つれづれなるマンガ感想文1月前半

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「つれづれなるマンガ感想文2004」1月後半
一気に下まで行きたい



・「ラーメンの逆襲」 ビッグ錠(「最新! 最強! 究極のラーメン2004」、2004、ぴあ)
【イベント】・「オルタナティブサロン 華麗人」 @東高円寺grassroots 1/11(日)
・「ファミレス戦士プリン」(2) ひのき一志(2002、少年画報社)
・「ファミレス戦士プリン」(3) ひのき一志(2003、少年画報社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)
【映画】・「1980(イチキューハチマル)」 監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(2003)
【特撮】・「美少女戦士セーラームーン」第14話(2004、TBS)
【特撮】・「超星神グランセイザー」第14話「覚醒せよ! 水の戦士」(2004、テレビ東京)
【雑記その8】妙な胸騒ぎを覚えるドラマ「ドールハウス」(放映前)
【ドラマ】・「NHKドラマ愛の詩 ミニモニ。でブレーメンの音楽隊」第1回(2004、NHK教育)
【雑記その7】日記(身辺雑記あるいはエッセイ)について考えた
・「由利ちゃん愛のたびだち」 牧村みき(1983、久保書店)
・「由利ちゃん愛の逆襲」 牧村みき(1983、久保書店)
・「改訂版 笑いの王様」 牧村みき(1986、久保書店)

・「メルティレモン」(1985、白泉社)
・「C−LIVE 3」(1986、夢元社)
【雑記その6】・ルールと慣習
【雑記その5】・前年のグラビアアイドル考その2
・「COMICメディア」 創刊号(1984、スタジオSFC)
・「冥王計画ゼオライマー」 ちみもりを(1986、久保書店)
・「スターライトCOMIC」 Vol.1(1988、ミリオン出版)
・「ゴールド」(8) 山本隆一郎(2004、少年画報社)
【雑記その4】・辻・加護卒業問題を考える
【雑記その3】・さらば青春のハイウェイ
【テレビ】今年も元気に行きまっショイ! モーニング娘。新春スペシャル〜お正月からフルスロットル〜
【雑記その2】・辻・加護卒業
・「二十面相の娘」(1) 小原愼司(2003、メディアファクトリー)
【小説】・「完全版 怪人二十面相・伝」 北村想(1989、1991、2002、出版芸術社)
・「真説 佐々木小次郎伝!! 大江戸ジゴロ」(4)(完結) 鍋島雅治、檜垣憲朗(2003、日本文芸社)
【雑記】・年末年始テレビ
・「魔法陣グルグル」(16)(完結) 衛藤ヒロユキ(2003、エニックス)






・「ラーメンの逆襲」 ビッグ錠(「最新! 最強! 究極のラーメン2004」、2004、ぴあ) [amazon]

おいしいラーメン屋がたくさん載っているムック本。で、その中にビッグ錠のマンガ「ラーメンの逆襲」が掲載されている。
これは同じムックの2003年度版に掲載された「激突ラーメンロボ」の続編で、ラーメンの達人・免馬麺平を主人公にした作品の第2弾。
当HPとしては速攻で「ぶっとびマンガ」入りのグッジョブなのだが、出て早々あらすじをこまごま書いてしまったら営業妨害だわな、と思うのでしません。

でも、まずコンビニで立ち読みして笑うのを我慢するのが苦労したほどの傑作(あくまで当HP的には……)!!

・ところで(ぜんぜん関係ない話)
ですが、ここんとこ80年代モノを多く紹介していたので「何か80年代マンガに関する同人誌でも出すんですか?」的なことを聞かれる前に書いておきますが、そういう予定はいっさいありません。ただ、ぼちぼち買ってたモノが溜まっちゃってたのでまとめて紹介しただけです。
でも調べるとますます面白いよなあ、とは思った。それと、古書店では80年代半ばくらいのものは捨て値で売ってるけど、前半のものになるともう廃棄されたり逆にプレミアが付いたりしている。もろもろのことにあと5年早く気づけばよかった、と思った。
復刻で言うと、えーときちんと調べてないけど感覚的には、手塚治虫とか杉浦茂以外は60年代のものは繰り返し出るんだけど、それより古いと出なかったり豪華本だったりする。
70年代後半だか80年代前半に一度マンガ文庫のブームがあって、そのときに田河水泡とかあんみつ姫とか、白土三平とかが文庫になってる。で、さらに文庫だからかなり長い間古書店で捨て値で売られてて、こういうのって後世に伝わるのにかなり重要だと思うんですよね。

まあ小学館漫画文庫の表紙が異常に恐かった(マンガ家ではない別の人が描いてる)ってのはおいといて。
(04.0115)



【イベント】・「オルタナティブサロン 華麗人」 @東高円寺grassroots 1/11(日)

鶴岡法斎氏のトーク&他の方々も回すDJイベント。
今回で3回目かな? メインは「タイの猿神と仮面の男たち的アレ(新田が勝手に付けたタイトル)」。行くまで映像ネタで来るとは思っていなかったので(上映するスクリーンが常設してあるわけではないっぽい場所だったので)、驚き、かつ嬉しかった。

まったりとした雰囲気の中でほぼ、まるまる全部上映しながら、ちくいち鶴岡さんのツッコミが入るという形式。
この「まるまる上映形式」は、すごく話者の腕を問われるんじゃないかと思うのだが、的確な解説&ツッコミ、タイ語でよくわからないところは勝手に吹き替えなどの鶴岡さんトークで、終始飽きることがなかった。映像自体がすごすぎたということもあるけど。

映像ネタライブは好きでぼちぼち行くんだけど、ネタの扱い方にはいろいろなパターンがあると思う。で、やっぱり通しで見るのと見ないのとでは当然ながら印象が違う。
以前、因果自主制作アニメ「浅瀬でランデブー」をトークライブで見たときはコンパクトに編集されていて、そのときもすごい衝撃があり、話者のコメントやまとめ方が面白かった。が、実際に「浅瀬でランデブー」そのものを入手し、家で見てみると「イベント的体裁」を越える、また違った印象の因果が我が家に充満してしまい、考えさせられることは多かった。

今回、「タイの猿神(以下略)」を、通しで、かつツッコミ入りで見たことは、また違う味わいをもたらしたことであった。っていうか「殺陣はヘロヘロなのに、死ぬシーンは残酷になる」とか「地獄描写がすごかった」とか、そしてあいかわらず猿神の「ちょっと踊ってから人間を追い回す」という祝祭性と一点の曇りもない因果応報思想には、大笑いしながらもうーむと考えたというか何も考えられなくなったというか。

後半は、「ウルトラビデ」というバンドに所属していた渡邊浩一郎という人の「まとめてアバヨを云わせてもらうぜ」というCDを、鶴岡さんの解説入りで鑑賞。
1979年だというけど、「新宿三丁目の駅のホームでセッション」、「レコードに合わせて自分が歌う」、「改造した電子ブロックで音を出す」などの実験精神に驚く。
ノイズというのか実験音楽というのか……? このジャンルにはまったく暗い私だし、このCD自体、非常に少ない枚数しかプレスされていないということなので後世の影響などは私にはわからないんだけど、ああ、「電子音なんてツールにすぎない」というところからきっとテクノポップとか始まったんだろうなあ、というある種の納得はありました。

ふだんまず聞かないジャンルなので、面白かったです。
(04.0114)


・「ファミレス戦士プリン」(2) ひのき一志(2002、少年画報社) [amazon]

ヤングコミック連載。成年コミックだと思う。エロゲー好きのオタク青年・シュウタは父の遺言により美少女ばかりのファミリーレストラン「アラモード」の店長になることに。しかしこのファミレス、従業員が全員、悪の組織と戦う戦士だったのだ!

とにかく、超人的にくだらないエロコメ。しかしくだらないのはいいことだ。オビは和月伸宏が書いている(どうも作者は少年ジャンプ関連でマンガ界に入ったらしい)。
この巻で特筆すべきくだらなさを誇っているのは、第12話「そこのけそこのけ! 大暴れズリサゲ男なの」。怪人によって美少女が次々とパンツをずりさげられて犯されるという事件が発生。しかし、襲われる女性の共通点がわからない。
続く第13話でそれが明らかになるのだが、実は12話の冒頭のシーンでその理由が絵によって明示されている。その卒倒するほどのくだらなさは味わい深い。

作者ホームページによれば、なんとアニメ化・ゲーム化が決定したそうである。

1巻の感想

(04.0112)



・「ファミレス戦士プリン」(3) ひのき一志(2003、少年画報社) [amazon]

あらすじは1巻の感想を参照してください。

1巻ではわりとメカなども出てきていたのだが、何しろ店長であるシュウタとファミレス美少女店員たちとのHに大半がさかれるため、どうしても悪の組織との戦いはおざなりになりがちのようである。まあそれでぜんぜんかまわないんだけど。

この巻では普通のいい意味でくだらないマンガという感じで突出したものはないが、巻末に作者がアシスタントをしたことがあるというにわのまことの描く「プリンちゃん」が載っている。
前号でも小畑健と和月伸宏の描いたプリンちゃんが載っていたのだが、けっこう殴り描きだったのに対し、にわのまことはかなりマジ描き。しかも美味い。いいね。

そして何より驚いたのは、このマンガの作者がにわのまことのアシスタント時代、「ザ・モモタロウの終了記念に、おこづかいまでもらってにわの先生にハワイに連れていってもらった。しかもにわの先生は急用で行けなかった」という巻末に書かれたエピソード。
なんだろう。谷底に落とした麦わら帽子はどうなったのでしょう。天は我々に何をさせようとしているのか。

2巻の感想

(04.0112)



【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2004、テレビ東京)

公式ページ

1月11日放送分。

やったこと箇条書き。
・さくら、おとめに別れてゲーム。なぜか司会は両方矢口真里。
・「ハロモニ。劇場」、「河童の花道」NG集
・「ハロプロワイド」ピーマコ総集編
・辻加護に卒業についてインタビュー
・ときどきスポット的に、昔のスタジオライブを流す

あと何かやったっけ?(忘れた)
最近思うのだが、どの程度突き放して感想を書けばいいのかちょっと困っている。
ファンの人も読んでるだろうし、自分自身としてはテレビを客観的に見ている人の視線も失いたくない。

こう書いて、急にどうでもよくなってきた。
思ったことを書く、これだけだ!
モーヲタにもアイドルマニアにも、テレビをただダラダラ見ている人にもなりきれない中途半端な存在になろうと思ってますから。

(しかし、自分なりに計算していたりしてまたイヤになったりするんだけどね)

NG集としては低調だったと思う。よほどのファンなら別の鑑賞法があるとは思うけど。ほとんど飯田カオリンの大ネタだけメインで、後はアイドルがニコニコしているのが好きな人向け。
ひとつだけ、「河童の花道」の長ゼリフでNGを連発した高橋愛が、ミニモニ。の他の3人に「すいません、すいません」ってマジっぽくあやまっているのがかわいそうだった。
なんかこの子、哀愁漂うよなあ。オリンピック前にすごい持ち上げられて、結果が出せなくてサーッとマスコミが引いちゃった選手みたいな感じで。 いや、高橋愛のかわいさ、芸能人としての華はじゅうぶん理解しているつもりですが。
(04.0112)



【映画】・「1980(イチキューハチマル)」 監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(2003)

公式ページ

ナイロン100℃で芝居をつくってるケラリーノ・サンドロヴィッチ監督・脚本の映画。

1980年冬、テクノ・ポップかぶれの衣笠少年を狂言回しに、星隆高校二年・リカ(蒼井優)、同高校教育実習生にしてもとB級アイドル・レイコ(ともさかりえ)、同高校教師・カナエ(犬山イヌコ)の三姉妹のそれぞれ抱えている問題を、80年当時の風俗も交えて描いた青春コメディ。

実は公演中は感想を書かなかったが、ユースケ・サンタマリア主演のナイロン100℃の芝居「ドント・トラスト・オーバー30」はあまりにもあんまりな出来だった。ケラの得意とする「近過去もの」でありながらのそのどうにもならん感じに、調子のいい悪いよりも何か作品を発表し続けなければならない構造的な理由(っつーか、卑近なところでは借金とか?)があるのではないかと勘ぐったりしていたのだが、「1980年」を舞台にした映画というなら見ないわけにはいかない(「舞台にした」と書くとややこしいが芝居ではなく、映画である)。

さらに書くと、ケラは「1979」という1979年を舞台にした超絶的傑作の芝居を94年につくっている。これがアイドルのribbonとかCoCoとかQlairとか東京サンシャインボーイズとかが出ていて、体裁は「商業演劇」って感じなのに、そのエンターテインメント性と実験精神には衝撃を受けたものだった。
ということで、「ケラの80年代感」を再度確かめたかったから見た、というのがある。

物語は、リカの、高校の映研でつくる16ミリの映画の中で脱ぐの脱がないのという騒ぎ、レイコの、少しでも好きになってしまった男とは必ず寝てしまうという性癖、そしてカナエが夫の浮気を疑っての短い別居状態を並行して描くという構成。何本かケラの芝居を見たことがある人はわかると思うが、いつものケラ節。
というか全編を通して「ケラ節炸裂」という感じで、ナイロン100℃の芝居が好きな人ならまず間違いなく楽しめるだろう。個人的には90パーセントくらいものすごく面白かった。

ただ1点、リカの映研の制作している映画をめぐって、最終的にはぐちゃぐちゃな展開になるのだが、これがずっと前に見たナイロン100℃の「カメラ≠万年筆」と、ラストの印象がほぼまったく同じだった。
まあ何かのオマージュかもしれないんであんまり知ったかぶったことは言えないが、私が思うにああいう決着の付け方は、芝居的にはアリでも映画的にはナシだと思う。レイコが水族館でデートするシーンで、水族館の水槽が割れるところでCGが使われていて驚いたのだが、あそこにCGを入れられるならもっと映画的な狂騒が、映研のシーンにおいては何かできなかったかと思う。
「芝居っぽい映画」というのがやはりどうしてもある。でも「これ、芝居にした方がいいじゃん」って言われたらマズいわけで、その着地点っていうのはむずかしいものだな、とは思いましたよ。

それ意外は私としては大満足で、完全に80年当時に立ち返って見てしまいましたよ。再認識したのは、80年当時子供だった者にとって、4、5歳上がいかに劇的に違う世界を走っているかということ。まあ子供だろうがおっさんだろうが、いつの時代でも若者にコミットメントできる人はできるんだろうけど。
だから「80年代文化」というのは、どうしても「3歳以上のおにいさん、おねえさん、おじさん、おばさんがつくった」という印象はある。

細かい考証で疑問なところはそれはありますよ。たぶん当時「テクノ歌謡」っていう言葉は、少なくともリカのような普通の女の子が使う言葉ではなかった。また、リカの自室に電話があるけど、当時自室に電話がある子なんてほとんどいなかった。
また、体育教師が「若い頃は学生運動をしていた」というようなことを言うシーンがあるけど、私の偏見でなければ体育教師は学生運動するよりはそっちを止める側の人が多かったんじゃないのかな、とか。
でもまあ、そこら辺はとりあえずいいです。ケラの描く80年代って、自分ワールドの構築っていう部分が多いからわざとやってる部分もあると思うし。

・「80年代にひたりたい!」特別版

・その1
以下は、映画の感想とは少し離れたダラ書きなので、感想以外に興味のない人は飛ばしてください。
映画のパンフレットをざっと読んだら、KERAが「79年から82年くらいまで」に興味がある的なことが書いてあった。
ずーっと前、別冊宝島で「80年代の正体!」っていうのが出てて、それのコピーが「はっきり言って、スカだった!」とかなんとか言うもの。要するに80年代はスカスカで何にもなかった、という論調だった。
この本自体は個人的に出たときにすごく面白く読んだんだけど、なぜだか知らないけど80年代後半というのは、多くの人が何かを終わらせたがってた。まあ「北斗の拳」的終末思想もあったんだろうけど。
で、人と話をしていてもどうも80年代の話っていうのは食い違う。年代の差を考慮しても。それで漠然と考えていてやっとわかったんだけど、80年代というのは「79年から82年くらいまで」、これを1〜2年前後に移してもいいけど、それくらいとその後で分けた方がいいんじゃないかと思う。

いちおう仮説としては、73年頃を境に学生運動とそれに伴ったカウンター・カルチャー的なものが急速に後退し、それとほぼ入れ替わりでアニメブーム、SFブームが起こる。
当時をガキとしてしか知らないクセに予想して書くと勉強不足が見えてしまうのでアレなんだけど、実社会で政治などの「世界」に直接的にコミットメントできなくなった感覚が、そのまま想像の世界へ移行したと考えると……まあうがちすぎなんだけど説明はつく。
だから、アニメブームやSFブームは当時からリアルタイムで確固たるイメージがあったけど、この時期に発表されてるふくしま政美作品などがずっと後になって「再発見」というかたちをとることになったのは、ふくしま作品がそれまでの劇画ブームの中で落っことしていったもの(直接に学生運動的な「政治」に関わる世界観など)をまだ執拗に追及していたから当時あまり省みられなかったのだ、ということはできるのでは、と。

79年には「ガンダム」がすでに放映されているし、「ロリコンブーム」があって、ロリコンブームも実体があったのかどうなのかよくわからないんだけど、それで松田聖子デビューが80年。その2年後には「82年組」という、今だと「花まるマーケット」とかで薬丸とまったり昔話をしているようなタレントたちが大量にデビューする。
シブがき隊、小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、早見優、中森明菜、三田寛子、伊藤かずえ、石川秀美などはぜんぶこの年で、よく考えたらモーニング娘。の四期にハズレがなかったどころの騒ぎじゃなかったのである。たとえるなら松浦亜弥が4、5人、同じ年にデビューして、まったく違う個性を放っていたのに近い。

この当時も「今どきのアイドルは、だれがだれかわからない」みたいなクソみたいなことを言っているやつがいたが、そういうやつは機械獣を見てもモビルスーツを見ても区別がつかないんだからほっておこう。

しかし、「おニャン子クラブ」の「セーラー服を脱がさないで」が85年。要するに、82年組がデビューしてから3、4年しか経っていないのである。82年組の少女アイドルたちが、ほぼ同じフォーマットとはいえ「個別に、名前を覚えてもらって売り出す」路線で行っていたのに対し、「おニャン子クラブ」ももちろん新田恵利や河合その子などの個別人気はあったにしろ、毎週オーディションが行われどんどん加わっていく様は工業製品を連想せざるを得なかった。
また、彼女らを生み出す母体となった「オールナイトフジ」や「夕やけニャンニャン」といった番組そのものが、それまでの「ザ・芸能界」な雰囲気とは別の「ギョーカイ」という雰囲気を形成し、またそれを視聴者に意図的に憧れるようにしむけていた、ということもそれまではなかったことだ。

これは、広い意味で「パロディ」ととらえていいだろう。
要するに、アイドル史だけとっても松田聖子、河合奈保子、たのきんトリオあたりで「何か新しいものが出始めているな」と思わせておいて、わずか数年でシーンとしてはセルフパロディを行い続けて硬直化していくイメージがある(逆に言えば、それこそが「おニャン子」の価値だったんだけど)。

で、だいたいが「80年代」のイメージというと「おニャン子」を代表とする「サブカルチャーの、ある種のシステム化」として大雑把に捉えられることが多い。
だから広義の文学志向の人からは「何もなかった」とか言われるのである。

しかし、実はそうではないのではないか、というのが最近思っていることで、それはやっぱり78年頃から82年頃までの何かについて思いをはせるということなのだ。

・その2
だから、私とKERAの問題意識はたぶん一致していると思うんだけど(偉そうな私)「1980」を見て面白いのは、「その1」で書いたアニメ、SF、アイドルといったものはほとんど登場しないことにある。
わずかにリカの髪型が「聖子ちゃんカット」で、時代背景として松田聖子の曲が流れてくるくらいだ。元アイドルという設定のレイコも「70年代にデビューしたB級アイドル」で、すでに引退した25歳、という設定だから実はアイドルとしての同時代感はあまりない。

パンフレットの「衣笠(新田注:作中のテクノ少年)目線で見た80年代前半の文化地図」では、見事なまでにSF、アニメ、アイドル、マンガが駆逐されていて、「ツッパリ」がわずかにロックとの関連性を指摘されるのみである。
もっとも、KERAの80年代感はずっと前から「テクノ・ポップ中心史観」なので、激しく偏っているのは当然ではあるのだが。
それでも、劇中「チェコアニメ」だけが80年代文化の選択において残ってるのがいかにも当時のサブカルっぽく感じる。

面白いなあ、と感じるのはササキバラ・ゴウのサイト1978年論ノートなどを見ると、本作「1980」とほぼ同時代のことを書いているにも関わらず、ほとんど交わる要素がないところ。
どっちが間違ってるというよりも、これは当時の立ち位置が違うとしかいいようがないのだとは思う(ただし、「オタク的なもの」の方がマスコミ(それが当時の雑誌「宝島」レベルでも)に発言権を与えられなかったということは考慮されるべきだろう)。

「80年代」を語るときのむずかしさ、面倒くささというのは、まず60年代から70年代のカウンターカルチャー的なものがいったん終わって、あるいは終わったように見えて70年代後半から新しいものが始まり、それが80年代中盤から急速にシステム化されていったという流れ、さらにはジャンル的にも多様すぎて、当時の立ち位置によって選択されることども自体が大幅に変化してしまうということにあるだろうと思う。

……などと、ダラダラ思いましたとさ。
(04.0112)


【特撮】・「美少女戦士セーラームーン」第14話(2004、TBS)

公式ページ

1月10日放送。
四天王最後の一人・クンツァイトの力によって、妖魔にさせられそうになったうさぎ。しかし、戦士としての力がそれを跳ね返してしまった。
喜んで遅めの新年会を楽しむうさぎたちセーラー戦士だったが、その最中にうさぎが倒れ込んでしまう。クンツァイトの力を完全に封じ込めてはいなかったのだ。
亜美は、うさぎを自室に運んで懸命に看病する。

亜美のけなげぶりがこれでもかと描かれる回。とくに、うさぎのようすを不審に思ったなるちゃんがかなり強硬に「うさぎに会わせて」と言ったときに、亜美が懸命につっぱねるシーンが今回の本当のクライマックスだろう。友情・努力・勝利を額面どおり捉えて育った私としてはたまらないものがある。
(04.0111)



【特撮】・「超星神グランセイザー」第14話「覚醒せよ! 水の戦士」(2004、テレビ東京)

テレビ東京ページ

1月10日放送。
グランセイザーを陰でパパラッチしていた反町は、自分とおなじ「水のトライブ」の三上辰平に会いに行く。水のトライブの中で、辰平だけがまだ覚醒できていなかった。
そんな辰平が水のトライブの魚住愛に会いに行った先は、伝通院=セイザーレムルズの勤める病院。愛は看護師としてその病院に勤め始めたばかりだった。どうやら辰平と愛は幼なじみで、辰平は愛のことが好きだが愛は相手にしていないらしい。
屋上で話す二人に遅いかかる宇宙人・インパクター。まだ戦士としては慣れていない二人は簡単にピンチになってしまうが……。

「アケロン人」が倒されて出てきた次の敵が「インパクター」。もしかして「ウルトラマン」とか「ウルトラセブン」みたいに、毎回違う星の宇宙人が攻めてくるのであろうか。
「水のトライブ」のそれぞれキャラクターもきっちり描かれている。ただ「心が優しい」という設定の辰平はかなり凶悪な顔をしているように思えるが……。
魚住愛は、今までの女性キャラクターとはまた違った感じでキャラも描き分けられており、なかなかいい。4人の女性セイザーの中ではいちばんきゃしゃかも。それにしても炎のトライブの未加=セイザーミトラスが、ヒロインなのにオーバーオールなのには最初驚いたけどなあ。
インパクター側でも恋の鞘当てみたいのがあるようで、面白いです。
(04.0111)


【ドラマ】・「NHKドラマ愛の詩 ミニモニ。でブレーメンの音楽隊」第1回(2004、NHK教育)

公式ページ

1月10日放送。
新しい町に家族とともに引っ越してきたちよの(高橋愛)は、転校早々「ドンキー」(ロバ)という不本意なあだ名を付けられてしまう。ちよのは転校前の自分が嫌いだったため、新しい環境で自分を変えようとクラスのミュージカルのリーダーに立候補する。しかし、前の学校で目立ってた、みたいなウソをさんざんついてバレてしまい、逆ギレするのだった。

最近は「本当に新生ミニモニ。、売る気あんのか!?」と思っていたせいもあり、さらに辻加護卒業も決まって「卒業が決まる前の企画の残滓」というひたすらネガティヴな心情で見たドラマ。
いや、しかしこれがなかなかイイんですよ。

このドラマは、辻、加護、高橋愛がそれぞれ主役で4回ずつ、計12回やるらしいんだけど、ドラマ冒頭で3人が屋根の上に座って空を見上げているシーンから始まる。これが、おそらく全ドラマが終わった後の感じなんだよね。
要するに手法的には「ダグラム」の第1回と同じ(たとえが古いけど)。

で、主役の高橋愛、その両親、弟のキャラ説明から転校してリーダーになるまでの説明的な展開に淀みがない。実は早送りしようと思ってリモコン片手に見てたんだけど、まったくその必要がなかった。
何やら霊というかオカルトな設定がありそうなのも、個人的には期待。

役者陣も、高橋愛の父親がやまちゃん、母親が藤吉久美子(「ちゅうかないぱねま」時の山村美智子的演技が嬉しい。自分としては)、教師にジョン・カビラなどコメディ的には危なげなし。
あと、高橋愛をちょっといじめるクラスのグループの一員に元おはガールの「えびちゃん」が入ってた。
えびちゃん、昔はすごく特徴的な顔をした子だな、と思ってたけど数年ぶりに見たらなんだか普通の女の子になっちゃってたなあ。まあいちばん顔が変わる時期ですけどね。
あと、クラスメート役で芸名が「高橋愛子」っていう子がいるのね。どうでもいい話ですが。

考えてみれば、「NHKドラマ 愛の詩」は今までいろいろ話題作を出してきているから、ちょっと期待しなさすぎて見たかも。

高橋愛も、意外に演技はちゃんとしてて、それこそ本人は不本意だろうが役柄にぴったりあっているかもしれない。
世間的にはいちじるしく認知度・および芸能パワーみたいなものの認識が低い五期メンバーだけど、成長は確実にしてますね。これはねえ、テレビを見ていてもわかる。 ただ、その成長というか変化が、じっくり見ている人でないと気づかないような類の変化だというのが問題なんだろうなあ。
後ねえ、辻加護の成長とは成長の意味が違うんだよな。説明がむずかしいけど。

五期がまるまる1年間くらいくすぶっていた(と、少なくとも私には見えた)のにはさまざまな要因があると思うが、少なくともあんまり彼女たちのせいにするのはどうかと思ったわ。

第2回感想

(04.0111)


【雑記その8】妙な胸騒ぎを覚えるドラマ「ドールハウス」(放映前)

たぶん私と同世代のテレビの人が偉くなって、いろいろ企画を通しているんだと思う。私がハンバーガーの上のパン、ハンバーグ、下のパンを別々に食べていたりした間に出世したんだなぁ。勝手な想像ですが。
で、そういう人の中にはあきらかに「こりゃキテるよ、タカさんノリさーん!」とか学生時代に言って、学園祭のゲストに(文化人になる前の)飯島愛とか呼んで、外観は昔の大江千里みたいな感じで「これってある意味、逆の意味でキッチュだよね?」とか言ってる人がいるんだと思う。繰り返しますが勝手な想像です。

自分の若かりし頃のことを追体験したくてリバイバルさせる、というのは悪いことだとは思わないが、どうも今の三十代半ばっていうのは世代的に「つっこまれることもあらかじめ計算してる」っぽいところがある気がするのは、私の被害妄想でしょうか。
何か「ここがおかしい」っていうと「あらかじめそこも計算してたんスよ」とぬけぬけと言ってしまうような雰囲気というか。

そんな「つっこまれることをあらかじめ想定物件」としては、TBSでやるというドラマ「ドールハウス 〜特命女性捜査班〜」があげられる。

番宣しか見てないが、まず珍妙なピンクのカツラを着けた女たちがセクシーダンスを披露。リーダーは松下由貴。そしてこれまた珍妙な色に髪を染めた安達祐実が銀行強盗をやる。実はピンクのカツラのセクシー軍団(自称)は、特命女性捜査班であった! ってコトらしいんだけど。
とにかくアクションのヘロヘロぶりに大脱力(小池栄子の殺陣には悪い意味で涙が出た)、以下略。なんだこりゃ! なんか「こんな変なものがやってますよ」っていうかたちで話題になりたいのかな。いやもちろん、いざ見たら大傑作かもしれないけど……。でもなんか、珍奇なものが大好きな私でもちょっと「こりゃ罠かな……」と思うような感じでした。ハイ。

えーと、あとテレビでもうひとつ書くことあった。「王様のブランチ」を仕事しながら見ていたら「DVD将軍」というDVDのコーナーで、「秋葉原のDVDランキング」っていうのをやってて、ホントかウソか知らないが1位:高橋愛、2位:近野成美、3位:私が知らない12歳の女の子、のイメージDVDだったんですよ。

で、スタジオにいる人間全員「アキバにいる男=ロリコンなんだろうなー」って顔に書いてあるんですよ。でも決して口に出しては言わない。なんかここにも、昔大江千里、もしくは吉田まゆみのマンガに出てくる系のカッコいい男がプロデューサーかディレクターになってアキバ系男子を小馬鹿にしている図式が思い浮かびました。

みんな、もっと暴動とか革命とか起こした方がいいと思うよ。いやサイバーテロとかじゃなくて、もっとフィジカルな(ここで音楽「フィジカル」がかかる)。
(04.0110)


【雑記その7】日記(身辺雑記あるいはエッセイ)について考えた

るんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱー

「るんぱー」は「るん」と「ぱー」に分けられ、「るん」は「るん」を表し、「ぱー」は「ぱー」を表す。
一時期「るん」が「ぱー」を表し、「ぱー」が「るん」を表すのではないかという説もあったが、1500年間の議論のすえ、「るん」は「るん」であり、「ぱー」は「ぱー」であるということにニケーア宗教会議で落ち着いた。

「るん」はさらに「る」と「ん」に分けられる。「る」はルームクーラー、「ん」は「ん」を表すと言われているが、このあたりの研究はまだ進んでいないということは言えるだろう。
「ぱー」が「ぱ」と「ー」に分かれるかどうかということに関しては、長年のタブーとされてきた。これは「ー」が発音できないからであり、それはそのまま、「るんぱー」が音読できるということを前提に研究が進められてきた、ということを示している。しかし、「るんぱー」が音読可能かどうかについての議論については、少なくともわが国ではほとんど研究の対象にすらならなかったと言える。

るんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱーるんぱー

まず、るんぱー見直しのために、わが国でのるんぱー研究史について軽く観ていきたい。
平安時代、るんぱーは貴族のたしなみではあったが遊びでしかなかった。「今昔物語」などには、るんぱーに夢中になりすぎて学問や武芸をおろそかにすることに対する戒めが多く書かれている。
るんぱーがまともな研究対象になったのは意外に新しく江戸時代に入ってからである。犬公方・徳川綱吉がるんぱー研究を積極的に奨励したということだが、天下の悪政と言われる「生類憐れみの令」ばかりがクローズアップされ、綱吉のるんぱー研究に対する功績は不当に軽んじられていると言えよう。

近代るんぱー研究が行われるようになったのは、明治の近代化と同時だと思われているが、これも意外なことに間違いである。明治維新を経て、文明開化の世になってからも、多くの研究家たちは前近代的なるんぱー観を捨てようとしなかった。
そもそも、江戸末期にはるんぱーを奨励するのではなく、むしろ批判的な立場から観る倒錯的なるんぱー観が体勢を占めていた。この「批判的るんぱー学派」は、その始祖である山田一郎が権力志向であることもあり、明治に入ってからもその力を誇示し続けた。

本来の「るんぱー奨励派」の原点に立ち返り、さらに外国の研究も積極的に取り入れて新たなるんぱー研究をしていこうと提唱したのが山田二郎。明治中期のことである。
山田は、るんぱー研究のさかんなゼムバブウェイに留学、二年の歳月を経て帰国し、本格的な「新るんぱー奨励派」を立ち上げることになる。

その後、富国強兵の機運と「批判的るんぱー学派」の厭世的な雰囲気が相容れないこともあってこれは衰退し、山田二郎の「新るんぱー奨励派」がるんぱー学のスタンダードとして、現在まで残ることになる。

他にもるんぱーに対して画期的な視点から研究した者も、少なくはない。戦前、「るんぱー」を「るんぱ」と「ー」に分けるべきだと唱えた「るんぱ派」、戦後「る」と「ん」と「ぱー」というふうに3つに分かれると唱えた「ると、んと、ぱー派」などが学会に刺激をもたらしてきた。

ともあれ、戦後の研究の主流も「新るんぱー奨励派」に寄って占められてきたことは間違いがない。そして、その他の学派も「新るんぱー奨励派」に決定的なダメージを与えるにはいたらなかったのである。

しかし、90年代に入って様相は変化する。それがバブル経済である。バブル経済によってすべては変わった。机の左に置いておいた雑誌が右に移動していた。猿が観光客のお土産を盗むようになった。婦女子が電車の中で化粧をするようになった。

このように、後ろ側のスタンドを立てると置物にもなります。必ず小さいお子さんの手の届かないところに置いてください。
ぜったいに水をかけないでください。トーストなどを焼かないでください。ホットケーキも焼かないでください。お好み焼きも焼かないでください。おもちも焼かないでください。フルーチェをつくらないでください。
(04.0122)

(04.0110)



・「由利ちゃん愛のたびだち」 牧村みき(1983、久保書店)
・「由利ちゃん愛の逆襲」 牧村みき(1983、久保書店)
・「改訂版 笑いの王様」 牧村みき(1986、久保書店)


成年コミック。個人的な80年代にひたりたい! 祭り第6弾(←もういちいち書くのやめよう)。
異様に細かい木目の廃屋の中で、アニメキャラがラバースーツを着せられて犯される、というマンガを執拗なまでに何度も何度も何度も何度も何度も描いてきた牧村みき。はっきり言って、この人は時代とか関係ないと思う(実際、2年くらい前にコミケで本買ったしなあ)。もちろん、80年代という時代と結びつけて感想を書くことも可能だけど、決してそれだけでは量りきれないものがある。

時代性ということで言えば、おそらく商業誌掲載作品を描いていた人としては「オタク受けするアニメ」と「ガロ的なもの」を容赦なくくっつけた最も早いヒトなのではないかと思う。クリィミーマミと、ボンデージと、木目と、まったく支離滅裂なネームとストーリー。欄外には「ニューウェーヴなんて幻想だ」と書いてある。
確かに牧村みきにとっては、幻想だったんだろうなと思う。時代の流れにイライラしながらも、きっと描きたいことはこの人の頭の中にいつもできていたんじゃないかと。

ちなみに「由利ちゃん愛のたびだち」と「由利ちゃん愛の逆襲」は、まだミニマルな「木目な感じ」はあまりない。でもプロットに意味はやっぱり、ない。なんかこの人、天才なんじゃないかと思い始めてきた。

・「BONDAGE WARS」 牧村みき(1988、久保書店)
・「ママと遊ぼうBONDAGE」 牧村みき(1989、久保書店) 感想


(04.0109)



・「メルティレモン」(1985、白泉社)

個人的な80年代にひたりたい! 祭り第5弾。B6判のSF&ラブコメアンソロジー。B6サイズのアンソロジーは、確か徳間書店で大塚英志が編集者として始めた「プチ・アップルパイ」が最初だと聞いている。
で、この「メルティレモン」がそのフォーマットをパクったとどこかで怒っていた記憶があるが。あくまで記憶。確かめてない。

執筆者はみやすのんき、MEIMU、士郎正宗、西秋ぐりん、岡崎京子、真鍋譲治、上海公司、田中雅人、松野乱、あだちたかし、克・亜紀、品川KID、佐藤文彦。

主に同時期に出ていた雑誌「コミコミ」のメンツ中心ですかね。
正直、全体的に「時代の落とし子」的以上の意味はない気がする。いくらニューウェーヴ的なものが流行っていたからといって、みやすのんきのマンガはなんだかサッパリわからないし、まともなラブコメを描こうという意志のある他の作品もどこかツメが甘い(偉そうな書き方ですいません)。
特筆すべきは、未来社会で、死んだ母親が自分と同い年に再生されてしまうというマザコンマンガ、克・亜紀「マミ☆リーインカーネーション」と、「SFおしかけ女房」に今ほど定型パターンがなかった頃、セックスアンドロイドを描いた品川KID「EASY LOVER」くらいか。岡崎京子もわりと面白いのを描いてる。

綴じ込みピンナップの表が士郎正宗で裏がMEIMU、それで本編に岡崎京子が入っていて、後は絵柄的になんだかテクノポップなのとか江口寿史っぽいのとか混ざっている。今読むとものすごいごった煮風。
また、「第1回コミコミ同人誌フェスティバル開催」の広告が入っている。即売会なのか誌上企画なのかわからんし、実現したかどうかも知らないんだが、「創作同人誌」がまだ同人誌として商業誌とつながりがあったことを表している。
今でもコミティアの人気作家をいろんな雑誌で散見するとかはあるけど「同人誌」という本のくくりではあまり見ない気がするんで。

【参考】
「美少女まんがベスト集成」(1982、徳間書店)感想

(04.0108)



・「C−LIVE 3」(1986、夢元社)

個人的な80年代にひたりたい! 祭り第4弾。A5判のSFアンソロジー。

執筆者は米田仁士、大野安之、萩原リエ、阿宮美亜、宮原一郎、なかはられい、松崎貢、成田治。
本誌も、80年代によく出ていたSF的設定にうるさくない、SFアクションアニメ的マンガ作品をまとめたものなんだけど、当時としてはレベル的には高い方だと思う(偉そうな書き方ですいません)。
本誌でも「ピュアな少女が存在し、それが何らかの危機にさらされる」というモチーフが何本かある。逆に言えば、現在ではこのような少女キャラクターが定型として何度も登場することはあまりない(あっても「萌え」る存在として記号化されている)。
成田治「災いの血」では「イヤボーンの法則」が出てくるが、このときはまだ法則化されていなかった!

また、ものすごく一部で本誌は知られていて、それは阿宮美亜「井氷鹿の夜」が和製クトゥルーものだからである。「井氷鹿」というのが創作かクトゥルーからのもじりかなんだかわからなかったが、ネットで検索したら疑問氷解。古事記に書かれているれっきとした国つ神のようだ。
(03.0108)



【雑記その6】・ルールと慣習

ある特定の集団(いちばん大きいのは「社会」)で、ものごとを合理的に、ルールにてらしてキッチリと解決するか、あるいは集団内ルールや慣習で玉虫色に解決してしまうかはものすごくむずかしい問題だとつねづね思っている。
政治のことはわからんしもうわかろうとしてもトシをとっているので間に合わない気がするが、テレビレベルの政治の議論もここに終始しているし。

ここでいう集団内ルールというのは、きちんと明文化されたものではなくて「何となくそういう決まりになっている」といった程度のものだが。それだけに強固だと言えるわけで。
また、それだけに決着も玉虫色になるような気がするんである。

一方、ルールに照らして合理的に、というのは明文化した規則に基づいて、いわゆる「白黒ハッキリつけましょう」というヤツだが、これで決着をつけてしまうと後々遺恨が残る可能性もある。この方法で押し切って、集団内秩序をそれでも維持できるかどうかというのは私もよく知らないんだけど。
まあたとえば、狭い業界なんかでは裁判とか起こせば、白黒はつくかもしれないが起こした当人は勝っても負けてもその世界にはいられない気がするし。

しかし、すべてが慣習や、あるいはそれをすり抜けていく「世渡り」で何とかなる度合いが強すぎると、集団内での秩序維持の力が強く働きすぎて、外部(対社会)に対するモラルがものすごく低くなる可能性もある。
いちばん簡単に連想されるのはマル暴などの特殊なコミュニティなんだけど、それだけじゃなくて、何と言ったらいいのか……たとえばいちばん素朴な「人間として、どうなのよ」という物言いがまったく、ぜんぜん、ひとつも通用しなくなってしまうコミュニティというのは、私個人はやっぱりどこかおかしいと思ってしまうんだけど(当然、特定集団の秩序維持は一定限度を越えると人間性に優先するから)。

私がまだ青いんでしょうか。
(04.0108)


【雑記その5】・前年のグラビアアイドル考その2

80年代にひたりたい! シリーズを小休止。

インサイターの1月4日(日)には「GIグランプリ2003『女祭り』」と題し、独自のグラビアアイドル・ランキングが載っている。これはすばらしいです。
わー、こりゃ私が思いつきで書いたの(ここの下の方「グラビア関連」)よりぜんぜんちゃんとしてる、と思ったので、後追いで他のグラビアアイドルたちについてももうちょっと思うところを書いてみたい。

といっても、私がコメントをメジャー路線の子だけに絞ったのには理由があって、これは私がマイナーアイドルをあまり追っかけない理由でもあるのだが、いつ載ってるかわからない、いつ引退するかわからないから、というのはある。追いかけるのがメンドクサイし、保証されてない。

それに、グラビアっていうのはそれ単体のものではない。やはり「ヤンマガ」や「週プレ」や「sabra」に載っている方がだんぜん華やかに見えるし、ページ数にしても4〜6ページくらいないと、そのグラビアページのコンセプトで読者に強いインパクトを与えることはむずかしいのではないか、と思うのだ。
まあそれでもB級雑誌に載っていたころから乙葉は目立っていたけどね。

言い訳はこれくらいにして、私がとりこぼしていってきちんとコメントしなかったグラビアアイドルについて書きます。こんなん、酒席でもだれも聞いてくれない話だわ。ネットっていいですね。

まず山本早織なんだが、ルックスはカンペキに近いと感じるのだが、何を表現していきたいかというのがまだ見えてない気がする。それと、加藤友香にちょっと似ている。私はお菓子系アイドルってぜんぜん知らないんだが、それにしても加藤友香がグラビアでうったえてくるものは明確だった(引退したらしいが)。だから山本早織に多くを求めすぎるのかもしれない。

矢吹春奈は、大人っぽくて私も好きだが、中高生にウケるかどうかというとむずかしいのでは。あともうちょっといい写真が出ればなあと思う。
W-SAYAKAは、当HPでもときおり話題にしているが(たぶんだれも気づいてないだろう)、内田さやかと沼尻沙弥香のユニット。個人的には内田さやかが圧倒的に好きなので、沼尻および二人のユニット活動についてコメントすることはない。
内田さやかは「ギャル系」ということで、若槻千夏や山本梓と同系統と思われているかもしれないがそれは違う。若槻と山本梓は30を過ぎてもそれなりの美貌は保っているだろうが、内田さやかは来年どうなるかももうわからない。
よく15歳以下の美少女アイドルに対して「一瞬の輝き」などというが、それに同意するとしてもそれは精神面とともに大きく「肉体そのものの鑑賞期限」というミもフタもないものが付随していると、我々(だれ?)に突きつけてくる肉体論者、糞リアリスト、いっさいの神秘を排した実戦格闘家が内田さやかなのだ。
なんだそりゃ。

そして伊藤かな。なつ・かなの双子姉妹としても清純なグラビアでヤンマガを飾ったことがあるその一人。そもそも、元「おはガール」である。それが子役イメージ払拭のためにグラビアアイドルになったのだ(と思う)。最初見たときはトシの離れた従姉妹にエロスを感じてしまうような罪悪感があったが、それを突き抜けて本当に以前が思い出せないくらいにエロエロになってしまった。
しかし、このエロエロはいったいどこに行くのか、エネルギーの発散場所が(芸能活動として)はなはだ不明瞭なのが、以前にも書いたがグラビア界の構造的な問題である。

小野真弓。実は前回書いたときは意図的にその名前をはずした。とにかく表情のバリエーションが少ない。いや、他のグラビアアイドルだって似たようなものかもしれないが、キメ顔が一種類しかない、というのは「動き」が表現できないグラビアにとって致命的……と思ったらいつまで経ってもグラビアから消えやしない。世間と自分とのギャップを感じた子である。
それと、個人的には笑顔から妄想が非常にしにくいのも難点。いったいコアなファンの年齢層はいくつくらいだ? ものわかりのいい女子社員かなんかを連想している三十代男子だったら怒るよ。

最後に夏目理緒。前回も名前はあげたが、個人的にはあまり興味はない。イエローキャブによる大艦巨砲主義(夏目自身はフォース・エージェント・エンターテイメントというところに所属しているそうでイエローキャブとは無関係なのだろうが)の残滓という印象しかなかったからだ。しかし売れていると思う。
売れてくると、キレイなグラビアやいい意味で実験的なグラビアが増えてくる。あとぜんぜんどうでもいいことだが、芸能人に限り(一般人は別)「目と目の間が近い人」に興味が沸かない、というのが私の個人的趣味で、夏目理緒は「目と目の間が近い人」なんだよね。まあどうでもいい極致の話ですが。
というわけで、私は「目と目の間」によってアイドルとしてはあややよりもごっちん派です。

うだ話、以上。
(04.0108)


・「COMICメディア」 創刊号(1984、スタジオSFC)

80年代にひたりたい! と思って買った昔のSFマンガ同人誌。……といっても、体裁は商業誌とほとんど変わらない。
小池一夫や芦田豊雄の祝辞なんかも載っていて、よくわからないけどセミプロ、アマチュアのプロ志向同人誌という感じなのか? 執筆者は主に谷崎てつや、加藤雄一郎、乃美康治、細馬達造(たぶん細馬信一)などなど。

この頃のSF&ファンタジーマンガは、「少女」をピュアな存在だと規定したうえで、それを守るとかそれに裏切られるとかいったテーマの作品が非常に多かったのだが、本作もそういう感じの作品が多い。

それにはいろいろ理由があると思うのだが、思いつきで理由を描くと大きくズレてしまうような気がするのでここでは保留。

本誌に載っている作品で、ウェブで読めるものもあるので興味のある方は検索してみてください。
(04.0108)



・「冥王計画ゼオライマー」 ちみもりを(1986、久保書店)

「レモンピープル」83年10月号〜84年11月号連載。成年コミック。
「ゼオライマーを覚醒させてはならん!」……絶叫して秋津マサトの父親は死んだ。
その数カ月後、マサトは転校してきた美少女・氷室美久に導かれ、日本には存在しないはずの史上最強の巨大ロボット・ゼオライマーに搭乗することを余儀なくされる。
ゼオライマーはマサトの手によってしか動かず、またその主動力を得るために、美久は自分の子宮内に専用パーツ(ジョイント)を付けて乗り込まねばならない。
ゼオライマーを狙う「鉄神帝国(ネマトーダ)」との戦いの過程で、マサトは過去の因縁を思い出し、それを断ち切るためには美久とともに鉄神帝国を叩きつぶさなければならないと決心する。

ちなみに、本作は平野俊文監督でOVAにもなり、最近ではDVD[amazon]も出ている。まったく独自の設定らしく、こちらもかなり面白そうである(要するに、私は未見ってコトです)。

80年代にひたりたい! 今回は83〜84年連載の巨大ロボットマンガ、「冥王計画ゼオライマー」である。
作者は、後に「強殖装甲ガイバー」がハリウッド映画にもなった高屋良樹。裏はとってないが、これで別人だったら大事件だと思う。

時期的にはリアルロボット路線がけっこう全盛のときで、それに対するアンチもあったのではないかと思う。しかし頭は小さく手足が異様に大きいゼオライマーのデザインは、むしろ後の「ゲッターロボ號」やアニメ「ジャイアントロボ」を先取りしているように思えるし、お話も単純な勧善懲悪ではなく、各キャラクターの過去の因縁が現在に影響してくるという体裁をとっている点、かなり斬新である。
「女の子の子宮に定期的にジョイントを埋め込む」というのがH描写になっていて、「レモンピープル」連載であることを思い出させる。ラストも尻切れトンボではあるが、主人公をまったくの正義の味方としては描かないままにカタルシスを得ようとしたラストなど、興味深い点は多い。

惜しむらくは、操縦者としてのマサトとゼオライマーの「部品(パーツ)」になりきる役割を負い、さらには前世の因縁すらある美久の関係を描ききれなかったことか。
何にしても、ネットで検索するとこのマンガ版には根強いファンがいるようで、それは理解できるのである。

【アニメ】・「冥王計画ゼオライマー」感想(04.0218)

(04.0107)



・「スターライトCOMIC」 Vol.1(1988、ミリオン出版)

80年代にひたりたい! と思って買った昔のマンガ雑誌。個人的にはリアルタイムでは知らないSFコミック雑誌、創刊第一号。描いている人たちも申し訳ないがよく知らない。
だいたいのコンセプトは「スーパー・ソルジャー」ということだが、ぜんぜん関係ない作品も載っている。「SF」という観点から見ると、たいしてストーリー性のあるものはない。私は以前、「ロボット&美少女傑作選 レモン・ピープル1982-1986」(2001、久保書店)の感想で、

この頃の「美少女マンガ」は、本当に美少女やメカを愛でたいがためにワンエピソードを切り取ったような、プロモーションビデオ的なというか、アニメのワンシーンを追体験するために描かれたような作品が非常に多かった(本書にもそういうテイストの作品が何本かある)。

……というようなことを書いたが、まんま同じような印象。しかし88年でコレでは、当時からしてすでに古かった気がするが……。
(04.0107)



・「ゴールド」(8) 山本隆一郎(2004、少年画報社) [amazon]

ヤングキング連載。「大阪の喧嘩王になる」というバカげた夢を実現しようとする高校生・スバル。彼が設定したゴールは、ティーンエイジ・マフィア「ロットン・アップルズ」を倒すこと。しかし、そのリーダー・御吉十雲は、スバルにとって宿命の人物だった。
何も持たない状態からあらゆるものを利用してのし上がろうとする十雲の、中学時代を描いたのがこの巻。

十雲っていうのはひと言で言ってしまえば「成り上がり」的なハングリー精神を持った悪人。しかし、彼の魅力に抗しきれず、「自分の夢って何だ?」という問いを突きつけられた周囲の人間たちは彼に関わらずにはいられない。それが自分にとってどんなことになるかもわからないままに……。

連載中の本誌でも、スバルがまったく出ない「十雲編」とも言える状況になっていて、そろそろお話は現在に戻ってくる感じ。これほどの深みを備えたキャラクターに、主人公のスバルがどう対決するのかは興味をひくところだ。

「ゴールド」(1)〜(7) 山本隆一郎(2001〜2003、少年画報社)感想

(04.0107)



【雑記その4】・辻・加護卒業問題を考える

いろんなテキストサイトをざっと巡回して見てみたが、いろいろ考えさせられるところはあるね。

ひとつは、一昨年の大改変とほぼ同じ意見が出そろっていること。正確に言えば、一昨年夏の改変発表時の感情をさらにトーンダウンさせたというか、あきらめの境地というか。 もうひとつは、物事に対する「残酷」の基準が自分と違うなあ、自分、間違ってんのかなあ……ということ。

前者に関しては、ほぼ当然だと思う。そこには、ファンとして前向き、後ろ向き、いろいろな意見があると思う。
後者はどういう意味かというと……果たしてこれはつんく♂の意志、辻加護の意志なのか、そうでなければひどい、残酷だ、という意見に関して、私が実はあんまり思わないということなんだけど。
気を悪くする方がいたら申し訳ない。
でも、「ここが考え方違うのかなあ……」と思ったのは、私はASAYANがすでに残酷すぎて見られなかったクチなので。
ものすごい、彼女たちがいじめぬかれている印象があった。ASAYANからのファンの人たちは、それが「彼女たちの夢達成」へのベクトルだからいいと思っていたのかな。どうもこの当時のことはよくわからないんですよね。

ただ、一般人レベルでは「LOVEマシーン」の頃は安倍なつみと後藤真希は明らかにライバルだと思われていたし、センターを安倍が後藤に奪われたとかそういうことは聞いていた(本当かどうかは知らないが、一般人レベルではそうしたことを興味の対象としていたし、安倍VS後藤は対立軸として流布されていた)。
たぶんそれまで完全なるエースだった安倍さんがいるところに後藤真希を入れることは、残酷ではなかったのかな。それは化学変化が起こることが期待されるからいいってことなのかな。よくわからない。

モーニング娘。と他のアイドルや歌手が違うところは、劇的な増員や脱退が繰り返されていることだというのは周知の事実だと思う。今回の辻加護に関しては、それでも何でもかんでも脱退はイヤだ、という意見もあった。まあそれはそれでファン心理としてはむしろ普通だと思うのでいい。
他に脱退に反対している人というのは、やっぱり時期とかタイミング、今後の活動の展望などがダメ、残されたモーニング娘。が心配、ということなのかな。たぶんそういうことなのだろう。

でも……こういうこと書くと嫌われてしまうかもしれないけど、「辻加護の意志はどうなるのか」っていう意見は、ファンゆえの発言だとは思うけど、でも本当の本当に二人がどう考えてるかっていうのは永久にわからないと思うんですよね。
前にも書いたけど、芸能人って最終的には「独りでやりたいんじゃないか」っていうのが、まともに芸能人と話をしたこともない私の予想ではあるんだけども。
後は環境との兼ね合いということで。

でも「意志」にまで踏み込んでここまで語られ、心配されるというのは、芸能人としては本当に幸せだろうなあとは思う。一時期の華原朋美の意志や、その後の成長を心配した人なんていたかな? などと思う。まあ本当にコアなファンは心配しただろうけど。

むしろ、大きな変化より、実はあんまり騒ぎにならなかったところが気になる。今、ここでぶっちゃけるけど。
引退後の福田明日香はどうだったのか。横目でモーニング娘。を見ていた平家みちよはどうだったのか。なんだかうやむやになったシェキドルは。故郷に帰ったココナッツ娘のダニエルとレフアは。実質的なリーダーシップを加護に奪われているミニモニ。のミカは。カントリー娘。を脱退したりんねは。そして、ユウキと市井は(まあユウキの心情はだいたい想像できるし、市井も引退に際してある種の物語をつくったが)。
松浦亜弥のハワイツアーに参加してた紺野と藤本抜きのカントリー娘。だって、人間関係がうまくできてなければこりゃそうとう面白くないと思うよ。保田圭の扱いだって、「羅生門」以降は決まってんのかなあ。
さらにいうなら、視聴者に「これはいけるかもしれん」と思わせておいてけっきょくオーディションに落ちてしまった女の子たち。

そういうのは残酷じゃないのかな。モーニング娘。の卒業とか脱退っていつも思うけど、やっぱりそれに対するファンの感傷っていうのは彼女たちが一度は栄光を掴んだ、ファンに「認められた」からこそのものであって、そのブレイクスルーがないと、「卒業」という物語にすら成り得ない。
それは「卒業」が「残酷な物語」だと解釈される現在の辻加護よりは、何倍も残酷な話だと、個人的には思ってしまう私は弱い人間なのかもしれん。

あと「ミニモニ。がなくなるかも?」って心配してる人、辻か加護推しサイトでもあまりない。寂しいなあ。
(04.0107)


【雑記その3】・さらば青春のハイウェイ

先日、1984年に発売された「街角のメルヘン」というOAVを見せてもらった。80年代にひたりたい!
そこではヴァージンVSの歌が使われていて、私はあがた森魚とかにはぜんぜん詳しくないんですが「さらば青春のハイウェイ」という曲が使われていたので反応。
「さらば青春のハイウェイ」は、1981年に放映されたドラマ「翔んだライバル」のエンディングテーマだったのです。

「翔んだライバル」も、もう詳しいストーリーは忘れてしまったけど、「NG集」という概念を定着させた完全おちゃらけドラマ「翔んだカップル」の後番組だった。ヒロインは辻沢杏子(「りんごちゃん」という役名が一部で有名)。おそらく本人の手になるHPがあったので驚いた。

(それにしても、このHPのコラムを読むと役者の先輩後輩関係というのもたいへんなもののようだ。サラリーマン並みか、それよりキツかもしれない。)

記憶だけで書いているが、「翔んだカップル」は相米慎治の映画版とはまったく異なるアプローチで、意識的に「ラブコメ」をやろうとした作品だった。しかも「コメディ」に重点が置かれていた。
おそらく完全にビデオ撮り(フィルムではない)の30分番組。エンディングテーマは「みゆき」の「思い出がいっぱい」の方がたぶん有名なH2O。
「翔んだライバル」はその後番組で、内容は原作とはさらにかけ離れたドタバタを展開する。ところが、番組終盤に柳沢慎吾の(役の上での)おねえさんが死んでしまうという意外な展開になり、終盤はずっとシリアス展開が続くという実験的なドラマだった。
今見れば「ハァ?」となるのだろうが、どこかしらに「何かやってやろう」みたいな雰囲気を漂わせていて、当時私は「ガンダム」と同等に夢中になっていました(なんか、前にもこんなことを書いたような気がするが)。

辻沢杏子はいまでもきれいなのが驚かされます。

その後、さらに「タイム・ボカンシリーズ」であるかのように「翔んだパープリン」というのに続きます。この段階ではすでに私は飽きてしまってましたが、この「ビデオ撮り、30分ドラマ、特撮ではない」という形式のものはあまりにも資料が少ないです。フィルムのものも含めると「ナッキーはつむじ風」とか、けっこうあるんですけどね。
NHK教育の「ドラマ 愛の詩」でしたっけ? 現在ではあれくらいしかこの形式のものはなくなってしまいましたが、アイドル史を知るうえでも研究本とか出ないかなー、と思う今日この頃です。
(04.0106)



【テレビ】今年も元気に行きまっショイ! モーニング娘。新春スペシャル〜お正月からフルスロットル〜

公式ページ

1月3日放送分。

タイトルには「ハロモニ。」という文字が見えないのだけれど、「駅前交番物語」とかやっているから実質的には「ハロモニ。」でしょう。ちなみに、ゲストとして後藤真希、松浦亜弥。それとマギー審司。

いわゆるひとつのお正月の「おとそ番組」であって、企画に関しては目新しいことは何もないのだけれど、プロレス的には見どころはかなりあったと思う。

・小川の巨大化
紅白歌合戦でギョッとさせられた人も多かったと思う。何があったのかと……。しかし、私が真に驚いたのはこの番組の小川を見てからであった(まあ、私自身も体形に関してはヒトのことは微塵も言えないのであるが)。
この番組がいつ頃収録のものかはわからないが、小川さんは歴代のモーニング娘。においてもっともたいへんなことになっており(そう、往時の安倍さんを凌駕して!)、真剣に心配してしまった。
おそらく立ち位置としては今後の娘。の重要なカギを握っている人であり、そういう意味でも考えてしまいましたよ。

全員晴れ着だったのだが、彼女が濃い紫色の着物を着ていたことに「太って見えないように」というスタイリストの配慮が感じられ、かえって晴れ着を選んだ人の匠の技が見えたような気がした。

・晴れ着のコーディネート
ところで、全員の晴れ着なのだが、それぞれがとても似合う色のものが選ばれていた。始終真ん中にいる司会の安倍なつみは、濃い紺色に背中から花びらを背負ったような左右対称の衣装。両側に位置する他の人たちは、おおむね足下から上に向かってグラデーションで花びらが舞っている非対称のデザイン。

ふだんからピンク、ピンクと言っている石川梨華はピンク。ピンクの好きそうな道重は先輩にピンクは譲ってカワイイ別の色。
高橋愛の濃い赤色、下から上に向かっての紫のグラデーションで、上半身は完全に白になっている藤本ミキティーの晴れ着がとくに印象に残っている。

・あやミキ復活
イントロクイズ、および大喜利で何度も顔を見合わせる松浦と藤本。イントロクイズでは、イントロがわかったらマイクに飛びついて行かなければならないのだが、飛びついているだれかの後ろでやっぱり顔を見合わせている二人。
ゲームとして「怒りながら『大きな古時計』を歌う」松浦亜弥に近づいて、「見られるの好きでしょ!」とツッコむ藤本。また、大喜利では「鏡ばっかり見てないで、私の顔を見て話して」と。ついでに石川梨華にもツッコミを入れていた藤本は、ツッコミ人としての芽生えが感じられた。

・よしまこ疑惑
カップリングで勝手な妄想を抱くファンが多い中、「カップリング」そのものがメーターが振り切れるほどに顕在化しているという意味でも、小川麻琴はスリリングだ。
周囲のメンバーから「キモーい」と言われるほどの吉澤好き好きビームを放つ小川さん。あやミキが「トイレにまで一緒に行くほどの仲良し女子高生」を連想させるのに対し、小川さんの吉澤ひとみへの視線は「女子高で女の先輩にラブレターをあげる後輩」の視線だ。
半可通な推理で申し訳ないが、「ハロプロワイド」で中澤裕子に「小川さんは恋愛はどうですか?」と言われて硬直する(最近はうまくかわすようになってきたが)小川さん、もしかしたら恋愛にはオクテなのかもしれない。
そう考えると、小川さんの疑似恋愛としてのよっすぃ〜に対する憧れは容易に推測できるのだが、あやミキが「友情」という点においてはおそらくそう簡単には崩れないと思わせるのに対し、その温度の熱さにおいて今後急速に疑似恋愛としてはカタストロフが訪れそうな不安をかき立てる小川さんであった。

・亀井の不思議時空
「大喜利」ではヤマなし、おちなし、意味なしの例文を連発した安倍なつみさんにも注目したが、「あいうえお作文」の「おもち」で「お茶と おもちさえあれば チャイコーです」と言った亀井さん。もしもこのネタを放送作家が考えていたとしても、安倍さんのツッコミにもう一度「チャイコーです」と繰り返した亀井は、歴代の飯田、辻、加護、吉澤にはない不思議時空を形成する能力を持っている。
惜しむらくは、この空気があまりにも万民には理解されづらいこと。どのくらい理解されづらいかというと、アフタヌーン四季賞をとったはいいがその後の読みきりがどれもしみじみしすぎていてどうにも地味な新人作家のような印象である。
しかも楽曲のパフォーマンスにもつながらないだろう。どうしたらいいものか。
ちなみに私は好きです。好きに決まってんじゃん。

最近、大橋マキの広告を目にするが、亀井は大橋マキに似ている。「ちゃっかりしてない大橋マキ」という感じである。

・盤石のよっすぃ〜
どの局面でも笑いをとっていたよっすぃ〜。ルックスも戻りつつあるし、伸び伸びやっている。現状では、ボケる吉澤、ツッコむ安倍・矢口という図式だけでハロモニ。は成立しかねない。
だが今後は一人で、アウェーでどれくらい実力が出せるかだろう。そのためにはルックスをどんどん磨くことを勧める。彼女の「少年っぽさ」や「はじけた感じ」は、「美少女的たたずまい」とのギャップでもっともっとわかりやすいものになるはずだからだ。

・加護さん
最近気づいたのだが、ネタっぽい話をするときにちょっとした身振りを交えたり、一人二役をやったりという「動き」を見せるのはメンバー中加護さんだけだ。
基本的にクレバーな子なのだろうと思う。
「二人ないし三人ずつで晴れ着でごあいさつ」のコーナーがあったのだが、手に持った小道具としての羽子板を、「羽子板に描かれた人物とにらめっこする」ということで表現したのは面白かった(逆に言えばそういうパフォーマンス能力が決定的に欠落していたのが、かつての五期メンバーだったと思う)。
そして、同時にあいさつをした辻さんは、獅子舞のお獅子を持って完全にぶりっ子ポーズなのが加護さんと好対照。
私はあらためていいコンビだと思うけどねえ。

・高橋愛さん
「やみくもに宝塚が好きな少女」というキャラクターでイケるのでは、と思った。これはミニモニ。でも使えるキャラだ(モーヲタサイトの予想では、辻加護が脱退した場合、スケジュールを抑えるのがむずかしくなるので「ミニモニ。」は発展的解消になるのでは、という意見があったが)。
ちなみに、なぜ最終的に彼女がMVPに選ばれたのかがまったくわからなかった。昨年の紅白歌合戦で白組が紅組に大差を付けたくらい謎だった。
恥ずかしいサルのまねをしたから? わからん。

・田中れいな
六期オーディション番組では一般視聴者の反感を買い、私自身も「どうせヤンキー」と思っていたが、ここ数カ月のタレントとしての成長ぶりは認めざるを得ない。 これだから子供ってイヤだなあ。成長が大人の比じゃないもんね。「自分が幼く見える」なんて言えちゃうんだから。

……などとダラダラ書いてしまったが、アイドルグループ的にはどんどん私の理想に近いものになってるんですよね実は。
ただし、90年代以降、生粋のアイドルはB級におさまらざるを得ない、というジレンマはあるんだけどね。モーニング娘。は、マジファンの人にとっては「常に挑戦し続けるアーティスト集団」だと思う。私にとっては「温故知新的な浪花節集団→四期メン加入による、パンキッシュなアイドル集団」というイメージが強い。

現在、「保守的なアイドル的視点」から見れば、モーニング娘。はかなり強力な存在。
しかしそれは同時に、海のものとも山のものともつかなかった頃からは別のB級性をまとうことになる。それもこれも、つんく♂の楽曲次第という感じはするんですが。
(04.0105)



【雑記その2】・辻・加護卒業

辻&加護がモー娘卒業!2人で新ユニット

電撃発表!辻ちゃん、加護ちゃんがモー娘。卒業

最初にこのニュース聞いたのが、人の家にお邪魔していたときでした。情報の即時性というのはすごいことになってるなと思いましたよ。まあ、教えてくれる人がいればこそなんだけど。

それまでは、紅白はおろか年始の「ハロモニ。」で見られた小川の巨大化っぷりが新春の話題になるだろうともっぱら思っていたんだけど、それどこじゃなくなっちゃって。

・その1
瞬間的に考えたのは「やっぱり現『ミニモニ。』っていらねえのか?」ということでした(卒業後も「ミニモニ。」は継続するそうですが)。
「辻加護のユニットにはキッズも参加説」があるらしくて、現状で「キッズは参加しない」という前提で考えたときに、「辻加護」っていうメンバーで「ミニモニ。」との違いをどれだけ出せるか、っていうのが私の興味ですよ。

「ミニモニ。」結成当初から、ミカはいらない、もっと過激な意見では矢口さえいらないとは一般人レベルの言説では言われてましたから。で、実際「ミニモニ。」の中心部をなしていたのは辻加護でしたから、本当に一般人からは「いらないんじゃないのー」と言われる部分を削ぎ落とした状態でつくられるユニットなわけですよね。もし辻加護でシングル1枚、その後キッズ加入、というセンでも、1枚は辻加護単体で出るということで。

そういうところには期待してます。

・その2
今考えてみれば、2002年夏、ユニットの大人事異動が行われたとき、あるいは藤本美貴の「娘。」加入が決まったとき、モーオタならぬ身でも意外、意外の展開につんく♂(あるいはつんく♂を代表する何か)が何を考えているか、真剣に考えようとした自分がかわいい。
結局、きちんとした結果が出たのって「矢口とキッズのユニット」であるZYXだけだった(アイドル製造のヒット率としては当然とも言えるが)。
で、政治家じゃないけどもそれに責任とる気配もないしね。どうもプロレス的なつんく♂の言動・行動に、私の思考実験としては踊らされた感じです。

けっきょく「どこに損得の基準を持っていって、最終的な収支はどうなるのか」が見えてこないと、予想しても答えなんて出っこないんですよね。どの辺がガチで、どの辺がやっつけ仕事で、どの辺がハプニングで、どの辺が政治的決着かとかまったく見えないから。
そういう意味では辻・加護の今後に関しても、キッズと組ませるかどうかだけでもそうとう後々の予想は違ってくるし。

「辻加護だけではすぐあきられるのでは」という意見も目にしましたが、これもまた予想がむずかしい。
ただ、収支関係なくハタ目の面白さという点だけで言うなら、現在のハロプロは「ハロプロ」としてのまとまりはまったくゼロで、その点の面白さはまったくない。
たとえば卒業組があらためてソロとして娘。と一緒に何かをやって、そこから化学変化を起こさせるということが過去の実績としてぜんぜんないんですよね。
あったのは「ごまっとう」だけだけど、あれもどうにもこうにも楽曲が普通で「期待」とか「想像」だけで終わってしまった。

私個人は、連載マンガで言うならかつて戦った仲間や敵が、後々の展開でまた出てきて「一緒に戦っていこうや」みたいなね、そういうのが欲しいんだけど、現在の「卒業」っていうのはただ「抜けている」とか「別行動をしている」ってだけで、抜けたところから再び違う存在として戻ってきてこういうものを持ってきました、っていうのがない。
だから、今回の辻加護卒業にしてもモーヲタファンサイトなどで「あんがい嬉しかったり凹んだりが自分の感情としてない」っていうコメントをいくつか目にしたんだけど、それは「卒業」が慣れっ子になってしまったというよりも、今後の卒業者と現・モーニング娘。との関係性にあまり期待や興味が持てないということなのじゃないかと思う。

・その3
「脱退」という事実が「卒業」という言葉にすり替えられている、という意見もだれかが脱退するたびに目にする。
モーニング娘。が今までのアイドルと違う最大最高の点は、彼女たちの「友情」とか「連帯感」が過剰なまでに強調されている点と、アイドルとしてのいい意味での上昇志向、がんばりがかなり薄いファンにまで見えているという点ではないかと思う。
「おニャン子クラブ」との最大の違いもそこで、この間ちょっとだけ再結成したけれども、本当にメンバーの意識が部活動の延長線でしかない。現在でも。
プロ意識があったとしても、それは巧妙に隠蔽されることによってファンに親近感を出していた。モーニング娘。は、その逆。 これは、受け手のモラトリアム意識の変化ではないかとも思っているけど、それはまた別の話。

で、「本当に彼女たちは卒業したいのか? 脱退させられてるだけじゃないのか?」みたいな意見をたまに目にするんですが、私個人の予想としては、メンバーの中で「私は一人でもできる」と思っている人はいて、きちんとしたバックアップ体制がとられる、という条件付きならば脱退したがってると思う。
それは「強い上昇志向を持っていなければならない」とされているモーニング娘。からすれば、当然の意識なのではないか。

一方で、「脱退したい、一人でやりたい」という気持ちは確かにファン側の「メンバーの連帯感」幻想を揺さぶる。「なんだよ、けっきょく一人でやりたいのかよ」みたいな。
でも「一人でやりたい」という気持ちと「メンバーと連帯してやりたい」というのはもともと矛盾する心情だから、それをドラマとして盛り立てていくのがそれこそプロデューサーとかスタッフの役割だと思う。
(余談ですが、そのあたりの矛盾を見事に着地させた例のひとつがBUBKA2月号の「ほんとはなかよし? 娘。物語」なんじゃないか。)

でも現状、少なくとも私が見始めた四期メン加入以降でそういうことができているかというと、できてない。
いちばん一生懸命やってたのが、矢口のミニモニ。卒業ドラマだったと思うけど。

・その4
辻加護の卒業によって、「モーニング娘。本体はますます厳しくなるだろう」というのが衆目の一致するところなのは間違いないだろう。
今後、「娘。」がアーティスティックな面で刺激的な存在であり続けようとするのかどうかさえ、現時点での私には予想がつかないのだけれど、個人的にはもう脱退・加入で話題づくりをする刺激療法はその神通力を失っていると思う。
さらには、いくら何でも年間100曲なんてつくれるわけないんだから(よくわかんないけどチームでつくってたとしても)、私の愛するところのハロプロの「アイドル的かわいさ」を延命させるためには、もう楽曲がどうのというのとは違う路線で行くしかないのかなあ、とは思っている。
だって今、「かわいさ」という点では15人のメンバー、今まででいちばんかわいいからね。

まあこう書くのは寂しいけどね。
ただ、五期の成長と六期のキャラクターは、たとえば最悪、「解散」させてしまうにはあまりに惜しいと思っているので。

……っていうのが、今のところの感想。
(04.0104)


・「二十面相の娘」(1) 小原愼司(2003、メディアファクトリー) [amazon]

私という人間をもう一人作ろうとしているのです
大戦を経て私は世界に絶望させられた
だから私はこの世界を私好みのパノラマに描き変えたい
そのためには少しばかりの仲間と

もう一人私が必要です

コミックフラッパー連載。お金持ちだが決して幸福ではない、そのまま暮らせば殺されるかもしれない境遇にいた少女・チコは、家の財宝・アナスタシアの紅玉(ルビー)を盗みにやってきた二十面相と行動をともにすることになる。
二十面相とその仲間たちとともに行動するうちに、さまざまなことを学んでいくチコは、二十面相の仕事の手伝いをするようになっていく。

もうウットリするくらいの大大ロマン。江戸川乱歩の描く二十面相はどうひっくり返しても悪人なのだけれど(それでも、実は「宇宙怪人」では人類のためになることをしようとしてたりするが)、「少年探偵」読者の心の中には明らかにもうひとつの二十面相像が存在する。
それは、トリックによって世の欺瞞を暴き、ムダな「仕掛け」に命を賭ける超法規的な「ショーマン」としての二十面相だ。

この巻では二十面相の本当の目的は明らかになっていないが、収録されている読みきりヴァージョン(設定が多少異なる)では明智的役割のはずの空根探偵は名誉欲に凝り固まった俗物として描かれているし、二十面相とその仲間たちは世の中の裏を知りつつも優しくなければ生きていけないナイーヴな存在として描かれている。
その仲間たちの性根に、チコは感応する。

「東映不思議コメディ」シリーズに「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」、「じゃあまん探偵団 魔隣組」というのがある(ちなみにどちらも脚本の浦沢義雄と大原清秀が気を吐いている)。両者にそれぞれ登場する怪盗・摩天郎、怪盗・ジゴマはどちらも少年たちの成長を見守るアウトサイダーなのだ。
そんな設定、江戸川乱歩の「少年探偵」にはどこにもない。だけれども、どうも「少年少女を導く裏世界の存在」というモチーフは、現在まで生き続けているようだ(もう少し深く考えると、ソレの源流が果たして江戸川乱歩の「少年探偵」かどうかは知らないんだけどね)。

本作「二十面相の娘」は、第1巻に限って言うとそうした「杓子定規な世界や欺瞞から、裏社会(ものごとが一般常識とは逆転した世界)へと導かれる少女(少年)」という、正しい系譜に位置する作品なのである。

【参考】
「菫画報」全4巻 小原愼司(1997〜1999、講談社)感想

・「少年探偵団読本 乱歩と小林少年と怪人二十面相」 黄金髑髏の会(1994、情報センター出版局)[amazon]

(当HP内)
江戸川乱歩「少年探偵」シリーズ、モロモロの感想

(04.0102)



【小説】・「完全版 怪人二十面相・伝」 北村想(1989、1991、2002、出版芸術社) [amazon]

「二十面相の娘」(1) 小原愼司(2003、メディアファクトリー)と合わせて紹介したいのが本作である。
本作は、二十面相側から江戸川乱歩の「少年探偵」の事件を描いた、いわば怪人二十面相の伝記である。

サーカスの天才・丈吉は、怪人二十面相となって世間を観客に見立てた「芸術」として盗みを遂行する。実は盗み自体が目的なのではなく、人々をアッと驚かせることこそが二十面相の本懐なのだ。
対する明智小五郎小林少年は、かなりイヤなやつらとして描かれている。丈吉のサーカス魂、ショーマン魂を理解しつつも、美味しいところはすべて持っていこうとする。それが明智にとっての探偵業なのである。

本作は「前編:サーカスの怪人」(1989)と「後編:青銅の魔人」(1991)とから成っている。まったくの番外編ではなく、「少年探偵」のシリーズを数作読んでから読むと、本編が仕掛けられる明智や少年探偵団ではなく、仕掛ける二十面相側から書かれていることがわかる。オリジナルを踏まえた「舞台裏」になっているのだ。
他にも、よく言われる二十面相に対する疑問、謎に面白味のある辻褄合わせがなされている点が興味深い。たとえば、全シリーズを通して二十面相が一人の人間ならば、後期はそうとうなじいさんになっているんじゃないかとか、わりに合わない赤字の盗みをやってどうやって生活しているのかとか、本当に二十の顔を持つというほどの変装の名人だったのかとか、そういうところにもっともらしい説明がついている。

また、二十面相を語るときに必ず出てくるうんちくとして「二十面相の本名は遠藤平吉」というのがある。なんつう「らしくない」名前だ、などと各方面からツッコミ炸裂なのだが、本作では実はこの名前こそが「怪人二十面相の伝記」として成り立つキモになっており、それが忘れられない印象を残すことにつながっている。

本作の「二十面相」も、また「二十面相の娘」と同じく少年を美しくもあやしい裏の世界へと誘う。

江戸川乱歩のシリーズを読んでいると、二十面相のやっていることは、永遠に報われない徒労のように思えてくる。いくら手間をかけて仕掛けても、どうせ暴かれてしまう謎、事件。返還を要求される盗んだ宝物。しかし、その無意味感こそ乱歩が愛したものではなかったか、と思う。いや、乱歩が愛さなくても私が愛す。
そして、二十面相の無意味性は乱歩の他作品(「屋根裏の散歩者」や「孤島の鬼」や「押絵と旅する男」など)のような文学的評価も、ミステリ的評価も得られないまま、真に無意味な存在として受け継がれ、本作や、「おもいっきり探偵団」や、「じゃあまん探偵団」や、細野不二彦の「東京探偵団」など、さまざまなところで結実するのである。
(03.0102)



・「真説 佐々木小次郎伝!! 大江戸ジゴロ」(4)(完結) 鍋島雅治、檜垣憲朗(2003、日本文芸社) [amazon]

週刊漫画ゴラク連載。巌流島の決闘で、宮本武蔵に負け、殺された佐々木小次郎。しかし、伝承と違い武蔵は正々堂々と戦わず汚い手を使い、小次郎は生死の境をさまようが生き延びる。
すべてを失い江戸の吉原に来た佐々木小次郎。「吉原の女たちを守り通す」と誓った小次郎と、出世欲のカタマリである武蔵は、江戸で再び剣を交える。
二人の戦いには、吉原のある秘密がからんでいた……。

伝奇ロマン、これにて完結。多少ムリヤリなところはあったけれど、徹底的な悪として描かれた武蔵、女のためには自分の命を惜しまない小次郎との対比は徹底され、設定の大ボラも見事に着地したと思う。同誌連載の「WEED」みたいに、武蔵と小次郎がいつまで経っても決着のつかない戦いに終始するのではないかと一瞬不安になったこともあったが、原作がついているせいかお話としてはきれいにまとまった。

時代劇ファン、伝奇ものファンにはぜひ読んでほしい佳品。

3巻の感想

(04.0102)



【雑記】・年末年始テレビ

・スマスマ
ネットを巡回していると、良かったんだってねぇ。モーニング娘。も出てたって。
ノーマークでしたわ。それはSMAPに興味がないから。
エンターティナーだってことは認めるけど、なんだか「タレントの役割の垣根を悪い意味でなくした」張本人たちというイメージが強くあるんで。
たとえばSMAPのメンバーって、お笑いとして面白いのか? というと、すごいむずかしい問題ですよこれは。まあ昔っから二の線とコメディを両方やる人がいなかったわけじゃないけど、私はやっぱり評価にゲタをはかされているとどうしても思ってしまう。同性であることによる嫉妬かもしれないが。

・M−1グランプリ2003
結論から言うとものすごく面白かった。実はM−1って、なんだか私の知らないところで盛り上がってる感があって、準決勝に残るまでの審査とかどうやってるのかとかぜんぜん知らない(こんなこと書いてるヒマがあったら調べればいいんだけど)。
だから、中川家が優勝したときとかぜんぜん知らなかったんだけど。
「お笑いスター誕生」とか「ザ・マンザイ」の頃からつらつら考えると、やっぱりテレビでお笑いを面白いと思えるかどうかというのは、その番組全体のバイアスというか雰囲気というか圧力みたいなものがあると思う。
だから、「お笑いスタ誕」ならば「お笑いスタ誕」というステージだけでウケる人とかいたような気がする。ホームでのみ活躍、みたいな。

で、一昨年のM−1は番組としてちょっと堅すぎる印象があったんだけど(司会だったやまちゃんとか、審査員の間にぜんぜん入り込めない感じ)、今回は審査員に南原が混じってて、南原自身が浮き足だってるみたいでイヤな緊張感というのはなかった。
というより、漫才見るのに何で緊張しなきゃいけないの、って感じで(それが面白い、という人もいたかもしれないけど)。
準決勝まで勝ち残った人たちはみんな面白かったと思うし、まあどれがああだったとかなどの私のシロウト審査はここでは書きません。と思ったけどやっぱり書こう。「笑い飯」が死ぬほど面白かった。本当に。でも優勝は「フットボールアワー」でいいと思う。それが感想。

「爆笑オンエアバトル」を見ていると、けっこうキッチリした基本を積んできた人が出ていることに気づいた。たとえば一時期、ラフなかっこうの漫才師ってけっこういた。きっちりスーツ着て「きみ、ぼく」って言い合うのがダサいみたいな雰囲気で。「ごっつええ感じ」でもそのあたりのことがコントになってた。
でも、今はスーツ着て「きみ、ぼく」ってやる人が非常に多い。「麒麟」とかもそうだったし。それで、見てる側も(私も)古いとかぜんぜん思わない。

それで、「オンバト」観てると「ああ、こういうふうに基本がキッチリしてなきゃいけないんだ、やっぱり基本が大切なんだ」って少々物足りない漫才でもずーっと我慢して見てて、M−1見てたらそういう「面白いと思おうと自分に言い聞かせる」必要がまったくなくて。ひさびさに解放された気分になった。
それは、出ていた漫才師で壊れ系(?)のコンビがいくつか混ざっていたっていうこともあるんだけど、司会の今田、審査員の松本、紳助がそういうのを受け止めるだけの雰囲気をかたちづくっていたからだとは思いますね。

そうそう、それで、M−1でもオンバトでもそうだけど、ここで優勝したからって必ずしも他局に出まくれるわけじゃないんだよね。中川家だってますだおかだだって、ハリガネロックだって、バラエティの一員としてめちゃくちゃ面白いかというと実はそういうことない。ドンドコドンなんてけっきょくよく出てるのってぐっさんだけだしなあ。
で、上記の「スマスマ」に関連することだけど、むしろバラエティという状況ならばSMAPのメンバーの方がはまってしまうことすらある、というのがいつも考えさせられることだね。
以前、「一発屋大全」だったかな、その本の中で、「ザ・マンザイ」でもてはやされたのは実は漫才じゃなかったんじゃないか、って書いてあって、確かに漫才をやらなくなった人の方がずっとテレビ的には売れてんのね。たけしとか、紳助とか。
紳助なんてコンビ解消するときに「二度と漫才はやらない」って宣言してたし。

私は、「ネタ見せ」という意味で非常に中途半端だった「ボキャブラ天国」があまり好きじゃなかったから、ネタを見れる番組がたくさんあるのは嬉しいんだけど、じゃあだれが「テレビタレントとして」残っていくかっていうとね、ぜんぜんわからない。
まあ、漫才師のステイタス向上がテレビで売れることかどうかも知らないんだけど。

それにしても、もっと私好み的に破綻してる人たちが出てこないですかねえ。
個人的には出てなかったけど「カンニング」も好きなんだよね。半ギレ漫才。

・「紅白歌合戦」
おれ的には、紅白の番宣でアナウンサーの膳場貴子がメイドカフェみたいなコスプレで出ていた時点で身体に電気が走り、死んだ。紅白本番でも膳場貴子は大活躍だった。

「紅白歌合戦」という番組に関しては、はっきり言って「歌番組」の論評に値しないと思っている。番組自体もクダラナイし、お屠蘇気分で見ないととてもじゃないけど見られない。「紅白」という概念も、どちらが勝つかに対する興味も瓦解しているし、「紅白に出ることが名誉」ということすらすでに無意味化しつつある。ナガブチになんか、番組側が利用されてるよ絶対。
こういう形容は滅多にしないが、制度としては天●制のような存在になっている。NHKはやめることはできないだろうし、コアな出演者たち(演歌勢)も、もはや出演をやめることはできないのだ。そういう意味では、いかに陳腐であろうと続かざるを得ないのだ。

……というわけで、録画して早送りモードで見た。その中で「服を引っ張ると下からより露出度の高い衣装が!」という演出が、私が見たかぎり3回も行われ、ええかげんにしろよとか思った。まあ華原朋美の胸の谷間をひさしぶりに見たからいいか。

ただ、長山洋子がゾッとするほど歌がうまくなってて、それは収穫だった。長山洋子というと「かなり若いうちにアイドルから演歌に転身」して「若くてかわいい演歌歌手」というイメージがあったんだけど、さすがにもう「若い」とは言えないトシになってはいた。が、なんかすげえ歌がうまくなってるんですよ。迫力があったなあ。

・「爆笑ヒットパレード」
ざっと見た。確か去年は、ダチョウ倶楽部とかやるせなすとか(この辺、記憶曖昧)、バラエティ御用達タレントがネタ披露をしていて、「いや〜ネタやるのひさしぶりですよ」とか言ってて、その中でさまぁ〜ずが「哀しいダジャレ」ネタでガッチリかましてきたのが印象的だった。
今回は、ビビる大木がピンで出てきたのに驚き。しかも面白かった。スピードワゴンは、M−1でもオンバトでも見たことがないネタで、とても良かったです。「アタシ認めない!」で女の子から歓声が出ちゃうのは、これはもう人気が出てくると宿命みたいなもんだからしょうがないと思う。

・「正月早々何かが起きる世界あっぱれ最強祭!! 生ですべてが決着SP」
モーニング娘。と後藤真希さんと松浦あやや、それとお笑い芸人が出てきて5、6時間わーわーやる番組。うちのテレビ、4チャンネルがよく映らないからボヤッとした映像で見ていたんだけど、正月のお屠蘇番組としては見られた方だったと思う。
ただ、娘。さんたちのクイズのボケ解答は、私はもはや信じていない。いくら何でも現役の中高生であんなにものがわからないはずはない。ぜったいわざとやってる。 それをネタにするのはもうやめてほしい。やるならやるで、もう少し練って。そういう意味では「バカ女」はよく出来ていて試験結果がガチである可能性はあるが、「うたばん」のクイズものは、私はかなりムリしてみんなボケてると思うなあ。

プリンセスあややの脱出劇は、別コーナーの犬の運動会みたいなやつに引田天巧が出ていたので、天巧指導なんだろうなと思っていたから結果が予想できてほとんど興味がなかった。昔、初代や海外進出する前のプリンセス・テンコーがやってた脱出劇を二十年後に同じようにやってるだけだもんね。
だけど、それをぜんぜん知らない人には確かに悪趣味に映ったかもしれない。箱が炎上したときに、モニター見てた娘。さんたちが本当に事故だと思って泣いてたしなあ(あの涙にヤラセ説もあるようだが、そりゃ悪しき価値相対主義だよ(笑))。まあボヤッとしか確認できなかったんだけど、高橋愛とかかなりムッとしてたし。だから、悪趣味であることは認める。
でもこの世にはもっと悪趣味な、川勝正幸的に言えば「趣味の悪いバッドテイスト」というものが山ほど存在することを知ってしまった私としては、藤本美貴の涙に心打たれてしまったりしたのであった。まあボヤッとしか見えなかったんだけど(ビデオを見返したら、安倍なつみさんはマジに怒っているみたいでした。高橋愛は信じていたみたいだけど、紺野が「これはタネがあるよぜったい」みたいな顔をしていたのが印象的)。

後は、体育会系的気遣いで世渡りしようと思ってる田島寧子がムカついたのと、カイヤ、ガチンコで腕相撲勝ちすぎ、っていうのと、フラフープはもう辻・加護の世界一でいいじゃん、だって盛り上がるし、と思った。
(04.0102)


・「魔法陣グルグル」(16)(完結) 衛藤ヒロユキ(2003、エニックス) [amazon]

少年ガンガン連載。魔王ギリを倒すために旅立った、ニケククリの冒険ファンタジー。

あーあ……とうとう終わっちゃったかあ……という印象。10年だもんねえ。
本当はこの単行本は速攻で買っておいたんですが、終わりを読むのがもったいなくてそのままにしてた。

以下はぜんぶ予想なんだけど、「グルグル」や「ミグミグ族」についての構想はかなり前からできていたんじゃないかと思う(逆に言えば、「総裁」の正体ネタやラストのアラハビカの設定などは後付けなのかな)。作者がいちばん描きたかったのは、恋も含めた思春期のドキドキ感だったんだろうなぁとしみじみ感じたりして。
「魔王ギリ」は魔王というより、何かもっと象徴的な感じになっていたな。お話が駆け足だったことも理由のひとつなんだろうけど。

おそらくファミコン世代(……って最近言わないか)の描いた最良のファンタジーマンガのひとつだと思う。ほんとにしみじみいいマンガだったな。

それと、カバーは必ずはがして見てみよう。

10〜12巻の感想

13巻の感想

14巻の感想

15巻の感想

(04.0102)

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