化してるじゃん!!

お腹の肉がマズイことになってるのか、ほとんどが斜め上からの、オッパイでそこから下を隠そうとしているような構図になっているのはどういうことよ!!




はてなダイアリー - やさぐれ日記暫定版
>>「バカ中学生」にテレ東昼下がりのB級映画劇場は欠かせないですよね。

そーそー。そういえば伊集院光が、「スクール・エスケイパー」がよく見る番組として「西武警察」をあげていたけど、あれも「バカ中学生御用達」番組。
で、80年代バカ中学生は「遊星からの物体X」とか「キャノンボール」、「女囚さそり」や志保美悦子の「華麗なる追跡」、そして日曜日の夕方に死ぬほどの回数やってたフランキー堺の「駅前シリーズ」などを見ていたんですが、世代によって「バカ中学生御用達」って変わってくると思います。
私はヴァンダム直撃世代ではないけどそれもアリだろうし、ジャッキー・チェンの人もいるだろうし、スティーヴン・セガールだという人もいるだろう。

急に思い出したが、中学時代オタクでも何でもないやつが「おれ、『クリーミィマミ』見てるぜー。マミのお母さんがエロいから」って言ってたけどあれも「バカ中学生」の仲間だったと思う。「萌え」とかぜんぜん関係ないスタンスだもんな。

あと、これは私の個人的な定義なんだけど、「バカ中学生」っていうのは何かを生み出しちゃダメなんですよ。それはクリエイティヴな世界へ行っちゃうんで。本当にただバカなことをバカなまま受け入れて、忘れ去っていくというのが私の感覚です。
この「バカ中学生御用達」、最近は日本産が弱いような気はする。まあ「萌え」が受け入れられてしまうと、また違う世界へ行っちゃうし、「イニD」は「イニD」の世界があるし、VシネにはVシネの世界があるしね。趣味の多様化が若い頃から進んでるのかな。

最近(でもないか)「バカだな〜」と思ったのは映画「ハムナプトラ2」と「サイン」かな。いやなんかいかにも何にも残らないところがさー、いいなと思って。もちろん「KILL BILL」もそう。「KILL BILL」って中学生見れないんだっけ?(忘れた)それにしても、この映画が若い世代におよぼす影響は楽しみだ。「CASSHERN」は、バカ中学生陣営には、おれらの世代の「グリズリー」みたいなとらえられ方をするんじゃなかろうか。要するに底ぬけ超大作的な。
(04.0526)



・「とっても! ミニモニ。」(5)(完結) 永野ゆかり、こやまゆき(2004、小学館)

現在、「飯田さん&石川さん卒業」に関する話題が主流かと思われ、空気が読めてないと思う方もいるでしょうが、私としても「ミニモニ。」に関してはまだ積み残している部分があるんで、ご了承ください。

小学一年生、小学二年生、三年生、四年生連載。実在のアイドル「ミニモニ。」を主人公にしたマンガも、5巻で完結。
かわらしい、ふんわかした「いかにも学年誌」なお話だが、随所に本当に取材しているっぽい要素が入っているのがミソ。そういう意味では、単なるPRマンガには終わっていない。

高橋愛のビミョーさも、考えられて描かれていると思う。

「17 ミニモニ。春だ! チャレンジの季節だ!」では、先輩である辻加護から「あだ名で読んでくれ」と言われて悩む高橋が、加護を「かーちゃん」、辻を「のんちゃん」と呼ぶようになるというエピソード。
「かーちゃん」、「のんちゃん」っていう呼び名はホントらしい。

他にも、実際にインタビューしたっぽいコメントなども見られる。ラストはミカが渡米宣言をして、終わり。

それにしても、三年半ですよ。アイドル実録マンガとしては、異例の長さでした。

4巻の感想

(04.0525)



・「ミニモニ。やるのだぴょん!」Vol.3(完結) もりちかこ(2002、小学館) [amazon]

「ちゃお」などに連載。ミニモニ。の4人が活躍するギャグマンガ。4コマが中心。
カラーページ、シール、クイズなどのふろくは、前2作と同様。

本作では、もともとボケとツッコミが「矢口」ときっちり決まっていたために、矢口脱退後はいろいろと苦心しているように感じた。
本作での高橋愛は、「宝塚好き」がことさらに強調され、完全に宝塚オタク、ヅカマニアとして極端に描かれている。

最終回らしい最終回はないみたいだけど、作者あとがきマンガが締めくくりとして載っていて、きちんと終わらせていた。

「とっても! ミニモニ。」同様、作者がミニモニ。が好きで、楽しんで描いている感じが出ていて良かったです。

2巻の感想

(04.0525)



・「DEATH NOTE(デスノート)」(1) 大場つぐみ、小畑健(2004、集英社) [amazon]

まあ今の死神には
「この人間は気に入らない」とか
「人間界を良くしよう」とか
「悪くしよう」とか
そんな感情は全くない

はっきり言って
人間界なんて
死神にとっては
どうでもいい所だ

ただ漠然と
死にたくないから
人の寿命をいただき
漠然と生きている……

本当に今の
死神界っていうのは
腐ってる

何の為に
存在してるのかすら
もう誰にもわからない

たぶん存在してる意味なんて
ないだろう……

週刊少年ジャンプ連載。1カ月以上前に発行された第1巻だが、ちょっと手に入らずタイミングを逃したら、5月18日発行ですでに第5刷を重ねている。

ジャンプ定期購読者、マンガ読みの方々にとっては「何を今さら」と思われるだろうが書いておこう。 この作品はむちゃくちゃに面白い。

物語は、死神のリュークが、「顔を知っている人間の名前を書くと死ぬ」という「デスノート」を人間界に落とし、頭脳明晰、成績優秀な17歳の少年・夜神月(やがみ・らいと)がそれを拾うところから始まる。
ライトはこのノートを使って、悪人を排除し、またデスノートの力が犯罪を起こさせない抑止力となる理想社会づくりを目指すことにする。
世界中のあちこちで、死刑囚などの犯罪者がいっせいに心臓麻痺で死んでいく(デスノートに名前だけを書くと、死因はすべて心臓麻痺となる)。この怪事件に、「L」と呼ばれる謎の素人探偵が挑戦することを表明。
「キラ」と呼ばれ、英雄視さえされる謎の殺人者・ライトと、人前には絶対姿を現さない探偵・「L」との虚々実々の駆け引きが繰り広げられる。

「金田一少年の事件簿」がブレイクし、マンガ誌においてほとんど初めて「推理もの」がジャンルとして強く認識されるようになった(それ以前にも単体で推理マンガは存在してはいたが)。
何よりも「お金の稼げるジャンル」として認識されたことは、「推理マンガ」に新しい風を起こすことになるだろうと思ってはいたが、私がいくつか読んだかぎりでは、多くの作品はやや古典的な作風の域を出ていなかった。

一方、マンガが小説にも映画にもない新しい推理ものを展開するとすれば、それは「通常、ありえないルールのもとに繰り広げられるタイプのもの」だろう、という予想というか、願いがあった。
小説の世界では、SF的設定の世界で起こる殺人事件などを扱ったミステリが少なからずあるが、要はそんな感じのものがマンガでは出てくるだろうと。

で、本作はまさにそんな感じ。作品を通しての推理は「デスノートが存在する」という基本設定を土台に構築される。デスノートのルールが、登場人物たちの推理を左右する。

本作が「少年ジャンプ」から出てきたことは興味深い。
まず、ライトとLの読み合いが「ヒカルの碁」の延長線上にあることは異議がないと思う。死神・リュークは、「悪の佐為」とでもいう存在である。
ここからはこじつけすぎだと思う人もいるかもしれないが、「ヒカルの碁」に影響を与えているのは「ジョジョ」だと思うのである。通常、「囲碁マンガ」のようにスポーツマンガ的な展開を望まれる作品は、その中にSFやファンタジー的な設定を入れることを好まれない……というか、通常考慮もされないのが普通だろう。
しかし、「ヒカルの碁」は囲碁の展開においてはいっさいのファンタジックな設定は排されているにも関わらず、佐為だけは通常ありえない存在として描かれ、そしてそれが作品世界に融合していた。

「ジョジョ」も、とくにスタンド編になってからは、「スタンド」の存在を認めた上で、そのルールに従って展開する。敵との読み合いや、ときにはミステリ的な要素もあった。
個人的には「ジョジョ」なくしては「ヒカルの碁」もなかったと思っている。

もうひとつ、本作がジャンプから出てきた意味としては、本作が「幽遊白書」あたりがグチャグチャにしてしまった正義と悪の問題を、もう一度考え直そうとしているかもしれない、ということがあげられる。
ライトがなぜLに証拠を与え続けなければならないかというと、彼がデスノートを使った理想社会を目指していて、そのためにはデスノートによる殺人を「何らかの力によっての殺人」だと知らしめなければならないからだ。
ここは、「顔の見えない相手と戦う」という本作の構造に強く関わっている部分だが、作品テーマとしては、ライトが自分のやっていることを正義だと思っているということがわかる。
対するに、LはLで自分を正義だと思っている。

一読、明確な正義に対する観点を持っていた少年ジャンプが、時代の流れに乗せられて正義も悪も解体した現代でのゲームを追及しているように思えるが、そうではないと思う(あるいは、そうでなくて欲しいと願っている)。むしろ、ライトとLのゲームを通して、正義と悪について考えているように思える。
リュークは最も何を考えているのかわからない存在だが、そんな彼が「死神界は腐ってる」と言ってしまうのだ。自分の存在意義について考える死神。
なんとなく「寄生獣」も思い出させる。

講談社の「金田一少年」、小学館の「名探偵コナン」に比べて、なぜか集英社からは推理ものの大ヒット作品は出ていない。ゼロから純然たる推理ものを始めるよりも、異常なまでに蓄積されてきた「ファンタジックな世界における敵との駆け引き」のノーハウを利用した方が、より面白い推理っぽい作品、サスペンスが描けるということだったのだろう。

そういう意味では、本作はいわゆるジャンプパターンのトーナメントもの、スポーツもの、そしてファンタジー作品といった各ジャンルのノーハウの集大成的作品と言える。
(04.0524)



【雑記その3】・飯田圭織、石川梨華卒業決定

モー娘。激震…リーダー・飯田とエース・石川が来年卒業! (サンスポ)天上の飛鳥

矢口のラジオで発表があったそうで。亀井のニューウェーヴ天然っぷりに喜んでいた矢先の情報でした。さらに、スポーツ新聞でも発表が出ました。
「飯田圭織はハロー! プロジェクトの来年の正月ツアー、石川梨華はモー娘。の来春ツアーがラストステージとなる。」ということのようです。

わたし的には寂しいけど、驚きはないです。もうプロレス的にあらゆる状況を想定してみているので。
五期、六期がいきなり卒業とか、「やっていけない」的な理由での芸能界引退とかでないかぎり。あと結婚引退。

娘。をアイドルととらえるかアーティストととらえるかは微妙ですが、四期が入った時点でアイドル色が強くなったと思います。
で、娘。って存在期間としては、おニャン子もピンク・レディーもすでに抜いてます。
っていうことは、初代メンバーの飯田さんもすでに過去のグループを抜いた記録を持っているということで、ひとつのアイドルグループの鮮度ということを考えると卒業は時期的にありえないことではない。
すでにソロデビューもしていて、準備もしてきているわけですし。

石川梨華も、単体でやっていけるかどうかという点で言えば、現状他のメンバーに比べてだれよりもあるでしょう。もともと正統派アイドルな人が毛色の違ったことをやらされているイメージがあったので。
電気グルーヴで言えば、まりん的存在でした。
まあ、アホな着ぐるみを着たりという点では、まりん的寒さを持っていた石川梨華がそれを乗り越えてしまったので、いわゆる「関西仕事」に関しては石川梨華はまりんを越えた。
いや、YMO好きのまりんにしてみれば、関西仕事を含めての電気におけるパフォーマンスだったと思うので、これは決してムリヤリな比較ではないんです。

卒業期間のスパンについては調べてないですが、辻加護が8月卒業なんでその後に発表だったら卒業までの期間が短すぎますし、飯田と石川の発表の時期をずらすのもうまくないでしょうからまあこんなものだろうと。

後は残された娘。本体がどうなるかですが、現状ではやっぱり高橋・藤本が2トップということになるんですかね。
四期を挟んでの新旧メンバーに関しては明確な違いがあると思います。旧メンバーの方が大人っぽい感じですね。っつーか大人っぽさを求められていた感がある。ということは「ちっちゃいけど大人」な矢口が便利に使いまわされてきた感と関係してくると思うんですが、それはまた別の話。
多少違和感がある人がいる方がグループとしては面白いとすると、旧メンバーの卒業は面白味を薄れさせるということはあるとは思います。
とくに飯田はルックス、歌声ともに他の人とはかなり違ったので。

後はもう来年の話でしょう? そうすると、Berrys工房がどれくらい売れるかとか、他のハロプログループとのバランスで状況が決まってくると思うんで、現時点で書くことはないです。

ただ石川梨華卒業は、「新生タンポポ」が何だったんだと思わせるというのはある。
タンポポとプッチモニを事実上なくしたのは、失敗だったと私は思いますね(新生タンポポがアイドル的に失敗だったとは思わないのですが)。もうそういうふうに言っちゃっていいでしょう。
これまでの期間に、それらを越えるユニットがひとつも出なかった、という結果論ではありますけども。
(04.0524)


【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)

公式ページ

5月23日放送分。
ハロモニ。紅白ものまねバトル2004。
ときどきやってる、娘。による学芸会的なものまね合戦。何回か見てて、えーと当時どういう感想を書いたか忘れてしまったんだけど、今回過去映像として流れた小川の猪木、後藤真希のバカ殿ってあんまり好きじゃないんだよね。
小川は当時、「猪木だけで乗り切っていこう感」が漂っていたし、後藤の場合は、バカ殿のものまねそのものが他のタレントもやっているものだったので。

でも今回は違った!! 素人芸大好き人間の私としては満足の回でした。
まず、司会は先週に引き続き保田圭、審査委員はものまね芸人のホリ。
自分よりタレントとして格上の、十数人の女の子たちを盛り上げていかなければならないホリのプレッシャーについて思いをはせた。

トップバッターは田中VS小川。
田中は松浦亜弥のまね。最初の最初でものまねも初、というプレッシャーのわりにはよくがんばった(この後の、ミュージカルの練習風景のコーナーでやったタンポポのまねの方が似てたけど)。
小川は高橋愛のまね。オープニングで「小川は猪木のまねでキャラをつくった」というフリに首を振っていた小川に「?」と思ったが、どうもこのものまねに対するプレッシャーだったのかも。
高橋愛のものまねは、微妙にしやすいらしい(後に新垣も披露)。歌ではなく、ふだんの口まねというところがイマドキ感漂う。「もういいかげん猪木と吾郎さんからは離れたい」という意気込みも、伝わってきたように思う。
外見をまったく似せなかったのは、狙いなんだろうな。

石川VS藤本。石川はさかなクン、藤本はいつもやってる「蛍の墓」。二人ともやりきっていて良い。マッチメイクも良い。クラスの男子を二派に分けてしまう、正反対のタイプの美少女二人。
紺野VS亀井。紺野は「くまのプーさん」。これも似せようという気合いが伝わってきたが、亀井の「コロ助」があまりにも強烈すぎた。
まったく似てないコロ助をやった後の、亀井の満足げな表情に爆笑。恥ずかしそうな紺野とは好対照である。
よっすぃ〜の「学校の出しものじゃないんだから」というツッコミにも笑ってしまった。ここで言う「学校」は、たぶん小学校のことだろう。キャラをつくり込むタイプの吉澤にとって、このテの天然芸はもしかしたら許し難いものかもしれないな。
でも面白いんだもん。しょうがないよ。

高橋愛VS新垣。高橋は美川憲一。ちょっと似てたけど、予想どおりのパンチの弱さはK-1武蔵のしょっぱさに近いものがある。しかし、高橋愛のたたずまいの意味を読み解いた私は、もはや彼女に何も要求しない。彼女は彼女らしくあればいい。
新垣、モー娘。でありながらモーヲタであるという、アモンの身体を乗っ取った不動明のような自らの存在を突き詰めた「メンバーのあいさつの仕方」メドレー。これは気が利いていた。過去にはまったく似ておらず笑えもしない「トルシエの通訳」とか、ものまねバトルでは最低ラインのしょっぱさを誇っていたガキさんとは思えない化けっぷりだ。

辻加護VS道重矢口。
辻加護はトトロ。もともとこの二人は、まったく似ていなくても細部の模倣だけは貫徹するという方法論を持っている(加護のガクトのまねとか、ぜんぜん似てないが観察していることだけは伝わってきていた)。やはりものまねというのは、自信満々にやりきることが大切らしい。
トトロはちゃんと見てないんでどの程度似ているかはわからないが、これはたぶん似てるだろう。二人のコンビネーションももはや盤石。
道重矢口は「牡丹と薔薇」。今回のものまねバトルは構成が考えられている。わりとしょっぱそうな田中れいなをトップに持ってきてハジケキャラの小川と対決させ、もう一人しょっぱそうな道重をこのテの企画には比較的安心して起用できる矢口と組ませてさらに辻加護と当てるという、パズルみたいな構成で視聴者に迫った。
すなわち、辻・加護・矢口の連鎖で道重が活きるという展開であった。
後は「おとなしそうな道重にヒドいことを言わせる」のが定番、というのはあるだろう。

飯田VS吉澤。「エース対決」って、何のエースだかわからないんだけど、マッチメイクは完璧。
飯田は「気志團」。「動きの飯田」の異名(私が勝手に付けた)どおり、オーバーアクションで笑いをとるという私の予想どおりの展開で、見ていてひそかにニンマリした。
ネットとかを見ていて、コントでも飯田ってほとんど言及されないんだけど、この人の「身体の動きで笑わせよう」とする芸風は娘。でも唯一無二のもの。もっと評価されていいと思う。
対する吉澤は高木ブー。吉澤は役に入り込んでキャラを確立するという、木梨憲武的なやり方をとる。吉澤ブーはちょっと頑固一徹入っていた。好カードであった。

ハロモニ劇場は、ひさしぶりにゴマキスズメと愛チュン。愛チュン……。高橋の謎を解いた以上、もう何も言うことはない。

「ハロプロアワー」。中澤&紺野とムラ田さんのやりとりの、手探り感がたまらない。ゲストは高橋愛。高橋の謎を解いた以上、もう何も言うことはない。亀井はここでもやっぱり亀井だった。
ものまねバトルの「最優秀賞」発表の際、目を閉じて祈っている亀井にまた爆笑。
賞、とる気でいたのか……。

今回のハロモニ。は、表の主役は高橋愛(何かとよく出てきていた)、裏の主役は亀井であったと個人的には感じる。それと、構成の良さもあるのだろうが五期メンの見違えるような成長と六期メンの恐いもの知らずな感じに感心した。

それにしても亀井だ。ひとつのグループに、「天然系」の要員は限られている。四期加入時に、その役割は辻加護があまりにオリジナルなキャラクターで一気に持っていってしまい、このため石川梨華がキャラ確立に苦労し(本来ならかわいいボケキャラだけで飯を食っていける正統派アイドルにも関わらず)、吉澤はまたまったく別ベクトルを目指した。なっちはマザーシップだったから、別格。
五期メンにはボケ系のもともとの力不足はあったにせよ、彼女たちが入ってきたときにも辻加護がどっしりと君臨していたのである。

新たな天然系キャラ確立のためには、辻加護が通って草木も生えていない道を歩まねばならなかった。
まあたとえるなら、エヴァンゲリオンが徹底的に破壊した「物語性」を踏まえた上であらたに物語を構築していくような作業が必要である。
しかしそこに先鞭を付けたのが亀井だったとは。

大きな波、ムーヴメントが押し寄せて去った後には、どうしてもその後のジャンル内の作品というのは対外的な訴求力が弱いというか、いい作品でもわかりにくいものにならざるを得ない。
そういう意味で、亀井は万民には理解されづらいかもしれない、「いい作品」である。
「うたばん」でいじられないかもしれないし、「Mステ」でタモリに名前を覚えてもらえないかもしれないが、辻加護が出現してしまった以上、亀井的たたずまいは「娘。」というジャンルの必然である。

だいたい、中居ごときに亀井が理解できるはずがないのである。

ハロモニ。スタッフ以外で、だれが最初に亀井の特異性に気づくか。
まあ鉄板はマシューなんだろうけど。
(04.0523)



【雑記その2】・裸エプロン学園、若乃花と浅田彰をムリヤリ話題にしてみる

ヘンなテンションになってます。

ゲーム「裸エプロン学園」
なんつーか、「萌え」って「ぶっとび潰し」ですな。何でも萌えりゃアリか。いや待てよ、これは最近「ハート・キャッチ いずみちゃん」みたいなムチャクチャなHマンガがない反動だな。そのテのがゲームに移行したんだな。

それにしてもいつもいつも思うが、なぜ裸エプロンは「男のロマン」で、その他のコスプレは別に「ロマン」ではないのだろうか? コスプレという領域を逸脱するほどの過激な衣装でさえも? もしかして、私の知らないところで裸エプロンだけが人間のDNAに抵触するタブーを抱えており、それ以外の「裸にソックスだけ」とか「パンツにものごっつい穴が開いている」、「リオのカーニバルのときに乳首に付けるやつ」などはそうでもないということなのか?

あと「大人の隠れ家」っていう言い方、ムカつきますね。話は変わりますが。
自分をセレブだって裏側から認めてるってコトでしょ。
昔、若乃花が女の子に「隠れ家的な店を持ちたい」っつって持たせて、客が来なくて潰れて訴えられたことがあったけど、そりゃ隠れ家なんだから人来ないよ、それは正真正銘の隠れ家だ、とかって一人で喜んでいた私。

今決めた! 今注目のタレント、若乃花!
使いにくいと思うんですよねえー。身体がデカいわけじゃなし、格闘技もやりたくないって話だし。
おれねえ、若乃花には七十年代的な、毎回美女ゲストを呼んできわどい質問を連発して、それを美女ゲストがうまくかわしていくみたいなテレビ番組が見たい。
なんかすげえどうでもいいこと言うワケね、若乃花が。射撃が趣味だとか釣りが趣味だとか。「やっぱり、環境問題って大切だと思うんだよね」とか。
本当にそうかどうか知らないけど。

あとぜんぜん関係ないけど、トークでぜんぜん使えないのがアン・ルイスの息子。
だから、アン・ルイスの息子が執事みたいな感じで出てきて、セットは無駄に豪華っぽい、いかにも成金みたいな部屋にして。背後に読みもしない百科事典が揃ってるみたいな。
それで、中央の階段からイタリアのスーツかなんかを来た若乃花が降りてきて、オープニングでひとくさりキザなことを言って、「さて、今日のゲストは鈴木京香さんです」とか「今日のゲストは国仲涼子さんです」とか言って、そこから恐ろしくつまんないトークが始まるわけです。

「毎回、女優ゲストが若乃花にプレゼントを持ってくる」というコーナーがあって、それもすごく中途半端なの。現時点で「たまごっち」とか持ってくる人がいて、まあおれの想像だと矢田亜希子とかが持ってきて、「子供の頃ハマってたんですよ」とか言うんだけど、若乃花は別に過去ハマった経験も何にもないから、すごく場がしらけちゃって、そういうのを見る番組。

あと、途中にぜったいゲストとトントン相撲をするコーナーもあるね。
それで、負けた方がイニシャルトークする。若乃花が負けてもぜんぜん面白くない。
「弟のTが……」って、それ全部元貴乃花のことじゃん、とか。
交友関係が異常に狭くて。

ラスト、アン・ルイスの息子の歌がエンディングテーマで、それが流れる中、若乃花がその日のゲストの印象を色紙にひと言で表す、というコーナーがシメ。でもつまんないことしか書かないの。
「今日の乙葉さんの印象は『清潔』です」とか言って。

わーつまんなそう。
そういうのを日曜日の深夜とかにやってほしいね。
それで、その番組が終わってからむちゃくちゃ重いドキュメンタリーとかやるのね。
DVで悩む人とか、助かる病気が民間療法で助からなくなっちゃった人の話とか。
視聴者はその流れがイヤで、見ないんだ若乃花の番組も。

それで13回で終わって、その後はヌーブラの通販番組が始まって、そっちの方が視聴率がいいの。

そうだ、これから、「すごくつまんなそうなテレビ番組」を妄想して生きよう。
若乃花と楽太郎の旅番組とか、
ブラザー・トム司会の動物番組とか、
ダンカンが古いお寺を訊ね歩く1時間番組とか。

昔、まだ周囲の人々が私の戯れ言を聞いてくれていた頃、「浅田彰ショー」っていうのを考えていた。
オープニングは、浅田彰が舞台中央の階段から(また中央の階段か)「キャプテン・ハーロック」の歌を歌いながら登場する。
昔の「いいとも」風に。
ゲストも、浅田彰と手が合わないっぽい人ばかり呼ぶ。
森三中とか、カバ園長とか。
それで、浅田彰がすごい当たり障りのないこと言うの。
森三中に「お笑いってむずかしいですか?」とか。

あと「東京フレンドパーク」みたいなゲーム。
よくわかんねーけど、浅田彰がルームランナーみたいので走りながら、キン肉マンの超人を5人数えないとカバ園長が死ぬ、みたいな。
死ぬんだ、カバ園長。
板の底が抜けて、硫酸のプールに入っちゃうのね。

あと、浅田彰にラップやってもらう。
頭いいから、韻とかすぐ踏めると思うし。

まあなんでここまで浅田彰、浅田彰と言っているかというと、なるべく私が興味がなくて、なおかつテレビ的でない人というと浅田彰がいいかなと。
若乃花と違って、浅田彰、もう何でも面白いもん。
それに注目していたのは、そう言えばかつての中尊寺ゆつこだけだったな。

・浅田彰のインディ・ジョーンズ
・浅田彰、冷凍食品のシューマイのCMに出演
・浅田彰、えんどコイチと対談
・浅田彰、泉アツノと対談
・浅田彰、アニメ化
・浅田彰、食玩化
・浅田彰、「あさだ先生」というキャラで「おはスタ」に出演、極楽山本に中途半端なツッコミをされる

あんまり極端なのはダメよ。「浅田彰、パンツ一枚で奇声を発しながらハチ公にまたがってトランペットを吹く」とか。それはやりすぎ。
浅田彰、藤竜也のようなヒゲをはやす、というのもありかもしれない。

私が独裁者だったら、「浅田彰&カバ園長」というユニットでCD出させるけどなあ。曲は「東京ららばい」。カップリングは「孫」。
(04.0521)


【雑記】・「ヘルモニ。殺るのだぴょん! 〜きるびる。ばーじょん〜」

(1番)
♪病院でー(Oh!)
目覚めたらー(Oh!)
とにかくビルを
殺せ!(殺せ!)

日本刀(Oh!)
つくったらー(Oh!)
とにかくビルを
殺せ!(殺せ!)

殺せ 殺せ 殺せ(殺せ!)
殺せ 殺せ 殺せ(殺せ!)

はーんーぞーおーそーおーどーでー
斬るのだぴょ〜ん!

ぱっぱっぱっぱ!
殴ろう!
騒ごう!

ぱっぱっぱっぱ
首とかがぴょ〜ん

ぱっぱっぱっぱ!
ブッた斬ろう!
騒ごう!

ぱっぱっぱっぱ
腕とかもぴょ〜ん

GOGOボールを〜
防ぐだぴょ〜ん!

ヤッチマイナ
ヤッチマイナ

殺せ!!

(2番)
♪墓の下ー(Oh!)
埋まってもー(Oh!)
とにかくビルを
殺せ!(殺せ!)

拳法のー(Oh!)
秘技使いー(Oh!)
とにかくビルを
殺せ!(殺せ!)

殺せ 殺せ 殺せ(殺せ!)
殺せ 殺せ 殺せ(殺せ!)

おーんーなーのーめーだーまーをー
えぐるだぴょ〜ん!

ぱっぱっぱっぱ
撃ちまくろう
騒ごう

ぱっぱっぱっぱ
ヘビとかがぴょ〜ん

ぱっぱっぱっぱ
棺桶
破ろう

ぱっぱっぱっぱ
金魚とかもぴょ〜ん

トラックスーツではいポーズ
片目は眼帯ではいポーズ
女子高の制服ではいポーズ
カウボーイハットで

ハイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイハイポーズ

ぱっぱっぱっぱ
カトーマスク
かぶろう

ぱっぱっぱっぱ
障子からぴょ〜ん

ぱっぱっぱっぱ
アメコミ
語ろう

ぱっぱっぱっぱ
ナイフもぴょ〜ん

こーおーづれーおーおーかーみー
見るのだぴょ〜ん

ラブストーリーだけど
殺せ!!

キルビルです! キルビルです!

殺せ!!
(たったかた〜た)

殺せ!!
(04.0520)



【映画】・「CASSHERN」 監督・脚本・撮影:紀里谷和明(2004)

公式ページはなぜかウチのパソコンからは見れないので、リンクしません。

超未来、大亜細亜連邦共和国とかいうのができていて、50年もの長い戦争は今でも続き、現在でも戦乱の後遺症に苦しむ人々が60パーセントもいる。さらには各所でテロ・ゲリラ活動も行われているらしい。
細胞学の権威・東教授は、「新造細胞」理論を提唱。人類のどこかにいる「オリジナル・ヒューマン」から採取した新造細胞を使えば、クローン技術以上の人体再生が可能になると言う。
その研究の成果を早く出せとがっつく政府首脳部。東は、難病におかされた妻・ミドリを救うためにも研究を急ぐ。
東と対立している息子の鉄也(後のキャシャーン)は、反対を押し切って最前線へと向かうが、そこで地獄を見、あげくに戦死してしまう。
鉄也の亡骸が教授の元に届けられたとき謎の雷鳴が研究所に落下、まだ実用段階ではない新造細胞の培養液(?)から、ブライキングボス以下、新造人間たちが次々と生まれてくる……。

この「CASSHERN」、かなりの人からボロカスにけなされている。「面白かった」という人もいるにはいるが、それにしては感想がケナす人との間で乖離しすぎである。
かといって、エヴァや「オトナ帝国」のような問題作であるという話もあまり聞かない。
で、実際に観てみた。
まあぼちぼちと感想を描いてみたい。

結論から言うと、意外に面白かったんだよなコレが。

・その1 話運びは退屈しませんでしたよ
そりゃまあ、SF仕立てのガジェットはどっかで見たものの連続だし、キャシャーンはヘルメット被ってねェし、ストーリーは破綻しまくってるし、キャラクターは何かと語り出すし、ラストもはっきり言ってメチャクチャである。
だが、映画ってなんつーのか、プロデュースされた空間みたいなところがあって、それが苦痛だったり退屈だったりしなければそれはイイものだと思うのである。
(ここで、「ひたすらに退屈、苦痛」などの意見をすでに読んでいるんだけどね)

まず、お話運びが思ったよりも上手かった。キャシャーン登場シーンまでだいたい40分くらいかかっているが、ここまでで退屈しない程度にいろいろ事件が起こる。絵としてややつくり過ぎなシーンが続くのは、もともとがPV監督だからこんなもんかなという感じ。
わたし的には、何よりもブライキングボス他の新造人間が、人類のエゴによってつくり出されたモンスターで、それが最初から憎悪のかたまりみたいな感じで出てくるところにのっけから期待したのである。
(まあ、それにしては培養液から誕生して逃走し、帝国をつくるまでに無理がありすぎるのだが)

次に、映像に関しては「どっかで見たものばっかり」っていう意見もあるけど、私のハードルが低すぎるのか何なのか、「見たこともない映像」が出てくるとは見る前に微塵も思っていなかったので、かなり頑張っていたと感じた。
おそらく、ガジェットのありきたり感を、PV風のなんかよくわからんフィルターをかけた映像とか色調をおかしくしたりとかでごまかそうとしていたんじゃないかな。それを眺めてるだけでも退屈しなかった。
前述の「お話運び」の点で言うと、このゴチャゴチャした画面構成のわりには、ストーリーを追うぶんにはなんだかわからない伏線というのは出てこない(何か象徴的な伏線とかはあったかもしれないけど、そんなの別に忘れても問題ないし)。

なにしろ、私は「ニューヨーク1997」という映画で、主人公が逃げるときに通信機を落として壊してしまうシーンがあったのだが(それが外界との連絡を絶たれるという伏線だった)、ビデオで見ていてその壊れた機械が何だったのかわからず、5回くらい巻き戻してやっと何だかわかったくらいのトンチキである。
その私が口開けて見ていて「えっ、今のなに?」みたいのがなかったのは、紀里谷監督に10点さしあげる。

キャシャーンのアクションシーンも、これはマトリックスじゃないよー、KILL BILLでもないよー、という信号を画面からちゃんと発してましたよ。とくに、アンドロ軍団のロボット兵を蹴散らす冒頭の戦闘シーンはかなりカッコいいです(その代わり、クライマックスちょっと前のブライキングボスとの一戦はかなりガッカリです)。

・その2 恥ずかしいが、若い世代(DQN寄り)の戦争に対する感覚はあんなものなのでは
お話は、国のクーデター騒動なども加わりグチャグチャになる。予想どおり(そう、予想どおり……)、キャシャーンはほとんどヒーロー性もまとうことはできず、ブライキングボスと東(キャシャーンの父)と、母・ミドリとルナとの人間関係がグチャグチャになって、メタクタになって終わる。
ただ、別に腹は立たなかったなー。わりと「面白い」と思って最後まで見てた。理由のひとつには、拙くてもダサくても、「キャシャーン」の基本設定にイマドキ性を持たせようとした努力の結果が見られるということ。
この辺、「努力しただけで済むか!」と考える人はただイラついたと思うけど。

たとえば、確か元のキャシャーンでは、世界は完全にアンドロ軍団によって支配され、アンドロ軍団によって不幸な世の中になってしまったというふうに描かれていたけど、本作ではアンドロ軍団の存在はその世界の破滅性のワン・オブ・ゼムでしかない。
アンドロ軍団がいなくても、じゅうぶんに不幸な世界になってる。これは、ヘタをすると物語が破綻してしまう危険性がある設定で、実際破綻してしまったんだけど努力は買う。
(映像関係でも努力を買ったのは前述のとおり)
それと、確か紀里谷監督って私と同世代。で、ふだん戦争についてマジメに考えている人は、本作に出てくる議論っつーか問答っつーか、そういうの噴飯モノだと思う。だけど、コレは私が「世代」というフィルターを通して見ているんだけど、実際、私と同世代のかなりピュアな人が、戦争について考えてみなさいと言われたら、本作のような結論になる確率はかなり高いと思う。

ここ、現在三十代半ばのやつらが幼いとかバカとか言われても仕方がない部分なんだけど、でも実際そうだと思うし、本作が「売れている」のならば、理由もその辺にあるんじゃないかという気はしている。
まあたとえば80年代なら、戦争を経験していなくても、同じ世代でも「おれは戦争を経験してないもんね」で済んだ。「戦争を経験していないから、こう描く」というアプローチができた。「気分はもう戦争」とか「超時空要塞マクロス」は、そういうエクスキューズのもとにつくられていると思う。

そういう箱庭感覚は、内部からは宮崎勤事件で破られて、湾岸戦争によって破られて、阪神大震災で破られて、オウム事件で破られて、貿易センタービル破壊で破られて、現在の米のイラク攻撃で破られた。
物語内で「ボクは戦争を知らない子供たちです」と、はっきり描けない状態だと思う。今は。
だから、本作の中で鉄也が志願して戦争に行っちゃう、行って罪もない人を殺して自分が罪を背負ってしまうというのは、現在の観客の感覚としては共感可能なのではないかと。
たとえば、自分がボランティア行けない後ろめたさを、イラクの人質事件の人質の人格非難に変換させたりする感覚と通底するというか(例のイラク人質事件に関しては、人質たちの仕事に関する評価が立場や思想信条によって多岐にわたっていると思うので、必ずしも後ろめたさや嫉妬心(?)からの非難ばかりではないと思うし、その是非はここでは問わないが)。

・その3 紀里谷監督の情念はよくも悪くも「安普請」。もしくは「お菓子の家」。
最後のグチャグチャになった果ての「人生すべてチャラ」みたいな妙にピースなラストも、私はぜんぜん賛同できないけど、紀里谷監督、これマジでやってたらそれなりにすごいなあと思った。
確か長渕剛が、アメリカがビン・ラディンを捕まえろとか何とか騒いでいるときにアフガンがどうたらって歌を歌ってて、あそこまで堂々とされるとかえってスゴイと思ったというか、そういう感覚として。

たぶん、紀里谷監督はそれなりに本気でぶつかってこの映画をつくったと思う。その本気度は伝わってくる。でも、それがかなりの人に苦々しく受け取られるのは、誤解を恐れずに言えばこの人の「本気」って、すごいオンナコドモっぽい。で、それをそのまま押し通しちゃってる。
んだから、まあこういう言い方も差別的かもしんないけど、「宇多田ヒカルが何となく好きで、ヒマだから見に来る子」とかはけっこう感動すると思うんだよね。本作のラストって、まさにそういう子たちが気に入るようなふうになってるから。

「キャシャーン」を題材に選んだのがこの監督のシュミだとしたら、その段階で「70年代的な考え方」に対するシンパシーはある程度あったと思う。そこら辺が、ブライキングボスに過剰に感情移入するようなところに出てる。
だから、何がダサくても何でも、2004年度版の「平井和正のスパイダーマンみたいになるのかな?」っていう期待は、見ている途中でちょっと抱かせる(逆に言えば、平井和正のスパイダーマンがすでに嫌いな人には、この映画は徹頭徹尾受け付けられないだろう)。
でも、けっきょく最後は「おまえ、女にモテたいか、またはもしかして天然でそう思ってんの!?」みたいなオチになってしまうという。そんな感じ。

そもそもが、これだけ戦争を否定しておきながら、全編に渡って戦闘シーンのカタルシスを追及しているというのが最大の矛盾ではないか。ここははっきりしておきたい。そこで止まっちゃってる。宮崎駿も、ときどきそうだけど。

・その4 日本人は、ヒーローに対する愛情がねェのか!?
……でまあ、長くなったがこの「その4」がいちばん言いたいことなんだけど、もう今世紀中に日本のマトモなヒーローものは見られないんじゃないかという懸念がある。

本作で私がいちばん不満なのは、ありきたりなガジェットでも登場人物の語りでもなく、本作が「ヒーローもの」として撮られていてちっともヒーローものじゃないということ。
「エヴァ」もヒーローもののようでいてそうじゃなかったし、現在やってるアニメ「鉄人28号」も、鉄人の方が悪人っぽい回があったりして正確な意味でヒーローものではない。
「555」もヒーローもののようでいてそうではなかったし、戦隊ものは別にして、ちゃんとヒーローしてたのって最近では映画「ゼブラーマン」くらいしか思い浮かばない。

「キャシャーン」って、構造的には「555」に近い。それが「ヒーローもの」としてはいちばんの問題点。

いつからこんなことになってしまったのか? と考えるに、70年代の特撮ヒーローものも、アニメも、劇画タッチでかなり従来のヒーローものの常識を覆すものが多かった。
善だと思ったら悪だったり、悪だと思ったら善だったり。マンガ版「デビルマン」とかが典型。
でも、「デビルマン」をヒーローだと疑わない人はいないだろう。
要するに、そういう線引きはあった。

ところが、そういった勧善懲悪ものをひとひねりした作品を、さらにもうひとひねりしようとするから、リメイクがもはやヒーローものでも何でもなくなってしまう。
あと、「エヴァ病」みたいのがあると思う。
エヴァが直接の原因とは思わないが、どうも物語を破綻させたくて、ぶっ壊したくてしょうがない人がアニメとか映画づくりに携わっているとしか思えない。

私見では、ここんとこみんなやりすぎ。
ここまでグチャグチャにしてしまっては、そもそも便宜上にしろ、「善」と「悪」を分ける勧善懲悪ものを採用する意味がなくなってしまう。つまりヒーローものの意味がない。

アメコミの映画化を見ると、ちゃんとヒーローとして守るべきところは守っていてきちんと面白い作品をつくっているのに、日本人はヒーローに対する愛情を失ってしまったのか? と思うほどにヒーロー愛の薄い作品が多い。

そんなに数は見てないんだが、映画「バットマン」や「デアデビル」は、ヒーローの正義感を一種の「狂気」と規定していて、それでもなおかつヒーローものであることが偉大なんですよ。
映画スパイダーマンは、日本人がつくったよりも「寅さん的」で良かったしねえ。映画版「X-MEN」もにぎやかでよし。

日本の場合は、70年代から80年代くらいにちょっとヒーローものの定型をブチ壊しすぎたのかもしれない、とは思う。

アンチ・ヒーローを描くのに、ヒーローをダシにしたりもうしないでほしい。それがいちばん言いたい。富野監督、ガンダムZ映画化するんですか? それもいいけど、とにかく破嵐万丈を復活させてほしい。それか、だれか情熱と才能のある人に、破嵐万丈の権利を譲ってあげてほしい。

あと、「破裏拳ポリマー」を、三池崇史かチャウ・シンチーか、サム・ライミか釈由美子の「修羅雪姫」を撮った人か「デアデビル」を撮った人に映画化してほしい。
そしてできればシリーズ化してほしい。そのときには、必ずアメリカのコメディっぽいホラーものとかウーピー・ゴールドバーグがプロバスケットボールの監督になるような映画と二本立てでやってほしい。
最近、名画座上映でない二本立てやらないけどね。
(04.0518)


【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)

公式ページ

5月16日放送分。
W(ダブルユー)が「恋のバカンス」 [amazon]をスタジオLIVE。最初はカバーで「えー?」とか思ったけど、いざ見るとけっこう合っている。こうなってくると逆に不安なのがつんく♂製作の曲がどうなるかだ。悪い予想をすると「ごまっとう」のときみたいなギャッフン感に見回れるのではないかと考えてしまう。
はっきり言って、つんく♂製作の曲いかんでW(ダブルユー)の今後の活動のすべてが決まるといっても過言ではない。どうするか。なんだかもー「リンかけ」が終わった後、車田正美が何を描くか期待していた頃のように楽しみだ。

それと関連させていちおう書いておくが、私も「浪漫 〜MY DEAR BOY〜」 [amazon]を買った。貧乏くさいので、ポスターが欲しいわけでもないのに初回版を買ってしまった。ポスター、私にとってCDの特典で最もいらないもののひとつ。飾るところがないから。
テレビで聞いていて、最初は何とも思わなかったが何度も聞いているうちにいいと思えるようになってきた。たぶんバカ売れすることはないだろうが、こういうのをコンスタントに聞けるというのはアイドル好きとしては嬉しい。いや、曲調はロックっぽいけどね。

最近は、ほとんど「だれがセンターになるか」が話題にならなくなってしまった。しかし、今回の3トップ(藤本、高橋、石川)はやはり今後のエース候補という意味はあると思う。
とにかく藤本は歌声に特徴があるのが強い。それと、異論はあると思うが声質が似ている高橋愛が藤本の歌にかぶせてきて安定感を増大させ、そこに石川梨華のアイドルとしてのヘロ声がアクセントとして入る。個人的にはフォーメーションは完璧だと感じる。
歌詞の内容も、まるで70年代の安メロドラマのような時代錯誤女性観で書かれた「壊れない愛がほしいの」(シャッフルの歌だけど)とは一転、「自分から時代を動かそう」と訴えていく女の子たちになってさわやか。っていうかホントに同じ人が歌詞書いてるの?

ミュージカルと関連させた環境問題がらみの内容だが、まだまだ世間的に影響力のあるアイドルがこういう大文字の正義を訴えることは、実は私はあんまり好きじゃないです。理由を問われると自分でもよくわからんのだが、アイドルってダブルスタンダードで、もっと「ダメ〜」なものを背後に持っていてほしい、というのが私の望みだから。
あるいは、ASAYAN嫌いの私でも、エンターティナーが訴えかけるものは個人的な情念であってほしいと思う。

でも、ものすごく広く「エロ」というカテゴリーでアイドルを見てみると、AVの過激化とともに完全に棲み分けがされてきてる。最近「着エロ」っていう単語をよく目にするんだが、ヘアヌードバブル崩壊以降、もはやグラビア誌でさえヌードの価値は大幅に後退してきている。
つまり、アイドルが過剰に「エロ」を背負う必要がなくなった代わりに、今度はより健全な方向に活路を見出しているのかも、とかとも思うわけです。
まあ、それがいいか悪いかの結果が出るのはもう少し先でしょう。

さて、本題。
定期的にやる連帯責任ゲーム。できればごほうびがもらえる。ゲームの総称があるかとざっと録画を見返してみたが、ないようだった。司会は忙しい安倍なつみに変わって、今週は保田圭。たまに見ると、保田の司会もそれなりに安定していていい。

最初、「セ・リーグのチーム名を答える」という問題であまりの娘。さんたちの野球知らなさが衝撃。これはプロ野球ファンはガックシ、でしょう。
当初は「名前を完全に答えなければならない」雰囲気だったのが、読売ジャイアンツの帽子を見て「見たことある……」と消極的発言をした辻の段階から「何とか言えればいい」に方向転換した模様。 藤本も紺野も広島カープを知らないというのは……仕方ないことなんですかね? 私も野球はよくわからん。

前半を持っていったのはガキさん。地理の勉強問題で、「わからない」という最後の大オチがふられると思ったら、間違えてしまった飯田さんにまさかの持っていかれ。大声大会では「あ」から始まる方が声が出る、ということで「愛あらば IT'S ALL RIGHT!!」と叫ぶガキさん。どんだけモー娘。すきやねん、と関西弁のまねごとでつっこみたくなりました。でもそういうのは愛しいですね。

ところで、高橋愛のボケスタンスをついに読み解いた私に、五期メンに関して死角はないわけですが、ガキさんのここのところのスタンスにも考えさせられるものはあります。 六期が入るまで、いちばん年下だったからクイズや勉強に不利なのかと思ったら、六期加入後も、クイズ解答選択権のある田中れいなから「ガキさん残し」と言われる浮き足感はなかなか面白い(ちなみに、ガキさんは後輩を励ます新垣塾塾長)。
この間の「ポップジャム」ではつんく♂に「自分はどこで目立っていると思うか?」と聞かれ、いまだに「眉毛」と答えるガキさん!

私はがんばってほしいと思ってますが、物怖じしない六期に比べると、悪い言い方で言えばボケ(のフリ)つぶしの高橋愛、ガキさん、そして「私は面白いこと言えません」と言っていたネガティブ時代の小川がいては、デビュー当時の五期メンにおいて、天然の紺野も実力を発揮できないと言うもの、と今さら思いました。
私は、五期メンがよくも悪くも、過去のモーニング娘。のその後のイメージをかなり大きく左右したと思っているんですが、ことコメントに関しては五期メンの組み合わせはあまりいいとは言えなかったな、と再認識しました。

もはや、後輩的ボケに関しては六期がいるからいいんですけどね。

後半というか、終盤は高橋愛。PKを2本もはずしてしまい、連帯責任を負わされてしまいます。ここで泣いてしまったんですが、泣き方がガチっぽいというか、いかにも高橋愛でした。
顔を伏せて、テレビに映らないようにしようとするんですね。これは今まで涙を見せたナミダ娘、辻、小川、石川、紺野にはなかった感じです。もしかしたら、「連帯責任もの」で負けたら泣かないと終わらない、というような雰囲気がスタジオに漂っていたのかもしれない。それにしても、泣き顔を見られたくない、というふうに泣くのがガチ感を煽っていました。
ああ、これが高橋なんだなあと。また地雷踏みそうで恐いですが、格闘技にたとえると柔道とか空手とか相撲のヒトですよね。余計なことを言うのは美徳ではないと教えられてきた人。対極にいるのが辻とか加護だと思うんだけども。

「HPW」は、「ハロプロアワー(HPH)」にリニューアル。OPのアニメのパンダが少しかわいくなっていました。
メインキャスターは中澤、アシスタント的役割が紺野、外回りレポーターが亀井(エリザベス亀井(キャメイ))、そしてコメンテーターがムラ田めぐみ、というメンバー。ピーマコだけ降ろされた理由っていうのがよくわからないんだけど、まあ一時期の高橋愛プッシュのときもわからなかったんで深く考えないことにします。

エリザベス亀井(キャメイ)は、W(ダブルユー)のところへのレポートでしたが、HPWと違うのは、スタジオとコミニュケーションするところ。これ毎回やるのかな。だったら面白いんだけど。おじゃマルシェのときは、いかにも録画、って感じでしたが。
スタジオとのやりとりができるようになって、わーわー騒ぐ辻加護とそれにツッこむ中澤の組み合わせが面白い。「新曲の踊りをやってみせて」と言い、出だしのタイミングの合わない辻をムッとした顔で見る加護に光速のツッコミで中澤姐さんが「ケンカ? ケンカ?」と(笑)。
その後、「恋のバカンス」を亀井そっちのけで歌う辻加護。でも、一緒に踊って無意味にポーズを付ける亀井はやっぱり物怖じしないで堂々としていました。コレがおじゃマルシェにできるかというと、むずかしいと思う。

ムラ田さんは、今後どういうふうにからんでいくのか未知数。しかし、こういう娘。以外の人をどんどん出して欲しいのが私の望みなんですけどね。たとえば里田とアヤカのコーナーとか、ホントはつくって欲しいんだけど……初期ハロモニ。には、娘。以外のハロプロメンバーのコーナーがいくつかあったと記憶しているけど、ある程度知名度の上がった今こそ、そういうのが必要だと思うんですけどね。
ムラ田さん、しばらく見ない間に少し痩せた? つじあやのに負けないめがねキャラとして頑張ってほしいですこの人には。

そんなこんなで今週は終了。

で、以下も余談。「ポップジャム」の話ですが。

ここで、つんく♂からの質問コーナーがあり、なぜかつんく♂が道重にふるんですよね。「岡女合唱部」でも、つんく♂ってわざわざ道重にふってました。
まあ、道重って的はずれだったり、フォローのしようのないつまらないことをいう人ではないんで、安心していじれるというのはあるんでしょうけど。

後はまあ、目の中に入れても痛くないんだろうなあ。姪っ子とか、トシの離れた妹みたいな感じでね。それはつんく♂に近い年齢の私はわかる気がする。
(04.0516)



【テレビ】・「おはスタ」 ミニモニ。じゃラストドキュメンツ(2004、テレビ東京)

5月6日、7日放送。さいたまスーパーアリーナでのミニモニ。最後のライブをドキュメンタリー風(?)に、二日間に分けて放送。
正直、「CRASY ABOUT YOU」の頃の「ミニモニ。じゃドキュメンツ」はいかがなものかと思っていたが、こうして「ドキュメンツ」を継続させ、番組として決着を付けたのは良かったと思う。
今回はドラマ部分はほとんどないが、最も重要なのは最後のステージで「ミカが矢口を呼んで、5人のミニモニ。で歌い踊る」というストーリーをつくったこと。
これで現リーダーと元リーダーとの共演、さらに新メンバーとの高橋との共演が成った、というふうに大団円としてまとめることができた。

ライブが終わってからの、現ミニモニ。4人のコメントが流された。これ、「ハロモニ。」でも同じ衣装、同じバックで撮っているようだから、ハロモニ。用とおはスタ用に一緒に撮ったのだろう。
が、泣きそうになる高橋愛をとらえたのはこの「おはスタ」の方だった。
高橋愛の心情を察するに複雑なものがあるとは思うが、あれが「ミニモニ。」をやりきった満足の涙だと思いたい。

また、「おはスタ」はスタンスとしてメンバー中、最もミカを応援し続けたという点においてミニモニ。の中では重要な番組であるということも、思い出されることであった。
(04.0516)


【CD】・「ラッキーチャチャチャ!」 ミニモニ。(2004、zetima) [amazon]

NHKドラマ愛の詩「ブレーメンの音楽隊」の主題歌にして、ミニモニ。ラストシングル。

「ブレーメンの音楽隊」がミニモニ。の高橋愛に果たした役割について、考えてみたい。

もともと「ミニモニ。」というのは子供向けユニットというより、だれか(だれか忘れた、すいません)が指摘していたように「大人が子供のマネをするのが面白いユニット」であった。

モーニング娘。自体が「学校」とはまったく無縁のユニットであることが、私には興味深い。80年代アイドルは、ほとんどが就学することが大きな条件だった気がする。だからこそ、堀越学園の芸能部というものに存在価値があった。「ファンと同じように学校に通っている」ことが、アイドルに対する親近感を倍増させたのである。

松本伊代が女子大生になったのも、そういう就学に対する一般人の共感が今度は大学にまで延長していったからで、現在の他のタレントが大学進学するのとは意味あいが多少異なっていた。

対するに、「モーニング娘。」のメンバーが学校に行っていようが行っていなかろうが、頓着するファンはいない(中学生以下は義務教育なのでちょっと心配されるけど)。確か高校中退した子が混ざっていたはずだ。だがファンの間ではそれは「歌手になるという夢を追うための決断」ととられる。マイナスイメージではない。

これがミニモニ。になると、さらに年齢不詳のユニットとなる。矢口と辻・加護の年齢差を考えてもそうだし、「身長が低い」ことが加入の条件とされたが、むしろ「年齢不詳」が条件なのではないかと思えてくる。
しかし、新メンバーの高橋愛はその外見から年齢不詳な感じはしないというか、むしろ制服が似合うところから見ても旧来の「堀越学園芸能部」的な要素を持っていた。
もちろん、彼女が本当に堀越かどうかはまったく別問題である。

そう、高橋愛(と紺野)はメンバー中もっとも学校の話がよく似合う少女。テストがあっただの、授業中どうしただのという話が。そうした高橋愛のたたずまいは、ミニモニ。にとっては年齢不詳集団にとつじょ現世から普通の少女が舞い込んできたような違和感を感じさせてしまった。
ミニモニ。における高橋愛について「がんばってるんだけどねえ……」というような煮え切らない感想をよく聞くのは、その辺に由来すると思われる。

しかし、4人の「年齢」を限定しないと成り立たないドラマが始まった。それが「ブレーメンの音楽隊」だ。
このドラマでは、確か辻、加護、高橋は同年齢(14歳)ということになっていたはず。基本的には学園モノなのだから設定上年齢を揃えるのは当然だが、最も学生らしかったのはやはり高橋愛だった。
加護は現在の気ままな学生という役ではなかったし、辻はオーバーオールで空き地をほっつき歩いていてもいいような感じだった。テスト勉強や教室の掃除やらが似合っていたのは、やっぱり高橋愛。

実はこのドラマで、私は始めて高橋が魂の宿った存在というか確固たるイメージを持った子として感じるようになった。それは、高橋向けにつくられた(彼女の魅力を引き出すようにつくられた)内容にもあったのだろうが、彼女が「自分に自信がない思春期の中学生」という存在そのものに思えたからだろう。
ミニモニ。は、曲も年齢不詳のものが多いが、他の3人はおとぎの国の存在でも、高橋愛だけは「ブレーメンの音楽隊」において14歳(実年齢は17歳だが)の女の子でいていい、という「許可」を与えられたと、活字プロレス的に私は判断した。

「ラッキーチャチャチャ!」の歌詞は、「恋に恋する女の子が夢に向かってがんばろう!」という他愛ないモノだが、「じゃんけんぴょん」が呼びかけ調になっているのに対し、「自分たちががんばろう」という歌である。それだったら、年齢設定がきっちりしていた方がいいに決まっているのだ。
(「ミニモニ。数え歌 デートばーじょん」の何とも言えないむずがゆさは、歌っている彼女たちがいったい何歳かわからないところからくると考える。)

というわけで、Wにジョブチェンジする辻加護と、アメリカに行くミカと、そして17歳の等身大の高橋愛によってこの曲は成り立っていると思うワケなのだった。
(04.0416)

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