つれづれなるマンガ感想文10月前半

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一気に下まで行きたい



・「桃乳娘ゆん」(1)〜(2) ながしま超助(2002、双葉社)
・ミステリにおけるネタばれについて?
【映画】・「バイオハザード」(監督:ポールアンダーソン、2002、米、独、英合作)
【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第25〜27話
【テレビ】DJマリーのDJ修行
【テレビ】・最近のテレビ その3
・「COMIC阿ロ云(あうん)」11月号(2002、ヒット出版社)
・「最終兵器彼女」感想追記
・「少年エスパーねじめ」(2)(完結) 尾玉なみえ(2002、集英社)
・「殴るぞ」(1) 吉田戦車(2002、小学館)
・「そらトびタマシイ」 五十嵐大介(2002、講談社)
・「最終兵器彼女」(5)〜(7)(完結) 高橋しん(2001〜2002、小学館)






・「桃乳娘ゆん」(1)〜(2) ながしま超助(2002、双葉社) [bk1] [amazon]

メンズアクションに、97年から98年頃連載。それにしても初出の表記、なんかおかしいな。1巻と2巻で掲載期間が連続してなくて重なってるんですけど……。よくわからん。

業界トップのアトランティス製薬には、新製品を試験的に販売している「特殊製品営業部」が存在する。ここでは顧客一人ひとりの体調にあった栄養ドリンクをブレンドし、提供するという業務を行っている。主役の山ノ内ゆんはそのプロジェクトスタッフの一人。
ちょっとドジでH大好きな彼女は、仕事もできて超イイ女の先輩・大塚奈美とともに、疲れきった人々を救うため今日も栄養ドリンクを提供する。

ま、エロコメなんで毎回クライマックスには必ずHします。ゆんがドジってドリンクの調合を間違えちゃったり、自分で飲んじゃったりして騒動が起こるというような話です。

「爆射!! 弓道MEN」や「ぷるるんゼミナール」などのややぶっとんだ話と違って、この頃はまだオーソドックスなエロコメという感じ。ただ、人間ばなれした巨乳志向だけは変わってません。
(02.1014)



・ミステリにおけるネタばれについて?

見下げ果てた日々の企て天使の階段。ふーん。そういうことがあったのですか。

今さらミステリについてネタをバラす、バラさないということが問題になるとは……。
細かいやりとりに関しては、追っかけるのがめんどくさいしむやみなことは書けないと思うので書きません。
でも、ぶっちゃけネット上の行き違い、ということにまで話を広げちゃだめなんですかね? もしミステリサークル内での酒飲みばなしみたいなものだったら、ここまで広がらないでしょう。
それともうひとつは、ミステリが複雑になりすぎて、「どこをどうしたらネタバレなのか」の基準が曖昧になってきてるってことがポイントなのかもね。

私自身、おちこぼれミステリクラブ員として、はばかりながらネタバレに関して私見を書かせていただきますが、まず「どんなにネタバレされていても、いい作品に読む価値はなくならない」という考えには私は素直に同意できません。
そもそも、「バラされてもいい謎」ならば、最初っから謎にする必要がないじゃないですか。
ミステリみたいに、「バラされてはいけないっぽい謎」が必ず入っている小説、というものがすでに奇形的なわけですよ。これは悪口で言っているのではなくて、だからこそ面白いわけです。
たとえば、高校の文学史の副読本では、名作のあらすじをほとんどバラして書いてある場合があります。「そして最後に彼は自殺し……」とか。おいおい自殺しちゃうのかよ、みたいな。森鴎外の「舞姫」や、カフカの「変身」なんて、読んだことがなくても大半の人があらすじを知っていると思います。
でも、それは純文学の多くがことさらに「謎を提示してそれを解明する」ということにこだわるという構造をしていない、からだと思います。
これは他のジャンルものにも言えますね。「水戸黄門が最後に印籠を出すんだよ」って言ったって、ネタバレにも何にもならないし。ゴジラ映画で、最後にゴジラが勝つんだ(負けるんだ)、って結末を教えられても映画を見に行くモチベーションはそんなに下がらないでしょう。

だから、「ネタバレで読む価値が下落する作品はそれだけのもの」っていうのは、小説のくくりとしてちょっとぶっちゃけすぎだと思いますね。小説じゃないけど「シックス・センス」をネタがバラされた状態で見ましたが、私はひとつも面白くなかったです。これはそういう「ネタバレ禁止」タイプの映画でした。
もちろん、映像的に、あるいは演出で見るべきものはありましたが、そうは言ってもねえ、そりゃハンバーガーのピクルスがうまいかどうかって味わってるようなもんですよ。メインの肉はあえてなかったことにして。ネタバレ状態で「シックス・センス」を見る行為というのはそれに近いものがあり、非常にミジメでした。

それともうひとつ思ったのは、どこだったか「共同体が秘密を共有することで、権力に似たものが発生するのがイヤ」という意見も読みました。これ、(私の方の理解力のために)ちょっと意味がとりづらいので「ネタバレしてはならないネタを共有すること」だと解釈して思ったことを書きますが、本来「教養」そのものが「権力に似たもの」で、隠微なものだと思います。
「権力めいたもの」はネタバレうんぬんで発現するものではなく、ミステリやSFも含めた今現在「教養」と言われるものの中に本質的に備わっています。
そうした権力の隠微さは、たとえばおハイソ主婦が仲間同士で暗黙のルールについて腹のさぐり合いをし、だれの子がお受験でどこの幼稚園に入ったかなどをうらやんだり嫉妬したりする隠微さと、なんら変わりません。
念のために書いておきますが、おハイソ主婦のたとえは今回の論争そのものを揶揄したのではありません。しかし「教養」というのは、どうしてもそういう「ムラ」的なコミュニティを存続させる条件のひとつにならざるを得ないし、そのコミュニティに「権力」的なものがつきまとうことは否定できない。知らず知らずのうちに、自分がそれを行使していることすらあると思います。

私自身も感想サイトをやっている以上、ネタバレには気を付けているつもりではありますが、「謎」の位相っていうのは接する側のスタンスによってぜんぜん変わってきちゃいます。
だから、自分で知らないうちにネタをバラしているという可能性もあるし、とくに絶版で手に入らないような作品の場合、感想文を読む人が元ネタを確かめようがないので、今後復刊でもしてくれれば、と思い慎重にバラす場合もあります。

そこら辺は、四角四面には行かないです。ごにゃごにゃやりながら考えていくしかないし、そのごにゃごにゃこそが「読書」とか「鑑賞」ということの一端ではないかと思います。
(02.1013)



【映画】・「バイオハザード」(監督:ポールアンダーソン、2002、米、独、英合作)

非合法の秘密実験をしていた、地下深くにある巨大な研究所。ここで研究されていた新型ウィルスが漏れ、外の世界への漏洩を防ぐためにマザー・コンピュータが防衛システムを作動。いろいろたいへんなことになってしまう。

特殊部隊員のアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、防衛システムのガスかなんか(よくわからん)の影響で一時的な記憶喪失になってしまったが、他の武装した隊員、異変を探りに来た地元警官たちとともに地下で何が起こったのかを探りに行く。そこではバイオハザードでゾンビが出なけりゃ始まらないので(あれ「ゾンビ」っていう呼称でいいの?)、研究所全体がゾンビだらけになっていた……。

それにしても公式ページ、音と映像はキレイだけどわかりにくいな。
まあ実は私、ゲームの方はやったことがない。ヒトがやったのは見たことあるんだけど。でも、アリスが最初から記憶喪失という設定だから、そのまま感情移入して映画に入っていける。
監督はやっぱりゲーム原作の映画「モータル・コンバット」を撮ったヒトで、この映画なら以前見た。本作と「モータル……」を比べると、どちらも非常に手堅くまとまってる、悪く言えばこぢんまりしちゃってるかなという印象なんだけど、まあむやみにブッ壊れたりしているよりはよっぽどいい。脚本も、1回通して見たぶんには普通に練れてて、「いつどこからゾンビが飛び出してくるかわからない」という緊張感とともにお話を楽しむことができる。

ただ、私の頭が悪いのか編集のせいか、かなりキッチリした通路図などができているらしいにも関わらず、アリスたちがどこにいるかわからないシーンがかなりあった。
どこをどう通ったらどこへ通じる、みたいなのがよくわからないの。でもまあそれもストレスを感じるほどではないからいいのかな。

まあ「おいおい」ってところもあるよ。そもそも、未知の危険地帯になんで記憶喪失でなおかつ非武装のアリスともう一人の特殊部隊員(男)と、あと地元の警察官を連れていくのかとかね。
バイオハザードの映画化だっていうから、アリスってものすごい武装をして地下をうろつくのかと思ったら、最初のシーンで着たふとももむき出しの赤いドレスそのまんまで、最後まで通す(←これはいいと思いました)。しかも拳銃も持たないでブラブラするんだよね。それはないでしょと思ったけど。ミラ・ジョヴォヴィッチって身体の露出はわりとアリな人みたいなんで、妙に半裸のシーンがチラホラあったりする。強くて頭が良くてセクシーな女、って感じでなかなか良かったですよ。

で、このミラというヒトは肉弾アクションもけっこうできてて、両ふとももでゾンビの首をはさんでブチ折るシーンとかね、けっこう燃えた。個人的にはアリスがゾンビを拳でボコボコにするシーンをもっと見たかった。
「ID4」を見たときも感じたんだが(本作とぜんぜんカンケイないが)、アメリカ人ってモンスターでも拳でボコれる、いやボコらなければならないという信念みたいなものがあるような気がするね。クライマックスもなかなかの迫力でした。

決して超傑作というわけではないけど、手堅いし、たぶんレンタルビデオで力を発揮するような作品じゃないかと。でも、個人的にはこういうのは劇場で見たいですね。迫力が違うからね。

去年は「A.I」と「猿の惑星」、あと名画座で見た「アンドリューなんたらかんたら」など、中途半端なSF映画でものすごくフラストレーションたまったけど、そういうのよりはよっぽどイイと思った。
(02.1011)



【アニメ】・「わがままフェアリー ミルモでポン!」第25〜27話

東京では土曜午前8時半からやっているアニメ。

公式ページ

ごく普通の女の子・南楓(みなみ・かえで)の元にやってきた生意気な恋の妖精・ミルモとその仲間たちがドタバタを繰り広げるギャグアニメ。

第25話「もっとわるいぞ!ワルモ団」(9月21日)第26話「ミルモの里をすくえ!」(9月28日)は続きもの。
 これまで二度にわたるミルモとの戦いに敗れたワルモ団は、ミルモの魔法アイテムであるマラカスをうばい、ミルモをとらえてしまう。しかし、救出に向かったリルム(ミルモのフィアンセ)他、仲間たちも全員つかまってしまう。
ワルモ団は城を乗っ取り、国王になったことを宣言。逃げ出してきたムルモ(ミルモの弟)の知らせで、妖精の里へ行ける魔法のマグカップを手に入れた楓は、ミルモたち救出のために妖精界へと向かう……。

「ミルモでポン!」は、ものすご〜く面白いというほどではないんだけど、何よりテンポが良く、ちょっとしたギャグやオタク的ではない小技が聞いていたりして楽しいアニメだ。で、この25話、26話はなかなか良かった。

妖精界転覆を狙うワルモ団は、第15話「わるいぞ!ワルモ団」第16話「楓、ミルモの里へ…」第17話「ガイア族のおくりもの」で登場していて、このときも「人間が行ってはならない」妖精界に人間の楓が行って冒険するという、ふだんのラブコメ入った日常的展開とはちょっと違ったスペシャル的な回だった。
しかしその本意は、おそらく新製品オモチャの魔法のマイクを出すことにあり、それなりに面白かったがRPG的なお約束からは抜け出られなかった感があった(「ミルモ」の場合それでぜんぜんいいんだけどね)。

で、今回は妖精界にまで影響が及ぶワルモ団の復讐戦ということで、ミルモおよび妖精の仲間たちが全員つかまってしまうという大ピンチになる。
まず設定上、妖精全員が楽器の魔法アイテムを使って魔法を使うのが楽しい。キャラクターと楽器の相関関係はあるようなないような感じなんだけど(優等生の女の子がなぜかエレキギターを使っていたりなど)、基本的にアニメで歌や音楽が入るのが好きなので楽しめました。

次に「人間は妖精界には滅多なことで行けない」ということで、楓がさまざまな方法を試みる。結局「最初からそうすりゃいいじゃん」というようなことにはなるんだが、それまでの展開もいちおういよいよ楓が妖精界に行くまでを盛り上げている。

それと、ミルモがワルモ団にとらわれたと聞いたヤシチ(ミルモのライバルでワルモ団の子分)が、「ミルモを自分の手で倒したかった」と非常にくやしがるところとかがいい(ルパンをつかまえようとする銭形的心境?)。
さらに、ヤシチの心境を察した安純(あずみ)(人間界でのヤシチのご主人様(?))が、迷っているヤシチを「ミルモを自分で倒すために助け出せ」と挑発して見せるところなんかは演出上も芸が細かい。
この後、ヤシチがワルモ団と自分の子分をごまかしごまかししながら楓をサポートして、間接的にミルモを助ける。

他にも、国王の彫像が持っている、ミルモのとらわれた牢のカギを楓がとろうとすると彫像が大声で叫び出す仕組みになっているので、カギと同じ重さの自分のくつを置き換える(「レイダース」の最初のシーンだ)など、ちゃんと冒険ものになっていて楽しい。
ワルモ団がらみの妖精界を舞台にした話としては、3回連続の前回よりも面白く感じた。

第27話「妖精学校へ行こ〜う」(10月4日)

人間が自分専用の妖精界へ行くためのマグカップを持つためには、毎週土曜日の妖精学校に通わなければならない。というわけで、妖精に変身してミルモとともに妖精学校に行く楓であった。
妖精に変身した楓は、等身が低めになってカワイクなっている。でも、OPの楓がアイドルみたいに変身するシーンって本編とぜんぜんカンケイないのね。それとも今後そういう展開になるのか?
(02.1010)



【テレビ】DJマリーのDJ修行

もうお気づきかも知れませんが、私はテレビ東京大好きっ子です。その私から見てもなんとなく負のオーラを出している音楽番組、「MUSIX」
とつじょ「マジカルバナナ」みたいなコーナーが始まり、それの回答者として「伊集院光&早坂好恵」、に続いて「筧利夫&森口博子」というのはあまりのクイズ地球まるかじりライクなバラエティタレント人選だもんで、倒れました。せめて山咲トオルとか、三瓶とか、だれかいるでしょう……。

で、番組内で「DJマリー」というのを矢口真里が演じていて、要するにゲストをお迎えしてトークするわけです。そこにはなぜかターンテーブルが置かれていて、こりゃ「ラジオパーソナリティ」としてのDJとクラブでレコードかけるDJとを完全に混同してんなぁ、と思っていました。
そうしたら実はDJマリーは「レコードをかける方」のDJだと判明! 先週から今週にわたって、なんちゃってDJのマリーが本物のDJとしてクラバーの前でDJプレイ! ってのをやってた。

ちなみにDJマリーのDJシリーズ公式ページ。私の文章読む前に、これ見た方が早いんだけど。→「DJ M修行編」8/13DJM。 1stライブ(前編)10/1DJM。 1stライブ(後編)10/8

いつもはこういうチャレンジもの、あまり見ないんだけど今回は熱心に見てしまった。
よく考えたら早めに「こういうのやってるよ」って書いておいた方が、情報としての価値はありましたね。後悔。

当然(?)、テレビ界でDJと言えば宇治田みのる。っていうか宇治田みのる以外出ない。少なくともゴールデンタイムには。ちなみにこの人前から謎だったので検索しておよそ1分ほど調べたが雑誌「Fine」のイベント企画にからんでたりして、もしかして私が想像していたよりずっとまともな人なのかも。
「Fine」って今はどうだか知らないけどサーフィンとHIPHOPの雑誌だった。でもサーファーとB-BOYっていうの? そういうのってカブるのかなあ。わからん。

で、マリーの先生が宇治田みのるの弟子の女性DJ。つまりマリーは宇治田みのるの孫弟子? 予想どおり、曲のつなぎに苦労するマリー。実はなんで熱心に見たかというと、以前ちょこっとCDJ(CDをつなげる器械)をいじらせてもらったことがあって、「ああ、こりゃできんわ」と思った私。アナログ盤ならよけいにむずかしいであろう。あの、曲をつないだ後のリズムのモタついた感じがマリーにもやっぱりつきまとう。
ここら辺、「フォトショップで美少女CGを」とか言って機材だけ揃えても、筋の悪い人は微妙にダメな感じになるのと似ている。

(何回練習したか知らないが)1カ月か2カ月の後、ついに120人くらいのクラバーを集めてDJを披露することになったマリー。前座は先生のDJ MAYUMI。この人も調べたらちゃんとした人なんだな〜。でもHIPHOP畑の人なんでぜんぜん知らないや。

ライブ当日、マリーのレコードバッグの中には半分くらいしかレコード入ってない、「自分で選んできた」って言ってたけど、ホントとは思えない(でもその辺私は気にしない。普通選べないよそんなの)、ちなみに公式ページによると、
1.「Always on time」シャルール
2.「QP Walks」クイーン・ペン
3.「Party Up」DMX
4.「恋のダンスサイト」モーニング娘。
5.「ペッパー警部」ピンクレディ
6.「恋愛レボリューション21」モーニング娘。

「前半を今 流行りの曲で盛り上げ、後半は誰もが知っているJ-POPで勝負!」ということらしい。ちなみに私は前半3曲、ぜんぜん知りません。DMXだけ名前を聞いたことがあるくらい。

後半3曲が、数奇なというか賭け的なセレクト。でもペッパー警部からとつじょ恋愛レボリューションに変わるのって、わたし的には超カッコいい展開なんですけど。

で、面白いのはマリーのDJを宇治田みのるが野球観戦するみたいに解説者として呼ばれていたことと(冷静に「このカットインはうまく行きましたね〜」とか言っててオカシイ)、クラバーの人たちの風体。なんだろうあの浜崎あゆみの付けてるようなサングラスをかけた男は……。

リアルだったのは、後半盛り上がるかと思ったらJポップがかかってとまどっていたクラバーたち。いやあ、わたし的にももっとずっと盛り上がると思ってたんだけど……。「ふだんあんまりクラブでかからない曲だからとまどってるんでしょう」という解説の宇治田氏。
後半、お客が本当にすごいグダグダな感じで、徹頭徹尾やらせにしてるわけでもないようで、なんだか妙にリアリティがあった。でもスタッフの人は後半で盛り上げようと思ってJポップをセレクトしたと思うんだけどなあ……ここにいたクラバーの人たち、ノリ悪すぎ!! メジャーな歌手本人が自分の曲を回す、という重大さ&面白さをわかってないんでしょうか。

このコーナー、面白いのでもっと続けてほしい。まあDJっつったらいまだにスクラッチが華なんでHIPHOPなんだろうけど、いつかテクノDJを呼んでください。ください、ってここに書いてもしょうがないんだけどな。矢口真里よ、ヴォコーダーでしゃべるんだ!!(普通のテクノDJもそんなことしない)
(02.1009)



【テレビ】・最近のテレビ その3

・最近のテレビ その2から続く、テレビ感想ダラ書きシリーズ。
他のオタク系サイトでは、アニメ新番組の第1話の感想が多いが、なんだかアニメを見るのをすっかり忘れてた。「ガンダムSEED」も見るの忘れたし。「サイボーグ009」の、肝心の「どこに落ちたい?」の回を見忘れたのもマズかった。……というわけで、以下はアニメ以外の番組のきわめて近視眼的な感想。

・「千枚CD」(フジテレビ)
「今、日本人が本当に聞きたい音楽とは何か? を究極のプロデュース集団・千枚谷の面々が知恵を絞り、また視聴者からの意見も積極的に取り入れてCDを作っていくのだが、CDをリリースする歌い手はもちろん、作詞や作曲のスタッフ選定においてもユニークな企画を拾い上げるため千枚谷のネットワークが総動員される。そして1000枚限定のCDを作り、ホームページでネット販売。そこで盛り上がり、メジャーメーカーに認められた曲に関してはメジャーデビューへの道が開けるかも!?」
番組HPより抜粋

こっちにもHPがある。なんだかコワい。

確か毎週放送というパターンは9月いっぱいで終わり、不定期放送だか時間帯を変えるだか何だかになるはず。「プロデュース集団・千枚谷」というのは、要するに秋元康も含めたレコード会社社長とかプロデューサーの集団のこと。
この番組、人気のほどはどれくらいだったのかはわからないが、秋元康的方法論が「出演者に試練を与えてクリヤさせる」という昨今のバラエティとはまったく逆ベクトルであることを強烈に再認識させた。
だって、ここでCDリリースする人って(CDリリースに関して)、とてもスゴイ苦労をしたとは思えないし。
アヤパン(フジの女子アナ)にアイドル歌謡を歌わせたり、シャレでどっかの社長に演歌を歌わせたり、要するに「ノリでやっちゃいましょう」的な匂いでむせ帰りそうな番組だった。そういえば秋元がらみの湯川専務も、CD出してましたね確か。
「千枚谷」の面々は司会のやるせなすと千野アナとは別の部屋に入っていて、いかにもなギョーカイ風を吹かせておさまり返ってる。で、えーかげんなアイディアをえーかげんなまま、やる。

こういうの、出演者にやたら努力をもとめる電波少年とか貧乏脱出大作戦とかASAYANに慣れてきた若い子たちはどう見るのかね……? 私は個人的にこういう方法論、愛憎相半ばするんだけど、80年代はこんな、なんだか世の中をなめたようなスタンスが痛快だった時代だったんですよ。バブル期頃まで。もちろん裏では努力してるんだけど、いかにも遊んでやってるように見せる。まあこのスタンスにダマされて、ホントに遊んでいたやつはきっと今頃苦労してると思うが。
しかも秋元康って、確信犯的にずっとこの調子で行くつもりじゃん。ある意味すごいよな。

・「ハロー! モーニング」(テレビ東京)
「モー」関連の番組の「ハロモニ」。公式ページ。10月に入って、リニューアル。

広義の学園コント「ハロモニ。劇場〜バスがくるまで〜」は9月いっぱいで終了、今度からそのバス亭セットの左側にあった喫茶店を舞台に、「ハロモニ。劇場〜昼下がりのモーママたち〜」が始まった。要するに、モー娘。のメンバーがアクの強い主婦に扮して繰り広げられるコントらしい。
これ、第1回はぜんぜん期待していなかったら意外に面白かった(あくまで「意外」のレベルだけど)。何が面白かったって、ずーっとメインの喫茶店でのコントがあって、最後に「みんなでフラメンコ習いに行きましょう!」ってことになったら、場面がフラメンコ教室に変わるんだよ。ないよ、アイドルコントで場面転換するのって。
普通、セットは1種類しかないからそこで終わるでしょ。でもとにかくフラメンコ教室に変わる。
で、フラメンコの先生が飯田で、「♪すき焼きだけど〜 肉はないのさ〜」って歌いながらメチャクチャなフラメンコを踊って、「みんなでやりましょう!」って言われて、みんなでデタラメのフラメンコを踊って終わる。
「みんなでデタラメの踊りを踊って終わる」って、すばらしいオチだと思う。

「ミニモニ。ぴょ〜ん星人」のコーナーもリニューアル、「ミニモニ。かっぱの花道!」が開始。宇宙人をかっぱにしただけなんだけど、とにかくたいしたストーリーがない、CG多用、ミニモニ。の4人がものすごいハイテンション、と「ぴょ〜ん星人」のいいところをそのまま引き継いだかたちになっている。
ところで、こうした4人を見て彼女たちが「コントができる」と感心するのは早計だ。
この間の「みなさんのおかげでした」のスペシャルかなんかで、辻加護が「モジ辻、モジ加護」としてモジモジ君をやったんだけど、天然ボケで「ぱるぷんて」(←古い?)みたいな効果を発揮する辻は考えネタがものすごく苦手らしく、モジモジ君として特定の文字が頭につく単語がなかなか思い浮かばなくて、意外に苦戦。
そもそも「モジ加護」を「辻加護」と言い間違えるなど、ここ一番でのスパークが見られなかった。
彼女たちを「モジモジ君」にさせるのは妥当なアイディアだと思うし、そのコーナーは最後まで見たけど、もしかしてとんねるずとは手が合わないのか、完全にコントロール下に置かれると実力が発揮できないのか。

かっぱの話に戻ると、とりあえず、4人のかっぱコスチュームはなかなかかわいくできてます。

「ハロモニ。大喜利」は毎週やるかわからないが、読んで字のごとくの大喜利。別にすごく面白いってわけでもないんで、まあファンサービスですかね。
全員テンションを上げてるんだろうけど、このくらいの年頃の子の笑いのツボはわからん。とくにヨッスィーには「グレチキ」的なものを感じて危機感を覚える(まあそれが彼女の枷になることはないだろうが)。

「新ハロプロNEWS!」はセットだけ変わって後はほとんど何も変わってない。
ただ、ラストに突然、お花畑のセットに運ばれてやってくる「ミニマム矢口」っていうキャラクターが、ブリっ子口調でメルヘンなことを言う、という唐突な展開になる。
これ、ぜったい西川のりおがひょうきん族でやってた「フラワーダンシングチーム」へのオマージュだと思ったのは私だけか!?
とにかく、もはやニュースですらなくなりかけていて面白かった。

・「おはスタ」(テレビ東京)
6年目に突入したおはスタ
ここんとこずっと「ハムフェスモーまちゅり」というハム太郎とモー娘。のイベント特集が続いていて、コーナーとしてのリニューアルがどうなるかはまだよくわからん。午前6時45分からの「ガチャパーワールド」は名前を変えてみお司会でリニューアル。この子はガオホワイトだった子です。まだ17歳だってさー。「おはガール」と2歳くらいしか違わない。ときどきのロリ媚びフェイスとその幼児っぽい体型は、ヘタをするとおはガール以上にロリロリだったりする。

個人的に気になるのはおはガールフルーツポンチの曲の順位がアレでいいかということなんだが。どこら辺まで行けば「勝ち」でどこら辺までだと「負け」なの?

あと、フルーツポンチメンバーのゆりんが番組内の火曜日出演者の男の子を「好きだ」とバラされて真っ赤になったシーンがあったが、あれはいったいどう解釈すればいいのか? そういう新機軸の売り出しなのか? でもホントに顔色が変わってて、たとえやらせでもなかなか可愛かったですよ。

あとは「ボス」のCMにおける道路工事の浜崎あゆみと消防士の豊川悦司がなんとなくむかつくということと、逆に「ゲームボーイアドバンス」のCMのゴールドとシルバーのCMに出ている叶姉妹はわりと面白いと思ったことを言いたいと思いました。
あそこまで言っちゃうと狙ってるとか狙ってないとかじゃないよな。叶姉妹が出てるだけで、なんだか面白いもん。
(02.1007)



・「COMIC阿ロ云(あうん)」11月号(2002、ヒット出版社)

成年コミック。今頃気づいたけど、この雑誌って輪姦・3P・乱交などのパターンが多いね。今月たまたまそうだったのかな。

「アギ」(前編)師走の翁は、「シャイニング娘。」(1巻の感想2巻の感想)の番外編。事件から3年半、アイドルグループ「シャイニング娘。」の新メンバーとしてがんばってきた茶魅川梨禍。彼女が「タンドリー娘。に茶魅川梨禍(シャイニング娘。)」の他のメンバーとともにいざなわれる、悪夢的輪姦世界(でもタンドリー娘も責め側)。

「写真集出版記念握手会」において「来た人に写真集を見てもらいながらヌいてあげる」というのはまだるっこしいながらも面白い。後編に続く。

「妹と事に至る経緯」大井はに丸は、まあいわゆるひとつの妹モノですね。それにしても物語内の近親相姦タブーって摩滅してきたよなあ。個人的にはそういうシチュエーションに興味はないものの、この人の描く女の子はなかなかかわいい。

「Opaque Heart」かたみこいみずえは、親友が「ひと夏の経験」で愛のないセックスに夢中になり、ヒロインがそれに巻き込まれて犯されてしまう。ヒロインの心理状態の描き方がちょっと面白い。

他には幸田朋弘、的良みらん、草野紅壱、稲沢市太郎、はらざきたくま、高岡基文、牧部かたる、鬼窪浩久、村正みかど、わたんかづなり、ジャム王子、ますだ直紀など。
(02.1006)



・「最終兵器彼女」感想追記

アニメもやってたから、時期的にイイかなと思って書いたマンガ版の感想でした。しかし、後から見下げ果てた日々の企てアニメ「最終兵器彼女」第13話(完結)のレビュー第1話のレビューなどに、的確に本作および高橋しんの作風についての、私がかなり同意できる文章が書かれていたことを知りました。アニメの方を見ていなかったため、自分でマンガ版感想を書く前に同レビューを読んでなかった。後から気づいてあちゃーと思いました。この文章を踏まえて感想を書くべきだったかも。

しかし、見ないで書いたからこそ、この作品に対する違和感はものすごくおおざっぱに言って、決して私個人のものだけでないこともあらためてわかった気がします。

私はさらに作者のヒット作「いいひと。」をろくすっぽ読んでいないというヘタレ感想文書き人なんですが、「いいひと。」時代から、「最終兵器彼女も、どーせこうなると思ってた」的な意見もチラホラと聞きました。高橋しんのすさまじい才能を認めつつも(アニメ、HP製作スタッフのセンス込みで書くが公式ページを開いたときにはやっぱりグッと来るものがあるし)、私はやっぱり文句を言いたい。

物語には解明されるべき謎とそうでないものがあると思う。たとえば「ブレンダ・スター」(1988、米)っていうどうでもよさげな映画がある(私は好きなんだけどね)。アメコミが原作で、ヒロインがブルック・シールズ。どっかの博士の開発した夢のエネルギー(確か、試験管に入ってた)の争奪戦を描いた一種のスパイものなんだけど、この試験管はあくまでも争奪戦を盛り上げるための存在であって、その中身の設定というのは別にあってもなくてもいい。
だが解明されなければならない謎もある。推理もので最後に「犯人もトリックもわかりません」では、「金返せ」だろう。もちろん「犯人もトリックもわからない」作品も存在するが、あくまで例外。一般的な推理もののように、謎の解明という1点に集中して進んでいく物語が果たして物語として一般的かどうかという議論もあるかもしれないけれども、ことエンターテインメントに関して言えば、もっと広くとらえて「ツボ」という意味で言えば、そこははずしちゃいかんだろうと思う。

で、ここ数年はアニメでも物語の結末が曖昧だったり、わざと物語の構造をぶっこわしていたり、何も考えていなかったりということがあったりする。このあたりについても見る側が「謎の解明」にこだわれば駄作だし、逆に「そういう見方じゃないんだ」という意見もある。
ただ、私自身はよほど作者が自作の構成力に自信がないかぎりは、物語をブッ壊してしまったり、解明されるべき謎を解明しないまま終わったりしてもいいような風潮には強い懸念を感じる。

恋愛ものでは、少なからず舞台となる時代や登場人物の置かれる環境は、ロマンスを盛り上げる道具に過ぎない。それは「最終兵器彼女」に限らないことだ。見ている方も、展開されるロマンスが設定された時代の影響を受けることはあっても、そうした時代状況をシビアに見つめるような展開になることはだれも期待していない。
ただ「エヴァンゲリオン」や(アニメは未見なのでマンガ版に限るが)「最終兵器彼女」については、当初は登場人物たちが「あたかも時代に強くコミットする」かのように、周到に描かれるから罪が重い。そしてけっきょくコミットしない。

陳腐な言い回しになるが最近は「物語をきっちり描ける作家が少なくなった」とか言われることもある。それについてはおそらくまた議論があるのだろう。だが、高橋しんに限ったことではなく「あたかも物語性があるようなフリをして、けっきょくあったんだかなかったんだかわからない」という展開は、そうそう容認されてはならないというのが私の考えだ。それはちゃぶ台をひっくり返してオワリ、というのと同じことでしょう。

最近の私の考えとしては、水戸黄門とか寅さんとか、仮面ライダー(昔の)とかがなぜ繰り返し描かれてきたかというと、それはそこに普遍性とか真実があるからだと思う。逆に言えば、普遍性とか真実ががあるからこそ、何度も何度も繰り返して語ることができる。
もしも、そのパターンを壊すのならば、そうしたある意味洗練されたパターンを突き崩してなお、新たなる普遍性とか真実を作品が提示していなければいけない。でなければ、ややこしい設定をほぼゼロから組み上げていく意味がほとんどない。 ところが「既存のパターンの作品ではなく、何かがありそうで、でも何もない」作品が増えた気がする。「何かがありそうで、でも何もない」ことにこそ時代性や意味があるのだ、という考えもあるだろう。だが、やっぱり私にはどこか、物語の要請する結末を回避しているようにしか見えない。
たとえば恋愛ものならば、一時期の少女マンガの「乙女ちっく」と言われた作品群なんかは当時としては強固な普遍性を獲得していた。エンタテインメントは、時代とあまりに密着しているためにその普遍性も、時代が変わるとともに陳腐化してしまう場合があるのが難だが、少なくともある時代には確実に真実が含まれている。
今思いついたけど東映任侠映画とかもそうですね。

じゃあそのパターンをあえて壊したとき、そこにあった普遍性以上の何かを提示することができるか、ってのが、ヘンな言い方だけれど「ブンガク的なことが好きなヒト向け作品」が考えるべきことなんじゃないか、と思うわけです(たぶん「最終兵器彼女」は「ブンガク的なことが好きっぽい人」も読者ターゲットに入っていると思う)。
なんでそんなことを書くかというと、できるヒトはできるわけですよ。たとえば「海辺のカフカ」はまだ読んでないけど、村上春樹は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」でそれをやっていたと思うし。気合い入れれば物語の決着って、今の時代状況でも付けられると思うんですよ。

それが、こんな結末のえーかんげんな物語を読ませられて、あまつさえアニメになって一定の人気も獲得しているとなると、なんか「いいのかよ」とか思ってしまう。 私にとってテレビ版エヴァンゲリオンは「物語的決着を放棄した、ゆがんだエンタテインメント作品」だし、マンガ版「最終兵器彼女」は「真珠婦人」で「大映テレビ」だった。 それでいいと思う人はいいけど、私個人は作品としてあたかも「何かテーマを語っていそう」な雰囲気をまとうのはやめてくれ、と思った。まぎらわしいから。

「これがアリ」になっちゃったら、なんだか今後、エラいことになるような気がする。
(02.1005)



・「少年エスパーねじめ」(2)(完結) 尾玉なみえ(2002、集英社) [bk1] [amazon]

繰り返されてきた白エスパーと黒エスパーの戦い。世界を混沌の中にひきずりこもうとする黒エスパーに勝利させてはならない。白エスパーの少年ねじめが人語を解するネコのすぱなとともに、黒エスパーと戦うギャグマンガの完結編。

前作「純情パイン」同様、回を追うごとに加速度的にデタラメになる。打ち切りが決まってからは(たぶん打ち切りだろうと想像するが……)、おそらく白エスパーと黒エスパーの戦いなんてものはおっぽり出してしまったと思う。それくらい混沌としてる。あ、でも「るきじ」(ねじめとすぱなが居候している家の少年)って名前はたぶん最初からの伏線だったんだな。まあとにかく、非常に面白いです。「ボーボボ」が生き残ってこっちが終わる、というのも世の中わからんもんだ。「ボーボボ」も好きだけど。
出てくる超能力に対して、きわめて愛がないのも特徴。このヒトの場合、それでいいんだけど。

読みきり「マコちゃんのリップクリーム」「純情パイン まねっこ撃退法〜その傾向と対策〜」も収録。

・1巻の感想

(02.1004)



・「殴るぞ」(1) 吉田戦車(2002、小学館) [bk1] [amazon]

スピリッツ連載の4コママンガ。いろんな新境地というか実験的なこともしてきた吉田戦車だけど、本作はまっとうすぎるくらいまっとうな4コママンガ。企画もの的なテーマもないし。「伝染るんです。」的なモノです、要するに。

変わったとすれば主婦ネタ・育児ネタ(まあ吉田戦車流なソレですが)が多い。「子供が産まれてからの吉田戦車のコドモネタはつまらない」というような話もどっかで聞いたけど、本書を読むかぎりぜんぜんそんなことないと思う。たとえば異常に健康を気にする赤ちゃん「フィジカル君」とか。面白い。
あと出てくる奥さん方が妙に色っぽい。そういえば「みっちゃんのママ」の時代からそうだな。

全体的にまろみがあるというか、「伝染るんです。」でシュールネタを強くアピールしたヒトだけれど、ネタそのものがヒステリックに吹き上がった感じじゃなくて、ギスギスしていないのがいい。それが強調されていて、とても楽しめた。
(02.1004)



・「そらトびタマシイ」 五十嵐大介(2002、講談社) [bk1] [amazon]

主にアフタヌーンに掲載された作品を集めた短編集。A5。「産土」「そらトびタマシイ」「熊殺し神盗み太郎の涙」「すなかけ」「le pain et le chat」「未だ冬」を収録。

余談だが、ビーケーワンでキーワード検索したら一発で出ず、焦った。さすがに取り扱ってないことはないだろうと思って検索したけど。普通ならあきらめちゃうよ。なんとかしてほしい。

本作はファンタジーというか、幻想的なことどもを題材にしていて、細密ななかにも不思議な感触のある世界をつくり出している。
で、あくまで私個人の感想だけど……フツー、という感じかな。悪い意味でなしに。
これはもう、個人の好みとか言うより私のマンガ読者としての資質のような気がするけれど、私はファンタジー的な作品ってのは何か教訓めいたものが強烈にないとダメな方で。作品の幻想味にたゆたっていられない、ケチなヤロウなんですよね。
まあ昔っから、カン違いした人々がいかに広義のファンタジーを教訓とか風刺とかでダメにしてきたかはわかってるつもりなんですけど。収録作品の中では「すなかけ」がいちばん好きかな。お話もいちばん通りがいい。ただ「お話の通りがいいかどうか」で評価できない作風ではある。
(02.1004)



・「最終兵器彼女」(5)〜(7)(完結) 高橋しん(2001〜2002、小学館) [bk1] 
初回限定特装版(こんなのが出てたんだ。ここでは、現在お取り扱いできないそうだが)[amazon]

高校生のシュウジちせは、不器用な恋人同士。ある日から、世界は戦争状態となる。彼らの住む北海道も、戦争の影響を受けつつあった。そんな中、ちせは理由がまったく不明瞭なまま、政府により「最終兵器」に改造され、女子高生でありながら「敵」を大量殺戮しなければならない業を背負うことになる。
ちせとシュウジの不器用な恋愛は、戦争とちせが兵器となったことで大きな障害にブチあたる。

(ちせ及び日本人が戦っている敵は) 「存在は不明瞭だが、やることは具体的」という新しいタイプの外敵である。自分の1巻の感想より)

本作の「戦争」は、きわめて曖昧な部分と具体的な部分が交錯している。戦争勃発の理由は不明だが、空襲の轟音で鼓膜が破れてしまった友人がいる。その反面、戦争についての情報は登場人物たちには不明瞭で、これも一種のリアリティとなっている。
ちせが戦場で行う大殺戮は曖昧でいて、凄まじいインパクトを持つ。
本作は、ふだん平和に慣れている一般読者が、ふとイメージしたときに頭に浮かぶ「戦争」の明瞭さと不明瞭さ、その双方を描いているという点において、さまざまな戦争についてのアプローチの中の、ズレを補正するひとつのかたちではあるだろう。
自分の2巻の感想より)

ここに至ってシュウジとちせの関係は何かの比喩にとどまらない、読者側には実感の伴ったものとしてせまってくる。後はただひたすらに、その物語世界に身をゆだねてハラハラしたりドキドキしたりすればよい。そんなマンガ。「恋愛」と「戦争」、それこそ「個」と「オオヤケ」が最終的にどのような折り合いを見せるのかを見守りつつ。自分の3巻、4巻の感想より)

4巻までの、本作に対する私の期待は大きかった。本作は各巻のあとがきにもあるように、基本的に恋愛モノである。しかし、わざわざ近未来の「世界戦争」を舞台に選んだ以上、しかも大局に恋人のちせがからんでいる以上、ただの「舞台」では終わらせないだろうという期待があった。
ハリウッド映画の考えとしては、ヒロシマだろうが大地震だろうが、ロマンスの舞台として借用して作品をつくっちまえという意識があるらしい。まぁ根性としてはそれなりに立派だとは思うが、本作では「恋愛ものである」ことを強調しつつ、それだけで終わらないような感触もあったのだ。
5巻までは、すごく面白かった。アケミが死ぬところなんかは、泣けた。戦時下の高校で文化祭をやろうと盛り上がったものの、自衛隊から後夜祭を中止しろと言われたとき、シュウジがいろんな言いたいことを頭に浮かべたまま、ただひたすらに頭を下げたところも泣けた。

が、6巻でシュウジとちせがかけおちするあたりから「なんか違うなー」と思い始めた。自分の思いどおりの話にならないからといって「こんなの違う!」というのも大人げないとは思うが、展開としても、ちせが軍から脱走してシュウジと二人っきりの時を過ごす、というのはすでにやっていることだし。同じことを二度繰り返しているように感じた。

その後も、ちせとシュウジのせつない恋愛バナシがずっと続く。まあ作者本人がシュウジとちせに関して「彼らの恋のためだけにストーリーが在り、ほかのキャラクターが在ります」(5巻あとがきより)と言いきっているのだから、その後の展開もウソはついていない。……ついていないが、けっきょくちせとシュウジの恋の物語は、「彼女が最終兵器である」という世界観と合致しないまま終わった。と、言わざるを得ない。

これでは、エヴァンゲリオンのテレビ版の結末と同じではないかー。
「最終兵器彼女」のラスト近くでは、戦争が局地戦でも世界戦争レベルでもなく、もっともっと深刻な事態であることが明らかになる。が、これはもはや「戦争」とはまったく違う意味合いのモノだ。災害ですらない。ちせの最終兵器としての性質そのものが、人類の進化の過程を「原罪」として背負い込んでいるというようなこともほのめかされるが、ここはもっと突っ込んで描かれるべきで、そうでなければ単なる言い訳でしかない。
昔、戦後の混乱期(だったか戦中だったか)を舞台にした「君の名は」という恋愛ものがあったという。きちんと見たことはないが、同作に反戦意識が濃厚だったことは想像できる。しかし、戦争そのものをどうとらえるかということより、主人公二人の会えそうで会えないすれ違いが見どころだったときく。
戦争が、単なる恋愛の舞台でも別に面白ければ文句は言わない。が、だったら「世界観」そのものを、ケチなキャバクラ嬢みたいにチラチラと見せたり見せなかったりするのは卑怯というもんだろう。どこら辺をさしているかというと、アケミとアツシとテツの死のことである。
恋愛のための艱難辛苦なら、「実感のわかない戦争」でもいいし「吐き気がするようなリアルな戦争」でもいい。しかしどっちつかずというのはいかん。以前の感想で「表現方法が巧みだ」というようなことを書いたが、コレでは「表現方法が巧みな『愛の嵐』だ」と言われても文句は言えないだろう(いや、言うか)。
「愛の嵐」が悪いと言ってるのではない。もちろん「新・愛の嵐」も。これらはいかにメチャクチャな展開であろうと、視聴者が「そういうものだ」と思えるように、いろんなところに注意が喚起されている。いちばん単純なところを言えば、「あの時間帯のドラマはみんなあんな感じ」と思って見ているところなど。

ところが、本作はけっきょく結末まで読んでも、まさかこんなオチになるとはだれも思っていなかったんじゃないか?(「高橋しん」という人が「そういう作家」だとわかっていれば、こんなもんだと思えたかもしれないが)

けっきょく、本作でも「個人」と「戦争」はうまくつながることはなかった。そもそも、なんで戦争に関してのマンガってのは「自分たちが戦争の加害者である=原罪=絶望or恥知らずという意味の傲慢」となるか、「自分たちは戦争の被害者である=宿命=絶望or恥知らずという意味の傲慢」となるかしかないのか?
本作について考えると、1980年代初頭のアムロが実に健全に見えてくる。

それと、漁師町で漁師を仕切ってたアネさん、1日ぶんの給料をくれなくて、こんなやつ死んじゃえと思ったら本当に死んだのでスッキリしました。「好きな女がいるならそこで死ね」じゃねーっつーんだよ。口じゃなんとでも言えるんだ。それよりカネだよカネ。
あと、ふゆみ先輩のエピソードっておれ的にまったく蛇足だった。まあそう思ってること自体が私のカン違いだったんだろうね。
(02.1004)

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